知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

歴史上の人物に見る健康(健康ライフ:早川智先生)

2018年12月16日 11時44分48秒 | 震災
 NHKラジオ第一で、早朝5:35頃から放送されている「健康ライフ」。
 ちょうど通勤時間帯なので、車で聞いています。
 11月に件名の放送を興味深く聴きました。
 講師は日本大学医学部微生物学教授です。

「蚊が歴史を左右した!?」(2018.11.19)

(西郷隆盛)フィラリア
 蚊が媒介する寄生虫感染症。ミクロフィラリアがリンパ管を閉塞して下半身の浮腫を起こすことが特徴(象皮病)。二度目の流罪先であった沖永良部島で感染したと思われる。遺体検案で記録がある。歩行・長距離の旅行は困難だったようだ。彼が欧米に視察していれば歴史が変わったかもしれない・・・。
 日本では完全に根絶されているが、南アジア・熱帯アフリカ・南米では現在もアクティブ。

(平清盛)マラリア
 もともと持病がなく健康だった清盛が、突然の高熱で発症し短期間で死亡(63歳)。水風呂に入れたらお湯になったという伝説がある。腸チフツもう違われるが消化器症状の記録がない。
 マラリアは当時の日本では「瘧疾(ぎゃくしつ)」「おこり」などと呼ばれた。9-12世紀の世界的に温暖な気候で日本でも瀬戸内海までマラリアが流行っていた。源頼朝のいた関東には存在しなかった。

「生活習慣病で『無念』!」(2018.11.20)

(藤原道長)II型糖尿病
 当時は太っていることがセレブの理想、富の象徴だった(源氏物語絵詞上の主人公は太っている)。糖尿病は当時「消渇」(しょうかつ)と呼ばれた。むくみ・しびれを取る漢方薬、鍼灸で治療された。
 51歳の頃から水をたくさん飲むようになり、急にやせてきて、目が不自由になり(糖尿病性網膜症)、たびたび胸の痛み(狭心症)に苦しんだという記録がある。未治療の糖尿病の典型的な経過を辿っている。

(上杉謙信)脳卒中(高血圧性脳出血)
 1587年、織田信長を討つため出陣しようとした矢先に厠で倒れ意識を失い、2日後に48歳で死亡。大の酒好きだった。

「こころの障害と偉人」(2018.11.21)

(足利尊氏)双極性障害
 言動に一貫性がなく、変動が激しかった。合戦の場で戦況が悪化するとすぐに切腹しようとしたエピソード、政務を捨てて部屋にこもって写経にいそしんだエピソード、などがあり、活動性が非常に高いときと低いときがあったことが窺える。

★ 他の双極性障害の偉人:ゲーテ、ヘンデル、北杜夫など。

(坂本龍馬)ADHD
 剣術の達人であるが、脱藩を繰り返す。遠慮がない、衣服に無頓着。手紙では話が飛び飛び。

★ 他のADHDの偉人:モーツアルト、エジソン、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズ、

(大村益次郎)Asperger症候群
 彼の言葉は常に断定的でとりつく島がない、対人関係が苦手、人の神経を逆なでする言動など、社会性がない一方で、興味のあることはトコトン追求した。偉業を成し遂げた背景には桂小五郎のサポートが大きかった。こころの障害があっても周囲のサポートがあれば大成できるよい例。

「過敏性腸症候群」(2018.11.22)
 食あたり、炎症性腸疾患などの基礎疾患がなくても、胃腸症状(突然の腹痛/下痢、便秘)の反復に悩まされる疾患。環境ストレス、不安が要因で、真面目で几帳面な人に多い。

西郷隆盛
 体格がよく、鷹揚な性格は後世に作られたイメージ(写真が残っていない)で、実は緻密で几帳面な性格だったようだ。壮年期にIBSに悩まされた。人間関係、政治的立場が難しかしく苦労した。

石田三成
 寺の小坊主だったところを羽柴秀吉により見出された。事務能力に優れていた(早すぎた現代人)。
 関ヶ原の合戦の時(西軍の旗頭を務めた)は腹痛・下痢に悩まされて十分な指揮が執れず、「石田腹」「光成腹」と揶揄された。合戦後、京都で処刑されるときにカキを食べることを拒否した理由は、果糖はIBSが悪化因子なので失禁するリスクを避けたと講師は推理。
 
「長生きした将軍の秘訣」(2018.11.23)
 将軍の平均寿命は、鎌倉幕府:38.1歳、室町幕府:38.7歳、江戸幕府:49.7歳。
 長寿のポイントは、運動と節制、よい趣味を持つこと。

徳川家康)75歳
 ライバル達が短命で終わる中、ふだんから健康に留意した。運動(乗馬、鷹狩り)、暴飲暴食や女を断つ、中国の古典医学書を研究しかつ主治医と相談して自分で調合した薬を飲む(セルフ・メディケーション)。現在処方される漢方薬の半分は当時から存在した。

徳川慶喜)77歳
 徳川斉昭の7男。退位後も大正時代まで生きた。洋食を好んだ(動物性のたんぱく質、とくに豚肉を好んだ)。将軍在位1年、退位後は趣味に生き、ストレスレスな生活を営んだことがよかった。一方、先代の家茂は偏食で脚気で命を落とした。


「京都の食 8つの秘密」

2018年02月11日 12時22分48秒 | 震災
2016.1.3:NHK-BSにて放送。
NHKドラマ「鴨川食堂」の原作者とヒロインが京都の味巡り。

聞いたことはあるけど、自分では説明できない用語や、聞いたこともない言葉がしっくりくるようになりました。
各コーナーで有名料理店が出てきますが、名前は写っているけどNHKなのでアナウンスはされませんね。




番組内容
 長い歴史に育まれてきた京都の食文化。その秘められた魅力を京弁当・おもたせ・仕出し・豆腐・お茶・和菓子・漬物・お番菜の8つのキーワードを頼りに、女優の忽那汐里と作家の柏井壽が探っていく。例えば、お茶席で使われる和菓子は特別な形をしており、連想ゲームの道具だった!漬物の代表格しば漬けは、おもてなしの原点だった!そして、お番菜の知られざる本当の意味。目からうろこの話満載、京都の食のエンターテインメント。
【出演】忽那汐里,柏井壽

1.京弁当
 花見弁当にお月見弁当…。京都では江戸時代以降、自然を楽しむためのお供としてお弁当の文化が発達してきた。5色の色合いを大切にし、おかずの配置に趣向を凝らすなど、そこには食べる人を楽しませるさまざまな工夫がほどこされている。京弁当という小宇宙に秘められた京都ならではの文化とは。
★ 老舗料理店「菱岩」さんが登場。

 お重の箱の中に、四季の自然の花鳥風月が凝縮されていることを初めて知りました。
 ご飯がモコモコ盛られているのは「山」をイメージしていたのですね。


2.おもたせ
 訪ねてきた知人や友人が持ってきた手土産を、そのままもてなしに使う「おもたせ」は京都で生まれた言葉だという。京都ではさば寿司が、その代表格。人々は、さば寿司を食べながら話を弾ませる。では、一体なぜ、おもたせが京都で生まれたのか。そこには、京都ならではの特別な理由があった。
★ 「いづ重」さんの鯖寿司が登場。

 この言葉、知りませんでした。勉強になりました。

3.仕出し
 京都では、人生の節目や大勢の来客の時に、専門の店や料亭に作らせた料理で客をもてなす“仕出し文化”が根づいている。普通の出前料理と違うのは、客から意見をもらい、客の好みに合わせて料理を作るということ。仕出しとは、料理人と客がコラボして作り出し、高めあってきた食文化だった。
★ 「木乃婦」さん登場。

 北関東の当地で「仕出し弁当」というと、出来合いの定番メニュー、というイメージですが、京都では客と仕出し専門店とのやり取りで作り上げていく過程があることを知り、驚きました。
 仕出し専門店の主人が心がけているのは「冷めても美味しいもの」だそうです。


4.豆腐
 湯豆腐に精進料理…。京都では豆腐は料理の主役として、また他の料理を引き立てる脇役として、長い間親しまれ続けてきた。そのおいしさの秘密は、なんと言っても水。京都の地下には無数の水脈が走っていて名水を生み出している。どんな食材ともけんかしない豆腐の魅力を探る。
★ 「入山豆腐店」さん登場。

 もどき料理としての「普茶料理」に多用された食材「豆腐」。
 妻と結婚した当時、奮発して京都の街中の「俵屋」さんに一泊したことがあります。
 そこの朝食で出てきた湯豆腐の味が忘れられません。


5.和菓子
 和菓子と言えば花や葉っぱなど自然をモチーフにした形のモノが多いが、京都の茶会に出される和菓子は抽象的でわかりにくい形をしている。そこには、京都ならではの理由があった。茶会の席で客人たちは、その和菓子にどんな意味が込められているのか、想像して楽しむのだという。
★ 「紫野源水」さん登場。

 茶会で出される和菓子は、主人が和菓子店にイメージを言って職人がそれを表現するという創作の世界。客人は和菓子を食し、お茶を点ててもらっている間にその名前“菓名”を当てるというゲーム性もあるのですね。
 京都らしい、風流な遊びだと思いました。


