知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

令和時代の神社・お寺事情 2019

2019年10月07日 18時10分17秒 | 神社・神道
 私は大きな木が好きなので、それを求めてあちこちの神社やお寺を巡る趣味があります。
 御朱印がいただけるような有名な神社・お寺は少なく、山里の小さな神社やお寺が多いですね。
 たいてい、私以外参拝者はいません。
 
 現在神社とお寺の存続が危ぶまれる時代になり、テレビでもときどき報道されます。

 檀家が減ってきて経営が大変なお寺。
 うちのお寺の住職も、学校の先生を兼任しています。

 神社も地域の結びつきが薄れて、氏子達の団結力が低下してきました。
 「公民館」や「自治会館」を併設している神社は生き延びていますが、中には放置され荒れている神社も無きにしも非ず。

 昨今のお寺・神社事情を垣間見る記事を2つ紹介します。

“寺離れ、危機的…” 本来の姿を取り戻すために始まった、住職たちの挑戦 ガンダムから寺子屋まで
2019/9/27:中京テレビ
 あの手この手で生き残り。コンビニよりも数が多いといわれる、お寺の生き残り策を追いました。
 名古屋市中区の「東別院(真宗大谷派名古屋別院)」で先日開かれたイベント。集まったさまざまな世代の人たちの前で、芸を披露する現役のお坊さんたちの姿がありました。
 袈裟を着たお坊さんたちが、漫才やマジックを披露。でもなぜ、現役のお坊さんたちがマジックや漫才で人を楽しませるのでしょうか?
 4年前からお坊さん漫才として、お寺や施設で活躍する土井恵信さんと中村亮さん。2人は大学の同級生で共に現役のお坊さんです。漫才を始めたのには、お寺を取り巻く深刻な問題がありました。
「このお寺に生まれて小さい頃から本堂の行事とか見てきて、行事があるたびに多くの人が来てわいわいガヤガヤしてて。段々、人が減ってゆくさまをリアルタイムで見ている世代」(随縁寺 土井副住職)
「実際統計とった訳じゃないけど、感覚で…。いま本当に危機的な状況になってるのかなという気がします」(養蓮寺 中村住職)
 若い世代を中心とした深刻な“寺離れ”。それをなんとかふせごうと漫才を始めたのです。さらに、お盆の時期限定でビックリするような仕掛けも。
 なんと、人間と同じくらいの大きさのガンダム。近所の人が製作した木製ガンダムを、お盆の時期だけ借り本堂に置いたそうで、お参りとは別にわざわざガンダムを見にお寺にやって来た人もいたそうです。

◇ 1人の住職が複数のお寺を“かけもち”している
 “寺離れ”とともに深刻なのが「住職不在の空き寺問題」。
 全国にあるお寺の数は、コンビニより2万以上も多く、約7万5000といわれています。しかし、ある宗派の調査では、後継者不足などで1人の住職が複数のお寺を“かけもち”しているお寺は、全体の約2割にものぼるといいます。
“お寺に集まってもらう”、そのためにさまざまな取り組みが始まる中、10年近く住職が不在だったお寺を再生したところがありました。リフォーム中の、岐阜県関市の「勧修寺」の本堂。作業をしている方は、大工さんではありません。
 近くのお寺で住職をする傍ら、地域の人たちと一緒に、荒れていたお寺を今年4月に一部再生させました。

◇ モーニングを楽しんでいる
 お寺の一角では、モーニングを楽しむ人たち。10人ほどのボランティアが、カフェを運営しています。
 カフェの名前は、「寺子屋 いちょう庵」。月曜から木曜の朝、地域の人にモーニングを200円で提供しています。
「ここの女性の住職は平成22年にお亡くなりになられて、それから無住、誰も住んでいない状態がつづいたのです。人が集まれるような、お寺本来の姿に戻せないかという事で始めました」(岡田さん)

◇ 週に2回“寺子屋”も開催
 地域の人たちと約2年がかりで、作り上げたというカフェ。
 モーニングが終わって午後2時ごろになると、子どもたちがやってきました。まずは手を洗い、宿題を始める子どもたち。週に2日間、共働き世帯の子どもたちを受け入れているのです。
 ひとりで勉強や食事をするよりも、みんなでする方が楽しい。夕食も200円で、提供しています。
「葬儀・法事以外に、普段なにげなくみなさんが気楽に集まれるような、そんな場所だと思ってます」(岡田さん)


 次は岐阜県の「金神社」の話題。
 なんと「金の御朱印」がもらえるとSNSで広まり、行列が出来るようになったそうな。
 
 なんだかなあ・・・と思いきや、江戸時代の昔から神社仏閣は観光地でもあったので、あながち間違った方法というわけでもなさそう。
 地域興しのキッカケとしても役に立ちそうだし、まあいいか。

プレ金の成功例? 岐阜の神社で5000人が行列をつくる理由
2019/9/25: ITmedia ビジネスオンライン
 毎月最終金曜日、神社やお寺に約5000人が詰めかける――。岐阜市で見られるようになった光景だ。

【岐阜の神社や寺でもらえる「金の御朱印」】

 月末の金曜といえば、早帰りと個人消費喚起を促す「プレミアムフライデー」があるが、岐阜には地域独自の取り組みがある。それは「プレミアム金(こがね)デー」と呼ばれている。
 岐阜の“プレ金”はどのような日なのか。岐阜市とその周辺にある神社やお寺、約10カ所で「金の御朱印」がもらえる日だという。2017年5月にこの取り組みが始まると、御朱印を集める人たちだけでなく、“金運アップ”を願う人たちの心をつかんでいき、今では毎月たくさんの人が御朱印待ちの列をつくる。
 なぜ「金の御朱印」に地域で取り組んでいるのだろうか。プレミアム金デー当日、開催地の一つである、岐阜市内の「金(こがね)神社」に向かった。

◇ 最長5時間待ち 月1回の「金の御朱印」を始めたきっかけ
 8月30日金曜日。この日は朝から雨が降っていたが、次々と神社の敷地内に車が入ってくる。社務所の窓口を起点として、朝から行列ができていた。社務所の中では、金色の文字で神社名を書いたり、はんこを押したり、出来上がった御朱印を整理番号順に渡したりと、手分けして作業が進められている。
 「今日は雨が強くなる予報なので、(行列は)いつもの半分くらいですね」。そう話すのは、岐阜市でイベント企画などを手掛けるまちづくり団体「ひとひとの会」代表の佐藤徳昭さん。同団体がこの取り組みの仕掛け人だ。
 なぜ、この取り組みでは“金色”にスポットを当てているのか。それは、岐阜には「黄金」にまつわる場所が多いからだ。
 JR岐阜駅前の広場には、「岐阜」を命名し、本拠地としていた織田信長の黄金の像がある。また、“金”という名を持つ金神社には、黄金に塗られた大鳥居がある。そして、頂上に岐阜城が建つ「金華山」には、毎年5月ごろに黄色の花が咲くツブラジイの木が多く、“黄金に輝く山”として、その名前の由来になったという。
 こういったことに着目したひとひとの会が、岐阜の「黄金」を巡る観光ツアーを企画。その一環として、金神社に「金の御朱印を書いてほしい」と話を持ち掛けたのが始まりだ。ツアーで提供した金の御朱印がSNSで話題になり、問い合わせが殺到。ツアーの後も、続けて取り組んでいくことになった。
 ただ、常に金の御朱印を提供するわけでなく、“プレミア感”を出すために月1回限定に。17年2月に政府の呼びかけで始まったプレミアムフライデーにちなんで、「プレミアム金デー」と命名した。
 当初はSNSなどで告知し、「1日100人ぐらいが来ていた」(佐藤さん)。月を追うごとにその人数は増えていき、金神社は対応するための分業体制や整理番号制を構築。受け入れる体制が整ったころに新聞やテレビに取り上げられ、一気に注目を浴びた。「新聞に載った後は県外から来る人も増えて、(1日)700~800人に。テレビで取り上げられた後は、1500~2000人が大行列をつくり、5時間待ちになりました」(同)。平日の昼とは思えないような盛況ぶりだったという。
 佐藤さんらは岐阜信長神社(岐阜市)など他の神社や寺にも声をかけ、規模の拡大を目指した。金神社で参拝者が急増したことから、「やりたい」という声も上がるようになり、取り組みは広がっている。19年7月には、8カ所で計5300枚の金の御朱印を提供。8月には授与場所が10カ所に増えた。9月はさらに1カ所増え、11カ所になる。

◇ 1300年前の「国宝」をデザインした御朱印
 「実際に神社やお寺に足を運んでみると、重要文化財があったり、珍しい仏像があったりと、とても魅力があることに気付きます。地域に根付く神社やお寺の歴史を知って、拝んで帰る。現在はそういった習慣も少なくなってしまいましたが、それが本来の醍醐味なのでは」と佐藤さんは話す。金の御朱印が、地域を知ってもらうきっかけになるという。
 8月から取り組みに参加した、岐阜市の護国之寺(ごこくしじ)も、隠れた魅力を持ったお寺だ。岐阜市内唯一の国宝「金銅獅子唐草文鉢」を所蔵している。1300年前、奈良時代に作られた「こがねのお鉢」だ。
 護国之寺の副住職夫妻、廣瀬良倫さんと有香さんは「岐阜をもっと盛り上げたいと思い、(金の御朱印に)賛同しました」と口をそろえる。これまで積極的に国宝を宣伝してこなかったことから「最初は断った」というが、地域活性化につながること、そして国宝にちなんだ金の御朱印は他になかったことから、参加を決めた。
 御朱印は、授与する神社や寺によって個性が表れる。護国之寺では、国宝のお鉢をあしらった金の御朱印を考案。有香さんが「お鉢の写真を模写してデザインした」という。お鉢は文様に大きな特徴がある。獅子、唐草、雲などが非常に細かく刻まれており、これをデザインした御朱印は、目を凝らして見入ってしまうほどの美しさだ。
 7月にプレ開催として試行したところ、参拝者から「岐阜に国宝がある寺があるなんて知らなかった」「(お鉢と縁のある)奈良から来た」などという声があったという。良倫さんは「全国の人、そして地元の人にも、岐阜の隠れた魅力を知ってもらうきっかけになれば」と期待を寄せる。

◇ 「宿泊を伴う観光」につなげていく
 金の御朱印が話題になる一方で、問題も出てきた。「参拝の証として御朱印をいただく」ことが本来の楽しみ方だが、“収集”が目的になってしまい、ネットオークションで転売されることが増えてきたという。月1回しかもらえないという“プレミア感”もあり、高額で取引されてしまう。1枚300円でもらえる御朱印が数千円で落札されたケースもあったという。足を運んで参拝するという本来の意味をさらに発信していく必要がある。
 とはいえ、神社や寺が話題になり、人を集められるようになった効果は大きい。「参拝という習慣は、昔は当たり前のものでした。その意識が希薄になった今、愛好家だけでなく、幅広い人たちが来てくれることが刺激になっているようです。『腱鞘炎になるわ』などと言いながら、楽しそうに取り組んでくださっている姿が印象的ですね」と佐藤さんは話す。
 今後は、金の御朱印の集客力を地域経済に波及させることを目指す。「参拝に来た金曜の夜に岐阜に泊まってもらい、翌日は観光地や(金にまつわる)パワースポットを巡ってもらう。そんな形の観光を定着させられれば」(佐藤さん)。飲食店や宿泊施設などとの連携も模索している。
 御朱印の授与場所を広げて多くの人を集めるだけでなく、地域一丸となった取り組みとして、発信力を高めていく。それができれば、「金の御朱印」は観光誘客の大きな武器になっていくだろう。



記紀神話に登場する神々

2018年04月15日 21時31分11秒 | 神社・神道
 古事記と日本書紀を合わせて“記紀”と表現します。
 そこに記されている神話を“記紀神話”と呼びます。
 記紀神話にはいろいろな神々が登場します。
 そしてそれらは日本各地の神社にまつられている神の名前としても馴染みがありますね。

 でも私は以前から不思議に思ってきました。

 「村の鎮守様」になぜ全国規模・全国共通の神様がまつられているのか?
 村の鎮守には村の神様(産土神・氏神)でいいのではないか?

 神社の歴史をひもとくと、やはりもともとの神社は産土神(その土地の神)・氏神(その氏族の神)をまつっていたようです。
 しかし歴史の流れの中で、ありがたい有名な神様を“勧請”という形で取り込んでいきます。
 遠くの本社に参拝できないので、神様に来てもらって地元でも拝める便利なシステムです。
 すると、もともとの神様は摂社や末社に追いやられ、または消滅してしまいました。
 それを国家レベルで行ったのが明治政府であり、国家神道という政策のもと、記紀神話の神をまつることを強制した歴史もあます。

 記紀は、著者・編纂者が目的を持って著した書物です。
 この場合、編纂者とは天皇家です。
 この場合、目的とは天皇家の正当性を国民に信じ込ませること。

 つまり、記紀神話は天皇家が自分の家系を正当化させるために著した書物なのです。
 この認識を忘れずに、読み解く必要があると感じています。

 私は記紀神話に登場する神々の名をなかなか覚えられません。
 当てられた漢字もふつうのパソコンの辞書では変換してくれませんし。
 一度整理しておきたいな、と思っていたタイミングで、下記の本に出会いました。
 逸話中心に書かれているので、他の本より頭に入りやすいかな。
 でもしばらくすると、やはり細かいところは忘れてしまいます・・・。


よくわかる祝詞読本」(瓜生 中:著)角川ソフィア文庫、第四章「神話に登場する神々」より

<備忘録>

造化三伸:日本の国土のエレメントを作った国常立(くにのとこたち)の神などの三柱の神

イザナギ、イザナミ:国常立の神から七代目に当たる二神。

アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト:出産で命を落としたイザナミを追って黄泉の国へイザナギは向かったが、そこで出会ったイザナミは腐乱しておぞましい姿であった。これを目にしたイザナギはほうほうの体で黄泉の国から脱出した。地上に逃げ帰ったイザナギはアハギ原という所で、黄泉の国の汚れを落とすために川で身を清めた(禊祓えの起源)。このときに左目を洗って生まれたのが天照大神、右目を洗って生まれたのが弟のツクヨミノミコト、花をすすいで生まれたのが末弟のスサノオノミコト。
 イザナギはこの三柱の神を三貴子と名付け、アマテラスには高天原(天界)を、ツクヨミには夜の世界を、スサノオには大海原を治めるように命じた。アマテラスとツクヨミは復命して早々に任地に赴いたが、スサノオだけはこれに反発して絶対に行きたくないと駄々をこねた。長期にわたって駄々をこねて号泣し続けるスサノオに愛想を尽かしたイザナギは、スサノオを勘当して、自分は滋賀県の多賀大社に引退してしまう。
 父親に勘当されて途方に暮れたスサノオは、何はともあれ姉のアマテラスに暇乞いをしようと思い、高天原に昇っていった。それを見たアマテラスはスサノオが高天原を乗っ取りに来たのだと疑った。到着したスサノオは暇乞いしに来たことを説明したが、アマテラスの疑いを払拭することができない。
 二神は“誓約”(うけい)という呪術的な儀礼で正邪の判定をすることにした。スサノオに女神が生まれれば身の潔白が証明されることにし、首尾よくスサノオが如神を生んで身の潔白が証明された。
 身の潔白が証明されたスサノオはうれしさのあまり慢心してとんでもない乱暴狼藉を働いた。アマテラスははじめは弟をかばったものの、死者も出てかばいきれなくなり、岩屋の奥に隠れて岩戸を閉めてしまった。

