知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「迷える者の禅修行」(ネルケ無方 著)

2014年09月29日 06時07分14秒 | 寺・仏教
副題:ドイツ人住職が見た日本仏教
新潮新書、2011年発行。

私はアラフィフのおじさんです。
一般的な日本人が仏教と接する機会は、お墓参りくらいでしょうか。

でも、仏教には興味があります。
1000年以上前に日本に伝わり根を下ろした宗教。
時代により変化しますが、「衆生救済」を謳って信仰が広まったと社会科の授業で教わりましたね。

2011年の東日本大震災の際、日本人は精神的危機状況を迎えました。
その時、仏教は役に立ったのだろうか?

50歳を過ぎた私は、時々無力感に襲われます。
日々そう変わりのない生活を送ることに疲れを感じることがあります。
そんな精神状態に、仏教は役に立つのだろうか?

仏教者の書いた本は敷居が高く、建前の教義を読んでもピンときません。
そこでこの本に興味を持ちました。
ドイツ人が座禅・禅宗に興味を持ち、日本で修行することに憧れ、とうとう来日してその門を叩く。
そこで見た日本仏教の現状・・・。
客観性があり、現代日本人にはむしろ馴染みやすいのではないかと期待しました。

実際に読んでみて、頷ける箇所多数。
著者の純粋さが心地よい。

日本仏教は「葬式仏教」という名のサービス業に成り下がり、市民もそれ以上のことは望んでいない(「葬式」は元々はバラモン教由来の儀式だそうです)。
純粋な仏教の教えは死者のためではなく生者の為のものであり、修行の目的は「生きて仏になること」。
本来の仏教教義に基づく修行を行っている寺院もあるが、それはごく一部である事実。

そんな著者は自給自足で修行生活を送る「安泰寺」に自然に引き寄せられていきます。
彼にとっては理想の寺院。
そこで自分を見つめ、事情があって一旦は下山し放浪生活に流れ、縁あって安泰寺に戻り住職を任されるという波瀾万丈の半生。

その著者が発する言葉には説得力があります。

「座禅」という言葉には私も惹かれます。
心を無にして悟りを得る修行法、と理解してきましたが、著者は「何かを求めて行うものではない」と諭します。
「座禅はただ座ること、それ以上でもそれ以下でもない」と。
これは曹洞宗開祖、道元禅師の言葉「只管打坐」をわかりやすく説明した文言です。

それから、「今生きていることが全て」。
仏教は自分自身が仏として生きること、生きて仏状態になることを目的に修行することであり、死後に仏になることではない、と。

この部分を読んでいて相田みつを氏の「いま、ここ」という詩を思い出しました。
考えてみれば、相田みつを氏は曹洞宗寺院に通い、教えを受けた武井老師の言葉を一般の人にわかりやすく伝えるための詩を作ったのでしたね。

修行方法に関して、欧米(ドイツ)と日本の考え方の比較が面白かった。
日本の修行はどうしても「根性論」が入ってきて「因習」がはびこりますが、著者の考え方はあくまで合理的です。

さて、今や安泰寺住職として有名になった著者。
その西洋的なフィルターを通した修行法は「純粋な仏教」を求める人達にブームを呼びそうな気配を感じました。

ただ、一つ気になったのは、著者の修行は自己完結しており「衆生救済」という視点が乏しいこと。
やはり仏教に日本人の精神的危機を「救う」ことを求めるのは無理なのかな・・・。

仏教の修行という日本文化の奥深くを覗いた著者による、日本人と欧米人の文化・考え方の違いへの考察も興味深く読みました。
「欧米人は常にファイトモードで居眠りなんてしない、いやできない」
「欧米人は家族より親友、親子より夫婦を大切にする」
などなど。