6.お茶
 お茶の産地・宇治が近くに位置することから、京都ではお茶の文化が花開いた。そんな京都の庶民が一番親しんでいるのは、抹茶でも緑茶でもなく、実は、ほうじ茶。「食事の最後にほうじ茶でしめると気持ちが安らぐ」というのは作家の柏井壽さん。京都人とお茶との少し意外な関係を見つめる。
★ 「山本園茶舗」さん登場。

 私もほうじ茶の香ばしい香りは大好きです。
 京都に住んでみたいなあ。


7.漬け物
 京都人は漬物が大好きだが、中でも特に好まれるのがしば漬け。しば漬けの産地、京都市の北部に位置する大原では中国から伝えられた赤しそを800年以上にわたって守り継いできた。そして、おもてなしの原点とも言われる“しば漬けとある女性に関する物語”が語り継がれてきた。その物語とは…。
野呂本店の「御所しば」が登場。

 柴漬けは寂光院の住人であった平清盛の娘である建礼門院を慰めるために大原の人々がおもてなしに提供したもの。「この土地にはこんなものしかありませんが・・・」という一歩引いたスタンスがおもてなしの精神だそうです。
 柴漬けは京土産の定番ですね。でも食べ頃が1週間くらいで、それ以降は味が落ちてしまいます。


8.おばんざい
 最近、お料理やさんでも人気の京都のおばんざいだが、もともとは、家庭で作る質素なおかずのことを意味していた。毎日の食事が重ならないように料理の順番を決めていたことから、「お番菜」と呼ばれるようになったという。おばんざいには、京都のお母さんの知恵や工夫が詰め込まれていた。


 以前やはりNHKで拝見した老舗呉服問屋「杉本家」の『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』が出てきました。商売をしていた杉本家で働く人々の賄い料理は、限られた素材で、倹約して、でも飽きないように工夫され、毎月出す料理の“順番”が決められていたのでした。
 また、保存が利いて応用しやすい食材としてがんもどき、湯葉などが紹介されていました。やはり蛋白源の大豆は偉大です。

「東日本大震災の記憶を紡ぐ紙芝居」

2017年08月17日 08時00分53秒 | 震災
 紙芝居には不思議な力があると思います。
 読み手の思いを直接手渡しすることができるからでしょうか。
 繰り返し繰り返し・・・。


■ TOMORROW「記憶を紡ぐ紙芝居」
2015年11月8日:NHK BS-1
【語り】ステュウット・ヴァーナム・アットキン
 詳細大震災と原発事故に見舞われた福島県で、当時の出来事を紙芝居で語り継ごうという活動が続いている。発起人は広島の紙芝居作家、福本英伸さん。福島に足を運んでは取材を重ね、数々の作品を描いてきた。番組では、震災から4日間避難指示区域に取り残された人々の体験談と、5人の命を救った後に津波で命を落とした少年の物語を紹介。制作に至った背景や込められた思いをひも解き、紙芝居として生き続ける震災の記憶を見つめる。


<関連記事>
■ “震災の記憶”後世に 浪江まち物語つたえ隊が体験紹介
2015年3月11日 福島民友ニュース
「被災地の現実を知ってほしい」と各地で紙芝居の上演を続ける浪江まち物語つたえ隊

 県外で東日本大震災の記憶が薄れつつある中、風化防止に向けて被災者が「語り部」となり、自身の体験を伝える取り組みが各地で行われている。子どもたちに震災の教訓を継承しようと、震災から丸4年の節目に合わせて公立学校は防災の授業を行う。津波で被災した車や駅の改札口、道路標識などを「震災遺産(震災遺構)」として保存する動きも出ているが、当時の悲惨な光景を呼び起こすとして複雑な思いを抱く住民もいる。震災の記憶をどのように受け継いでいくのかが問われている。
 東京電力福島第1原発事故の影響で避難する浪江町民と、避難先の住民らが被災した体験を紙芝居にし震災の記憶として伝えている。「被災地の現実を知ってほしい」。震災から4年がたち、明るい話題も出てきたが、復興の影に隠れてしまいがちな被災者の思いを紙芝居で紡ぐ。
 紙芝居を披露するのは浪江町と桑折町、伊達市保原町の語り部有志で昨年4月に発足した「浪江まち物語つたえ隊」。広島市の市民団体の協力で古里の民話を紙芝居にして各地で上演。これまで制作した紙芝居は37作品に上る。
 被災体験を伝える最初の作品となったのは、浪江町の語り部で2012(平成24)年6月に84歳で亡くなった佐々木ヤス子さんが、避難の体験をつづった手記を基に作られた「見えない雲の下で」。佐々木さんから語り部について教わり、続ける約束をした八島妃彩さん(49)=浪江町=が読み手として思いを引き継ぐ。原発事故直後の不安な気持ちを思い起こさせる物語は、被災者の共感を得ているほか、被災していない人々の心も打つ。原発事故から時間がたつにつれて「(世間が)鈍感になっている部分がある」と感じる八島さんは「まだまだ復興が進んでいないことを知ってほしい」と話す。
 桑折町と伊達市のメンバーが加わったことで読み手が増え、活動の幅が広がった。8日には、東京で開かれたイベントで紙芝居を披露し、首都圏の人々に震災の記憶と被災地の現状を訴えた。同隊の小沢是寛会長(69)=浪江町=は「震災と原発事故を風化させてはいけない。そのために現実を伝え続けたい」と思いを語る。

 浜通り中心に語り部活動 
 県によると、被災者が震災の語り部となり体験を伝えるツアーの受け入れが相馬市やいわき市など浜通りを中心に行われている。県は2012(平成24)年にふくしま観光復興支援センターを設立。県外から寄せられるツアーや防災研修などの問い合わせに答え、観光協会や自治体など県内各地の受け入れ団体を紹介している。
 同センターが取り次いだ数は12年度が月平均で約700人、13年度は約1000人に上り、本年度は約700人という。同センターに登録する語り部の数は約180人で、地域復興の取り組みなども紹介している。

佐藤優×出口治明

2017年08月03日 06時30分02秒 | 震災
対談集:佐藤優(作家・元外務省主任分析官)×出口治明(ライフネット生命創業者)
1.「イスラム教もキリスト教も、なぜ戦後の日本でうまく根付かなかったのか」(2017.7.31)
2.「宗教から国際問題を理解する」(2017.8.1)

<内容>
 ライフネット生命会長・出口治明さんが「歴史」や「教養」をテーマに、さまざまな有識者をゲストに迎える対談企画「出口さんの学び舎」。技術革新やグローバル化により変化の激しい現代で、ぶれない軸を持って生きていくために必要なものとは何か、対話を通じ伝えていく――。


気になった箇所を抜粋。

・人はなぜ宗教を求めるのでしょうか? ・・・端的に言うと、死ぬからですよね。

・近代に生きている人間は、宗教とは自覚していなくても、みんな宗教を信じていると思うんです。一番近い宗教は「拝金教」。お金を信じている。もう一つは「出世教」ですね。出世教と関係しているのは、「受験教」ですね。

・そのような宗教はたくさんあると思うんだけど、一番重要なのは、宗教という形をとらないと思うんです。戦前において、「国家神道」つまり伊勢神道は宗教ではありませんでした。日本臣民の慣習だった。

・「戦後の日本で、なぜキリスト教が広がらなかったんですか?」という質問を受けたことがあります。
 イスラム教もキリスト教も、戦後の日本でうまく根付かなかったのは、商売につながらないからですよ。私はいろいろな宗教を見てきましたが、ある程度ビジネスと相性のよい宗教じゃないと残らないんですよね。

・薩長土肥の中でエリートになれなかった青年たちが、明治維新のときにキリスト教に行っているんです。だから、今の日本のキリスト教は根付かないと同時に、政府に対してちょっと後ろ向きの姿勢を取る。左翼と右翼というよりも、明治維新の恨みがあるわけです。だから薩長が嫌いなんですね、日本のキリスト教は。

・なぜキリスト教は、世界的な宗教になることができたかというと……いいかげんだからですね(笑)。
 たとえば、みんなクリスマスのお祝いをするでしょ。あれは1950年代からなんです。それまでクリスマスなんて祝わなかった。アメリカで、つい最近起きた習慣ですからね。

・キリスト教の教義では、神様が一人のはずなんだけど、一方で「父なる神」と「子」と「聖霊なる神」の3つである、というね。それから、イエス・キリストが、人間なのか神なのかもよくわからない。真の神と真の人。教義の根本のところが、ものすごくいいかげんなんですよ。正しく理屈で説明できるようになると、それは異端で火あぶりになるんです。
 たとえば、父なる神がいたとき子と聖霊はいなくて、子なる神がいるときは父と聖霊がいなくて、子なる神キリストがいなくなったら聖霊になったんだ、という考え方が昔からあるのですが、それは異端でかなりの場合、火あぶりになっているんです。
 あるいは、神様がキリストを養子にしたという説もある。これも異端とされました。理屈で説明できるのは、全部ダメなんです。

・僕はキリスト教が世界に広がったのは、寄生階級を組織化していたからではないかと思っているんです。キリスト教は、ローマ教皇から始まり、寄生階級をたくさん抱え込んでいる。そうするとお布施がなかったら生きていけません。
 たとえばルターの改革で、ドイツや北ヨーロッパを失ったら、どこかを取り戻さないと自分たちが生きていけない。取り戻すため、拡大しようとした一つが日本だった。宗教改革がなければ、ザビエルが日本に来ることはなかったですからね。
 要するにどんどん領土を広げなければ、ごはんが食べられないという構造があったから、世界宗教になったのではないかと。帝国主義と結びつくことができたのが、キリスト教が広がった大きな理由でしょうね。