□ 宗像三女神:アマテラスとスサノオが誓約をした際にスサノオから生まれた女神達。

□ アメノウヅメノミコト、アメノタヂカラオノカミ、フトタマノミコト
 岩屋に籠もってしまったアマテラスを引き出すために、高天原の神々は知恵を絞った。岩屋の前に大きな鏡(伊勢神宮の御神体である八咫鏡)を設え、その横に大きな榊に勾玉(まがたま)や大麻を取り付けたものを立てた。そしてアメノウヅメが逆さにした桶の上に立ち、岩屋の前の止まり木(鳥居の起源?)に止まっていた常世の長鳴鳥(鶏)のけたたましい鳴き声を合図に踊り始めた。
 これを見ていた神々は歓声を上げ、外の喧騒に不審を抱いたアマテラスは岩戸を少し押し開くと一気に光が広がった。アマテラスがアメノウヅメに何事かと問うと、「高貴な神がいでましになられたので、みな歓喜に酔いしれているのです」と答えた。八咫鏡に映った自分の姿を高貴な神と勘違いしたアマテラスは茫然自失となり、その瞬間を捉えてアメノタヂカラオという怪力の神が力任せに岩戸をもぎ取り、アマテラスを無理矢理外に連れ出した。
 そしてフトタマノミコトという神が、アマテラスが二度と入らないように岩戸の前に注連縄を張り巡らせた(注連縄の起源)。
 そしてアメノタヂカラオが岩屋の傍らにあった岩戸を力任せに遠くに投げた。岩戸ははるばる長野の戸隠まで飛んで落下した。これが戸隠神社の起源で、“戸を隠した”ことに由来し、アメノタヂカラオを主祭神としてまつっている。
 岩戸の前で乱舞したアメノウヅメは芸能の祖神として各地の神社にまつられ、今も歌手やタレントなどの芸能人に厚く信仰されている。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛稲田姫(くしいなだひめ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)
 高天原を追放されたスサノオは、出雲の斐伊川に天下った。一軒の家にたどり着くと老夫婦(足名椎:アシナヅチ、手名椎:てなづち)と少女(櫛稲田姫:クシイナダヒメ)が泣いている姿に出会う。老夫婦は山の神の総元締めの大山祇神(おおやまづみのかみ)の子だという。
 老夫婦には8人の娘がいたが、八岐大蛇(やまたのおろち)に7人の娘を食べられてしまい、今年は最後の娘が食べられてしまうと聞いて、クシイナダヒメに一目惚れしたスサノオは八岐大蛇退治を申し出る。
 八塩折の酒(やしおりのさけ:8回醸した上等な酒)で酔わせた八岐大蛇の首を切り退治したが、その際に八岐大蛇の胴体から一降りの剣が出てきた(天叢雲剣:あまのむらくものつるぎ、後に“草薙の剣”と呼ばれる)。この剣は後にスサノオがアマテラスに献上して三種の神器の一つとなり、今も名古屋の熱田神宮の御神体としてまつられている。
 八岐大蛇を退治したスサノオはクシイナダと結婚して宮殿を建てた(八重垣神社)。2人は子どもを作って出雲の地の開拓に励み繁栄に導き、国神(くにつかみ)の元祖となり、スサノオから6代目の孫が大国主神である。
 オオクニヌシは大己貴神(おおなむちのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、葦原醜男(あしはらしこお)などなど様々な別名があることで知られる。ナムチは蛇のこと(大ナムチは大蛇)。オオモノヌシはオオクニヌシが国造りに励むと同時に温泉や鉱山を開発し、薬や酒を作ったとされることから、物造りの神という意味で着けられた名である。葦原醜男(※)は豊葦原中国を統括する色男というほどの意味だ。
※ 「醜男」は「醜い男」という意味の他に「強くたくましい男」という意味もある。
 奈良の大神(おおみわ)神社は酒造の神として知られ、杉玉は大神神社がルーツである。この神社には酒造の祖としてオオモノヌシ(=オオクニヌシ)がまつられている。

□ アマテラスが高天原だけでなく下界を統治しようと思った理由
 天神は天皇家の祖神国神はその他の豪族の祖神である。この話は大化の改新を経て中央集権を強めた天皇家が、他の豪族を席巻して全国支配をする過程を示したもの。
 
□ 「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに);
 日本の古代の美称は「豊葦原瑞穂国」という。
 かつて日本の海岸線や河岸、沼沢の畔には葦が美しく生い茂っていた。古代の人々は1日に15cmも伸びるという葦の生命力に神秘性を感じてこれを大切にしてきた。そして、青々と生い茂る姿を稲田に譬え、稲がすくすくと成長して稲穂がたわわに実る光景を想像した。「瑞穂」とは瑞々しく育った稲穂という意味である。

大国主神の国譲りと建御雷神(たけみかづちのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、天穂日神(あめのほひのかみ)
 下界の支配を目指したアマテラスは、御子神(みこがみ)を遣わせてオオクニヌシと国譲りの交渉をさせることにした。しかし最初に遣わした神はオオクニヌシの人柄に絆されて地上に居着いて一向に帰ってこない。次に遣わした御子神は、こともあろうにオオクニヌシの娘と結婚し、地上に遣わされた目的も忘れて、幸せな生活を営んでいる。
 業を煮やしたアマテラスは雷の神として知られている建御雷神(たけみかづちのかみ)を遣わせた。この神は藤原氏の遠祖で、もともと茨城県の鹿島神宮に鎮座していた。それが藤原氏が大きな権勢を握って藤原不比等が主導して平城京遷都を敢行すると、それに伴って奈良に遷座された。これが春日大社の起源で、タケミカヅチは春日大社の主祭神として今もまつられている。
 復命したタケミカヅチは出雲の稲佐の浜に降り立ち、剣を立てて切っ先の上に胡座(あぐら)をかいて座り、すさまじい形相でオオクニヌシに国譲りを迫った。オオクニヌシは二人の息子の意見を聞くことにした。
 最初に呼ばれたのが事代主神(ことしろぬしのかみ)である。釣りが好きなコトシロヌシは美保関(みほのせき)の磯で釣りに興じていたところから駆けつけたが、タケミカヅチのすさまじい形相に恐れをなして逃げてしまった。青柴垣(あおふしがき)という垣根を作ってその中に入り、美保関の海中深く沈んで、そこから未来永劫に渡って出てこないことを誓った。以来、コトシロヌシは美保関にある美保神社の祭神として鎮座している。
 次に呼ばれたのが次男の建御名方神(たけみなかたのかみ)で、タケミカヅチに勝負を挑んだがひと太刀交わした途端にタケミカヅチのパワーに気圧されて一目散に逃げ出した。それをタケミカヅチは猛然と追いかけ、信濃の諏訪湖まで追い詰めた。殺されそうになったタケミカヅチはこの力未来永劫に渡って出ないので命だけは助けてくださいと命乞いをした。以来、タケミカヅチは諏訪大社の御祭神として今も崇敬を受けている。
 オオクニヌシは国譲りに同意することにした。このとき、アマテラスに天子(天皇)の宮殿に勝るとも劣らない神殿を建ててくれるよう望み、アマテラスは快諾して出雲の地に壮麗な神殿を建設した。これが出雲大社である。
 このときアマテラスは出雲の地に引退するオオクニヌシに対して、自分の御子神を食事の世話や雑用を担う世話係として遣わした。この神は天穂日神(あめのほひのかみ)といい、アマテラスがスサノオと誓約を行ったときに生まれた五柱の神のうちの次男にあたる。そして、この神の子孫が代々、出雲大社の大宮司職を務める千家家である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)と恵比寿神
 江戸時代頃から事代主神を恵比寿神とする信仰が広まった。これは出雲大社のオオクニヌシが大黒天と同一視されたことによるもので、出雲のエビス、ダイコクとして、出雲大社に参拝した際には必ず美保神社に参拝しないと「片参り」といって御利益が半減すると言われた。
 鯛を釣る姿のエビスは、美保神社のコトシロヌシが釣りが好きだったことに由来する。

少彦名神(すくなびこなのかみ)
 「出雲国風土記」にはオオクニヌシの国造りの神話が記載されている。朝鮮半島の岬に縄をかけ、陸地を引いてきた際、ガガイモの実で造った小さな船に乗って小さな神が近づいてきた。それがスクナビコナで「私にも国造りをお手伝いさせてください」と叫んでいた。
 オオクニヌシはこんな小さな体で手伝いができるものかと思ったが、意外や意外、スクナビコナは大活躍をした。国造りが終わってスクナビコナがたわわに実った粟の穂によじ登って一休みしていたとき、実ってはじけた粟の実に飛ばされて常世の国へ行ってしまった。
 スクナビコナは茨城県の大洗磯崎神社をはじめ、各地の神社の祭神としてまつられている。先に述べたオオクニヌシとの関係から、東京の神田神社(神田明神)などのように、オオクニヌシと相殿(あいどの)でまつられていることも多い。

天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)
 オオクニヌシとその御子神が天孫に国を譲ることに同意したため、アマテラスはアメノオシホミミに豊葦原中国に天下るよう命じた。中国(なかつくに)の混乱が収まるまで待っていたアメノオシホミミであるが、降臨の準備をしている間に新たな神が生まれた。この神こそが天孫邇邇芸命で、アメノオシホミが高木神(たかぎのかみ・・・造化三神の一柱、高御産日神:たかみむすひのかみ、の別名)の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきづしひめのみこと)と結婚して生まれた子どもであり、この神こそ降臨させるのにふさわしいとアメノオシホミミはアマテラスに進言する。
 アマテラスはこの進言を受け入れ、生まれたばかりのニニギノミコトを降臨させることにした。
 さて、アメノオシホミミはアマテラスとスサノオの誓約の結果生まれた、アマテラスの子どもである。これに対して、ニニギノミコトは造化の三神の一柱であるタカミムスヒの娘の子、つまり別天神(ことあまつかみ)の直系の孫に当たる。アメノオシホミミは造化の三神の孫という決闘の正しさを理由に、ニニギノミコトの方が自分よりも天下るにふさわしい存在であると判断したのかもしれない。
 ニニギノミコトは正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと)という名前である。「天邇岐志国邇岐志」は天地が豊かに賑わうという意味、「天津日高」は天神の美称、「日子」は男性の美称、「番能邇邇芸」は稲穂が豊かに実る様をあらわしている。つまり、ニニギノミコトの長いフルネームには、穀物を豊かに実らせる穀物神をいう意味が込められている。
 万物を創造する造化の神であるタカミムスヒと、作物の成長にとって不可欠の太陽神であるアマテラスの血を引くニニギノミコトは、豊葦原中国の守護神として最もふさわしい神であった。

猿田毘古神(さるたびこのかみ)
 ニニギノミコトが降臨する際、道の辻にサルタビコという異形(七握もある長い鼻を満ち、身長七尺あまり、口の端が明るく光り、目は八咫鏡のように光り輝いている)の神がいた。彼の先導により、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、天宇受売神(あめのうずめのかみ:アメノウヅメ)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)を加えた一行が筑紫の日向(ひゆうが)の高千穂の霊峰に降臨した。
 このとき、アマテラスは「三種の神器」である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙(くさなぎ)の剣をニニギノミコトに授けた。これら三つの神宝は現在に至るまで歴代天皇の証として継承されている。
 道案内をしたサルタビコは道案内の神、あるいは交通安全の神として各地にまつられており、バスや鉄道など交通関係に携わる人々に今も厚く信仰されている。

□ 天孫降臨に従った神々と氏族(しぞく)
 天孫降臨には前述の五柱の神の他にも数柱の神が従った。それらは天皇家と関係の深い氏族の族長となった。
・アメノコヤネ(天児屋根命:あめのこやねのみこと)・・・中臣氏(後の藤原氏)の祖神
・フトダマ(布刀玉命:ふとだまのみこと)・・・忌部(いんべ)氏の祖神
・アメノウズメ(天宇受売神:あめのうずめのかみ)・・・宮中の祭事で舞などを奉納する猿女君(さるめのきみ)の祖神
・イシコリドメ(伊斯許理度売命:いしこりどめのみこと)・・・作鏡連(かがみつくりのむらじ)の祖神
・タマノオヤ ・・・玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖神

 中臣氏と忌部氏は宮中の神事を司る神祇(じんぎ)氏族の中核で、
・中臣の名は神と人の間をつなぐ臣(氏族)の意味、
・忌部氏は神事に欠かすことのできない物忌み(穢れを祓うこと)を司る氏族
・猿女君は歌舞を奉納
・作鏡連と玉祖連は催事に不可欠の鏡や勾玉などの製造に従事する氏族

 そのほかの降臨に従った神々
思金神(おもいかねのかみ)・・・アマテラスを岩屋から引き戻す策を練った、極めて思慮深い神
天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)・・・弓矢や太刀を携えて護衛として
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)

・アメノオシヒ(天忍日命:あめのおしひのみこと)・・・大和朝廷の軍事力を担った大伴氏の祖神
・アマツクメ(天津久米命:あまつくめのみこと)・・・大伴氏に従属して同じく朝廷の軍事を司った久米氏の祖先

木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)と石長比売(いわながひめ)
 降臨したニニギノミコトはコノハナノサクヤビメという美しい少女と出会い、一目惚れをして結婚を申し出る。彼女はオオヤマヅミの娘であり、父親のオオヤマヅミは姉のイワナガヒメとともに姉妹共々娶ってくれるよう懇願したが、醜い容姿のイワナガヒメを見たニニギノミコトは親元に送り返してコノハナノサクヤビメだけと結婚した。
 オオヤマヅミの考えはこうだった。頑強なイワナガヒメとの間には巌のように盤石で永遠に近い寿命を保つ天孫が生まれるであろう、一方、美しいコノハナノサクヤビメは天孫に木の花が咲き誇るような繁栄をもたらすであろう、つまり姉妹をともに娶ることによって、天孫は永遠の寿命と繁栄との両方を手に入れることができたはず・・・しかしニニギノミコトがコノハナノサクヤビメだけを娶ったので、繁栄は手にしたものの、天孫(後の天皇)の寿命は限りあるものになってしまったのである。
 一夜の契りを結んだコノハナノサクヤビメは身ごもったが、それをニニギノミコトに告げると彼は国つ神の児に違いないと疑念を持ち、これに憤慨したコノハナノサクヤビメは産屋に火を放ってその中でお産をすると申し出た(天神の児なら燃えさかる火の中でも無事に生まれてくる)。
 そして三人の子ども(三柱の神)が無事にまれた。その三神とは、
火照命(ほでりのみこと)・・・海佐知毘古(うみさちびこ=海幸彦)
火須勢理命(ほすせりのみこと)
火遠理命(ほをりのみこと)・・・山佐知毘古(やまさちびこ=山幸彦)
 そして、山幸彦の孫に当たるのが初代現人神、神武天皇である。

恵比寿神と恵比須講
 恵比寿神は、記紀神話ではイザナギ・イザナミが最初に産んだ子どもで、クラゲのように骨がなく、三歳になっても足が立たなかったので、葦船に載せて海に流してしまった蛭子(ひるこ)神である。
 蛭子神は日本の沿岸を一周して西宮の岬にたどり着いた(西宮神社縁起より)。
 もともと恵比寿は胡(あるいは夷)とも表記され、中国では夷狄(いてき)、つまり北方の異民族の呼称だった。夷狄の侵攻を防ぐために築かれたのが万里の長城である。一方、夷狄は珍しい文化をもたらした。クルミ、キュウリ、胡坐(あぐら)など。
 このような夷狄の性格が恵比寿神の性格にも取り入れられ、恵比寿は岬の先端などに漂着して福をもたらすと考えられるようになった。このような神を客人神(まろうどがみ)、希人神(まれびとがみ)といい、希にやってきて幸いをもたらすという意味である。恵比寿神が主に岬の先端にまつられるのは漂着神の性格があるからである。
 恵比寿神はかつて豊漁の神として信仰されていたが、室町時代頃から商業が発展すると、町中にも勧請されて商売繁盛の神として盛んな信仰を集めるようになった。
 また、各地で恵比須講も結成され、特に商工業者の間で強固な講が組まれた。彼らの恵比須講はもちろん恵比寿神に対する信仰の結社ではあるが、それ以外に講員が集まって営業上の様々な秘密の取り決めをする組織でもあった。その取り決めの内容(カルテルや出荷調整)は恵比寿神に誓って絶対に口外しない約束をした。
 今も関東を中心に「恵比須講」と称する大売り出しを行っている地方があるが、これは商工業者が闇カルテルなどを組んで日頃消費者に不利益を与えていることを反省して年に1、2回大安売りを行うもので、いわば“罪滅ぼし”なのである。明治になり百貨店ができると、この恵比須講が百貨店のセールの起源となった。