メモ
 自分自身のための備忘録。

「前書き」より抜粋
・仏教とは「仏の教え」です。それは単に「仏(釈尊や阿弥陀さん)から教わる」だけではなく、「仏(覚者)になるための道しるべ」、そして「仏としての生き方そのもの」でもあるということ。誰が「仏になる」のかというと、他でもなく今ここに生きている私たちでなければなりません。自分自身が仏として生きることが昔から仏教の眼目でした。
 「今ここ、この自分が仏にならなければ」という仏教の原点が、今の日本ではあまり理解されていないのではないか、という気がしています。

・日本の今の「仏教」はそもそも理論的に整理された教えというより一つの風習に過ぎないのかもしれません。その風習の中には、たとえば仏教と全く縁の無い祖先崇拝の影響も非常に強くあります。
 日本では、あの世にいまします「仏さん」を拝み、その功徳が自分に降り注がれたり、「仏さん」に守られたり、現世利益に与ったりするのを期待することが仏教と思われていることが多いようですが、そういった考えは、本来の仏教とは根本的に違います。釈尊も含め、仏教でいう「仏」は本来、生身の人間です。
 ところが、今の日本で「仏さん」というとき、寺院のお堂にある須弥壇の上に安置されている仏像を指しているか、あるいは死人を指しています。
 これはナンセンスです。「死んだら仏」というような教えは、仏教のどこにも見当たりません。

・死後の世界がどうなるかということは、もともと仏教のテーマではありません。当然、葬式も仏教の行事ではなく、バラモン教の行事とされていました。葬式は修行ではなく世俗の仕事であり、修行者はそれに携わってはいけないのです。釈尊も自分の葬式はバラモン教に任せるように言い残しました。
 ところが今の日本では、その非仏教的なもの=葬式仏教が仏教の主流になってしまっています。このことが、ドイツから来たわたしには悲しくてなりません。
 仏教は私たちの生き方です。死人を相手に商売することではありません。修行とはこの生き方の実践です。プロのお坊さんになるための修行(職業訓練)ではありません。
 そして仏とは「あの世」の遠い存在ではなく、私たち自身の生活目標でなければなりません。仏に向かって日々を歩むことこそ修行であり、仏の道です。そうでなくては「仏教」といえません。

日本では仏教が見つからない
 日本のお坊さんは、もはや一般の人に仏教を広める「聖職」にあらず、単にお寺の管理人兼葬式法要を執り行うサービス業に成り下がってしまっています。日本の若者が既成仏教に救いを求めていないのも、不思議でも何でも無く、当然のことです。それは、若い日本人が自分の生き方に悩み苦しんでいないからではなく、お坊さんが悩み苦しみを越えた生き方を提唱していないからです。

日本のお寺の現状
 日本のお寺のほとんどは、檀家制度によって、徳川時代以来一定の檀家を持っています。寺を経済的に支えているのが、その菩提寺に属している檀家です。第二次世界大戦後、個人の宗教が保証された今でも、檀家が菩提寺を離れることはまれであり、寺と檀家の間の関係が、サービス産業とその得意先になっています。

仏教式の葬儀は「得度式」の略式
 「死して出家する」というわけです。今や何かと批判されることの多い「戒名」ですが、元はといえば出家者に付ける名前のことを指すのです。

叢林で切磋琢磨する
 禅では修行するコミュニティーを「叢林」といいます。「叢(くさむら)」というのがポイントで、人工的な「植林」であってはいけません。さまざまな木々が自然に共生している雑木林。人に例えると、それぞれ違った持ち味や特性を有している者同士、そこに「摩擦」が生じるのは当然のこと。摩擦により互いの「エゴの角」が和らぎ、「自分が、自分が」という自己中心的な考えを減じさせます。四字熟語でいう「切磋琢磨」はまさにこの意味です。

「警策」の読み方
 曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と読みます。
 警策とは座禅中に「喝!」と肩や背中を打つあの棒のことで、その歴史は意外と浅く、江戸時代になってから登場したと言われています。

ドイツ人が日本で禅の修行をする意味
 日本人の修行僧は、「自分のために修行している」私に感心していましたが、私はむしろ、自分のためではなく、お寺のため、檀家さんのため、師匠である父親のために修行をし、自分を投げ出している彼らの姿勢に感心せざるを得ませんでした。