・イスラム教はキリスト教のどのグループと似ているのでしょうか。
 カルヴァン派です。生まれる前に神様から選ばれる人たちと、選ばれない人たちが決まっているという考え方(二重予定説)があります。似ていると、磁石ってN極とN極で反発するんですよ。実は、トランプはカルヴァン派なんです。
 20世紀以降、アメリカの大統領でカルヴァン派は3人しかいません。ウィルソン、アイゼンハワー、そしてトランプ。この3人は特徴がありますね。たとえばウィルソンだったら、国民に「何やってるの?」と思われながら、「神様から言われたからやっている」という思いで国際連盟を作りました。結局アメリカ議会の反対で加盟できなかったんですが、そういうエネルギーはカルヴァン派特有です。
 アイゼンハワーも、ノルマンディー上陸作戦なんて周囲はやらないほうがいいと思っていましたからね。それが、彼のものすごく強いイニシアティブで実現したわけです。やっぱり神がかり的なところがある。
 だからトランプを理解するには、彼自身が「自分は神によって選ばれている」という理想を持っていることを知ること。不動産業で成功したので、普通に考えればそれだけでいいんだけれど、彼は「世のため人のために大統領になった」と思っているんです。だから面倒くさいんです。何かを信じている人とは、なかなか普通の話ができないですよね。

・ユダヤ教とキリスト教はヨーロッパでは仲が悪いんですが、アメリカでは仲がいいんですよ。イスラエルというのは、選ばれた人によってできた国であると、聖書に書いてある。この世の終わりに最後の審判が起きて、みんなが楽園に入る前にイスラエルが現れる、と。
 それと同時にわれわれが作ったアメリカも、同じような国だ。だからイスラエルを支持しよう。この考え方がトランプの中で強いですからね。だから、娘がユダヤ教に改宗することを全然気にしなかった。

・アラブが今これだけの力を持っているのは、たまたま石油があったからです。本当に怖いのは、イスラム世界ではイランです。イランには、ペルシャ帝国の歴史が入っているので、円環もゾロアスターも持っている。古代の世界帝国を作ってきたのは全部ペルシャ人なので、中東のカギはイランが握っていると思います。イランというのは、ローマ帝国以前の世界帝国だった。ローマ教皇と自分たちは対等だと、今でも思っていますからね。
 中東を安定させようと思ったら、やっぱりイランがカギですね。今のイランが極端な原理主義政権なので、これが続いていったら大変です。イランが怖いのは、核開発を本気でやっていて、それは民主派もリベラル派も支持していることです。「大国であるイランは、核兵器を持つべきだ」と。

・レッドライン外交というのがアメリカの伝統的外交。ここが赤い線で、この線を越えたらアメリカはやるぞと言ったら必ずやる。有言実行の国だったんですが、オバマはシリア問題では結局一線を超えてもやらなかった。それがロシアにつけ込まれる原因になったんです。
 アメリカは、3年間ISと戦っているんです。オバマが宣戦布告をして。地上軍を送らないでやっているのですが、全然効果が上がらないわけです。
 ところがロシアはわずか2カ月間で効果を上げている。
 なぜかと言えば、アメリカは絨毯爆撃ができないからです。ISの特徴はハイブリッド。アルカイダとか日本赤軍とかオウム真理教とかドイツ赤軍とか赤い旅団とか、こういうのはすべてテロの専門家集団ですよね。それに対してISは、ハイブリッド。すなわち市民社会を持っているんです。工場も、農場も、役所も、学校も、病院も持っている。それがモザイク状に入り組んでいるのでどこを攻撃したらいいか、わからないんです。
 本当は絨毯爆撃のほうがいいんですが、それをやったらISが西側のジャーナリストを入れる。そして、子どもが殺されているところ、お母さんが子どもを抱きかかえたまま死んでいるところ、そういう動画や写真を渡して、「これが事実だよ」と伝えます。
 ロシアはまずメディアがそういうことを報じないし、仮にインターネットで報じられても、ロシア国民は「そんなもんだろう」という国民性なので心配ない。
 トランプからすれば、石油がろくに出ないシリアに、なぜ投資しなければいけないんだ、と。ロシアが多少野蛮なやり方で整理してくれるなら、それで構わない
 その代わりイラクはダメ、石油が出るから。だから、むしろ不良債権処理として見たほうがいいかもしれません。シリアとイラク、両方とも不良債権なんだけれど、コスト感覚としてシリアはコスパが合わない。そこの地上げ屋に入っている半分企業舎弟みたいなロシアがいるから、そこにやらせればいいじゃないか、という感覚でしょう。

・韓国は遅れているんです。意外と知られていませんが、韓国のミサイル技術、ロケット技術はいまだに大気圏外にも出すことができません。学力でいうと、韓国が公立中学3年生くらいだとすると、北朝鮮のミサイルは東工大の大学院くらいです。
 だから、韓国は弾道ミサイルと、核兵器がほしいんですね。
 核に関して言えば、日米原子力協定で、日本は六ヶ所村でプルトニウムの抽出、ウランの濃縮をしていますね。ところが韓国は認められていません。韓国の燃料はアメリカの原発からもらうだけなんです。
 どうしてかというと、朴正煕大統領の時代に密かに原爆を作ろうとして、アメリカがそれをやめさせたから。だから、日本レベルでのプルトニウムの抽出とウランの濃縮を認めさせてくれといっても、アメリカは認めません。今後も認めないでしょう。

・北朝鮮の核開発の最大の問題は、あそこでウランが掘れてしまうことなんです。ウランさえ採れなければ、封じ込めは簡単にできるんですが。

・テロには3つの形がある、と言っていました。
 1番目がローンウルフ、一匹狼です。これは自分の心の中でテロをやろうと決めて、誰にも言わないタイプ。
 2番目はローカルネットワークと彼は言っているのですが、夫婦や兄弟で行うテロ。このテロの特徴は、なたやナイフを使う。あるいは自動車のジグザク運転。これは夫婦や兄弟でやるので、情報が洩れません。命を賭けてやるから、最後は当日か前日に決意表明を書いて、インターネット空間に遺書を残す。できるだけ多くの人に見てほしいわけですからね。そこには、パターンとなったフレーズなどがあって、それに特化した検索エンジンシステムを、今、イスラエルは作っているそうです。だいたい20分くらいで見つけられる、と。
 そこに警官が「お話聞かせてください」と訪ねていく。そしてあぶないと思ったら予防拘禁するわけです。実は、日本国政府を暴力によって転覆させようと考えている人たちは、いくらでもいる。革命派とか、中核派とか。ところが、具体的な活動に着手しない限り、これは網にかかりません。
 ところが、イスラムのテロリズムというのは、思いついたら即行動なんです。その間の距離が短いから、近代法的な枠組みの中では脅威を除去できない。だから新しい防止策が必要になるのです。
 3番目は組織テロ、ISなどです。これの特徴は、爆弾を使うこと。自爆テロであるか、時限爆弾であるかを問わず、爆弾をつかうものには組織背景があると考えていい。
 自爆テロリストの養成について聞いたのですが、サンクトペテルブルグで自爆テロがありましたね。あれは1カ月前まではおとなしい青年だったというから、「1カ月で自爆テロリストにできるのか」と言ったら「佐藤、おまえ、何眠たいことを言っているんだ、簡単だよ」と言われた。「どうするの?」と聞いたら「自殺願望のある奴を見つけるんだ」と。
「理由は何でもいい。借金でも、失恋でも、とにかく自殺するってことを決めている奴を見つける」と。そしてこう説得する。「自殺するのは人生の敗者だよな。みじめだ。虫けらのような一生でみんなから忘れられる。でも、自殺ではなく、お前が命を投げ出す決意が重要なんだ。イスラムの聖戦に加わらせてやろう。そこで戦えば、天国に行く道の扉が開く」。



「秘境・秋山郷 マタギの里の恵み」

2017年05月06日 15時43分29秒 | 震災
秘境・秋山郷 マタギの里の恵み
BS朝日、2014.12.30放送

「苗場」と言えば、私にとっては「スキー場」です。
四半世紀前の若かりし頃、四駆に乗って何回も行きました。
当時のスキー場ではユーミンの曲が定番でしたね。



苗場山というのは頂上が平らであることを初めて知りました。
夏になると山頂が尾瀬の湿原のようになるそうです。



番組はその苗場山の西側にある「秋山郷」のお話です。
秋田のマタギが住み着いてその技を継承している秘境。
はじめに住み着いた「大秋山村」は、天明の飢饉で8棟全体が餓死し、村が消滅したという壮絶な過去を背負っています。

若者が集まるレジャー施設「苗場スキー場」のすぐ近くに、こんな秘境が隣り合わせに存在していることを知り驚きました。

現在(2014年放送時)、小学校には生徒が3人しかいません。
秋山郷の将来は如何に?

