知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「杉本家 歳中覚の日々 ~京の町家 200年のレシピ~」

2011年05月15日 05時53分46秒 | 日本の美
 先日、NHK-BSで件名の番組を見ました。

番組内容紹介>
 京都の旧家・杉本家では、江戸時代以来、年中行事や日々の食事の決まりを記した和綴(と)じの冊子『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』にのっとった生活が、今も続けられている。そこに貫かれているのは、質素倹約と始末を第一としながら土地のものをおいしく食べようという京の町衆の精神である。『歳中覚』を手がかりに、杉本家の秋から春までの日々と見つめながら、時代の変化の中でなおも連綿と続く京都の文化を浮かび上がらせる。


 杉本家は江戸時代に始まる「奈良屋」という大きな呉服問屋さんでした。代々受け継がれてきましたが、先代九代目当主の杉本秀太郎氏は文学(京都女子大学教授)~文筆業を選択したため建物の維持に困難をきたし(主に経済的理由?)文化財登録~税金による保護に至っています(※)。

※ 『奈良屋記念杉本家保存会』・・・一般公開されています(ただし不定期)。

 『歳中覚』は当家家族のみでなく番頭や丁稚奉公もカバーする内容だったらしく、意外なほど質素です。季節の素材を丁寧に手をかけて調理する様は見ていてすがすがしい。番組中に紹介された献立には肉料理は皆無でした。
 一般日本人の生活から季節を感じさせるいろんな物が失われていく中で、食材・料理を中心に季節を感じながら過ごす日々をうらやましく思いました。現代ではとても贅沢な生活なのかもしれません。

 料理の他にも見所あり。
 杉本家4人(父・母・二女・三女)の身のこなしが素敵でした。別に役者・俳優さんではありませんが、着物を着慣れているゆえでしょうか。京都人の”はんなり”感が満ちていました。
 また、先人の営みを敬意をもって継承しようとする穏やかな、でも力強い心意気も感じ取れました。

★ 二女の杉本節子さんは京料理研究家、三女の杉本歌子さんは京都造形芸術大学非常勤講師(杉本家古文書調査研究主任)という肩書きをお持ちです。

写楽とは誰か?

2011年05月10日 06時52分41秒 | 日本の美

 江戸時代の大首絵で有名な東洲斎写楽。
 わずか10ヶ月の活動期間に200以上の作品を残して忽然と消えた天才絵師。
 その人物像は謎に包まれたまま・・・。

 この謎解きは、以前から度々話題になるテーマです。
 議論の末、現在は大きく以下の3つの説に集約されるとのこと。

① 有名絵師説:北斎、歌麿等々
② 蔦屋重三郎説:版元
③ 斎藤十郎兵衛:江戸時代の能役者

 さて今回はNHKがその謎解きに挑戦しました。
 題して「NHKスペシャル 浮世絵ミステリー 写楽 ~天才絵師の正体を追う~」

 始まりはギリシャで発見された一枚の写楽の肉筆画。
 日本に残された数枚の写楽の肉筆画とギリシャの一品とを比較すると専門家により「本物」と判定されました。
 しかし、他の有名絵師の肉筆画と比較すると筆致がことごとく異なり、①の有名絵師説は消えました。
 意外なことに、有名な大首絵は浮世絵の生産システムに乗った作品であり、写楽は下絵を描くだけで、実際の描線は彫り師の手によりますから特徴はつかめず参考にならないそうです。

 ②の蔦屋重三郎は歌麿発掘で有名な版元。写楽の作品はすべて彼を通じて世に出ているので、売れっ子絵師が単独の版元のみ固執することはあり得なかったその時代の慣習により生まれた説ですが、彼が絵を描いたという資料は皆無であり現実味に乏しい。
★ ちなみに現在の書店・レンタル業の「TSUTAYA」は彼に敬意を表して名前をいただいたそうです。