大国主神と大黒天
 大黒天はインドの神話に登場する神で、仏教とともに日本に伝えられた。サンスクリット語でマハー・カーラといい、マハーは偉大な、大きなという意味で、摩訶と音写(サンスクリット語の発音を中国語の音で写したもの)される。カーラは黒色という意味で、文字通り偉大な黒、真っ黒という意味である。
 仏教の大黒天は全身真っ黒で凄まじい憤怒の表情を浮かべた三面六臂(顔が三つ、手が六本)で、後ろの二本の手で生剝ぎにした象の皮を掲げ、中の二本のうち右手には人間の髪をつかんで持ち上げ、左手はヤギの角を握って持ち上げている。そして、一番前の二本の手で剣を持って円盤上に座っている。
 「大黒」の名が出雲の大国主神の「大国」と音が通じることから、鎌倉時代頃から両者が同一視されるようになった。今でも出雲の人たちは大国主神とは言わずに、親しみを込めて「だいこくさま」と呼んでいる。この場合、オオクニヌシと大黒天の両者がミックスされているのである。
 仏教における恐ろしい姿の大黒天がオオクニヌシと同一視されると、オオクニヌシの温和で優しい性格に影響されて、しだいに優しい風貌になっていくのであった。

八幡神は「たくさんの軍旗を持っている神」
 もともと八幡神は軍神として産声を上げた。
 宇佐神宮の縁起では、第29代、欽明天皇治世(6世紀中頃)、九州の宇佐八幡宮の境内にある菱形池の中から3歳の童子が現れて「我は誉田(ほむた)天皇、広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)なり」と言った。誉田天皇は第15代、応神天皇の和風諡号(しごう)で、広幡は大きな軍旗、八幡はたくさんの軍旗を持っているという意味である。
 宇佐八幡の霊験はすでに奈良時代以前から中央にも知られており、天変地異や内乱などの事態が起こると勅使が参向して神意を伺った。また、奈良時代中頃に弓削(ゆげの)道鏡が宇佐八幡の託宣を利用して皇位を狙った事件は有名である。
 平安時代になると、京都に宇佐の八幡神を勧請した。これが石清水(いわしみず)八幡宮である。その場所である男山は京都の南部にあり、この辺りだけ山が切れている。そして京都から流れてきた桂川、木津川、宇治川が合流して淀川となる地で、大阪も目の前にあることから、古くから軍事上の要塞だった。その地に軍神をまつって平安京の警護を固めようとしたのである。
 平安時代末には「武人八幡」と呼ばれて武将に厚く崇敬されるようになった。1062年に前九年の役に出兵する際、石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜の近くに勧請し、源頼義が武運長久を祈った。また頼義の子の義家は“八幡太郎義家”の異名をとり、八幡神の申し子とされている。
 1180年、鎌倉に拠点を置いた頼朝は今の鶴岡八幡宮がある大臣山の下に移し、1191年には山の中腹に社殿を造営して鎌倉幕府の守護とした。鶴岡八幡宮はすでに鎌倉時代に分霊して横浜の富岡にまつられた(富岡八幡宮)。
 関東の八幡宮のほとんどは鶴岡八幡宮の分霊である。江戸時代には富岡八幡宮から深川に勧請され、これが深川の富岡八幡宮である。一方、宇佐八幡宮や石清水八幡宮は西日本を中心に全国に勧請された。

筥崎八幡宮の由来〜神功皇后と応神天皇と武内宿禰
 第14代の仲哀天皇の后である神功皇后は、熊襲成敗のために九州に仲哀天皇に従って遠征したが、天皇が頓死してしまった。当時(7世紀中頃)、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が覇権を争い、緊迫した情勢が続いていた。とくに新羅が熊襲と組んで大和朝廷に侵略してくることが懸念されていた。
 天皇が客死したことが新羅に知れると一気に攻めてくることが危惧された。先手を打って新羅を攻めるべく、神功皇后は速やかに軍備を整えて新羅に遠征した。そのとき、神功皇后は応神天皇を身籠もっており、臨月を迎えていつ生まれるかわからない状態だった。そこで神功皇后は股間に石を挟み、縄でぎゅうぎゅうに縛って出陣した。
 このとき、武内宿禰(たけしうちのすくね)が参謀として出陣し、船は順風満帆で進み、自ら立てた波に乗って新羅の奥深くまで侵攻したという。その光景を見た新羅の王は恐れをなし、戦わずして大和に帰順することを誓ったという。
 凱旋してきた神功皇后は福岡の筥崎八幡宮の前の海から上陸し、縄を解いて股間の石を外した時に生まれたのが応神天皇であるという。“筥崎”の名は、そのとき、応神天皇の胞衣(えな=胎盤)を筥(箱)に入れて埋めて胞衣塚を作ったことに由来するという。筥崎八幡宮の参道の脇には今も応神天皇の胞衣塚がある。
 このように応神天皇は母親のお腹にいるときからすでに実戦に加わった根っからの軍神である。八幡宮には応神天皇を主祭神とし、相殿(主祭神と一緒にまつられるゆかりの深い祭神)として神功皇后がまつられる。そして、軍事参謀として活躍した武内宿禰も摂社として境内にまつられることが多い。

弁才天七変化〜川の神、音楽の神、学問の神、五穀豊穣の神、商売繁盛の神、宗像三女神、宇賀神〜
 七福神の弁財天もその由来はインドの神様である。それが仏教に取り入れられて日本に伝わり、記紀神話に登場する宗像三女神と集合し、さらに民間信仰の宇賀神という蛇神(竜神)と集合して現在に至る複雑な経緯を内包した神である。
 サンスクリット語で弁才天はサラスヴァティーといい、サラスヴァティーは古代インドに実在した河川の名で、それをそのまま神格化したのがサラスヴァティーである。
 一定のリズムや旋律を刻んで流れる川のせせらぎが、音楽になぞらえられて音楽の神となった。そのため、日本に伝えられても弁財天は琵琶を持っている。一定のリズムや旋律は、雄弁な弁舌にたとえられて「弁才」の名が冠された。また、弁舌さわやかに理路整然と語る人は聡明であるということから、学問の神としても信仰を集めている。
 今もインドのヒンドゥー教ではサラスヴァティーが盛んな信仰を集め、とくに音楽関係の人たちに厚く信仰されている。インドのサラスヴァティーは、琵琶の原型となるビーナという民族楽器を持っている。
 サラスヴァティーは仏教に取り入れられて信仰されるようになったのが弁才天である。日本でも音楽の神として琵琶を持った姿に作られ、また、学問の神としての性格も兼ね備えている。さらにもともと水の神という作物の成長を促す性格から、五穀豊穣の神として盛んに信仰され、室町時代頃から商業が発達してくると商売繁盛の神として信仰されるようになった。室町時代末から江戸時代はじめ頃になると、弁才天ではなく、財産の「財」の字を当てて弁財天と表記するようになった
 また、平安時代頃から弁才天はアマテラスがスサノオとの“誓約”(うけい)の結果生んだ三柱の女神「宗像三女神」と集合し、さらには古くから民間で信仰されている宇賀神という蛇神(龍神)とも習合して極めて複雑になった。これらの神はともに水神の性格が強いということで習合したのである。
 このような宗像三女神、弁才天、宇賀神が習合した弁天信仰は、複雑な様相を呈しながら熱狂的に支持された。
 仏教由来でありながら弁才天をまつる社は弁天社と呼ばれている。これは宗像三女神や宇賀神と習合した結果、神の性格が強くなったためと考えられている。外来の神の中ですっかり日本の神として定着することになった弁才天は、日本人の宗教心や民族性に最もマッチした神として親しまれてきたのである。

□ 弁才天をまつる神社〜厳島神社と江島神社
 日本三大弁才天の一つに数えられる広島の厳島神社は、もともと瀬戸内海に浮かぶ弥山という山の麓に宗像三女神を九州の宗像大社から勧請してまつったのが始まりで、後に弁才天がまつられ、宇賀神が加わった。厳島神社の背後にある弥山は瀬戸内海の交通の要衝にあり、その特徴ある山容は古くから瀬戸内海航行の際の目印となる山として、瀬戸内水軍などから崇められてきた。そして、ここは神を「いつく」山と呼ばれた。この「いつく」は「居つく」という意味ではなく「斎く」、つまり「まつる」という意味で、すなわち「神をまつる山」なのである。
 神奈川県の江島神社も平安時代に宗像三女神をまつり、鎌倉時代になってから弁才天と宇賀神がまつられた。

金比羅
 金比羅もれっきとしたインドの神で、サンスクリット語でクンビーラと呼ばれるガンジス川の守護神である。それが仏教に取り入れられて金比羅と音写され、日本にも仏教とともに伝えられてきた。そして、水の神という性格から船の航行を守る守護神、豊漁を約束してくれる神、あるいは五穀豊穣の神として盛んな信仰を集めるようになった。そして弁才天と同じように室町時代頃からの商業の発達に伴って、商売繁盛、金運上昇にも霊験あらたかとされた。

□ 明治以降に定められた祭神
 もともと日本の古来の神々は氏神や産土神で特定の名前を持たなかった。それが明治維新になって国家神道の時代になると、記紀の記述に基づいて神話に登場する神々が祭神として定められるようになった
 維新政府は神道を国教とする国家神道で国民を統制し、富国強兵と近代化を強力に推進した。その過程で「神仏判然令」という法令を明治初年に発し、神と仏を判然と区別する作業を強硬に推し進めた。そのとき、維新政府は各寺社に対して神社として存続するか、仏教寺院として存続させるかを独断で決めていった。
 奈良県の談山(だんざん)神社は、もともと藤原鎌足の菩提を弔う妙楽寺という仏教寺院として創建されたものだが明治初年には鎌足を祭神とした寺社として存続することに決め、談山神社と号することになった。
 また、名古屋の熱田神宮はヤマトタケルを主祭神としてまつったが、戦後は旧に復して熱田大神(あつたおおかみ)を祭神としている。もともと歴史のある神社では、その土地を支配した豪族の氏神をまつり「○○の大神」といっていたのである。


(オマケ)“御幣”(ごへい)とはなにか?
 もともと御幣は幣帛(へいはく)といって神への捧げ物だった。昔、税として納められる絹織物などを木簡や竹簡で挟んで献上したことに由来すると考えられる。本来、御幣は御幣束といって束にして供えるものだった。東北などでは今も御幣を束にして神前に供える風習が残っている。
 時代が少し下ると、御幣は神への捧げ物の意味から、それを目印に神が降臨する依代としての意味合いが強くなった。神社の本殿の前に御幣が供えられているのは依代の意味である。だから、祭神が一柱の神社では一本、三柱の神社では三本の御幣が供えられるのである。また、お祓いの時に神職がはたきのように振る“祓い棒”の起源も御幣にある。祓い棒もはじめは幣束と同じだったが、これで穢れを祓うことからその中に神威が宿ると考えられ、神聖視されるようになった。

「よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)

2018年04月14日 06時33分10秒 | 神社・神道
よくわかる祝詞読本」(瓜生中著)角川ソフィア文庫、2017年発行

 日本古来の宗教とされる神道にはキリスト教における聖書、イスラム教におけるコーランのような経典が存在しません。
 ただ、仏教ではお経を読むという作業がありますが、それに似ているのが神職が祈祷の際に口にする祝詞(のりと)です。

 祝詞の内容はどんなものなのか、以前から興味がありました。

 随分前ですが、NHKのEテレで「U-29」といういろいろな職業を紹介する番組で「神職」を扱った回を見たことがあります。
 新人女性神職が、ある祈祷を任されて自分で一生懸命に祝詞を考える、という場面がありました。
 「え? 祝詞を考える? 自分で作る?」
 祝詞とは、すでにあるものからTPOで選んで奏上するものと思い込んでいた私には驚きでした。
 しかし実際は、神職の各個人が過去のものを参考にしながら新たに作っていくものらしい。

 それから、以前から私の中には「美しい日本語」を求める気持ちがありました。
 おそらくそれを追求していくと、目で読む文章ではなく「口にして心地よい」「耳にして心地よい」言葉にたどり着くのではないか、と何となく感じてきました。

 古今の中で一番美しい日本語は「平家物語」という説があります。
 琵琶法師が名調子で語る物語に、多くの日本人が涙してきました。
 この視点からも、祝詞は「延喜式」の時代から語り継がれてきたものであり、やはり耳心地がよく洗練された日本語ではないかと思われます。

 祝詞を知る手ごろな本がないか探しているときに、この本に出会いました。



内容紹介
 例文+現代語訳を収録。基礎からわかる文庫オリジナルの必携入門!
 「恐み、恐み」の決まり文句以外、意味や単語すらよく分からないまま聞くことの多い祝詞。日本古来の信仰に根ざし、記紀神話の時代から奏上されてきたそれらの言葉には、どんな由来や役割があるのか。神話と神々との関係や参拝のマナーとともに、祝詞の基礎知識をていねいに解説。月次祭・節分祭などの祭祀、七五三・成人式などの人生儀礼や諸祈願ほか、24の身近な例文を現代語訳とともに掲載する、文庫オリジナルの実用読本。

第一章 神道の基礎知識
第二章 祝詞の基礎知識
第三章 祝詞の例文と現代語訳
第四章 神話に登場する神々
付録 神社参拝等のマナー


 第二・第三章がこの本の中心です。

 祝詞はすでに記紀神話に登場し、天照大神(アマテラスオオミカミ)が岩戸隠れをしたときに、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が岩戸の前で祝詞を唱えたという記述がある。
 平安時代に編纂された法令書である『延喜式』には28種類の祝詞が掲載されており、それを参考に今も神職が神事や祭礼ごとに作成している。
 だから、祝詞には仏典などのように校訂本があるわけではなく、神社ごと神職ごとに異なり、時代によっても変遷する。


 ・・・のだそうです。
 そして祝詞の内容は、「崇高な神に対して最大限の敬意を払い、平身低頭して仕えることを約し、恐れ謹んで願い事をする」と書かれています。
 ひたすらに神を褒め称え、感謝するものであることがわかりました。
 神道の教えは「清く、正しく、美しく」に尽きるような気がします。
 ただ、人間が生きていく上で無視できない「ダークサイド」をフォローする視点がなく、そこを仏教が補填して日本の生活宗教・信仰を形成してきたのでしょう。

 私にとって第一・第四章も知識を整理するのに大変役に立ちました。
 記紀神話に登場する神様達の関係も少しわかりました。
 それとともに、記紀神話でさえも、当時の政治と絡んでいることがわかりました。
 天皇家が自分の家系の正当性を訴えるために創作した神話なのです。

 先日、TV番組で「聖徳太子は実在しなかった!」という内容を放送していました。
 聖徳太子は、中大兄皇子達が企てたクーデターを正当化するための虚像であり、架空の人物であったというのです。
 なので、現在の歴史の教科書から「聖徳太子」はなくなりつつあり、そのモデルになった「厩戸王子」に書き換えられているそうです。

 宗教・信仰と政治とは、古今東西の歴史を振り返っても切っても切れない関係なのですね。

 ヤレヤレ・・・。

 私は「山神社」という小さな神社が好きです。
 宮司さんもいないし御朱印ももらえませんが、山里の奥に位置する村の鎮守様に参拝すると、清冽な気持ちになれます。
 「ああ、1000年前の日本人もここに立って私と同じ気持ちになったんだなあ」
 と、祖先達と時空間を共有するタイムトラベルができるのです。

<備忘録>

□ 和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)
 日本の神には和魂と荒魂という二つの側面がある。前者は我々人間に幸いをもたらしてくれる優しい性格、後者は禍をもたらすような荒々しい性格である。
 そういった二面性を持つ神に最大限の敬意を払って丁重に仕えることによって和魂の部分が顕現し、われわれに幸いをもたらしてくれると信じられている。

□ 神道の本質
 仏教伝来(538年)以前から行われていた民俗信仰である。
 アニミズムと呼ばれる原始的な信仰と、祖先信仰が合体したものである。
★ アニミズム(精霊崇拝):近くの山川草木などの自然物に精霊が宿るとして崇拝すること。
 日本では共同体(ムラ)で亡くなった人の霊は、近くの山を彷徨った末に、浄化されてその山頂から昇天すると考えられていた。そして、昇天した先祖の霊と自然物の精霊が融合したものが後世、氏神と呼ばれる共同体の守護神になると信じられてきた。
 このような神が年に一度、共同体近くの山頂などに降臨し、人々がその神を丁重に迎えて神饌(神に捧げる食物)を供え、祝詞を上げたり、舞を舞ったりして神々を敬い、饗応することによって、神々は村人に幸いをもたらしてくれると考えられていた。
 この年に一度の神々の降臨が例大祭で、その構図は今も古代と全く変わっていない。