<番組概要>
 新潟県との県境に位置する長野県栄村・秋山郷。周囲を苗場山(2145m)と烏甲山(2038m)に囲まれ、およそ半年間、2mを超える雪に覆われる豪雪地帯です。ここには、厳しい環境を生き抜くための知恵と習俗が、今なお連綿と受け継がれています。“マタギ”と呼ばれる猟師たちは、森に熊を追い、山菜・川魚・きのこなど様々な山の神からの授かりものを享受しながら、自然の営みの中で暮しています。
 民宿「出口屋」を営む福原和人さんは、栄村で現在7人しかいないマタギのひとりです。父、故・直市さんはマタギ衆を束ね、多くの熊を仕留めた名人でした。そして息子の弥夢(ひろむ)くん(7歳)もまた「マタギの心」を受け継ごうとしています。番組では、秋山郷の暮らに1年間完全密着し大自然に寄り添いながら生きる姿を追いました。


気になったのが、ナビゲーターの服部文祥という人物。
肩書きは「登山家・文筆家」とありました。
よくこの手の番組では、昔の有名人やお笑いタレントが案内役になりますが、ちょっと雰囲気が違う。
“野生”を感じさせる目つき。
そしてマタギの話に入り込んで同化してしまう知識もあります。

検索してみたら・・・「サバイバル登山家」として有名な人でした。
なるほど。

「あの舞をもう一度〜原発事故と民俗芸能」(NHK)

2016年09月10日 14時56分54秒 | 震災
2014年6月7日放送 ETV特集





解説
 福島の民俗芸能が存続の危機に直面しています。数百年前から受け継がれ、地域の人々を結びつけてきた祭り。ふるさとの神社に奉納してきた唄や舞。そんなかけがえのない民俗芸能の担い手である住民を、原発事故が散り散りにしてしまいました。文化庁の調査によると、原発事故が生活に大きな影響を及ぼした地域では、9割近くの民俗芸能が復活できないでいます。しかし、地域がバラバラになってしまった今こそ、自分たちのルーツともいえる唄や舞が必要なのではないか。すがる思いで民俗芸能の復活に奮闘する福島の人々を追いました。
 集落の大半が津波にのまれた南相馬市・北萱浜(きたかいはま)地区。天狗(てんぐ)と獅子の闘いを描いた珍しい天狗舞は、地元の男たちが受け継いできました。男たちは鉄の結束で結ばれていましたが、原発事故後はバラバラになり、町も活気を失っていきます。去年、残されたメンバーが天狗舞を3年ぶりに復活させようと立ち上がります。しかし、人々を引き裂いた原発事故の影響は想像以上に大きいものでした。かつての絆を取り戻そうと舞の復活に挑む男たちの姿を追います。
 一方、故郷に住むことができないにもかかわらず、伝統の踊りを復活させている地域もありました。浪江町(まち)請戸(うけど)地区です。住民は散り散りになりましたが、それぞれの避難先から集まっては全国各地で田植踊などを披露しています。なんと、震災後に生まれた2歳の女の子が踊り手に加わるという奇跡もおきました。しかしメンバーのなかには、故郷の神社で昔のように踊りたい、という切なる願いがありました。しかし、故郷には住むことができず、神社は津波に流されてしまっています。そこで、仮設住宅に故郷の神様を呼び込み、祭りを開催しようという計画が持ち上がりました。前代未聞の試みは、果たして成功するのでしょうか。


 福島県の神社に属する民俗芸能は、避難民の流出と共に消えつつあります。
 県内にはなんと800もの民俗芸能があり、それを採集し記録していた民間学者も出てきました。

 神社は地域の寄り合い所であり、その祭りは地域の絆の肝です。
 そして神社は自然信仰の象徴ですから、自然に左右される第一次産業(農業・林業・漁業)の衰退と共にその存在感も小さくなります。
 都会の神社はビルの谷間にひっそりと鎮座しているのを見かけますね。

 自然豊富な福島県では神社は健在でした。
 が、原発事故を機に一転し、消滅の危機を迎えました。
 一部の人々が民俗芸能を復活させようと動き出しました。
 番組の中で2つの例を紹介しています。

 ひとつは南相馬市・北萱浜の天狗舞。
 男達の絆を取り戻すべく奮闘します。

 もうひとつは浪江町請戸地区の田植踊。
 もともとは若い男女が舞っていましたが、原発ができてから農業から原発に転職した男女は農閑期がなくなり、踊りの担い手が子どもになった経緯があります。
 有名な踊りらしく、全国から声がかかり田植踊を披露してきましたが、その度に集まっていた子どもは成長しだんだん集まりが悪くなり将来消えてしまう不安がありました。
 やはり本来の姿である、地元の神社の踊りとして奉納したい、という思いから、福島県神社庁に相談し、仮設住宅に故郷の神様を迎えることにより田植踊を復活させたのです。
 おおっ、神社庁も粋な計らいをするもんだ(^^)。

 変遷を経ながらも生きる日本の信仰を垣間見ることができました。

NHK放送大学アーカイブス・特別講義「シャーマニズムの世界」(桜井徳太郎)

2016年09月10日 14時39分12秒 | 震災
NHK放送大学アーカイブズ・もう一度聞きたい名講義(1990年放送)



<解説>
シャーマニズムの世界~憑依現象-神がかり- (駒澤大学名誉教授 櫻井 徳太郎)
1990年度開設の特別講義「シャーマニズムの世界~憑依現象-神がかりー」 講師は民俗学者で駒澤大学名誉教授の櫻井徳太郎さんです。シャーマンとは神や霊と交流、交信するもの のことで東北地方のイタコや沖縄のユタなどが知られています。この講義では日本各地に残る実際の儀式を 紹介するとともにシャーマンの地域における役割や社会的な意味について解説します。


民俗学者の故・桜井徳太郎氏、イタコ/ユタの口寄せ(仏おろし)、ゴミソ/ノロの神おろしの実物映像を見ることができただけでも貴重です。
古来、日本各地にはその土地土地でシャーマンが存在し、政(まつりごと)を執り行い、時には民衆の悩みを解決する相談役・カウンセラーとしての役割を担ってきました。
日本の原初の政治体系は、シャーマン(巫女)による呪術とそれを補佐する男性による二人体制を基本としたのではないかと桜井氏は解説します。
魏志倭人伝の卑弥呼に関する記載箇所にも、彼女が占いを行う巫女で、補佐役のその弟が政治を執り行う体制が記されているからです。
時代が下り、巫女はその能力を失い、現代の神社では若い女性のアルバイトに成り下がり、各神社の神楽からも呪術的な要素が消えつつあり形骸化している・・・。

他に、木曽御岳の山伏や、都会のシャーマニズムとして、天理教と大本教も紹介されました。

「東京が焼きつくされた日〜今語る東京大空襲」(2016.3.24:BS朝日)

2016年08月07日 11時12分19秒 | 震災
番組内容
 日本の首都東京の下町がたった一夜、しかも2時間で焼き尽くされた、1945年3月10日東京大空襲。10万もの人たちの人生が犠牲になりました。そして生き残った多くの人生も大きく狂わされました。もはや人と言う尊厳さへも失われた形で積み上げられた数多くの屍には、それぞれの人生が確かにそこに生きていました。
 それから70周年を経て、今年は71年目。あの悲惨な出来事を話して下さる方々が年々少なくなってしまっています。番組では、あの日何が起き、人々はどう生き抜いたのか。今なお様々な思いを抱えた人や戦火の傷跡が残る場所を、若手俳優の大野拓朗が辿り、その眼を通して実感あるものとしてお届けします。家族6人が犠牲になった海老名香葉子さん、母の決断に命を救われた毒蝮三太夫さんをはじめ内海桂子さん、桂由美さん、野村万作さん他、生と死が隣り合わせであった壮絶な光景、貴重な体験談を語ります。
 今なお癒えることのない空襲の傷跡から多くの事を感じ、思い、そして次世代へ。戦争の悲劇を繰り返さないために、いま私たちに出来る事とは何かを問いかけます。


人間の歴史の中で最大級の無差別殺戮事件、それが東京大空襲です。
わずか2時間の間に10万人が死亡し、100万人が焼け出されました。

使用された爆弾は「M69焼夷弾」(ナパーム弾)。
破壊ではなく火災を目的にした特殊な爆弾です。
爆薬にパーム油を混ぜることによりゲル化し、標的に当たるとそれが四方に飛び散り、何かに付着すると剥がしにくく、火がつくと1000℃で燃え続けるもの。
アメリカは日本家屋が木造であることを研究し、効率的に被害を大きくするための開発したのでした。

1945年3月10日の東京大空襲には、325機のB-29により30万本(1665トン)の焼夷弾が投下されました。
文字通り、東京は火の海になり、生き地獄の様相を呈しました。

一方、日本の空襲・火事対策は防空壕とバケツリレー。
ナパームは水をかけてもはじいてしまい、火は消えません。
バケツリレーは役に立ちませんでした。
火の海状態で防空壕に避難すると、窒息死が待っていました。
水を求めて川に飛び込むと、3月の水温は10℃と冷たく、溺死・水死が待っていました。

しかし、消火作業をやめて逃げることは犯罪行為に近く「国賊」と非難されました。
国が指導する避難対策により逃げるに逃げられない男達は、子どもだけ逃がして自分は残り、その結果死者が膨大な数になりました。

親を失った戦災孤児は数万人を数え、しかし遺体が行方不明の場合は「遺族」扱いされません。
軍人には戦後補償がありましたが、民間人の空襲被害者には補償がありません。

国が始めた戦争ですが、都合が悪くなると責任者は逃亡し、責任の所在をうやむやにしてしまう体質に、原発事故と共通するものを感じました。


「沈黙を破る手紙〜戦後70年目のシベリア抑留」(2015.9.6:NHK、ETV特集)