三仏忌
・降誕会(4/8)・・・お釈迦様の誕生日
・成道会(12/8)・・・お釈迦様が悟りを開かれた日
・涅槃会(2/15)・・・お釈迦様が入滅された日

日本の「和」の精神は欧米人には理解できない
 欧米人は協調性が泣く、組織における自分の役割よりも「俺は俺」というアイデンティティが強く、とにかく自立志向です。日本人が相手のみになって考えようとするとき、私を含めた欧米人は物事を「客観的」に考えようとします。ただ、その「客観」はこちらの主観的な思い込みに過ぎないということもしばしばです。自分たちの「正義」を振りかざし、イラクに攻め込んだアメリカの例を挙げるまでもありません。
 逆に日本的な「義理人情」は欧米人に受け入れられません。人間関係がきわめてドライで「気を利かす」という概念もなければ、「以心伝心」といった四字熟語を知るすべもありません。

欧米人にとって「働く」ことは「神から与えられた罰」に過ぎない
 仕事それ自体に価値はなく、それは神から与えられた罰に過ぎず、ドイツ人のみならず多くの欧米人は、休むときにだけ、あの「楽園」へ戻ることが許されると考えているのです。休日を英語で「holiday(聖なる日)」と呼ぶのもそのためです。

居眠りに憧れるドイツ人
 『Inemuri』という本がドイツで話題になったことがあります。
「日本人を見習いなさい。つまらない授業や会議の時間を活用して、睡眠をとって体も頭もリフレッシュ。と同時に、日本の“イネムリ”は社会秩序に対するささやかな反逆でもある」
 といった具合に、ぐっすり眠れないというドイツ人のために“イネムリ”の御利益が説かれています。ドイツ人は“イネムリ”をしたくてもできません。欧米人は常に「ファイトモード」でいるからです。

家族に対する考え方、日本人 vs 欧米人
 欧米人は日本人ほど血縁を大事だとは考えていません。家族より親友を大事だと考えている人もたくさんいます。なぜなら、家族は自分で選んだわけではないから。一方で親友は、自分の意思で選んだ者です。
 欧米人はまた、親子関係より夫婦関係を大事にします。血縁がないからこそ、大事にするのです。子どもの教育主眼は、いち早く子どもを自立させることです。和製英語に「スキンシップ」という言葉がありますが、ヨーロッパにはそれに相当する言葉は見当たりません。

大人になるということ
 私個人としては、母親を幼い頃に亡くしたので、日本型の教育方針に憧れています。子どもを無理に自立させるのではなく、自立しようという気になるまで、親の肌のぬくもりを感じさせるべきだと思います。
 私自身は、35歳の時に初めて子どもの親になるまで、「大人」の本当の意味が全くわかりませんでした。実際に子どもを持たなければ、親の気持ちが理解できません。子どもこそ大人を大人にしてくれるのです。
 自分が「親」になれば、はじめて自分以外の存在に対して強い責任感をもてる人もいるでしょう。そうすれば「親」は「子」という鏡の中で、自分を見つけることもあるでしょう。本当の教育とは、親が一方的に子どもを大人にしていくことではなく、親も子も一緒に大人に育つことだと思います。

仏教でいう大人(だいにん)
 仏教では「大人」という言葉を「だいにん」と読み、お経によく登場する仏法の実践者「菩薩」を意味します。
 道元禅師は「大人」を「典座教訓」の中で「喜心・老心・大心」という三つの言葉で表しています。
 「今ここ、この自分として、生かされてよかった」という喜びの心、我が子を慈しむ親の老心、そして全ての川の水を余すことなく受け入れている海ほど広い大心です。
 この三つの心を備えた大人、つまり菩薩(自分を忘れ、一切衆生の救済を先とする人)こそが「親」ではないのでしょうか。その意味で、過程というのは「菩薩の修行道場」と云えます。