□ 伊勢神宮の成り立ちと天照大神
 先祖の霊と融合する自然物は、共同体でその神聖さが共有されているものでなくてはならない。
(例)浅間大社:浅間大神(富士山の祭神)は村々の祖先神と霊峰富士山が融合したもの
 伊勢神宮の祭神である天照大神は、天皇家の祖先の霊(皇祖)と太陽を合体したものである。天照大神ももとは天皇家の氏神だったが、5〜6世紀頃にかけて天皇家が他の豪族を凌いで強大な権力を握ると、国家的な神として君臨するようになった。
 そこで、全国津々浦々の豪族や民衆にとってもっとも重要で神聖な自然物である太陽が選ばれた。縄文時代から稲作を営んできた日本民族にとって、太陽は五穀豊穣を約束してくれるありがたい存在である。その太陽と天皇家の祖先の霊とを合体することにより、天皇家の求心力を高めようとした。

□ 神は目に見えない存在
 本来、日本の神々は無色透明で目に見えないものとされている。伊勢神宮の御神体が八咫鏡(やたのかがみ)であることはよく知られているが、御神体は神霊がそれを目印に降りてくる目標となるもので、依代(よりしろ)と呼ばれ、神霊そのものではない。そして依代の神体自体も神聖視され、直視することはタブーとされている。
 一方、我々日本人は、日本古来の神といえば、白い狩衣のような装束で腰に太刀をはいた、素戔嗚尊や大国主命のイメージを持っている。その姿は時代が下ってから、記紀の神話などの記述に基づいて作られたもので、おそらく江戸時代くらいに徐々に普及し、明治維新を迎えて国家神道の時代になり、維新政府が神道の啓蒙用に一流の画家に描かせたものが一気に広がったものと考えられる。
 もともと日本の神に対する信仰は偶像否定で、この観念はキリスト教やイスラム教でも厳格に守られている。キリスト教ではイエスキリストや聖母マリアの像はあるが、全知全能のヤーウェの神の像を造ることはタブーである。また、イスラム教は厳格な偶像否定主義で、絶対神であるアラーの神の像を造ることは決してない。

□ 鎮守の杜〜神が降臨する場所
 日本の神々は、共同体(ムラ)の近くにある山の頂上付近、あるいは海辺の岬の先端のようなところに降臨すると考えられてきた。
 降臨の場所として忘れてならないのが鎮守の杜(もり)である。
 安芸の宮島の背後にそびえる弥山(みせん)の社叢(神社の擁する森林)は「千古斧を入れず」といわれ、社叢内の樹木の伐採はタブーとされてきた。

□ 八坂神社(祇園社)の祭神は牛頭天王(ごずてんのう)、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)?
 京都の八坂神社の御祭神は牛頭(ごず)天王という疫病除けの神で、丁重にまつれば疫病を流行らせないが、粗末にしたり非礼を働くと忽ち疫病を蔓延させる恐ろしい神である。
 牛頭天王は、インドで釈迦がたびたび説法をした祇園精舎の疫病除けの神としてまつられていたものが、仏教とともに日本に伝えられた。八坂神社は江戸時代までは牛頭天王を祭神として牛頭天王社、あるいは祇園社と呼ばれていた。この近くの地域を祇園というのも祇園社にちなむ。
 また、牛頭天王は古くから素戔嗚尊と同一視されていた。疫病神としての性格が素戔嗚尊の荒魂と重なったのだろう。そして、明治維新の神仏分離で牛頭天王は仏教由来の神ということで祭神から外され、同体と見なされていた素戔嗚尊を祭神として、新たに八坂神社と名乗った。
 毎年7月に行われる八坂神社の祇園祭は疫病退散を祈願する祭で、他にも博多祇園山笠などのように「祇園」を関した疫病退散祈願の祭がみられる。また、牛頭天王を祭神として「天王祭」と証する祭りも行われている。こちらも同じく疫病退散祈願の祭である。

□ 言霊信仰と祝詞
 インドでは太古の昔から、祭官の称える呪文が万物を動かすと信じられてきた。そして、これらの呪文を集積して成立したのが密教である。密教では真言、陀羅尼という呪文を駆使して、さまざまな利益を引き出すことができると考えられている。
 祝詞の背景にも言霊信仰があり、これを奏上することによって神の霊力を授かることができると考えられている。祝詞がいつ頃から称えられるようになったのか、はっきりした時期はわからない。おそらく、4-5世紀頃には何らかの形で神に対する祈願や感謝の言葉が読まれていたものと考えられる。そして平安時代の中頃に完成した『延喜式』という法令書には多くの祝詞が収録されており、今も各地の神社では『延喜式』の祝詞が読まれている。

□ 注連縄・神輿・社殿の起源
 注連縄は天照大神が岩屋から出てきたときに、二度と入らないように巡らせたのが起源。つまり、聖域と俗界とを隔てる縄である。
 古代の神社には社殿がなく、榊や依代が神事や祭の中心だった。しかし、時代が下ると仮設の社が登場してくる。神事や祭の時だけの特設の社で、神事が終わると撤去されて次の神事や祭事まで大切に保管された。この仮設の社が、後に神輿担ったと考えられる。ちなみに社(やしろ)とはもともと家代(いえしろ)、家の代わりの意味である。
 538年に仏教が伝来し、その半世紀後には隆盛期を迎え、仏教寺院の大伽藍が誕生すると、日本の神々にも家を建てなければならないという気運が高まってきた。
 最初の社殿は、登呂遺跡の復元などにみられるような弥生時代の高床式の穀倉庫モデルにした。高床式穀倉庫は翌年に蒔く種籾を保存する倉庫で、中には棚を設え、そこに御倉棚の神を祭った。縄文時代から稲作を始めた日本人は古くから、稲の中には穀霊という霊が宿っていると考えていた。伊勢神宮や出雲大社の本殿は、その構造が高床式倉庫に似ている。伊勢神宮社殿の創建は天武天皇の時代(680年頃)、出雲大社はそれより半世紀ほど後である。

□ 基層宗教と成立宗教
 世界の他の民族(例:北米インディアン、アイヌ、イヌイット、アボリジニー、マオリ等)のアニミズムは古代の習俗をそのまま残したもので、規模的にも集落単位である。
 日本の神に対する信仰が他民族のそれと異なるのは、その規模が時代を追って大きくなり、組織も広範にわたるようになったことである。とくに仏教と密接に結びついたことによって、ますます強大化し政治的にも大きな力を持つようになった。
 アニミズムは主として呪いや占い、祈祷などを行う原初的なもので、木や岩や森など身の回りの自然物が我々を守ってくれると信じられている。このような宗教は“基層宗教”と呼ばれるのに対して、仏教やキリスト教、イスラム教などは“成立宗教”と呼ばれて区別される。
 成立宗教には仏典や聖書、コーランなどの聖典があり、教理もしっかりと具えられている。現在、世界の宗教人口は以下のようになっている;
・キリスト教:約20億人
・イスラム教:11億9000万人
・ヒンドゥー教:約8億1000万人
・仏教:約3億6000万人

□ 氏神(うじがみ)と産土神(うぶすながみ)と記紀神話の神
(氏神)ある特定の地域に住む共同体の祖先神
(産土神)その土地に古くから鎮まる神
 上記が基本であるが、厳密に区別されることなく、一般的には“氏神”と呼ばれている。
 これらの神々は、それを崇拝する共同体の構成員、すなわち“氏子”の繁栄を約束してくれる。もともと氏神は、ごく狭い共同体(ムラ)だけに降臨してそこの構成員を護ってくれる神だった。
 現在では、共同体(ムラ)の鎮守の祭神も八幡神や天照大神などとされているが、もとは祖先神だったものが、作物の生育を助けてくれる太陽や水などの自然現象を神格化したものと結合したと考えられている。こうした神々が、記紀の神話などによって天照大神をはじめとするさまざまな神格に発展したのである。
 時代が下って古墳時代(三世紀末〜六世紀中頃)になると、近隣の共同体を征服して領地を拡大する豪族が出現し、支配された共同体の氏神は支配者の氏神に無理矢理変えられていった。
 豪族の頂点に立ったものが大和朝廷を築き上げた天皇家である。
 この天皇の氏神が天照大神だった。天照大神はもともと太陽神で、太古より稲作を営んでいた我々の祖先の多くは、同種の太陽神を氏神として崇めていたと考えられている。しかし、大豪族の大和朝廷が出現すると、より強力な太陽神像が必要となり、各地に点在する太陽神系の氏神を統合する形で天照大神という強力な神を創り出した。さらにその正統を明らかにするために記紀の神話を作り、いざなぎ・いざなみをはじめとする神々の系譜と地位を不動のものにしたのである。

□ 日本古来の信仰と“神道”は別のものである
 日本の神に対する信仰は、外界のあらゆるものに精霊が宿ると考えるアニミズムと日本古来の祖先信仰が融合したものである。神はいわば自然の摂理のようなもので、人々がそれに逆らわずに行動することにより、自ずと我々を正しい道に導いてくれて幸いをもたらしてくれるという。
 祝詞には「畏(かしこ)み、畏み」という言葉が頻出する。「畏み」とは体を屈(かが)めて精一杯、畏敬の念を表しますという意味である。神事や祈願の折も、祝詞を読む以外はすべて無言で執り行うのが大原則で、鳥居を潜ったら頭を垂れて無言で神前に進む。
 ここに述べた古来の素朴な神社を中心とした神に対する信仰と、いわゆる“神道”とは全く異なるものである。“神道”という言葉は、非常に政治的、政策的意味が強いのである。その最もたるものが明治維新以降の国家神道である。

□ 造られた「伊勢神道」
 室町時代に伊勢神宮の外宮(げくう)の神官が「伊勢神道」というものを提唱した(度会神道とも呼ばれる)。もともと外宮は内宮(ないくう)に鎮座する天照大神の食事の世話をするために、豊受大神が内宮の創祀から約500年後に祀られた。
 昔から外宮先拝先祚(せんそ)と言われるように、参拝に際してはじめに外宮に参拝し、神事や例祭なども外宮から執り行って、大御所の内宮に進むしきたりになっている。また外宮は社殿もやや小ぶりで、何かにつけて内宮に遠慮する形になっている。
 しかし、古くから外宮には優秀な神官が集まった。室町時代になって、その神官らが内宮への劣勢を挽回するために打ち立てたのが伊勢神道である。彼らは『神道五部書』という聖典を作って、内宮よりも遙か昔に創祀された外宮が伊勢神道の起源であると主張した。

□ 室町時代に席巻した「吉田神道」
 室町時代のはじめに京都の吉田神社の神職だった吉田兼倶(かねとも)という人物は、吉田神社を拠点に「吉田神道」を旗揚げした。
 ある日、兼倶は「昨夜、吉田神社の本殿の前の松の木に伊勢の皇大神宮から天照大神が飛来して止まり、本殿の御扉を開けたところ中に入って鎮まった。続いて全国から八百万の神が続々と集まってきて松の木に降臨し、本殿に鎮まった」と言いだした。
 吉田神社の本殿は八角形の独特な建築で、宇宙の根源という意味で太元宮(たいげんきゅう)と呼ばれている。これは宮中に八百万の神を迎えて祈念する八神殿という建物を模したものだ。兼倶はあらかじめ太元宮を建立しておいて、そこに八百万の神が鎮座したと喧伝したのだった。
 律令制の時に整備された神社行政は、律令制の衰退とともにすでに平安時代には機能しなくなり、神社行政を担う神祇官という中央官庁も休眠状態になっていた。兼倶はこのような状況の中で、神社界の再編成を企てたのであった。その結果、兼倶は神祇官代として認められ、日本の神社行政を一手に担うことになり、その後も江戸時代まで吉田神道が日本の神社界を束ねたのであった。

□ 政治的に作られた「国家神道」の悪夢
 明治維新以降に「国家神道」が作られた。
 神道を担ぎ出して幕府を倒し、維新を敢行した勤王派の志士たちは、もともと天照大神を頂点にその子孫(天皇)が国を治めるのが我が国のあるべき姿(国体)であると考えていた。だから神道を国教として政治を司ろうと考えた。
 しかし、この極めて集権的な思惑で作られた国家神道は、多神教であるはずの日本の神々の信仰を一神教にしてしまった。そして、そのことが日清戦争や日露戦争、ひいては太平洋戦争を戦う国家としての原動力となった。とくに太平洋戦争はイスラム教のジハード(聖戦)と全く変わらない様相を呈したのである。

□ 「靖国神社」
 「国家神道」を象徴する靖国神社は明治2年に創祀された。
 幕末の討幕運動の激化で、薩長の勤王の志士たちの間に多くの戦死者が出た。しかし江戸幕府にまだ勢力のあるうちは、殉難の士の鎮魂祭を公に執り行うことはできなかった。そこで、とくに長州(山口県)では、建武の新政の時の騒乱で神戸の湊(みなと)川で討ち死にした楠木正成の鎮魂祭を行い、それに紛れて殉難の士の御霊を鎮めた。この楠木正成の鎮魂祭「楠公祭」(なんこうさい)と呼ばれ、幕末も最末期になって幕府がほとんど死に体になると、長州では招魂社が創建されて公然と殉難の士を鎮める「招魂祭」が執り行われるようになった。
 1867年、大政奉還を迎えて天皇が江戸城に入ると、江戸城内に東京招魂社が創建された。そして明治2年、参拝の便を図るために九段の現在地に新たに社殿を設けて英霊の御霊を祀った。その後、他の招魂社と差別化を図るために靖国神社と社郷を改めた。

□ 神仏習合から神仏分離へ
 神道は八百万の神と言われるように、多神教である。
 一方、仏教はもともと神のいない宗教である。しかし、大乗仏教の時代になると、多くの仏、菩薩、明王、天(神々)などが誕生し、日本に伝来した頃にはすっかり多神教に変容していた。
 多神教は他の信仰と接近しやすい。
 仏教も伝来してまもなく、徐々に神道と接近していき、時代が進むに従って神仏の関係は密接になっていった。
 奈良時代になると、神と仏の関係に「神前読経」(神前で僧侶が今日を唱えるもの)という具体的な形が現れる。各地の神社で盛んに行われるようになり、まもなく“社僧”と呼ばれる神社所属の僧侶が常駐するようになった。
 さらにこのような状況が進むと、「神宮寺」という神社所属の寺院が建てられるようになるのである。
 平安時代になると、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)という究極の神仏習合思想が搭乗する。「本地」とは本来の姿、「垂迹」は仮の姿という意味である。日本古来の神々は、インドの仏、菩薩が衆生を救うために現した仮の姿であるという意味である。
 本地垂迹説は仏教を神道の上に位置づけるもので、言うまでもなくこのような思想は仏教側で作られたものである。
 仮の姿は“権現”といわれ、時代とともに各地の名だたる神々は「○○権現」と呼ばれて盛んな信仰を集めるようになった。権現の権は「仮の」という意味で、文字通り仮に現れることを意味する。
 さらに権現と並んで“明神”(みょうじん)という言葉も普及した。これはもともと「名神」(みょうじん)で、古くは由緒ある神社のことだった。しかし神仏習合が進むにつれて「明神」の字が使われるようになり、各地の名だたる神社は「○○権現」あるいは「○○明神」と呼ばれるようになったのである。
 しかし明治維新を迎えていわゆる国家神道が唱えられるようになり、神道が国の宗教として定められると、国家としては神と仏をはっきりと区別する必要に迫られた。日本の神を拝んだら、その実体は仏、菩薩だったというのでは、日本の神道の面目丸つぶれだからだ。そこで維新政府は「神仏判然令」を出していわゆる神仏分離を徹底した。その結果、「権現」や「明神」という言葉は禁止され、全国に点在していた神宮寺などは撤廃され、神社に祀られていた仏像や境内にあった仏教的なお堂などの施設はすべて撤去された。