2016年08月06日 21時43分20秒 | 震災
番組内容
太平洋戦争終結後、57万以上の人々がソ連の収容所に連行され、少なくとも5万5千人が犠牲になった、「シベリア抑留」。京都府の舞鶴市で、シベリア抑留の知られざる断面を物語る貴重な資料が見つかった。それは、当時公表されていなかった抑留者の安否と帰国の予定を、その家族に伝えた手紙。終戦後、生死もわからず、いつ帰るとも知れない夫や子を待ち続ける家族にとっては、まさに"希望の手紙"だった。
当時シベリアに抑留されていた人々の多くは、氷点下40度を下回る屋外で、森林伐採や鉄道敷設といった肉体労働に従事。みずからの生死を家族に知らせる手段さえなかった人がほとんどだったという。そうした中、なぜ、抑留者の安否を知らせる手紙が届けられたのか?
カギとなったのは、アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。 戦後70年。時を経て見つかった手紙の先にあったのは、終戦後も戦争と国家に翻弄された抑留者と家族たちの苦難。さらに、手紙の発見をきっかけに、封印していた記憶を語り出した元抑留者や、教科書の中でしか知らなかった戦争を身近な問題として捉え始めた若者もいる。
今、手紙が私たちに問いかけることとは何か?いまだ癒えることのない抑留者や家族一人一人の声に耳を傾ける。


二人のキーマンが登場します。
一人目は、シベリア抑留者で元樺太の新聞記者である木村慶一さん。
彼の抑留生活は寒さに凍える肉体労働ではなく、モスクワ放送の日本語放送を担当することでした。
その内容は、日本へ向けて共産主義の優秀性をひたすら訴えるプロパガンダ放送。
そのほんの一部を使って、シベリア日本人抑留者の安否情報を流したのでした。

二人目は、シベリア抑留者の安否情報を手紙に書いて家族に送った電気工の坂井仁一郎さん。
彼はモスクワ放送の日本語放送をラジオで聞いて、それを筆記したのでした。
安否情報が流れた人たちは、実際にその後舞鶴港へ帰国することになりました。

なぜこんな事が起きたのか?

太平洋戦争を終結させたポツダム宣言には「敗戦国の捕虜を速やかに帰国させる」というルールがありました。
しかしソ連は、日本人をシベリアに抑留し労働させるという行為を続け、そのルール違反は国際社会から強く非難されていました。
抑留者の安否情報はその批判をかわすトリックだったのです。
ソ連のずるい体質は昔から変わらないのですね。

シベリア抑留の目的は強制労働だけではありません。
抑留している日本人に思想教育を行い洗脳し、その後帰国させて共産主義を日本に広めるという目的もありました。
つまり、抑留者はプロパガンダを目的とした武器に仕立て上げられたのです。

実際にシベリア抑留からの引き揚げ者の中に、共産党へ入党したり、町中で赤旗を振ってデモ行進を行う人もいました。
そのため、引き揚げ者は「アカ」と呼ばれて差別され、就職できない状況も発生したそうです。
どう転んでも、戦争は不幸な人を作り出します。

ハバロフスクにあった日本人収容所は1953年に取り壊されました。
今は草原になっており、そこに収容所があったことを知る人は少なくなりました。

戦争の歴史が風化すると、戦争経験のない人たちが、また戦争を仕掛けるというのが歴史・・・やりきれない気持ちだけが残りました。

戦争中の強制労働の補償について。
中国人や韓国人が日本政府や企業に対して訴訟を起こし、見舞金をもらっているけど、シベリア抑留された日本人はなぜ訴えないのでしょうか?
筆舌に尽くしがたい経験であり、口を閉じて墓場まで持って行くということ?

「天災と日本人」(寺田寅彦随筆選)

2015年01月24日 16時46分59秒 | 震災
角川文庫、平成23年発行

寺田寅彦氏は、明治生まれの地震学者で、科学エッセイが秀逸と評価されている方。
名言「天災は忘れた頃にやってくる」の作者でもあり、2009年3月11日の東日本大震災以降、再注目されています。
そんな流れで、この本を手に取りました。

まず、文章が単調で「~なのである」という言い回しが多く、ちょっと閉口気味。
まあ、科学者だから仕方ないか・・・(苦笑)。

めげずに読み進めると、現在でも通用する鋭い指摘が随所にちりばめられていることに驚かされました。

「津波と人間」では、津波被害を繰り返し経験する地域でも、数十年以上間隔が開いたら人間はそのつらさを忘れてしまうのは仕方ない、としています。忘れた頃にやってくる天災よりも、目の前の米びつの方に目が行ってしまうのが現実だと。
そうかあ・・・では冷静に考えると、千年に一度の「貞観津波」を忘れた日本人を責めても仕方ないのかもしれないな、とも感じたのでした。

最終章に収められている「日本人の自然観」は秀逸です。
小文ですが、日本の自然とそれに起因する日本人気質を西洋と比較しながら大きな枠で捉え、簡潔かつ小気味よく記しています。
ハッとしたのが以下の文章;

西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本と出自然の環境に著しい相違のある事を無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父の振るった鞭の一打ちで、その建設物が実に意気地もなく壊滅する、それを眼前に見ながら事故の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近頃頻繁に起こるように思われる。

まるで、3.11の東日本大震災と原発事故、それを教訓にできず原発稼働を続けようとする日本人の失態を名指ししているようではありませんか!
この文章が書かれたのが昭和10年(1935年)と今から80年前。
先人の忠告は、現在の日本人に届くのか・・・。

<メモ>
 抜粋集。

■ 「天災と国防」(昭和9年)より
 昔の人間は過去の経験を大切に保存しし蓄積してその教えに頼ることが甚だ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験にしたがって作られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。
 今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。

■ 「津波と人間」(昭和8年)より
 こんなにたびたび繰り返される自然現象(=津波)ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことができていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 津波に懲りて、はじめは高いところだけに住居を移していても、5年経ち、10年経ち、15年20年と経つ間には、やはりいつともなく低いところを求めて人口は移って行くであろう。
 我々も昆虫と同様、明日のことなど心配せずに、その日その日を享楽していって、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという捨て鉢の哲学も可能である。
 日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年1回ずつ1時間や2時間くらい地震津波に関する特別講演があっても決して不思議ではないであろう。

■ 「颱風雑俎」(昭和10年)より
 安倍能成(よししげ)君が西洋人と日本人とでは自然に対する態度に根本的の差異があるということを論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。

■ 「災難雑考」(昭和10年)より
 植物でも少しいじめないと果実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下太平だと分裂生殖が収束して死滅するが、汽車にでも乗せて少し揺さぶってやると復活する。このように、虐待は繁昌のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、颱風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。

■ 「日本人の自然観」(昭和10年)より
 大自然は慈母であると同時に厳父である。
 人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した。何故に東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題があるが、多様な因子の中の少なくとも一つとしては、日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像される。すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてその懐に抱かれることができる。一方ではまた、厳父の厳罰の厳しさ恐ろしさが身に沁みて、その禁制に背き逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の十分な恩恵を享受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収して蓄積することを努めてきた。これは分析的な科学とは類型を異にした学問である。

 冬湿夏乾の西欧に発達した洋服が、反対に冬乾夏湿の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果が優れているかどうかは科学的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。

 床下の痛風をよくして土台の普及を防ぐのは温湿の気候に絶対必要で、これを無視して創った文化住宅は数年で根太が腐るのに、田舎の旧家には百年の家が平気で立っている。
 近来は鉄筋コンクリートの住宅も次第に殖えるようである。これは地震や颱風や火事に対しては申し分のない抵抗力をもっているのであるが、しかし一つ困ることはあの厚い壁が熱の伝導を遅くするためにだいたいにおいて夏の初半は屋内の湿度が高く冬の半分は感想が激しいという結果になる。
 日本では、土壁の外側に羽目板を張ったくらいが防寒防暑と湿度調節とを両立されるという点から見てもほぼ適度な妥協点を狙ったものではないかという気がする。

 単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。日本のような多彩にして変幻極まりなき自然を持つ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けてきたのは当然のことであろう。山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到る所の集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
 仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し続けたのはやはりその教義の含有する色々の因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。

 自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威も穏やかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすい。まったく予測しがたい地震颱風にむち打たれ続けている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののようにも思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりにも多彩であまりにも無常であったかもしれないのである。

 外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理窟が生まれたり、教訓が組み立てられたりする。万葉の単科や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然の渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。

 枕詞と称する不思議な日本固有の存在については未だ徹底的な説明がついていないようである。枕詞の語彙を点検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。枕詞が呼び起こす聯想の世界があらかじめ一つの舞台装置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適当な環境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すれば、ある特殊な雰囲気を喚び出すための呪文のような効果を示すのではないか。

 日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時に、また不可抗な威力を持って彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を十分に享楽することを学んできた、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした。
 私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを活かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり、また世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。

「神社は警告する~古代から伝わる津波のメッセージ」

2015年01月19日 08時28分26秒 | 震災
講談社、2012年発行
著者:高世仁、吉田和史、熊谷航

著者達は、東日本大震災の津波被害取材の際、破壊し尽くされた中にぽつんと神社が無事に残っている風景を何度も目にし、その姿に神々しさを感じると共に疑問を抱き調査を始めました。

