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自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

村の神社における「氏神」と「氏子」

2018年01月09日 07時51分53秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神と氏子の関係を扱った項目です。
 昔々からの自然崇拝が連綿と続いてきた、とイメージしがちですが、「村の鎮守さま」という現在のような関係に落ち着いたのは、江戸時代の近世以降のようですね。

氏神は氏子の先祖神ではなく、氏子は氏神の子孫ではない。
 室町時代の記録に、村人が祀る郷村の神を氏神と呼ぶようになったと記されており、中世から近世への郷村制の展開に伴い、有力農民層を氏子とする郷村ごとの氏神祭祀が見られるようになったようである。
 近世幕藩体制下の村請制度のもとでは村落という地域的単位が重視されたために、それぞれの地域社会の構成員が氏子、そしてその守り神が氏神という関係ができあがった。それは出身地の神社に氏子身分を固定化するものでもあり、近代へと連続するものであった。

寺請制度→ 郷社氏子制→ 戸籍制度
 明治政府は神仏分離の政策をとるとともに従来の寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍整備のための氏子制度の法制化を図り、全国民を郷社の氏子として登録することにした(氏子札発行)が数年で方針転換し戸籍法へ取って代わられた。
 しかしその後も国家神道の体制下での行政指導は継続され、法的制度としてではなく、習俗や慣行としての氏子制度が地域社会に強力な規制力をもつものとして、第二次世界大戦終結まで大きな機能を果たした。
 戦後は神社神道が宗教法人化して神社に対する国家の保護が廃止されたため、氏神と氏子の地域住民に対する規制力は失われたが、習俗や慣行としての氏神祭祀と氏子制度は依然として日本の地域社会では大きな機能を果たしている。

氏神の意味は3種類ある
A:氏神の祖神
B:氏神がその本貫地(※)で祭る神
C:氏族の守り神

※ 本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。 転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。

(例1)藤原氏と鹿嶋社・香取神:C→ Aを追加
 藤原氏の祭る氏神は8世紀後半には鹿嶋社と香取神の二柱であったのが、9世紀前半になると枚岡社が祭る神話的世界の中臣連の祖神である天之子八根命と比売神の二神を加え四柱へとなっていく。平城京の段階では氏族の守り神という意味であった氏神が、平安京の時代には藤原氏は奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という四社を祭り、旧来の守り神としての建御賀豆智命と伊波比主命の二神に加えて、祖神としての天之子八根命と比売神の二神を加え四神となっていった。

(例2)清和源氏と八幡神:C→ Aへ変化
 八幡神はもともと玄寺とは関係なく、古代国家にとって国内外含めて国家鎮守の神であった。それが10世紀以降に三韓征伐(※)の神話伝承に関連して応神天皇を中心にその后神と母神の神功皇后のいわゆる八幡三所の神を祭る段階へと展開していった。そしてその時期に、鎮守府将軍源頼義とその嫡男源義家によって夷敵を征圧する武闘武勇の守護神として進行されるようになり、そこから転じて源氏の氏神であり祖神であるという形へとなっていった。
 国家鎮護と武勇の神である八幡神への信仰を中心にしながら、八幡三所とされていった応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけて一族の祖神という性格が付加された。

三韓征伐(さんかんせいばつ)
 神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。


(例3)古代氏族の本貫地に祭られる神の存続:B
 このタイプの底流的な存続とその変遷の延長上にある氏神が、やがて近世社会に定着してくる郷村の氏神の姿。
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