□ 檀家(だんか)制度と廃仏毀釈
 明治維新政府の神仏分離政策を敢行した過程で起こったのが廃仏毀釈である。廃仏毀釈は国の政策ではなく、それまでの寺院や僧侶に反感を抱いていた民衆が寺院を攻撃し、仏像を焼き捨てるなど狼藉を働いた。廃仏毀釈は維新政府が意図したものではなく期せずして民衆の側から起こったものだという見方をする専門家も少なくない。
 江戸時代に檀家制度が確立すると、民衆はどこかの寺の檀家になることが定められた。もともと檀家制度はキリシタン締め出しのために作られた戸籍制度だったが、これが確立すると寺院は檀家の葬儀などを行って定期的に布施を受け、経済的に安定した。僧侶は檀家1人1人の身元引受人となり旅行をするにも結婚するにも菩提寺の僧侶を通じて役所に届け出なければならなかった。
 その結果、僧侶の中には檀家に対して不遜な態度をとる者もおり、民衆の中には長きにわたってその抑圧に耐えてきた者もいた。そこで、維新政府が神仏分離政策に着手すると、この政策を仏教撲滅運動と捉えた民衆が、いわゆる廃仏毀釈という暴挙に出たのである。

□ 山岳信仰と密教
 山岳修行者は仏教伝来以前から存在しており、奈良時代以前にはすでに相当数の行者が吉野の金峯山(きんぷさん)、葛城山などで修行に励んでいたと考えられる。
 そして、このような山岳修行者(山伏)の元祖として、今でも修験者(しゅげんじゃ)の間で敬われているのが役小角(えんのおづの)、別名役行者(えんのぎょうじゃ)である。
 役小角は謎に包まれた人物で、歴史上の人物かどうかも判然としない。『続日本紀』の中に(文武天皇の三年:699年)、金峯山や葛城山で修行して超自然的な霊力を身につけ、空中を飛翔したり、妖術を駆使して人心を惑わせた「惑百姓」の罪で捕らえられて伊豆に流された、という記述がある。
 山岳修行者は時代とともに増え続け、平安時代に空海が密教を伝えて、これが短期間のうちに普及すると、護摩などの加持祈祷を取り入れて密教との結びつきを強めることになる。もともと拠点となる寺を持たない行者たちは、ふだんは山中の岩窟や堂などで修行生活をしていたが、積雪期や閉山期になると拠点がなくなる。そこで行者たちは真言宗や天台宗の密教寺院に身を寄せるようになる。
 加持祈祷や占いなどに優れた行者の存在は、受け入れる寺としても信徒を獲得するために好都合だった。その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて密教寺院の数が増えていった。そこで室町時代になってこれらの山岳修行者の集団を独立させて「修験道」という一宗派を立ち上げたのである。
 修験道では神と仏の両方を礼拝の対象にした。

□ 分霊(ぶんれい)される神社の神様
 分霊とは神霊の一部をもらって他所にまつることで、別御霊(わけみたま)とも呼ばれている。
 八幡社や稲荷社など同じ名前の神社が各地に点在するのはそのためだ。
 ただし、仏教界の本山末寺のように、総本社が同じ祭神をまつる他の神社を支配することはない。大小の差はあってもそれぞれ独立している。

□ 摂社と末社
(摂社)本殿の主祭神と関係の深い神(親子や兄弟)を祭った社
(末社)神社の境内にある小さな社で、さまざまな祭神がまつられている。末社は室町時代以降、庶民信仰が盛んになると、それらの本拠地に参詣した人々がその御霊を勧請して地元の神社にまつったもの。

□ 神社、大社、神宮の違い
 これらは神社の規模や由緒によるもので、神社の格式を表すものである。
(神社)村々にまつられているいわゆる氏神の社
(大社)各村々を統治する強力な豪族などの氏神は大神と呼ばれ、その大神をまつった社が大社
(神宮)天子(天皇)の御殿に勝るとも劣らない美麗な社という意味
 もともと神宮号が許されたのは皇祖神(天皇家の祖先神)をまつる伊勢の皇大神宮だけだった。ついで平安時代には関東の鹿島神宮と香取神宮が神宮号を許された。この両神宮は東国(東北)警護の最前線にある極めて重要な社だったからである。
 明治になって各地の神社が神宮を名乗るようになった。明治二年に創祀された札幌の北海道神宮、明治二十二年に創祀された奈良の橿原(かしはら)神宮、明治二十八年創祀の平安神宮、大正九年に創祀された明治天皇と昭憲皇太后をまつる明治神宮など。

□ 鳥居
 鳥居は俗界と聖域を隔てる結界で、記紀神話では岩屋に隠れた天照大神を引き出すときに常世の長鳴鳥(鶏)を止まらせた止まり木が起源で「鳥が止まり居るところ」から鳥居というのだという。
 そのほか、鳥居の起源については諸説ある。

□ 樹木信仰
 神社境内・社域に自生している樹木や草花を伐採したり、摘み取ったりすることはタブーとされている。ほとんどの神社の鎮守の杜は、台風や大雪による倒木の危険を防ぐためなどやむを得ない事情がない限り、決して伐採することはない。
 樹林帯に恵まれた日本では樹木に対する信仰が強く、とくにご神木などに対する霊木信仰が盛んである。ご神木や霹靂木(落雷を受けた木)は霊木と見なされ、伐採することは許されない。そしてその霊木が立ち枯れした場合は、建築材や調度品などの用材としては決して使ってはいけないという掟がある。それらの霊木の多くは仏像や神像をつくるのに用いられ、できあがった像は再び信仰の対象となるのである。


柳田国男の氏神論「日本の神の中心は先祖である」

2018年01月11日 08時18分35秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第四章より。

 著者は柳田国男の『先祖の話』という書物から氏神論を抽出しています。
 氏神とは先祖の霊の融合した霊体であり、それは同時に稲作を守る田の神であり、家と子孫の繁栄を願う神である、とする考え方が日本各地の民俗伝承から帰納できる、とのこと。

『先祖の話』の氏神論のポイント
①あの世とこの世とは近い、死者と生者との境は近い、と考えられてきた。
②遺骸を保存する慣行は民間には行われず、肉体の消滅を自然のものと受け入れて、霊魂の去来を自由にすることをよしとする考え方が伝えられてきた。
③死者の霊魂は、その祀り手が必要だ、と考えられてきた。
④その祀りを受けて死者は個性を失い、やがて先祖という霊体に融合していく、と考えられてきた。
⑤その先祖の霊は、子孫の繁栄を願う霊体であり、子孫を守る霊体である、と考えられてきた。
⑥その子孫の繁栄を願う霊体は、盆と正月に子孫の家に招かれて、その家と子孫の繁栄を守る神でもある、と考えられてきた。
⑦子孫の繁栄を守るその先祖の霊こそが、稲作の守り神であり、季節の巡りの中で、大和多を去来する田の神であり山の神でもある、と考えられてきた。
⑧その先祖の霊であり、田の神でもある神こそ、村の繁栄を守る氏神として敬われている神でもある、と考えられてきた。
⑨老人には無理だが、子どもや若い死者の霊魂は生まれ変わることができる、と考えられてきた。
⑩この度の戦争で死んだ若者達のためにも、その祀りが是非とも必要である。
⑪この度の戦時下から戦後への混乱の時代こそ、未来のことを考えるためには、古くからの慣習をよく知ることが肝要である。国民を、それぞれ賢明にならしむる道は、学問より他にない。

日本の神の中心は先祖である
 柳田が日本各地の民俗伝承の比較研究の視点によって導き出した日本の神の中心は、先祖であり、先祖の御魂(みたま)であった。
 ただし、死者はその死後ただちに先祖様になるのではない。死者は死の穢れに満ちた「荒忌」の「荒御魂」(あらみたま)であり、それが子孫の供養と祀りを受けて死の汚れが清まってから、先祖の列に加わっていく。その大きな隔絶の線は、およそ三十三年忌の弔い上げと考えていた。
 個々の祖霊が個性を捨てて先祖として融合したものこそが、日本の各地の郷土の信仰の中心であるところの氏神に他ならない。

「村氏神」←「屋敷氏神」←「一門氏神」
 氏神は上記3つに分けられる。氏神とは、元来は藤原氏と春日社のように、氏ごとに一つあるべき神であったのが、古代から中世、近世へという長い歴史の展開の中で大きなまた多様な変化があり、その結果として、現在では3つのタイプが見られるようになった。
(村氏神)・・・「或一定の地域内に住む者は全部、氏子としてその祭に奉仕している氏神社」
(屋敷氏神)・・・「屋敷即ち農民の住宅地の一隅に、斎き祀られている祠で、(中略)こういう屋敷付属の小さな祠だけを氏神と謂っている地方は存外に広い。千葉茨城栃木の諸県、東北はほぼ一体に層だと言ってよい。大体に国の端々、中央から遠ざかった治法にもこの例が多いかと思われるのは、偶然の現象ではなかろう」
(一門氏神)・・・「特定の家に属する者ばかりが、合同して年々の祭祀を営むという、マキの氏神または一門氏神というものが、今も地方によっては残っている。
 分布の上からも「屋敷氏神」は「村氏神」の形態よりも古い氏神の形態と考えられ、さらに「一門氏神」の形態こそが、もっとも古い氏神の形態を伝承している。


 本書には、続いて折口信夫の神道論の項目があります。
 しかしどうも私は昔から折口氏の説を読んでもピンときません。柳田の学説は、(ときにユニークな発想もありますが)豊富なフィールドワークのデータから帰納的に導き出したものと頷けます。
 一方、折口氏の学説は彼の創造物あるいはファンタジーの要素が大きいような気がしてちょっとついて行けないのです。

神社の歴史的変遷と多様性

2018年01月10日 08時19分42秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第三章より。

 長らく私が知りたかった神社の真実がこの項目に書かれていました。
 神社の多様性は、こんなふうにして生まれて展開してきたのですねえ。
 変遷の歴史の中で、変化しなかったコアの部分とは「心のよりどころ」「一致団結ためのシステム」でしょうか。

<近畿地方での神社の変遷>
(平安時代)荘園領主によって荘園鎮守社として創建された。
(鎌倉時代)荘園の現地経営に当たっていた在地武士達にとっての氏神となる
(江戸時代)荘園は懈怠されそれを校正していた村落の住民にとって村の氏神に位置づけられるようになった。

荘園鎮守社
 平安京を中心とする畿内に拠点を構える荘園領主が任命し現地に派遣する専門的な祭祀職能者が中心となり、現地では荘官として荘園経営に当たる公文や地頭など呼ばれた在地武士が世俗的にそれを支える形が一般的であった。

宮座祭祀
 中世(鎌倉時代)の在地武士の氏神へ展開していく中で、その有力撫しそうの間で順番に当屋を決めて祭祀する宮座祭祀という方式がとられるようになった。

村落祭祀
 近世社会(江戸時代)の村落祭祀へと展開すると、有力な村落住民の間で順番に当屋を決めて一年神主として務める宮座祭祀の形がとられるようになり、現在に至る。

<近畿地方以外での神社の変遷>
(例として本書では中国地方の広島県北広島町を取り上げている)

(第一段階)山の神や田の神や水の神などへの素朴な土着的な神々への信仰
(第二段階)大歳神(おおとしのかみ)や黄幡神(おうばんしん)など古代中世の時代に浸透してきた外来的な神々への信仰
(第三段階)中世の戦乱の時代に在地支配の権力闘争の中で中小武士層が導入した熊野新宮社などの信仰
(第四段階)より強力な戦国武将が台頭して導入し村落農民層との呼応関係の中で定着化させていった八幡神社の信仰

熊野新宮社の勧請
 南北朝期からそれ以降の一定の時期に、熊野新宮の御師(おし)の活動かあるいはその他の要因かで、この地域に熊野新宮社の勧請という波動が起こっていた。神仏習合と修験道をも加えた霊験あらたかな熊野権現の信仰は、戦乱の相次ぐこの地域の在地領主層にも受け入れられたのであろう。

大歳神・大歳神社
 大歳神は古い文献では古代以来の農作稲作の神であり、その後は陰陽道の大歳神(だいさいしん)の信仰が集合するなどして、西日本の各地で祭られている神である。
 在地経済の持続的継続性の上で最も肝要なのは、「武運長久」とならぶ「五穀豊穣」「庄民快楽」「子孫繁盛」であり、それは農業生産の守護神としての大歳神社の信仰が、現地の経営上、領主にも領民にも広く浸透し共有されてきていたことが推定される。神社名は別でも境内社に大歳神を祭っているところが多い。

郷村の氏神の変遷と多様性
(古い由緒を持つ氏神の神社)中世以来の在地領主層が大檀那として祭り領民もそれに参加してきた神社
(村ごとの氏神)在地領主層の支持もありながら、あくまでも村民が主体となって祭ってきた神社
(小字ごとの小さな神社)その小字の人達がもっとも身近な自分たちの守り神として祭ってきた神社

「律令祭祀制」と「平安祭祀制」と「一宮制」

2018年01月10日 06時46分20秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 古代日本における神祇祭祀には国が定めたルールがありました。

律令祭祀制)7世紀末〜8世紀初頭の天武朝〜大宝年間にかけて形成され、神祇令を中心とした。
平安祭祀制)9世紀〜10精機にかけて新たに形成された。

 この二つは時代的な推移の中でしばらくは共存・並行しながらも、やがて前者から後者へと移行したとのこと。
 他の本でも、昔々の地方の大きな神社は「官社」として中央からもの(幣帛)をもらうとともに支配を受けていたと読んだことがあります。時代とともにそれが少しずつ崩れ、地方では「一宮制」が広がっていったのです。

 群馬県では「群馬総社」という地名がありますが、これは平安時代に成立した神拝制度の名称が残っているのですねえ。

「律令祭祀制」の特徴
①神祇官による運営
②年中4度の祭祀、つまり祈年祭・月次(つきなみ)祭・新嘗祭が中心
③全国の官社を対象としてその祝部(はふりべ)が朝廷に幣帛(※)を受け取りに来る幣帛班給制度があった。

※ 幣帛(へいはく):
 神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称である。広義には神饌をも含む。みてぐら、幣物(へいもつ)とも言う。「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すものである。
『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。
幣帛は捧げ物であると同時に神の依り代とも考えられていたため、串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻なども「幣帛」と呼ぶ。
Wikipedia


「平安祭祀制」の特徴
・国家祭祀と天皇祭祀とが重なり合い、やがて天皇祭祀の性格が濃厚となる。
・律令祭祀制のもとでの全国の官社を対象とする幣帛班給制度から、新たな平安祭祀制のもとで京畿を中心とする十六社やのちに二十二社など特定の有力大社を対象とする奉幣制度へと転換した。
・旧来の祈年祭や新嘗祭とは別の臨時祭が重視されるようになった。
・二十二社の中の有力神社である賀茂社や石清水八幡宮などへの天皇の神社行幸が盛んに行われるようになった。
・天皇祭祀の対象となった中央の二十二社が「王城鎮守」と位置づけられるようになった。

「一宮制」の成立
 奈良〜平安時代に地方諸国の神社で成立していった制度。
 古くは律令祭祀制のもとで地方の官社への幣帛班給制度(班幣制度)が行われていたが、遠隔地の神社の中には幣帛を受け取りに来ないところもあった。そこで798年に全国の官社を二系統に分けて、神祇官から幣帛を直接受け取る官幣社と、諸国の国司を通して幣帛を受け取る国幣社とに区別することとした。国司は朝廷から任命されて痴呆の任地へ赴くと、その国内の有力神社への巡拝と班幣を行うこととなり、それが「国司神拝」と呼ばれるものであった。
 その後、平安中後期になると、国司の巡拝は任国内の有力な神社から順番に行われるようになり、その国司が巡拝する順番によって一宮、二宮、三宮と呼ばれるようになった。
 それがやがて、巡拝を煩わしく思う国司の場合、国内の有力な祭神を一つの神社に勧請して集めて祀り、その神社に参拝することで神拝を済ませることとして、そのような神社が惣社(総社)と呼ばれた。
 このような祭祀形態は一方で、任国に下向しなくなった国司に代わって地方行政の中心的な存在となった在庁官人たちにとって、その自らの神社祭祀の対象であり権威の象徴としての意味を持つこととなった。

平安朝の神祇祭祀・神社制度のまとめ
 以上より、平安京の天皇と摂関貴族にとっての中央の二十二社制と、地方国司と在庁官人にとっての一宮制という、国内神祇祭祀の上での相互補完の体制ができあがり、二十二社が「王城鎮守」、一宮が「国鎮守」と呼ばれた。
 鎮守や鎮守神とは、中世日本の神祇体系の中で成立していった神々の呼称であり、その意味での国家鎮護の思想の元での位置づけを表す呼称なのであった。