すると、海岸沿いでも歴史の古い神社ほど津波被害を受けていないこと、それどころか被害を受けた地域と受けない地域の境界に神社があることに気づきました。
著者達が粘り腰でしつこく(?)調査した結果、そこに浮かび上がってきたのは1000年以上前の「貞観(じょうがん)津波」(869年、溺死者1000人)の影。
古い神社の代名詞とも言える「式内社」が制定された「延喜式」が公布されたのは貞観津波の60年後(905年)のことでした。
つまり、式内社は貞観津波を生き抜いた、あるいは津波被害を受けない場所へ移転した神社だったのです。
1000年もの間、神社が津波被害を警告してきた歴史書に載らない史実に驚かされました。

豊かな恵みを与えてくれる自然、しかし時に災害を巻き起こし脅威となる自然・・・この自然を「神」として崇めてきた日本人。
その象徴が神社です。
この本の結論は125ページにあるこの文言;
神社は、自然の猛威と人々の運命を“記憶”として宿すランドマークだったのだ
・・・私は、現代史におけるアメリカの席巻を自省・検証したオリバー・ストーン監督がつぶやいた「歴史とは記憶である」というコメントを思い出しました。

ところがどうでしょう。
現代日本人は、「自然は人間の力でコントロールできる」と過信し、神社が作る結界を破り海岸沿いに住み始め、傲慢にも原子力発電所という化け物までも作ってしまいました。
アメリカのGE社が設計した「ハリケーン対策はしたけど地震津波は想定していない」原発を鵜呑みにして設置しました。冷却水の取水効率の関係から、土台になる岩盤をなんと34(20+14)mも削っている(「黎明ー福島原子力発電所建設記録」の19分30秒と24分20秒の映像)のですよ!
もし、削っていなかったら原発事故は起こらなかったはず・・・こう考えると悔やみきれません。
まだまだあります。
日本政府は原発の安全神話を謳い、貞観津波レベルの災害再来のリスクを指摘されながらも無視し続け、結局東日本大震災で墓穴を掘ることになりました。
一度「絶対安全です」と宣言すると、その後リスクが判明しても改良工事がしにくくなる悪循環。
「改良工事をしたということは、安全宣言がウソだったことになる」というカラクリです。
一度決めたことを変更できない、日本のお役人の悪しき習慣が根底にあるのでしょう。

知れば知るほど「想定外」ではなく「人災」の要素が明らかになる事実に、情けなくなりました。

私にとってこの本の収穫は、神社の民俗学的側面を垣間見せてもらったこと。
村社レベルの地域の神社の成り立ちと変遷、それから現代社会における神社の位置づけを知るきっかけになりました。
神社好きの私の目から鱗が落ちた素晴らしいレポートです。


<メモ>
 自分自身のための備忘録。

■ 神社の起源は詳細不詳
 村社レベルの神社の起源を調べる際に大きな問題になったのは、その詳細を記した文献がほとんど存在しないことだった。
 調べがついた範囲で言えることは、江戸時代の時点で来歴がわからないくらい古い神社が残っていて、来歴の記載があるような比較的新しい神社は津波で流されてしまった、ということ。
 では、来歴不詳の神社はいったい、いつ頃から存在するのだろうか。
 多くの神社が流された福島県南相馬市鹿島区の丘陵地にある祠・薬師堂は、平安時代の大同年間(806~810)に起源があることが相馬藩の文献『奥相志』に記載されている。なんと千年以上も前である。古くから引き継がれてきた地域の“名もなき祠”は、長い年月の中で幾多の天災を経験して、その立地場所、存在意義を確立してきたのではないだろうか。

■ 津(つのみつ)神社(福島県相馬市原釜地区)
 津波が押し寄せてくる際、住民の中には神社に避難した人もいた。神社が津波から安全な場所であることを、避難した人は知っていたのか?
 「津神社は、津波の神様」という言葉を耳にした。
 相馬市の立谷市長の弁;
「明治初めの生まれであるひいばあちゃんに『津波が来る、津神社まで来る、あそこまで逃げれば助かるんだ』という言い伝えを聞いて育った。今回、原釜地区の多くの人たちが、その言い伝えにしたがって津神社に逃げたと聞いた。」
「ご先祖が過去の津波の記憶にもとづいて、そういうモニュメントを残してくれていた。それは『津波に気をつけろ』という、警告でもあった。『津』と書いて『つのみつ』と読むのは、津が満つる、すなわち、ここまで津波が満ちたという意味なのだろう。」

■ 宮城県内の津波伝承(「仙台平野の歴史津波ー巨大津波が仙台平野を襲う」より)
 宮城県内には、どうやら慶長津波(1611年10月28日午前10時過ぎ)の言い伝えが残る神社が広域にわたって分布している。さらに、いずれの言い伝えも、読みようによっては神社が津波の最終到達点に建てられていたようにも解釈できる。
 著者(飯沼勇義氏)の言葉;
「宮城県内の七ヶ浜町というところに非常に多くの津波伝説が残されているんです。そこにある神社はことごとく助かっています。神社がある場所は、津波の避難場所にもなりました。鼻節(はなぶし)神社には千年以上前の津波伝説が残されています。」

■ 神社は安全な場所に建てられた。
 今村文彦教授(東北大学、地震工学)の弁;
「おそらく日本は、東日本大震災のような震災を繰り返し経験してきた。復興する際に、例えば、海岸から離れた津波にも安全、また、地滑りなどに対して山の方でも安全、そういう場所を選んで神社を建立したと考えられる。」

■ 神様は、最初にいい場所をとっちゃうわけなんですよね。
 岡田荘司教授(國學院大學、古代/中世神道、神社の歴史的研究)弁;
「古代、人々は定住する際、まず地盤のしっかりとしたところを聖なる場所に選び、そこに神様を祀ってきた。そのため、時代が下って大地震が起こると、城下町のように埋め立てをした地盤の弱い場所に建てられた民家はたくさん壊れたが、強い岩盤に建てられた神社だけは壊れずにすんだ。といわけで、昔から神社は災害に強かった。」

■ 神社の場所~神と人の世界の境界線
 古代において、神の住む世界と人の住む世界とは明確に区別されていた。山は神々の領域とされ、人々は磐座といった巨石や泉などで神様を迎えた。それらは多くの場合、山の麓のような場所で、そこで人々は春や秋にお祭りを営み、特別なときにお参りをしていた。そして、時代が下ってその場所が定着していくと、神社が建てられるようになっていった。
 しかし、中近世以降、神社は集落の中にも建てられるようになった。
 古代の神々は、人々に恵みや利益をもたらす存在であるのと同時に、祟りや災いをもたらす畏怖の存在であった。ところが、近世になると、大黒様や貧乏神の対比のように、神様の性質は二元化されるようになった。結果として庶民は御利益をもたらすよい神様だけを拝むようになり、集落の中に神様を招き入れるようになった。
 つまり、時代が下ると共に、神社の立地が山の麓から平地へと変わっていった。

■ 神社の形態の歴史・変遷
 太古には、神は祭りのたびに呼ぶもので、神が依りつく「依代(よりしろ)」は木や岩などだった。木の場合は「神木」「神籬(ひもろぎ)」、岩の場合は「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」と呼ばれ、祭りの時には祭壇を設けて神様をお迎えし、終わると神様をお送りした。祭壇は祭りのたびに撤去されていたが、のちに常設の建物になり、神体は社の中に収まるコンパクトなものになっていく。神社はこうしてできていったのである。

■ 神社本庁とは?
 神社はそもそも、律令制度の下で国家的に維持され、その後、権門としての自立性を持った中世、世俗権力の支配下に入り寺社奉行に管轄された近世を経て、明治時代にいわゆる国家神道して再編された。戦後になると、GHQの「神道指令」で神社の国家管理が禁止され、神社は国家と切り離されて一宗教の扱いを受けるようになる。神社本庁はこうした背景の下、1946年に設立された包括宗教法人である。

■ 延喜式とは?
 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により編纂が始められた律令の施行細則で延長5年(927年)に一応の完成をみた。律令制においては法体系が、律・令・格・式に格付けされ、律と令が国家の原則法であり、格と式がその補充法として規則の細則を定めた。
 『延喜式神名(じんみょう)帳』(延喜式 巻九/十)には、調停から官社として認識された神社が、国郡別に一覧表となっており、ここに載った神社は「式内社」(しきないしゃ)と呼ばれる。
 式内社は3132座、2861社あり、これらは少なくとも千年以上の歴史ある神社と言うことができる。なお、「座」というのは祭神の数を示す単位で、神社の数より多いのは、ひとつの神社に二座、三座と合祀されている場合があるからだ。
※ 時代が下って明治時代、全国の神社を国家のコントロール下に置くため社格制度(官社・府県社・郷社・村社・無格社)が作られた。ただし、現在は“式内社”や明治時代に使われた“官社”などのランク付けはなくなっている。
※ 江戸中期に「式内社意識が高揚し」「盛大である社は式内社であると自称し、甚だしきは縁起を作り社名までも変えた神社がある」ようだと指摘する研究書もあり、式内社の由来追跡を困難にする要因になっている。

■ 式内社と津波被害
 福島、宮城、岩手の式内社は“陸奥国百座”といわれ、百社あった(福島県に34社、宮城県に50社、岩手県に16社)。このうち、津波によって全壊/半壊したのは三社だけだった。
 神社本庁の弁;
「貞観津波が起きたのが869年、延喜式がまとめられたのが927年なので、貞観津波が神社の立地に影響したのではないか。」