 当初注目度が低かった③が今回たどり着いた答えでした。
 能役者は武士階級だったので副職が許されない身分でした。つまり、本名を隠す必要があったのです。これが「謎の人物」という妖しい魅力に繋がりました。
 また、10ヶ月と短期間で消えた理由として、変化する作風にヒントが隠されていました。大首絵は現代でもインパクトのある表現ですが、当時は役者の特徴を際立たせた手法が役者自身には評判悪くて今ひとつ受け入れられなかったと記録に残っているそうです。
 短期間で写楽は大首絵をやめ、一般受けする全身の役者絵を描くようになり、独特の魅力は半減し他の絵師とそう変わらないレベルに落ちていき自然消滅、というのが真実のようです。

 浮世絵の専門家を交えた推論はなかなか見応えがありました。

 随分昔に「課長島耕作」で有名な弘兼謙史さんの作品で「紅毛人説」を面白く呼んだ記憶がありました。確か「ハローハリネズミ」に収録されていたような・・・。

最近購入した日本の古いモノ

2011年05月09日 06時33分44秒 | 民俗学
 ネットオークションにはいろんなモノが出品されています。
「こんなモノ誰が買うんだ?」というような品を私が買ってしまいました。

1.麻製野良着

 これは世界遺産に指定されている白川郷の旧家が放出したモノだそうです。昔の麻の生地を見てみたいというのが購入のきっかけ。田畑のドロがしみ込んだ日本農家の遺産です。編み目は粗い感じですね。

2.十手

 こちらは骨董収集家のおじいさんが放出したモノ。実物を手に取るとずっしり重い「鉄の警棒」です。これで頭を殴られたら・・・というような武器。時代劇で振り回しているけど、あんな風に手軽には扱えないのではないでしょうか。

3.百万遍数珠

 まさかこんなモノが出品されるとは・・・ふつうは郷土館や民俗博物館に展示されている貴重な道具。
 これは民間信仰行事で使われる長~い数珠(写真のモノは6m以上)。前述の白川郷からの依頼品で、明治時代に造られ実際に使われていたそうです。長い数珠を大勢の人が円を描くように並んで座って手に持ち、念仏を称えながら移動させていく行事で、みんなで合わせて百万遍(百万回)念仏を称えることによりいろんな願をかけてきた、その祈りがこもっている数珠です。

 思い起こせば、私が初めて「百万遍」という言葉に出会ったのは四半世紀前の学生時代でした。当時所属していた「民俗研究部」というサークルの勉強会で見聞きしました。
 実物を見たことはありませんでしたが、現在はYoutubeで閲覧可能ですね。便利な時代になったものです。

<ネット上で見つけた解説文>
 念仏を百万回唱える行法である「百万遍」のならわしは全国にみられますが、阿弥陀の名号(みょうごう)を唱えて数珠を繰(く)る方法は京都市・知恩寺の善阿(ぜんな)からといわれています。
 知恩寺八世の善阿は疫病が流行した元弘年間(1331-34)に後醍醐天皇の命を受け、7日間にわたり百万遍念仏の修法を行いました。そして、後醍醐天皇から流行り病を鎮めた功績として「百万遍」の寺号を賜りました。以後、知恩寺では念仏を唱えながら大念珠(数珠)を繰る行事が定例化したと伝えられます。
 また、大勢の人々が1080珠(たま)といわれる大数珠を繰り、各々が一珠繰るごとに念仏を唱え、その総計をもって百万遍念仏を唱えたとみなす方法が民間に広まっていきました。
 数珠の珠数は、手にかけて用いる普通の数珠の場合は108(除夜の鐘と同じ)が一般的で、これに10をかけた1080が基本的な百万遍数珠の珠数とされます。しかし、必ずしも1080という数になっているとは限りません。


 先日、BSで「法然上人絵伝」の謎解き番組を見ました。竹馬で遊んでいる子どもがいたり、ペットとしてのイヌを抱いている人がいたり、新たな発見があり驚きました。
 この法然の「恩を知る」ために造られたのが知恩寺であり、時代が下ってその八代目の住職が始めたのが百万遍であり、それが民間に広がっていったのですね。たまたまですが、不思議な繋がりを感じました。