「鎮守」の意味の変遷・拡大
 鎮守とは、中世社会で生み出された呼称と概念であったが、その後、近世社会では意味を広げながら流通していった。江戸時代の記録によると、郷村で祀られている神社のことを意味する呼称となり、郷村の氏神とほぼ同じ意味の呼称となっていった。

村の神社における「氏神」と「氏子」

2018年01月09日 07時51分53秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神と氏子の関係を扱った項目です。
 昔々からの自然崇拝が連綿と続いてきた、とイメージしがちですが、「村の鎮守さま」という現在のような関係に落ち着いたのは、江戸時代の近世以降のようですね。

氏神は氏子の先祖神ではなく、氏子は氏神の子孫ではない。
 室町時代の記録に、村人が祀る郷村の神を氏神と呼ぶようになったと記されており、中世から近世への郷村制の展開に伴い、有力農民層を氏子とする郷村ごとの氏神祭祀が見られるようになったようである。
 近世幕藩体制下の村請制度のもとでは村落という地域的単位が重視されたために、それぞれの地域社会の構成員が氏子、そしてその守り神が氏神という関係ができあがった。それは出身地の神社に氏子身分を固定化するものでもあり、近代へと連続するものであった。

寺請制度→ 郷社氏子制→ 戸籍制度
 明治政府は神仏分離の政策をとるとともに従来の寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍整備のための氏子制度の法制化を図り、全国民を郷社の氏子として登録することにした(氏子札発行)が数年で方針転換し戸籍法へ取って代わられた。
 しかしその後も国家神道の体制下での行政指導は継続され、法的制度としてではなく、習俗や慣行としての氏子制度が地域社会に強力な規制力をもつものとして、第二次世界大戦終結まで大きな機能を果たした。
 戦後は神社神道が宗教法人化して神社に対する国家の保護が廃止されたため、氏神と氏子の地域住民に対する規制力は失われたが、習俗や慣行としての氏神祭祀と氏子制度は依然として日本の地域社会では大きな機能を果たしている。

氏神の意味は3種類ある
A:氏神の祖神
B:氏神がその本貫地(※)で祭る神
C:氏族の守り神

※ 本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。 転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。

(例1)藤原氏と鹿嶋社・香取神:C→ Aを追加
 藤原氏の祭る氏神は8世紀後半には鹿嶋社と香取神の二柱であったのが、9世紀前半になると枚岡社が祭る神話的世界の中臣連の祖神である天之子八根命と比売神の二神を加え四柱へとなっていく。平城京の段階では氏族の守り神という意味であった氏神が、平安京の時代には藤原氏は奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という四社を祭り、旧来の守り神としての建御賀豆智命と伊波比主命の二神に加えて、祖神としての天之子八根命と比売神の二神を加え四神となっていった。

(例2)清和源氏と八幡神:C→ Aへ変化
 八幡神はもともと玄寺とは関係なく、古代国家にとって国内外含めて国家鎮守の神であった。それが10世紀以降に三韓征伐(※)の神話伝承に関連して応神天皇を中心にその后神と母神の神功皇后のいわゆる八幡三所の神を祭る段階へと展開していった。そしてその時期に、鎮守府将軍源頼義とその嫡男源義家によって夷敵を征圧する武闘武勇の守護神として進行されるようになり、そこから転じて源氏の氏神であり祖神であるという形へとなっていった。
 国家鎮護と武勇の神である八幡神への信仰を中心にしながら、八幡三所とされていった応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけて一族の祖神という性格が付加された。

三韓征伐(さんかんせいばつ)
 神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。


(例3)古代氏族の本貫地に祭られる神の存続:B
 このタイプの底流的な存続とその変遷の延長上にある氏神が、やがて近世社会に定着してくる郷村の氏神の姿。

八幡信仰と清和源氏と応神天皇

2018年01月07日 16時56分10秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 全国にあまた存在する八幡神社・八幡宮。
 この広がりは、源氏の力によるところが大きいようです。
 源氏がその守護神と位置づけてから、武士の時代に“武勇の神”として全国の村々が我先に勧請した勢いを感じられます。
 でも、もともとは九州の巨石信仰であり、渡来神の影響を受けつつ展開し、のちに応神天皇や源氏と結びついていったとは、意外な驚きでした。

□ 八幡信仰と清和源氏
 京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は清和源氏の氏神として知られている。八幡神は八幡大菩薩との呼ばれ、神仏習合の典型的な神である。氏神とは言っても清和源氏の一族の先祖の神ではない。

□ 八幡信仰の始まりと広がり
 八幡信仰の根本創始は豊前の宇佐八幡宮である。それが平安時代に京都に勧請されて石清水八幡宮として創建され(859年)、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮として源頼朝により勧請された(1180年)。
 それ以前のことを細かく書くと、
①宇佐八幡宮の前身は近くにある大元山(御許山:おもとやま)の馬城峯(まきのみね)の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座祭祀であった。
②御許山の巨石信仰は土着の豪族宇佐氏が祀っていたと推定されるが、それに渡来系氏族で宇佐に住みついた辛嶋氏が祀っていた神と、大和からやってきた大神(おおが)氏が関与しながら形成されたのが八幡信仰である。
③平城京の宮廷にとって八幡神は鎮護国家の祈祷を行う神社のうちの一つに位置づけられていた。
④(749年)『続日本紀』に、宇佐の八幡大神が天神地祇を率いて大仏造立の成就への協力を誓う旨の託宣を下している。東大寺の建立とともに、その守護神として宇佐八幡神が勧請され手向山八幡宮として祀られた。

□ 石清水八幡宮
 平城京(奈良時代)にとって宇佐八幡宮は鎮護国家的な護国神であったが、清和天皇の平安京では王城鎮護的な護国神となっていったのが石清水八幡宮である。
 鎌倉時代に編纂された書物には、石清水八幡宮を天皇家の先祖を祀った神社と位置づけている。その祭神は、宇佐でも創祀の頃とは異なり、記紀神話が伝える三韓征伐、新羅征討の神功皇后とその皇子の応神天皇へと仮託されてきていた。
 八幡大菩薩と呼ばれる神仏習合の典型でもある八幡神を応神天皇になぞらえるようになったのは、弘仁年間(810〜824年)頃からと考えられる。
 京都の東北方の艮(うしとら)の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、西南方の巽の裏鬼門を守るのが石清水八幡宮であり、まさに平安京を守る王城鎮護の神社として周知されるようになり、決して清和源氏にとってだけの特別な神社ではなかった。
 石清水八幡宮の古文書「田中文書」(1046年)には「八幡大菩薩」は応神天皇でありそれは自分たち清和源氏の二十二代の始祖である」という記述がある(史実<伝承?)。
 『吾妻鏡』(1180年)には源頼義が1062年に八幡三所に丹精祈願を込めた伝承を記しており、1063年には頼義はひそかに石清水八幡宮の御神霊を勧請して、相模国鎌倉の由比郷に鶴岡八幡の瑞籬を建立、その鶴岡八幡宮を源頼朝があらためて小林郷の北山の地に遷座した、と記されている。その後頼朝は、そこで「為崇祖宗」(先祖の頼義・義家父子を輝かしき武門の誉れとして尊崇し、その先祖が記念し祭祀したという八幡神をこれから源氏の守り神として崇拝祭祀していくという姿勢表明)した。
 源義家が“八幡太郎”と呼ばれるのは、父親の頼義が石清水八幡宮に参詣したときの「霊夢之告」によるものである、という伝説がある。

平家と氏神
 文献によると、厳島神社は平家にとっては氏神であり、安芸国にとっては鎮守である、と理解されていた。
 平家一門はまもなく滅亡して氏神を祀るという伝承は消えていったが、源氏は頼朝の時代からのちの時代にまで長く武門の棟梁としての位置を占め、その御家人たちによって鶴岡八幡の系統に連なる八幡神社が各地に勧請されて尊崇の対象となっていった。

八幡三所の神
・第一段階:鎮座の原点の古代の渡来系の神であり、かつ八幡大菩薩として神仏習合の神であり、国家鎮守の威力ある神であった。
・第二段階:10世紀以降、応神天皇を中心にその母神の神功皇后を祀る段階へ展開し、源頼義は八幡三所の応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけた。しかし、源氏の八幡信仰はもともとは武闘と武勇の一族の守り神という意味が中心であり、一族の先祖神としての性格はなかった。先祖神というのはいわば後付けである。
 八幡神は古代は国家鎮護の神であり、それが源氏によって武勇の一門の守護神へと読み替えられ、読み込まれていった。


「氏神」と「産土神」と「鎮守神」

2018年01月07日 16時11分06秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。

 氏神、産土神、鎮守神・・・似たようなイメージがありますが、はて、民俗学的にいうと違いがあるのでしょうか。
 どうやら、氏神と産土神は同類ですが、鎮守神は鎮護と似ていて「いくさ(戦)」との関連が強いようです。政権レベルでは「王城鎮守」、対近隣国では「国鎮守」、地域レベルでは「郡鎮守」となります。
 確かに武士の時代、「○○神社で戦勝祈願をして出兵した」という話をよく聞きますね。
 それが歴史の流れの中で、戦に明け暮れる時代から平和な時代になるとともに、村の守り神に変容し区別が曖昧になっていったのでしょう。

 この書籍では、歴史的文献から紐解き、部分的に近畿地方の神社を取り上げて解説しています。

氏神は氏族の本貫地に祀られている在地性の強い氏神であり、そこで先祖を祭るという意識もあった。
 律令官人達にとって氏神が平安京や平城京に近い畿内に多く祀られており、毎年2月・4月・11月に「先祖之常祀」が行われていた。つまり、律令官人達の出身宇治族にとってその本貫地に氏神を祀る神社を設営している例が多かったこと、そしてその祭祀には春秋の2季があり、稲作の祈年祭と収穫祭の性格があったのではないか。

□ 文献上の「氏神」
(733年)『万葉集』に「大伴氏神」として初出。大伴連の遠祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)を指しており、祖神という意味と考えられる。

□ 文献上、官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が散見される
(772年)正倉院文書の請暇解(せいかげ)
(834年)『続日本後紀』に小野氏(小野妹子の出身氏族)が近江国の滋賀郡小野村を本貫地としており、その地に氏神を祀っていて春秋の祭祀には現地に赴いて奉仕していたという記録あり。

□ 藤原氏と氏神
(777年)『続日本紀』に藤原良継が病気になったので、藤原氏の氏神である鹿嶋社と香取神にそれぞれ正三位と正四位上の神階を授けたという記録がある。
 藤原氏の元の氏は中臣連であり、『古事記』『日本書紀』が記すその祖神は天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
 つまり、藤原氏の氏神は、氏の祖神ではないということになる。
 奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という藤原氏の祭る神社について整理すると、藤原氏の氏神は、はじめのうちは鹿嶋社・香取社の「鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命」であったのが、のちには枚岡社の「枚岡坐天之子八根命、比売神」を加えていった。
 藤原氏の場合、氏神の意味がはじめ平城京の時代には“守護神”であったものが、のちに平安京の時代には“祖神”をいう意味が加わっていった。

「氏神ー氏子」と「産神(うぶすな、うぶがみ)ー産子」
 1800年頃の古文書によると、安芸国や甲斐国、甲州、肥後国では氏神を産神と考え、氏子を産子と考える傾向があった。

「うぶすな」の意味
 生まれた土地の神を「うぶすな」の神と呼ぶ早い例として確かなものは『今昔物語集』である。
 鎌倉時代の辞書『塵袋』によると、うぶすなとは、それぞれの氏の本拠の地をいうのであったが、それがやがてその本拠の地で祭る神の意味へとなった。

氏神と鎮守
 尋常小学唱歌の「村祭」に「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭日」という歌詞がある。
 郷村で祭られている神社は、概して近畿地方から中国地方など西日本では氏神と呼ばれるのに対して、北関東地方など東日本では氏神ではなく鎮守と呼ばれることが多い。
 関東地方ではウジガミといえば家ごとに祭る屋敷神の呼称である例が多いのに対して、郷村で祭る神社のことは鎮守と呼ぶ例が多い。

文献上の「鎮守」
(737年)『続日本紀』:軍事的な意味で用いられている。
(939年)『本朝世紀』:神祇に関する意味で初めて用いられた。
(1004年)『本朝分粋』:熱田の祭神を「鎮主」と表現している。
(1083年)「賀茂社桜会縁起」:賀茂社(※)の神が「鎮守」と表現されている。
(1123年)白河法皇が石清水八幡宮に捧げた告文より、白河法皇にとって石清水八幡宮の八幡大菩薩は、国家鎮護の神仏であり国家の鎮守として位置づけられていた。
(1145年)豊後国柚原八幡宮の解文によると八幡宮と八幡大菩薩が鎮守の神であることが院政期には平安京だけでなく地方でも見られるようになった。
(1147年)鳥羽上皇の院宣より、平安京で祇園社、祇園感神院が国家の鎮守に位置づけられるようになっていた。
(1161年)石山寺に伝わる聖人覚西の祭文によると、国鎮守は近江国の建部神社、郡鎮守は高島郡の水尾神社、そしてその下に荘郷鎮守が祭られていると読み取れ、「王城鎮守」「国鎮守」「郡鎮守」などの表現が現れてきた。

賀茂社の伝承
「山城国風土記逸文」によれば、賀茂社はもともと賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)が丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)との間にもうけたのが玉依比古と玉依比売であり、その玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしているときに流れてきた丹塗矢を拾って身ごもり誕生したのが賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)で、それらの神々を祭神とする神社である。そして玉依比古は賀茂県主らの遠祖であるとされる。

神社祭祀・祭祀形式の変遷

2018年01月07日 15時32分07秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第一章より。

 古代日本の神社祭祀が始まった頃の形態を扱った項目です。
 自然物(巨岩・巨石)そのものを神として祀ったものが最古とされ、神域の設定、臨時の祭祀場設置から常設建築へと長い時間をかけて変遷してきました。

日本の神祇祭祀の基本
・文献資料からは「祠」「社」「宮」などの建造物
・考古資料からは「磐座(※1)祭祀」「禁足地(※2)祭祀」
ーが古態であった。

※1) 磐座(いわくら):社殿が建てられる以前の古代の神社は「巨石(=磐座)などの自然物を祀る祭祀施設」であった。
※2)禁足地:足を踏み入れることを禁じた神域


祭祀方式の変遷
1.磐座祭祀
2.禁足地祭祀
3.祭地への神籬(※3)設置
4.祭地への臨時的な社殿設置
5.常設の宮殿設営

※3)神籬(ひもろぎ):神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、 臨時に神を迎えるための依り代となるもの。

□ 古文献上の“神社”
(659年)『日本書紀』に「神の宮」という単語(現在の出雲大社を指す)
(684年)『日本書紀』に「寺塔神社」という単語

□ 飛鳥時代の神社祭祀
 天皇と国家の祭祀として、五穀豊穣と風水害を避ける祭祀が整備された。孟夏4月の広瀬大忌神祭と孟秋7月の龍田風神祭が、毎年2回定期的に制度的に行われるようになり、その際、各地の「諸社」(もろもろのやしろ)にも使いを遣わして幣帛をまつるのが慣例とされた。

□ 「祠」「社」「宮」
 これらの言葉は、『日本書紀』や『古事記』において古代の神々を祀るための装置として使われている。そしてそれらは、いずれも建築物を表す語であった。

□ 古い神社の形態〜「磐座祭祀」(いわくらさいし)から「禁足地祭祀」へ
 三輪山祭祀遺跡、宗像沖ノ島遺跡などに認められる。4世紀後半には巨石の磐座、6世紀前半から禁足地祭祀へと転換している。


<参考>
日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀 (笹生衛)

「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著)

2018年01月07日 15時04分12秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜
新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行



<内容紹介>
日ごろ意識することは少なくとも、初詣や秋祭り、七五三のお宮参りと、私たちの日常に神社は寄りそっている。我々にとって、神とは、そして日本とはなにか? 民俗調査の成果をふまえ、ごくふつうの村や町の一画に祭られる「氏神」や「鎮守」をキーワードに、つねに人びとの生活とともにあった土地や氏と不可分の神々や祭礼を精緻に探究。日本人の神観念や信心のかたちとしての神や神社の姿と変容のさまを、いきいきと描き出す。


 私の興味を持つ「民俗」と「神社」・・・ど真ん中のストライク本です。 
 それもパワースポットとなる有名神社ではなく、村の鎮守さまレベルのお社が人々の生活の中でどう位置づけられてきたのか、を扱った内容です。
 まさに「知らない世界に帰りたい」。

