知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「津波と原発」by 佐野眞一

2011年09月16日 22時02分45秒 | 原発
2011年6月、講談社発行。

~帯の説明文~
 日本の近代化とは、高度成長とは何だったか?
 三陸大津波と福島原発事故が炙り出す、日本人の精神
 東日本大震災にノンフィクション界の巨人が挑む


 手元に原発関係の本(チェルノブイリ関係を含めて)が10冊ほどありますが、今回は最新刊のこの本を読んでみました。
 著者の佐野さんは「旅する巨人ー渋沢栄一と宮本常一」という本で、民俗学者の宮本常一氏を扱った経歴があり、他の本とは視点が異なるだろう、と予想して。

 書き出しは上から目線の記述が少々鼻につきました。
 「やっぱり俺が出てこないと話がはじまらんか・・・」といった雰囲気。
 ”ノンフィクション界の巨人”なんて煽てられてちょっと天狗になっているような・・・。

 しかし、読み進めていくうちに、その奥深い考察に次第に引き込まれていきました。
 原発そのものの危険性を扱うのではなく、どうしてそこに原発ができるに至ったのか、を日本の近代史を紐解いて解析しているのです。
 不毛の土地だった福島県の浜通りには因幡(現在の鳥取県)からの移民が住むようになり、はじめはよそ者として差別された、とか、松本清張の「砂の器」を彷彿とさせる日本の下層の民の悲哀を説き起こします。

 その貧しい土地でなんとか生活できるようにと思案する地元民と、経済発展の足元固めのために導入された原発との利害が一致し、危険性は伏せたまま建設・完成し、その恩恵(主にばらまかれる寄付金)に依存して抜け出せなくなってしまった悲しい歴史。
 当然、政治家達の思惑や利権も複雑に絡んできます。政治家として大成はしなかったけれど、稀代のプロモーターとして名を馳せた正力松太郎に焦点を当て、よくも悪しくも彼の手のひらの中で踊らされている日本国民を揶揄する場面もあります。

 他の原発本とは一線を画する、「そこに住む民」に焦点を当てた良本だと思います。

 記憶に残る文章をメモしておきます;

(福島第一原発に一番近いほうれん草農家へのインタビューより)

ー(佐野)あの土地に住み着いて何代目になりますか?

 「おれで五代目だ。あの集落は、鳥取の因幡から天保の頃に相馬に移住してきた人間達が先祖なんだ。」

 平将門を始祖とする奥州の豪族相馬氏は相馬中村藩を治めていた。天明の大飢饉の際、大量の餓死者(最終的には人口の半分)を出したため、藩主導で集団入植が積極的に進められた。移住元は加賀、越中、越後、能登、因幡まで及んだ。今でも秘境と呼ばれる貧しい村から、彼らは新天地を求めて相馬に移り住んだのである。
 彼らは「シンタチ(新立)」「加賀者」「新百姓」などと呼ばれて侮蔑され、地元の農家では土間までしか入れさせてもらえなかった。

 「祖父たちは、だから、ここに住んだ人たちは、それぞれ歯を食いしばって頑張ってきたんだと云ってました。そのが、今消え去ろうとしている。ここまで苦労してきた先祖のためにも、自分の生まれ故郷を何とか復興しなきゃ何ねえなんて思っていたけんどもよ・・・」


(正力松太郎に言及した項で)
 正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球もテレビも、そして原子力も大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力ずくで日本に導入して、根付かせた。
 正力松太郎が残した巨大な事業から、いま生きる私たち日本人が、一番学ばなければならないことは何か。それは、私たちが今も正力の巨大な掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手がかりさえ持っていないことである。
 私たちは、正力が導入したテレビの中で展開される、正力がつくったプロ野球の試合を日々観戦し、正力がマンモス的メディアに仕立て上げた新聞でその結果を確認する毎日を送っている。
 それ以上に指摘しておきたいのは、私たちのその暮らしが、正力が導入した原発から送られる電気によって賄われていることである。
 福島第一原発が今回引き起こした重大事故は、私たちがそうした巨大な正力の掌から脱することができるかどうかの試金石となっている。


(地元で原発反対運動を続けてきた浪江町出身の元大熊中学校教諭の大和田秀文氏へのインタビューより)
 「原発建設で最も力を振るったのは、当時地元選出の代議士で、福島県知事の佐藤善一郎とも深い関わりのあった木村守江です。東電の木川田一隆社長、長者原の塩田の持ち主だった堤康次郎と木村の三人で原発誘致を決めてしまったと云います。
 堤はあの土地を3万円で買った。原発の誘致が決まって3億円になった。しかし、地元ではそんな裏側の話は伏せられ、関係者の根回しで、双葉町と大熊町から誘致を求める声があり、そこで動き出したとされています。
 後に福島第一原発の五号機、六号機が双葉町に増設されたときも、福島第二原発が富岡町と楢葉町に建設されたときも、同様に地元からまず誘致の声があり、その声に議会が賛同し、県がそれに応え、それを東電がやむなく受け入れるという形になるわけです。最初から建設することが決まっているわけですから、いわゆる”やらせ”なんです。」
 原発の工事が始まると地元で力を発揮したのは双葉町長の田中清太郎だった。
「田中は双葉町いや双葉郡一番の田中建設の社長です。ミニミニ田中角栄のような人物で、原発に関連する仕事や、それにまつわる公共工事をとっては業者に割り振ったり、談合で入札させていた。自宅が入札会場と云われるほどでした。」


(「原発のある風景」の著者である元「赤旗」政経部記者の柴野徹夫氏へのインタビューから)
 「・・・あとで調べてわかったんですが、福島県警も警視庁も含めてですけど、電力会社は、彼らのものすごい天下り先になっているんですよ。特に原発関係はすごいです。関西電力を調べているとき、地域対策室というのが関電本社の社長室の隣に直属の部署として置かれていましてね。そこで作ったコピーを見たことがありますが、敦賀原発が立地している地域全戸の家族リストが載っていました。
 もう個人情報なんて門じゃなくって、学歴、病歴はもちろん・・・前科、離婚歴、性格、支持政党まで徹底的に調べ上げていました。あれは完全に警察情報と一体になっていると思いましたね。
 同じようなものは、福島でも見ました。」

ー(佐野)福島第一原発を実質的に誕生させたのは、木川田一隆東電社長と木村守江知事の福島県出身コンビです。私が興味を持つのは、この二人とも医者の家系だったということです。その出自が二人の気脈を通じさせたような機がしてならないんです。

 「それは福島県下全体の医師会の動きとも関係あると思いますね。被曝労働者の診察に当たっても、もうみんな原発べったりの医者ばっかりで、患者側に有利な診察をする医者はいません。」

ー(佐野)民主党のエネルギー政策をどう思いますか。

 「民主党と自民党は全然違うものじゃありませんから。元はみんな自民党ですからね。というより、二世、三世の御曹司ばっかりですから不勉強で、自民党より始末が悪いかもしれません。」


(「フクシマ論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか」という研究論文を出版した東京大が大学院学際情報学博士課程の開沼博氏へのインタビューから)

ー(佐野)同じエネルギー産業に従事しながら、炭鉱労働者には「炭坑節」が生まれたのに、原発労働者には「原発音頭」が生まれなかった。これはなぜだと思いますか。

 「彼らは危険だということをわかりながら、自分を騙しているようなところがあって、その負い目が差別性につながっているような機がしますね。
 炭鉱労働者が感じる危険さは、漁師が感じる危険さに似ていると思います。誇れる危険さというのかな。」