■ 東日本大震災は貞観津波の再来
 都司嘉宣(つじ よしのぶ)氏(東京大学地震研究所准教授)の弁;
「二つの津波(貞観津波と東日本大震災)の間には、慶長三陸地震津波(慶長16/1611年)、明治三陸大津波(明治29/1896年)など、大きな津波が幾度かあったしかし、多賀城下に達した津波は一つもない。それゆえ、東日本大震災の津波は千年に一度の規模と言われるのである。」
 地図で見ると、二つの津波で海水が到達したライン、すなわち今回の津波浸水域と貞観津波の推定浸水域がほぼ重なることが判明している。少なくとも宮城県においては、文献調査だけでなく、地質学調査においても、今回の津波は貞観津波の再来であり、「千年に一度」の巨大津波だったことが判明した。

■ 神社は“移動”する
 調べてきて印象的だったのは、神社はさまざまな事情によって社名から鎮座する場所まで変わっていくことである。合祀・分祀あるいは遷祠によって神が別の場所に移動していくことが繰り返されてきた。

■ “災害地名”は“小字”に残る
 太宰幸子氏(宮城県地名研究会会長)の言葉;
「旧地名の“小字(こあざ)”から、過去にその土地がどんな場所だったかがわかる。地名の読み解きでは発音が重要で、文字によって判断してはいけない。」
「地名は貴族などの一部の人しか文字が読めなかった時代に、発音を通して自分たちの土地で何があったのかを仲間や子孫に伝えるためのメッセージだった。」
「災害だけではなく小字はその土地の歴史を伝えている。何丁目何番地では何も伝わらない。」
 災害地名でも美しい文字・漢字が当てられることが多いが、それには奈良時代の和銅6年(713年)に発せられた『諸国郡郷名著好字令』という法令が関係している。この法令により、全国の地名を漢字二文字で表記することが決められ、漢字を当てる際にはできるだけ印象のよい文字を用いることになった。これらの印象のよい文字は“佳字”“好字”と呼ばれ、災害地名のような印象の悪い地名にこれらの文字が当てられて、美しい名前に変えられていった。
 しかし、こうした災害地名は近年、姿を消しつつある。
 昭和37年(1962年)、の住居表示法の実施により、地名が“○丁目○番地”と改められていったことや、昭和・平成を通じて繰り返されてきた市町村合併に伴って、災害地名を表す小字自体が亡くなりつつあるのである。

■ 福島第一原発の設置土台の岩盤を34mも削って津波にさらした理由
 敷地を低くした一番の理由は、アメリカ仕様の原発をそのまま日本に持ち込む“ターンキー契約(turnkey contact)”という方式にあった。“ターンキー”とは、工事を発注したら、完成したときにキーを受け取り、そのキーを回せば(turn)すぐに稼働できる状態で引き渡してくれる、いわば“お任せ”一括契約。
 福島第一原発が採用したGE設計の<マークⅠ>型原子炉は、冷却水を高い位置にまで引き上げることを想定していない。敷地を低くしたのは、<マークⅠ>の仕様に合わせたためだった。さらに、非常用電源のディーゼル発電機を、海側のタービン建屋の地下に設置することも、GEの設計図通りに施工された。GEの<マークⅠ>は、基本的に地震や津波への対策を重視していない。むしろハリケーンなどへの対策として、非常用電源は破壊されにくい地下に置く設計にしていたのである。
 原子炉の冷却ができなくなったのは、津波で建屋地下が水浸しになり非常用電源が動かなかったためだった。
 こうして、地震や津波を想定していないアメリカ仕様を設計変更せずに“お任せ”発注したことが今回の大事故につながったと見られるのである。
 日本は、原発を導入するにあたって、日本列島の特殊性、とりわけ地震・津波が起きやすい現実をあまりに軽視していた。

■ 地震に強い“鎮守の杜”
 地震・津波除けの神として知られるのが“鹿島の神”だ。茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮には、地震を起こすと信じられていた地中のナマズを押さえつける要石(かなめいし)が祀られている。日本各地に鹿島神社や要石神社が分布している。
 『千年震災』(都司嘉宣(つじ よしのぶ)著)によると、安政の東海地震の際、被災地の中にぽっかりと地震被害の軽微なところがみつかるという。研究者が現地に行ってみると、そこには鹿島の神が祀られている。地震工学の調査によると、そのような場所の地盤は砂礫層で、局地的に地震に強いことが判明している。

■ 地滑り災害に強い“鎮守の杜”
 原田憲一氏(京都造形芸術大学教授、地質科学)の弁;
「山形県の地滑り地帯の神社を調査すると、ほとんどの場合、神殿前に杉の巨木が立っていた。杉が巨木にまで育つことができるということは、地滑り地帯でありながら、神社の建つ場所は滑らなかったという証拠、つまり安全な聖地である。」
 ではなぜ、わざわざ地滑り地帯という危ないところに神社はあるのか。
 原田氏によれば、地滑り地帯は植物が豊富で多様な生命力を有している。「地滑り地のコメはうまい」とも言われる。そのため人々が豊かな土地を求めて、あえて地滑り地帯に住みつくことがあるという。
 地滑り地帯の中にわずかながら残された、地盤のしっかりしたところに置かれた神社は、地滑りが起きたら、人々がすぐに避難する安全地帯でもあった。
 災害の多い日本列島では、どこに行っても何らかの自然災害と隣り合わせである。津波に限らず、神社は“ギリギリ”のところで人々の暮らしを支えてきたのだ。
 地滑り地帯のわずかな安全地に神社があることを、神道に詳しい鎌田東二氏(京都大学教授)は、「災害地帯の中にあって、災害を大地の創造力として取り込んでゆく生活の知恵であり、その知恵の伝承の集積所が神社であった」と解釈する。
 古代から、古い祭場には磐座と呼ばれる巨石や巨木があり、神が降臨する依代として崇められてきた。巨石、巨木の近くは地盤がしっかりしている上、地下水が豊富に湧き出る泉や井戸がある。その周辺は聖地として伐採などが禁止されるから、生物多様性に富む豊かな森が形成される。
 災害が起こればすぐに人々は神社に避難し、しばらくそこで生活することによって、もう一度自分たちの生活の営みを再興していったのではないか。
 神社が“鎮守の杜”と呼ばれる意味を改めて考えさせられる。

■ 神道はアニミズム
 アニミズムという言葉には“未開”で“低級”という印象がつきまとうが、そこから私たちは自然との本来的な付き合い方を深く学ぶことができる。神道とは“宗教”というより、この列島の人々が育んできた生活の知恵であり倫理なのではないかと思うようになった。
 “自然との共存”という、遙か昔から引き継がれてきた先人達の知恵は、私たちの心の深いところに今もしっかりと息づいているはずである。それなのに私たちは、近代化の中で、自然を征服することが可能であると考えるようになった。その考え方の行き着いた先が原発なのではないか。
 歴史的悲劇となった原発事故が、天災ではなく人災だったことは明白である。


<参考文献>
・本邦小祠の研究(岩崎敏夫著)
・仙台平野の歴史津波ー巨大津波が仙台平野を襲う(飯沼勇義著、宝文堂、1995年)
・三陸海岸大津波(吉村昭著、文春文庫)
・歌枕『末の松山』と海底考古学(論文タイトル)(河野幸夫:東北学院大学教授、環境土木工学者)
・津波遡上限界ラインには神社仏閣がある(講演タイトル)(吉田成志:福島県いわき地方振興局県税課課長)
・災害・崩壊地名 地名にこめた祖からの伝言(太宰幸子:宮城県地名研究会会長)
・千年震災(都司嘉宣(つじ よしのぶ)著、東京大学地震研究所准教授、ダイヤモンド社)

「生き残った日本人へ~高村薫、復興を問う」

2014年11月08日 15時08分58秒 | 震災
 (NHK-BSで2012年3月に放送した番組の再放送)

 神戸大震災を経験した作家の高村薫が、東日本大震災を見つめた内容です。
 冒頭で彼女が自分に言い聞かせるように言いました;

 「震災はそれまで抱えていた問題を流し去りはしない、あぶり出すだけ」
 「東北地方の高齢化、過疎化が復興により解決するわけではない」
 「“復興”というかけ声の下、元に戻す意味があるのだろうか」
 「復興してどういう未来が可能なのか、思い描いたらよいのか?~これが見えない」

 宮城県の某村では明治以降3回の津波を経験した(明治28年、昭和3年、そして東日本大震災)。
 津波被害に遭う度に高台へ移転したが、ほとぼりが冷めるとまた利便性を求めて沿岸に住み始め、同じ被害に遭うことを繰り返している。
 それを山口弥一郎という民俗学者がフィールドワークでによる記録を残していた事例を紹介。

 現在の民俗学者、赤坂憲雄と高村薫が対談。
 誰も言い出せないけど、汚染された地域を“廃墟に化す”必要性を検討すべきではないのか?
 現実には、そうする勇気を持つ行政も政治家も存在しない。

 赤坂憲雄が言うことばに私は頷いた;
 「再生可能エネルギーは自然とテクノロジーの結婚である」
 「復興の名の下に土建バブルを作っても数年で消えてしまう」
 「再生可能エネルギーは、これから縮んでいく日本が選択すべきキーワード」
 「放射能汚染で使えなくなった農地・漁場を風/地熱/波/潮流を利用した再生可能エネルギー源とすべきだ」