 記述はわかりやすい啓蒙本ではなく、資料を根拠にした論文と言っても差し支えない高いレベルで、よほど興味がなければ読破は困難と思われます。
 漢字の羅列の古文書や昔の人物の名前がイヤと言うほど出てきます。まるで「イヤなら読むのをやめてもいいんだよ」と試されているかのよう。

 縄文時代、弥生時代の定義が学会レベルで揺らいでいる事実から始まり、神社祭祀の方法の変遷、氏神・産土神・鎮守神の違いを文献から紐解いて説明し、ある神社を取りあげてその歴史的変遷をたどる作業など、目が離せない内容が続きました。

 読了してみて、日本の神社ってひとことでは説明できない複雑な歴史的経緯をたどってきていることがわかりました。
 自然崇拝・民間信仰をベースに、修験道、外来宗教(仏教・道教)などの影響を受け、さらに時代的に荘園制度や不安定な社会情勢(→ 熊野神社)、武士社会(→ 八幡宮)でその管理者と神様の勧請が変遷し、最終的に現行の氏子制度に落ち着いたのは江戸時代のようです。
 これらの多様な神社が、一部は変化し、一部は残り、それらが混在して現在に至っています。
 著者はこの現象を「神社の上書き保存」というパソコン用語を用いて説明しています。上手いこといいますね〜。

 神さまの種類や性質は変わっても、その底流に流れているコアなものは、その地域・が結束するための装置・システムではないか、と感じました。
 現在でも、境内に公民館や自治会館が設置されている地方の神社は珍しくありませんし、そのように地域では神社がきちんと生き残っていますね。

“まえがき”から
 日本で稲作が普及したのは紀元前後。
 それまでの狩猟採集と異なり、稲作には継続的な集団労働と統率力・結束力が必要なため強力なリーダーが必要になります。つまり権力者の出現です。
 7世紀の飛鳥時代の中央集権を担った天武・持統天皇は仏教が浸透したことが有名である一方で、神社祭祀が国家的な規模で整備された時代でもありました。
 その神祭りの中心が稲の祭りであり、稲と米は権力と祭祀に密着したもの、政治の結晶として結実し、1000年以上経った現在でも引き継がれています。
 祭祀の上では天皇の毎年の新嘗祭(にいなめさい)や天皇即位に際しての大嘗祭(だいじょうさい)。
 政治の上でも、古代の律令制下の田租、古代中世の荘園公領制下の年貢、近世の幕藩制下でも稲と米の生産高を基準とする所領支配と徴税システムとしての石高制が整備され、そのもとで年貢米が重要な意味を持ちました。


“おわりに”から
 文献記録と民俗伝承から明らかとなったのは以下の7点;

1.氏神とは、
①氏族の祖神
②氏族の守護神
③氏族が本貫地で祀る神
という3つの例があり、③は産土の神に共通する。

2.鎮守の神とは、文字通り反乱を鎮圧する守護神という意味で、旧来の神社に対して、あらためて王城鎮守・国鎮守・荘郷鎮守という位置づけがなされる例がみられたり、新たに勧請された神社の例もあった。

3.荘園領主が祀る荘園鎮守社が、中世には在地武士の氏神となり、近世には村落住民の氏神となるという展開例が近畿地方の農村では多くみられた。

4.その近畿地方の農村での氏神の祭祀においては、中世武士や近世村民が順番に一年神主(当屋)を務める宮座が形成される例、つまり、宮座祭祀という方式が形成される例が多くみられた。

5.中国地方など、荘園鎮守社が設営されなかった地方では、戦国武将が領内の農民と呼応して、武運長久と五穀豊穣と庄民快楽という双方向的な現世利益を願う形の氏神の神社が創建されたり再建されていき、それが近世社会では村民が氏子として祀る氏神へとなっていった。

6.その中国地方の例では、宮座祭祀という形ではなく、戦国武将の家臣の内から有力な神職家が出てその氏神の妻子に当たり、その神職家が筋性から近現代まで継承されている例が多い。

7.その戦国武将が覇権を握った領地にさかんに再建をしていった氏神の場合も、もともとはそれ以前に領主や村民が祀っていた神々が存在しており、その神格は素朴な山や田や水などの神々から、外来の黄幡神や大歳神など霊験豊かな神々へ、さらには中世武将が勧請した熊野新宮や八幡宮へといういわば祭神の上書き保存が繰り返されている例が、一つの展開例として注目された。

■ 神を祀る方法は「祓え清め」
 神々を祀る方法の基本は「祓え清め」である。
 人々がその祓え清めを行った上で祈り願ったことは、平和(天下泰平)・豊作(五穀豊穣)・生命(子孫繁盛)という3つの基本的な願いである。

日本の神々
 日本の神々とは、自然の恩恵と脅威が心象化されたものであり、稲作の王権を生み出したその沿革を語る記紀神話が神々の中心である。
(天照大神)高天原と太陽の象徴
(月読命)つくよみのみこと。夜の世界と月の象徴
(素戔嗚尊/須佐之男命)大海原と雨水の象徴
ーである。
 しかし、現在の日本各地の神社や神祇の信仰の実態は非常に複雑であり、古代の神話が語るそのままではない。歴史的な日本の信仰伝承の展開の要点は以下の通り;

①古代日本の神々への神話的なレベルでの神祇信仰とその伝承
②中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰や呪法などの受容とその消化と醸成
③古代インドで生まれ中国に伝えられてそこで醸成され、6世紀半ば以降に韓半島を経て日本に伝わり、またその後も7〜9世紀までの遣唐使に随行した僧侶たちによって伝えられた仏教信仰

ーという三社の併存混淆状態であった。

 中世世界では、この三本交じりの本流が複雑怪奇に展開する。
・神祇信仰も古代の素朴なままではなかったし、陰陽五行信仰も卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げていった。
・山岳信仰と神仏習合を核とする山岳修験の活発化もめざましく、仏教信仰も密教化の勢いを加速させながらその顕密体制の根底は維持しつつ、一方で新たな宋学禅宗の伝来や新仏教諸派の旺盛な活動によって動揺し活性化していった。
・律令制の動揺から荘園制の形式へという古代国家の根幹の転換が、神仏信仰の世界にも響き合い、さらに武家政権の誕生と大陸貿易の活性化は、新たに中世的な神仏信仰や霊異霊妙な信仰を生み出していった。そして、
④さまざまな霊妙怪奇な神仏信仰(牛頭天王、毘沙門天、大黒天、帝釈天、吉祥天、弁財天、茶吉尼点:だきにてん、宇賀神、第六天魔王など)の創生と流通が起こり、とくに室町期以降に流行した七福神などさまざまな庶民信仰の流布
ーであった。 
 中世社会はそうした多様な呪的で霊妙な神仏信仰の混淆や展開がみられた時代であり、それら4本の信仰潮流が混合混淆しながら近世社会へと一般化していき、また近代現代へと伝えられてきて今日の日本の信仰世界を作り出してきている。
 しかしそのような複雑で混淆的な信仰伝承ではあっても、神祇信仰、陰陽五行信仰、仏教信仰、中世的な呪的霊異神仏信仰、という基本的な四者は、決して混合融合してしまって元の形や仲美をなくしてしまっているわけではない。
 長い歴史の流れの中で、時代ごとに流行した様々な霊験や現世利益を求める信仰や呪法が取り入れられていながらも、その一方では、自然界の森や山や岩や川やそれらを包む森林に清新な神々の存在を感じ、それを信じて敬い拝んできたという基本だけは守り伝えられているのが日本の神社である。
 神社とは祓え清めの場であり、精神性を基本とする、大自然の神の祭りの場なのである。

富岡八幡宮死傷事件から見えてきた、神社を巡る意外な事情

2017年12月16日 08時25分06秒 | 神社・神道
 富岡八幡宮殺人事件は衝撃的でした。
 宮司の役職を巡る親族内の争い・怨恨が原因ですが、それはさておき。

 私が興味を持ったのは、付随して説明される神社事情です。

■ <富岡八幡宮死傷>超格差社会? 神社を巡る意外な事情
(2017/12/15:毎日新聞)
 7日夜、東京都江東区の神社「富岡八幡宮」を舞台に起きた殺傷事件は、宮司職を巡るトラブルが背景にあったとされる。神社は初詣などで身近な存在だが、宮司はどう決まり、運営の実態はどうなっているのか。事件をきっかけに調べてみると、意外な神社事情が浮かんだ。【福永方人、岸達也/統合デジタル取材センター】

◇神社はコンビニより多い
 神社は、全国にいくつあるのか。誰もが抱く素朴な疑問だが、驚いたことに正確な数は不明だ。全国の神社の多くを傘下に収める宗教法人「神社本庁」(東京・代々木)は、神職の常駐していない小さなお宮まで含め10万社程度と推計する。15万社を超えるとの説もある。全国に約5万5000軒あるとされるコンビニエンスストアの倍以上あるかもしれない。
 その神社本庁は、皇室の祖神とされる「天照大神」(あまてらすおおみかみ)を祭る三重県の伊勢神宮を「本宗(ほんそう=最も尊い神社)」と仰ぐ神社界の最大勢力で、全国約7万9000社を傘下に入れている。
 傘下の神社は伊勢神宮のお札(正式名称「神宮大麻<じんぐうたいま>」)を売り、その売り上げは伊勢神宮に納めている。神社と本庁の関係は、店舗がブランド商品の提供を受けて本部にロイヤルティーを払うコンビニエンスストアのチェーンに似ている。だが、コンビニと違って神社本庁は傘下の神社の宮司を任命する権限を持っている。宮司は神社側の推薦をもとに、同庁の人事委員会で任命するかを協議する。
 神社のうち由緒や規模などから有力とされる約350社を、同庁は特別の神社(正式名称「別表<べっぴょう>神社」)に指定している。今回の事件が起きた富岡八幡宮は、今の大相撲のルーツである「江戸勧進相撲」の発祥地として知られる別表神社だったが、事件で殺害された宮司の富岡長子さん(58)の就任を本庁が認めなかったため、今年9月に本庁から離脱していた。この他、宇佐神宮(大分県)や気多大社(石川県)は宮司人事などで同庁側と対立し、訴訟に発展した。
 伊勢神宮を頂点とする神社本庁に対し、靖国神社(東京都)や日光東照宮(栃木県日光市)、伏見稲荷大社(京都市)など、同庁の傘下にない有名神社もある。明治神宮(東京都)は参拝式の案内状で天皇、皇后両陛下を「両殿下」と誤記したことがきっかけで同庁とトラブルになり、2004年に離脱したが、10年に復帰した。
 宗教学者で作家の島田裕巳さんは「神社本庁に人事権を握られるなど傘下の神社はしがらみが多い」と指摘。「独力で運営できる有力神社は離脱しても問題ないが、過疎地の小さな神社は神職の確保などで神社本庁に頼らざるを得ない」と話す。

◇年収300万円未満が6割超
 神社の収入源は、主にさい銭、神事の祈とう料や駐車場経営だ。人口減少に伴い、初詣や合格祈願などで有名な神社や参拝客を見込める都市圏の神社を除き、担い手不足や資金難にあえぐ神社が増えている。
 神社本庁が全国の傘下の神社を対象に昨年実施したアンケートによると、年間収入が1億円以上の神社は2%前後にとどまる一方、300万円未満は6割強に上る。また、宮司の後継者がいない神社は4割近くある。文化庁の統計では、神社本庁傘下の神社にいる神職(宮司や権宮司、祢宜<ねぎ>など)は全国に約2万2000人と神社数の3割弱しかいない。
 過疎地では兼業の宮司だったり、複数の神社の宮司を兼務したりするケースが少なくない。宮司が確保できず、本庁側から派遣してもらう神社も。ある試算では、2040年までに神社の約4割が消滅する可能性があるという。
 雑誌「宗教問題」編集長の小川寛大(かんだい)さんは「神社界は超格差社会」と指摘する。「神社を支える氏子組織が地域の過疎化や少子高齢化で崩れつつある。宮司は一部を除き、決してもうかる仕事ではない。兼職や兼務で祭りや氏子のコミュニティーを何とか維持している状況だ」と強調する。神社本庁も来年から過疎地の神社の活性化策を本格実施するというが、効果は不透明だ。
 近年はツイッターなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で行事などの情報を発信する神社も増えている。広島県内の神社の宮司で、神職養成講座などを手がけるNPO法人「にっぽん文明研究所」代表の奈良泰秀(たいしゅう)さんは「中小規模の神社が生き残るには神社本庁任せではなく、人が集まる祭りをつくるなど、各神社が自ら工夫していく必要がある」と話している。


「神道 感謝のこころ」(葉室 賴昭 著)

2017年06月26日 05時37分38秒 | 神社・神道
神道 感謝のこころ
 葉室 賴昭(はむろ よりあき)著
 春秋社、2000年発行
 


<内容>
 「葉室神道シリーズ」で圧倒的な読者の支持をうける著者が、自由自在に〈本当の人生〉を語るユニークな短篇エッセイ集。全てのものと一緒に生きる「共生」という考えによって、豊かな自然観・人間観を育んできた日本人。その原点に復って素晴らしい日本人の「こころ」に目覚めるエッセイ集。じんわりとしみわたる54話を収録。


 「神道」論は好きではなくあまり読んでこなかったのですが、この本の著者は医師なので視点が異なるかな、と期待して読みはじめました。
 うなずける記述が散見されますが、基本的な考え「宇宙は神さまの意思で造られている」が根底に流れており、受容できない文言が多く、辟易したまま読了。

 私には「今の若者は・・・」という説教節に聞こえてしまいますが、この内容を「ありがたい」と読む人も多々いるのですねえ。

 なるほど、と思った記述;
「女性ホルモンは命をはぐくむ女性に神さまが与えた長寿ホルモンである。しかしその女性らしさに気づかず、男性の真似をすることが男女平等と勘違いしている人たちが多いのが残念である。自分のことだけでなく、子どもや孫、未来のことまで考えて行動して欲しい。」


<備忘録>

□ マインド・コントロールから目覚めるために
 地球上のほとんどの人間が“知識”という宗教によってマインドコントロールされ、それから抜け出せないでいる。「自分の目で見えないから、今の科学では証明されないから、信じない」は典型的。

□ 誇りを忘れた日本人
 神道では、自分が汚れていると、その汚れを尊い神さまに移すかもしれない。それでは申し訳ないからと、神さまに汚れが移らないように自分を祓う。お祭りで行うお祓い、神社にお参りするときの手水、これもみな神さまのために清めている。神さまとともに生きようという姿勢が、神社ではお祭りになる。

□ 女性の体の素晴らしさに目覚める
 老化の原因の一つは過酸化脂質であり、女性ホルモンはこれを防ぐ効果があり、女性ホルモンは女性が病気にならないように守ってくれる大切なホルモンである。そのため、世界中のどこの国でも女性の法が男性よりも長生きである。すぐに病気をしていたのでは立派な子どもを産み育てて命を伝えることができないため、神さまがそうなさっている、女性は大いに守られている。
 その仕組みを知らずに、女性が男性と同じ事をするのが男女平等だと行って、わざわざ男性の真似をする人がいる。これで一番被害を受けるのは子どもたちである。現在のこと、自分のことだけで物事を判断するのは止めて、子どもや孫、未来のことを考えて、女性は本当のことに目覚めて欲しいと思う。

□ 「お母さん」がこの世を救う
 最近は「お母さん」がいなくなってきた。子どものために自分を捨て、無我になって子どもを育てることのできる人。
 私は「日本の女性よ、我を出さないで本当のお母さんになってください」と叫んできた。
 すると「古くさい」「マザコン」「男だからそんな都合のいいことが言えるのよ」などと言う人がいるが、私はただ、宇宙と自然の真実の仕組みを言っているだけのこと。

石上(いそのかみ)神宮の成り立ち

2017年04月22日 08時06分58秒 | 神社・神道
同じく前出の「新編・神社の古代史、岡田精司著、學生社、2011年発行」の第5章:王権の軍神より。

関東地方の鹿島神宮・香取神宮との関連がある奈良の古社です。
古代には、大和王権の武力の象徴である霊剣フツノミタマを祭神とした、武器庫と神宝の格納庫という重要な役割を担っていました。
歴史の流れの中でその役割が変遷し、物部氏の氏神となり、現在は地域の鎮守神に落ち着くという、波瀾万丈というか栄枯盛衰というか・・・壮大な物語を秘めていることを知りました。