 最後に高村薫がつぶやく;
 「生き残った日本人はどのような未来を選ぶのか?」
 「“失う”理性と覚悟はあるのか?」

 以上、印象深い番組でした。

 昨日(2014.11.7)に川内原発再稼働を希望するという陳情が県議会で採択されました。
 子どもたちに残す負の遺産になるのを知っていながら、現在の生活を選択した日本人の姿がそこにあります。
 原発事故で廃墟となり、汚染物質のたまり場になり住めなくなっても今が大切、という選択です。

 理性、覚悟、英知・・・これらの言葉がむなしく響きます。

「女たちのシベリア抑留」

2014年10月11日 22時20分18秒 | 震災
NHK-BSにて前編・後編連続しての再放送。

<番組内容>
 終戦後、日本人60万人がソ連に連行されたシベリア抑留。その中に従軍看護婦など多くの女性も含まれていた。女性抑留者がたどった過酷な運命を証言中心に前・後編で描く。
<詳細>
 終戦後、旧満州などにいた日本人60万人がソ連に連行され強制労働を課されたシベリア抑留。その中に多くの女性も含まれていた。従軍看護婦や、逃避行を続けていた居留民などが、日本軍と一緒に拘束されたのである。女性たちの中には、戦犯とされ10年以上の抑留を強いられた人や、帰る場所がなくソ連国内で生涯を終える人もいた。今までほとんど語られることがなかった女性抑留者の存在。その苦難の歴史を証言でたどる。


 戦争はじいさんがはじめ、おじさんが指揮を執り、若者が死んでいくもの。
 そして一番つらい思いをするのは女性と子ども。

 番組中、皆さん明言を避けてはいるものの、言葉の端々に捕虜となった日本女性がレイプ(強姦・陵辱)されて殺された事実が垣間見えました。
 第二次世界大戦で敗北したドイツの女性は200万人レイプされた、と某ドキュメンタリーで語られました。
 慰安婦問題で日本を責めている韓国も、ベトナム戦争当時ベトナムの女性をレイプしその結果生まれた子どもが数万人いるとされています。

 特定の国・民族を責めるつもりはありません。
 アジアに進出した日本人の行動も推して知るべし。
 ただ、戦争状態に陥ると、生き延びるために人権は無視されるという事実を語っているだけです。

 シベリアへ抑留された女性は、日本に帰ってもつらい仕打ちを受けます。
 「ロ助(ロシア人)に犯された女」とみられて縁談がまとまりません。

 ある女性は日本に帰ることをあきらめ、ロシア国籍を取得しました。
 親しい友人には「帰りたいけど日本には私の居場所がない」と打ち明けていました。

 戦争終了後に行われた「シベリア抑留」という名の強制労働。
 この対価をロシアは日本に支払う義務があるはず。
 そこには「戦勝国は裁かれない」という暗黙のルールが立ちはだかります。
 アメリカが東京空襲で10万人の民間人を焼き殺した“犯罪”も裁かれません。

 しかし、民間人同士になれば、ふつうに付き合う隣人です。
 すべて「戦争」が人を変えてしまう・・・。

「核燃の村 苦悩の選択の記録~青森県六ヶ所村~」

2014年08月16日 06時19分43秒 | 震災
核燃の村 苦悩の選択の記録~青森県六ヶ所村~
2006年、NHK

 


<番組解説>
 使用済み核燃料再処理工場など「核燃料サイクル」の立地で大きな変ぼうを遂げた青森県六ケ所村。
 かつての「過疎と出稼ぎの村」は、いま財政力、住民の平均所得ともに青森県一という豊かな村に生まれ変わった。人口は横ばいだが、就職先が増え、村内には若い人の姿が目立つ。
 その一方で、開発の是非をめぐって激しい政争を繰り返してきた村の歴史は、いまなお村民の胸に複雑な思いを宿している。貧しいなかでも互いに助け合って暮らしてきた村の人間関係も変わった。
 六ヶ所村は当初「大規模石油コンビナート」として開発されるはずだった。1969年、国の新全国総合開発計画に基づく「むつ小川原開発」である。
 367戸1811人の立ち退きを含む計画の受け入れをめぐって村は揺れた。村民をまっぷたつに割った激しい村長選挙が行われ、村は開発推進を選択した。しかし、7900ヘクタールに及ぶ土地買収が終ったところで石油ショックに見舞われ、計画は頓挫する。
 土地を売って高額の補償金を手にしたものの仕事がない。
 そして、広大な空き地となった開発区域にやってきたのは、全国どこにも引き受け手のなかった「核燃料サイクル」だった。
 村では再び対立が始まる…。
 国や県、大企業によって巨大開発計画が推進されるとき、その舞台となる過疎の村ではいったい何が起こっていったのか?
…NHKに残された過去の映像記録を駆使するとともに、新たな証言によって、人々の思いに迫る。


 3年前に「六ヶ所村ラプソディー」というDVDを見たことがあります。
 “核燃サイクル”を受け入れることになった村の混乱振りを住民目線で追った作品でした。

 今回見た番組はさらに深く掘り下げた内容でした。やはりNHKの取材力はすごい。
 4章に分けてストーリーが展開します;

 第一章:巨大開発(1969~1973年)
 第二章:開発の挫折(1976~1980年)
 第三章:核燃立地(1984~1986年)
 第四章:そして今・・・

 以上が「“核燃サイクル”受け入れ賛成・反対の争いは小さな村の人間関係をズタズタに切り裂いた」という視点で描かれています。

 当初は“核燃サイクル”ではなく“むつ小川原開発計画”という名の石油コンビナート誘致話だった。
 公害を心配し、ほとんどが受け入れ反対だった。
 国や県はお金をばらまくことにより、それを効果的に切り崩していった。

 その後、石油コンビナート誘致がオイルショックで白紙となり、土地を売って一時金を得たものの仕事がなくなった住民達は困窮する。
 そのタイミングを待っていたかのように、全国的に受け入れ先のない“核燃サイクル”の設置場所として六ヶ所村に白羽の矢が立った。
 “核燃サイクル”がどういうものかのか理解不十分のまま、半ば強引に受け入れが決定する。
 反対運動阻止目的で、国は機動隊と海上保安庁の船を出動させ(北朝鮮の偵察船と同じ扱い?)、逮捕者続出という現実に、地元民ははじめて「大変なことが起きている」と認識するに至った。

 しかし、国からの交付金はお金のない村を潤す甘い蜜であり、歴代村長は反対する気持ちがありながらも拒否することができなかった。
 そして現在、六ヶ所村議会議員の多くを建設業者が占めるようになり、反対運動は影を潜めた。


 日本のエネルギー問題を核燃料に依存すべきかどうか、何が善で何が悪なのか、正解のない疑問に振り回される日本。
 六ヶ所村はその縮図であると感じました。
 村民が最後に「自分たちと子どもたちの世代は甘んじる、でも孫達は六ヶ所村から出したい」とあきらめと逃避のコメントを残したことが象徴的でした。
 

「仏教に何ができるか ~奈良・薬師寺 被災地を巡る僧侶たち~」by NHK-ETV

2013年06月03日 08時09分39秒 | 震災
2013年5月11日(土) 夜11時放映

仏教に何ができるか~奈良・薬師寺 被災地を巡る僧侶たち~
「なぜ自分だけが生き残ったのか。」「なぜ原発事故に翻弄されなければならないのか。」東日本大震災によって生じた、数々の言い知れぬ苦しみ。その苦しみを少しでも和らげたいと、奈良・薬師寺は去年3月から寺をあげて被災地を巡ることにした。
僧侶たちが携えたのは「般若心経」。仮設住宅の集会所などに出向いて仏の教えを説き、「写経」を勧める。苦しみを抱える人々に、これからの生き方を見つめ直してもらうのがねらいだ。
被災地へ足しげく通う中で、薬師寺の僧侶たちは壁にぶつかる。遺族の苦しみに触れ、これまで説いてきた仏の教えを突きつけることに戸惑いを覚えるようになった者。そして、被災地のすさまじい光景を目の当たりにしたとき、身勝手な自分に気づかされ、仏に仕える資格はあるのかと自己嫌悪に陥った者。それでも僧侶たちは、みずからの存在意義をかけて被災地に立ち続けた。
家族や家を失い、苦しみのただ中にある人々に対して、直接被災しなかった者たちが語りかけるべき言葉はあるのか。薬師寺僧侶たちの1年におよぶ模索を通じて考える。


東日本大震災が起こったあとから宗教の動きに注目してきました。
民が苦境に立たされたとき、宗教は真価を発揮するはず。
うがった見方をすれば、仏教者にとっては存在感を示すチャンスでもあります。

キチンと番組として取りあげられたのは珍しく、興味を持って試聴しました。

しかし、被災地を訪れた僧侶達は・・・ふだん説教をするのに慣れている彼らが戸惑っている姿がありました。
平和な時代の説教は、極限状態では民の耳に届かないのです。

なんだ、日本の仏教はこの程度だったのか、と少々ガッカリしました。

試行錯誤の末、般若心経の写経に落ち着いたのでした。
今の仏教者は、自分の言葉で語る力を失ってしまったのだと感じました。

先日の新聞にこんな記事がありました。
津波の被害を受けたお寺では、檀家もいなくなってしまい墓も荒れて住職は酒におぼれる日々・・・。
あまりにも世俗的であり、そこに聖職者の姿は感じられませんでした。
残念です。