興味が湧き、抜粋ですがここに書き残しておきたいと思います。


■ 石上神宮の禁足地に埋まっていた鉄刀
 拝殿(鎌倉時代の建物で国宝)の御簾を挙げると向こうに空き地があって一区画が禁足地になっている。その中央が少し高くまんじゅうのようになっており、ここが信仰の対象である。その土盛りの地下にご神体の刀剣が埋まっているという伝承があった。
 明治時代には神職の世襲を禁止され、それに伴い大宮司に任命された水戸の国学者である菅政友が赴任した際、発掘調査を行った。報告書によると、3m司法ほどの石積みのへやっが裏、その中に刀剣や翡翠の勾玉、琴柱形石製品、金剛垂飾品、などがあった。鉄刀は1本だけで、素環頭内反太刀(そかんとううちぞりたち)と呼ばれるもので、これこそが御祭神の石上のフツノミタマ(布都御魂)あるいはフルノミタマ(布留御魂)と呼ばれた、その霊験に相違ないとされた。これらの出土品は、古墳時代前期のだいたい四世紀頃のものと同じである。
 この禁足地の発掘に続いて、大正2(1913)年には禁足地の後方の窪地を埋め立て拡張して本殿を造ってしまった。そしてもと土盛りのあったところは、いま白い砂利を敷いてそこに丸石が一つ置かれているのみ。

■ 石上神社の祭神は霊剣フツノミタマ
 『延喜式』の神名帳には「石上坐布都御魂神社」(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)とある。名神大社で、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)のお祭りに朝廷から特別にお供え物がある待遇。
 石上という土地にお祭りされているフツノミタマという忌みであるが、祭神はフツノミタマノ大神という名の霊剣だといわれている。神の依り代というのと違って、刀剣が神体で神そのものという興味深い例である。
 この剣は日本神話では2回活躍する;
1.オオクニヌシの国譲りの時にタケミカヅチとフツヌシが活躍するが、その時に持っていった刀がこのフツノミタマ。
2.初代大王である神武天皇の東征の時。神武天皇が熊野路に進んだときに熊野姿の土地神が出てきて、その毒気に当てられて全軍の兵士が倒れてしまう。それを天井から見ていたアマテラス大神がタケミカヅチを呼んで「お前が助けにいけ」というと「私が行かなくても横刀フツノミタマを投下しましょう」と答えてその刀を地上に投げ下ろす。するとタカクラジという人の家の倉の屋根を貫いて床に刺さった。タカクラジがそれを神武天皇に献上すると、たちまちの内に気を失っていた兵士達が目覚め、熊野を平定できた(古事記)。

■ 石上神宮は物部氏の氏神ではない
 この神社は最初から物部氏がお祭りしていたわけではない。
 物部氏の先祖は、天から石の船に乗って下りたというニギハヤヒだという伝承がある(「先代旧事本紀」)が、本来は祖先ではなく守護神であろう。すると、物部氏は石上神宮のフツノミタマを氏神として祭る必然性はなかった。物部氏はもともとは大和盆地の氏族ではなくて河内平野の出身の氏族である。
 物部氏が石上神宮を祭るというのは、ちょうど伊勢神宮において荒木田、度会という氏族が祭祀を司るのと似ている。渡会氏は外宮の方を氏神とするが、内宮は天皇家の氏神で荒木田氏の氏神ではない。物部氏は軍事と合わせてこの石上神宮の祭祀に奉仕すると考えるとよい。伊勢や住吉、鹿島の場合同様、物部氏と石上神宮についても氏子と氏神の関係ではなく、大和王権における職掌の分担としてここに奉仕していた。

■ 物部氏は遠征、大伴氏は御所の警備
 両方とも大和王権の軍事氏族である。
 大伴氏の伝承は「醜(しこ)の御楯」になるという内容が多い。御所の固め、帝の守りなど天皇や御所を守るという伝承がある。大王の側近に奉侍することから大伴というのだろう。
 物部氏については逆に遠国を征討するときに出かけていった。九州の磐井の反乱、伊勢の反乱など。
 大伴は天皇の側近の護衛、親衛隊長、近衛師団。それに対して物部は遠征軍を率いた将軍。
 
■ 石上神宮は武器庫(神庫)だった
 石上神宮の西側の平地にあたるところ、今の天理教本部の建物があるあたりを布留遺跡といい、古墳から出土するのと同じような刀の柄や鞘や馬の歯など軍事関係のものが随分出てくる。
 石上神宮は大和王権の武力の象徴である霊剣を祭る。
 古代では具力で平定することと呪祷で祈り倒そうという行為が一体であり、征服したら必ずそこの豪族が持っている神宝を取り上げることが重要だった。降伏した豪族には必ず神宝を差し出せ、それらを一つの所に集めてフツノミタマの威霊のもとに抑えて収納することによって、天皇が日本中の国魂を抑えることになる。武力的な政策と合わせて、そういう呪術的な行為が必要だと考えられ、それが石上の神庫であった。
 以上のように、武器庫と神宝の格納庫、二つの役割を石上神宮は持っていた。

■ 石上神宮の歴史に伴う変遷
 ここに納められた神宝=国魂の象徴は、のちに地方豪族に全部返還した。なぜ返すのかというと、大化の改新の後、国造制や県主制が廃止されて中央集権制となり、地方豪族の脅威が無くなり、地方はみな越後守とか但馬守とか、そういう中央から派遣された行政官=国司が支配するようになって、もうそこの神宝を中央政権で押さえている意味がなくなったから。
 このような石上神宮の国家的性格は、平安京に移る桓武天皇の頃までは続いていたが、それ以後は古代国家の変質に伴い大きく変わっていった。『延喜式』では正式の名称もそれまでの石上神宮から石上布都御魂神社に変わり、武神の性格は残しながらも物部首の子孫の布留朝臣の氏神へと変貌していく。
 鎌倉時代になると国家との関係は薄れ、中世以降は地域の鎮守神としての性格を強め、名称も布留大明神・岩上大明神などと呼ばれるようになり、永久寺・石上寺などの神宮寺と結びついた展開を見せるようになる。土地の人々の農耕の祈りを捧げる布留の社は、もう古代の石上神宮とは全く異質のものに変わってしまった。
 なお、「石上神宮」という現在の名称は、1883年に古代の名称を復活したもの。もともと本殿はなかったが、現在の本殿は1913年に禁足地の一画に新設されたものである。

鹿島神宮・香取神宮の成り立ち

2017年04月21日 13時06分39秒 | 神社・神道
「新編・神社の古代史」(岡田精司著、學生社、2011年発行)第6章・東国の鎮守より。

 近隣県にあり、有名な神社でありながら、実はまだこの二つの神社に参拝したことがありません(^^;)。
 以前から、古事記や日本書紀に出てくる関東唯一の神社・神様であることを知ってはいたので、なぜ茨城県なんだろう、と不思議に思っていました。
 しかしこの本を読み、俄然興味が湧いてきました。
 とくに出雲国譲り伝説にも出てくるタケミカヅチは、鹿島神宮がオリジナルで出雲はその転用だったという著者の説には驚かされました。そこには古代日本における豪族の覇権争いが反映されていたのですね。さらにそれが春日大社の創建につながるとは・・・スリリングなミステリー小説を読んでいるようでした。

 機会があったらぜひ参拝したいと思います。

■ 鹿島神宮の拝殿・本殿は北向き
 古い時代の神社は参道正面に社殿がないのがふつう。神社の森が鬱蒼と茂って、参道から絶対に社殿が見えないというのが古代の信仰だった。
 御神木は本殿の真裏にあり、御神木の背後に鏡石がある。それから奥宮を越えてずうっと東へ行くと要石がある。要石は見た目は小さいが、地面に埋もれている部分がとてつもなく大きいらしい。
 社殿が北向きである理由は、この神社が大和王権の東国の鎮めとして設置されたという性格と関わりがある。東国平定が完了すると、中央政権の関心はその北にあるエミシの世界へ向かう。鹿島の神はエミシ征討の神としての機能を持たされ、エミシの世界がある北向きに鎮座することになった。鹿島神宮を分祀した神社は『延喜式』の神名帳では東北地方に分布しているのが特徴である。
 年号の延暦、桓武天皇の時代には坂上田村麻呂による蝦夷征討が行われたが、征討軍の陣中の守護神として、また征服地の鎮守神として鹿島の神が祭られた。

■ 鹿島神宮と香取神宮は2つでセット
 『六国史』『延喜式』には鹿島香取使(両神宮に対して毎年2月に朝廷から任命・派遣される勅使)の記述があり、鎌倉時代まで続いていた。地方の神社としてこのように勅使が派遣されるのは、ほかに宇佐八幡宮だけという特別扱いである。
 春日大社の御祭神は四座並んでいるが、この四座のうち第一座が鹿島のタケミカヅチ、第二座が香取のフツヌシ(イハヒヌシ)と、ここでもセットで扱われている。
 現在の祭りでも、12年に一度ずつ午年(うまどし)に、鹿島の神幸祭(霞ヶ浦を船で鹿島から香取へ向かう)、香取の軍神祭(香取から鹿島へ向かう)という。

■ 「神宮」を名乗る神社
 『延喜式』の神名帳の中で「神宮」は伊勢神宮と鹿島・香取神宮だけ。

■ 神郡を有する神社
 神郡とは神社の特別な領地で、幾外に限って神郡という地域が特別の神社で設置された(例:伊勢神宮、宗像大社、出雲大社など)。鹿島・香取神宮はそれぞれ常陸国鹿島郡、下総国香取郡を所有し、それは軍事上かつ交通上重要なところにある神社だからというのが定説である。
 『常陸国風土記』によると、649年(大化5年)に那賀の国造の領地と、茨城の国造の領地、南の方は下総の海上の国造の領地からの一里を合わせて鹿島郡をつくった。

■ 鹿島神宮の神話
 常陸国風土記では鹿島を香島と書いているが、のちには鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて鹿の字に固定した。
 常陸国風土記では高天原の神々の神集い(かむつどい)によりカシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)の天下りが決定された。この「高天原から天下った」ということは、ただ事ではない。古事記と日本書紀では高天原には天皇家と中央の有力豪族の祭る氏神以外の籍はない。風土記には高天原から天下ったという話は2つだけで、カシマノアメノ大神(『常陸国風土記』)と天孫ニニギの降臨(日向国風土記)。
 カシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)は出雲神話で活躍する神である。出雲国譲りの時にタケミカヅチは香取神のフツヌシのお供をして下ったという神話と対応する。
 どうもタケミカヅチの物語は、最初は関東へ下って平定する方が古い神話だったらしい。それがあとで出雲神話がつくられたときに、タケミカヅチの下りる先が出雲へ変えられたのではないか。
 鹿島の神が現れたのは崇神天皇の時代であり、ここに神宮を造営したのは天智天皇だと『常陸国風土記』に書いてある。元は霊石だけがあって海に向かって拝む形だったのかもしれない。鹿島神宮は広い大地の上にあって、継代は原生林になっており、いまは天然記念物になっているが、この森そのものが聖地で、その中に不思議な鏡のように平たい鏡石があったり、大地に広く根を張ってちょこっと頭を出しているだけの要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから合って、そして天智朝の頃にはじめて社殿が創建されて神社の形を整えたのかもしれない。
 『常陸国風土記』には船を造って納める話がある。これにちなんで古代では、毎年7月に津宮というところに船を奉納した。

■ 鹿島神宮のタケミカヅチという神はどういう性格の神か?
 鹿島神宮の古い神体としては、本殿の後ろに磐座と神木があるが、社殿ができてからは刀剣が御霊代になった。現在は鹿島神宮の宝物館に2mを越す長い直刀が飾ってある(国宝)。やはり鹿島は刀剣と関係の深い神であった。
 タケミカヅチという名前の神は、鹿島神宮の他には全国どこにも祭られていない。唯一、石上(いそのかみ)神宮には、タケミカヅチが天上から投げ下ろした刀が祭られているという伝説があるのみ。
 タケミカヅチは、もとは物部氏が奉じていた神らしい。物部氏が没落した後で二次的に中臣氏が祭るようになったのではないか。
 以下は著者の推察;

 石上神宮の主祭神はフツノミタマである。5-6世紀の頃、フツノミタマを奉じて物部氏が各地に遠征した。そういうものがおちこちにある布都御魂神社や物部神社に反映している。その中で関東はとくに重要なところで、東国遠征が物部氏が大連の時に行われている。そして東国の守護神として、関東平野の一番東の鹿島の地に、ちょうど伊勢神宮が太陽が東から昇るところに造られたのと同じように、鹿島神宮を造った。
 安閑〜欽明朝ごろになり、武蔵や上野毛の反乱などが平定されたその時点で、石上の分霊というか、国譲りの神話でフツノミタマの剣をを操るタケミカヅチが、とくに東国を鎮めるための神になる。そして平定に活躍した神だから、これが記紀の神話を造るときには出雲の平定にも転用された可能性がある。

 東国へ遠征しタケミカヅチを鹿島の地に祭った物部氏は、聖徳太子の頃に蘇我氏に敗れて没落する。その後藤原鎌足がこの辺を領地にした(『常陸国風土記』)。そしてその時期から中央でのお祭りを分担する氏族であった中臣氏が、物部氏に代わって鹿島神宮をお祭りするようになった。
 やがて藤原氏が中臣氏から独立すると、新しい神社を造らなければならなくなった。そこで中臣氏の氏神の枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)の神二座と、鎌足の封戸(ふこ)に縁のある土地の鹿島のタケミカヅチ、香取のイハヒヌシを合祀して平城京に祭ったのが春日大社である。そうして新たに、鹿島の神が鹿に乗って東国からはるばる春日山にご神幸になるという藤原氏の神話ができた。

■ 香取神宮の神イハヒヌシ
 現在のご祭神はフツヌシになっているが、『日本書紀』ではイハヒヌシとなっている。香取の神をフツヌシとしている古い例は、平安時代に斎部広成(いんべのひろなり)が編纂した『古語拾遺』であり、これは中臣系ではなくて斎部系の手になるもの。つまり関東の神に関しては正確な知識を持ち合わせていなかったため間違って記述した可能性がある。この後の記述は南北朝の『神皇正統記』までない。
 フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名という説がある(三品彰英、松前健)。
 イハヒヌシは地元の豪族の祭る神だったらしい。イハヒヌシの語源を考えると、“いわう”は斎あるいは祝だからイハヒヌシ=斎王はお祭りを執行する責任者ということになる。祭りをする人が神になるとはどういうことか。鹿島の祭神は大和の大王の命で祭られている大事な神様なので、地元の豪族の祭っている神が奉仕するような形があったのかもしれない。
 このような関係は伊勢神宮にも見られる。伊勢神宮には内宮と外宮があり、今は同格に扱われているが、もとは内宮が格が上である。古くは外宮は「御饌都神」(みけつかみ)と呼ばれたアマテラス大神に奉仕する料理番の神様であった。
 香取の方は斎王という神主の形で、鹿島の神を祭る役である。もとはちゃんとした地主神としての神名があったはずだが、それが鹿島の神の斎王ということになり、その名前が残ってしまったと考えられる。

■ 神社と国家の関係
 寺院にも国家的なものと民間の檀那寺的なものの両方があるが、神社の場合も国家の鎮護にとくに力を入れているお社と、そうでない民衆信仰のお社がある。日本の歴史の那賀でこの両方の信仰が絡み合いながらも、二つの系統として流れてきている。
 鹿島・香取と国家の関係は中世では全く絶えていたが、明治からまた別の形で復活する。明治維新の際に明治天皇が「大阪行幸」を行ったが、進発前と帰還後に御所の紫宸殿において「軍神祭」が催された。軍神祭の祭神は天照大神・大国主神・武甕槌之男神・経津主神の四座で、明治天皇が自ら祭文を奏上した。四柱の神々はいずれも記紀神話の出雲国譲りに登場する神々であり、維新の王政復古と江戸開城を国譲りになぞらえたもので、ここに鹿島・香取の祭神が登場した。この軍神にあやかり命名した軍艦に「鹿島」「香取」がある。
 神社は古代の姿のまま現代まで続いているのではなく、時代とともにいろいろ変化するよい例かもしれない。