知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「核燃の村 苦悩の選択の記録~青森県六ヶ所村~」

2014年08月16日 06時19分43秒 | 震災
核燃の村 苦悩の選択の記録~青森県六ヶ所村~
2006年、NHK

 


<番組解説>
 使用済み核燃料再処理工場など「核燃料サイクル」の立地で大きな変ぼうを遂げた青森県六ケ所村。
 かつての「過疎と出稼ぎの村」は、いま財政力、住民の平均所得ともに青森県一という豊かな村に生まれ変わった。人口は横ばいだが、就職先が増え、村内には若い人の姿が目立つ。
 その一方で、開発の是非をめぐって激しい政争を繰り返してきた村の歴史は、いまなお村民の胸に複雑な思いを宿している。貧しいなかでも互いに助け合って暮らしてきた村の人間関係も変わった。
 六ヶ所村は当初「大規模石油コンビナート」として開発されるはずだった。1969年、国の新全国総合開発計画に基づく「むつ小川原開発」である。
 367戸1811人の立ち退きを含む計画の受け入れをめぐって村は揺れた。村民をまっぷたつに割った激しい村長選挙が行われ、村は開発推進を選択した。しかし、7900ヘクタールに及ぶ土地買収が終ったところで石油ショックに見舞われ、計画は頓挫する。
 土地を売って高額の補償金を手にしたものの仕事がない。
 そして、広大な空き地となった開発区域にやってきたのは、全国どこにも引き受け手のなかった「核燃料サイクル」だった。
 村では再び対立が始まる…。
 国や県、大企業によって巨大開発計画が推進されるとき、その舞台となる過疎の村ではいったい何が起こっていったのか?
…NHKに残された過去の映像記録を駆使するとともに、新たな証言によって、人々の思いに迫る。


 3年前に「六ヶ所村ラプソディー」というDVDを見たことがあります。
 “核燃サイクル”を受け入れることになった村の混乱振りを住民目線で追った作品でした。

 今回見た番組はさらに深く掘り下げた内容でした。やはりNHKの取材力はすごい。
 4章に分けてストーリーが展開します;

 第一章:巨大開発(1969~1973年)
 第二章:開発の挫折(1976~1980年)
 第三章:核燃立地(1984~1986年)
 第四章:そして今・・・

 以上が「“核燃サイクル”受け入れ賛成・反対の争いは小さな村の人間関係をズタズタに切り裂いた」という視点で描かれています。

 当初は“核燃サイクル”ではなく“むつ小川原開発計画”という名の石油コンビナート誘致話だった。
 公害を心配し、ほとんどが受け入れ反対だった。
 国や県はお金をばらまくことにより、それを効果的に切り崩していった。

 その後、石油コンビナート誘致がオイルショックで白紙となり、土地を売って一時金を得たものの仕事がなくなった住民達は困窮する。
 そのタイミングを待っていたかのように、全国的に受け入れ先のない“核燃サイクル”の設置場所として六ヶ所村に白羽の矢が立った。
 “核燃サイクル”がどういうものかのか理解不十分のまま、半ば強引に受け入れが決定する。
 反対運動阻止目的で、国は機動隊と海上保安庁の船を出動させ(北朝鮮の偵察船と同じ扱い?)、逮捕者続出という現実に、地元民ははじめて「大変なことが起きている」と認識するに至った。

 しかし、国からの交付金はお金のない村を潤す甘い蜜であり、歴代村長は反対する気持ちがありながらも拒否することができなかった。
 そして現在、六ヶ所村議会議員の多くを建設業者が占めるようになり、反対運動は影を潜めた。


 日本のエネルギー問題を核燃料に依存すべきかどうか、何が善で何が悪なのか、正解のない疑問に振り回される日本。
 六ヶ所村はその縮図であると感じました。
 村民が最後に「自分たちと子どもたちの世代は甘んじる、でも孫達は六ヶ所村から出したい」とあきらめと逃避のコメントを残したことが象徴的でした。
 

「100分de名著 万葉集」

2014年08月13日 18時10分06秒 | 古典文学
「100分de名著 万葉集」 NHK 2014年4月放送
講師:佐佐木幸綱

以前から興味のあった『万葉集』。
しばらく前にやはりNHKで「日めくり万葉集」という番組がありました。
各界の著名人が思い入れのある万葉集内の短歌を自分の解釈で語るのです。
ふ~ん、教科書的な“正しい解釈”に固執せず、こんな自由に捉えてもいいんだ、と目から鱗が落ちました。
なんというか、仏教思想で染まる前の日本人の心情がそこに感じられ、今を生きる自分とも波長が合うことに驚いたのでした。

それから、「SONGS OF LIFE―Contemporary Remix“万葉集”」という写真と現代語訳(意訳)がコラボした本も、それまでの万葉集のイメージを覆す衝撃的な内容でした。

ただ、私は『万葉集』系統的な書物を読んだことはなく、その全体像を知りません。
この番組ではわかりやすく解説してもらえそうなので、録画しておきまとめて視聴しました。



<番組説明>
現存する中では日本最古の和歌集「万葉集」。2014年度最初の「100 分de名著」では、日本人の心の原点を探るために、この万葉集を取りあげます。
万葉集の中で最も多いのが57577の短歌です。中には5と7を長く繰り返す長歌もありますが、全てが57調です。和歌は宴などで声に出して披露されるものでした。そのため声の出しやすさから、自然に57調が定まったと考えられています。
万葉集は、様々な時代に詠まれた歌を、後になって集めて編集したものです。そのため時代によって、歌の作風が大きく変わります。そこで今回は、万葉集の歌を、時代ごとに4期に分類して解説することにしました。歌の変化を明らかにすることで、古代の日本が、どのように移り変わっていったかを知ることが出来るからです。
番組では、額田王、柿本人麻呂、大友家持など、万葉集の代表的な歌人にスポットをあてながら、古代の人々の“心の歴史”を読み解いていきます。


まず、万葉集の成り立ちに起承転結があることを知りました。

初期は「言霊の宿る歌」ではじまり、
次に形式を重視した「宮廷歌人の時代」となり、
さらに展開して自由度が増し「個性が開花」し、
そして最後には「独りを見つめる」内省的な面も併せ持つようになるに至りました。

その経緯を司会の伊集院光さんが「写真」に例えたのが上手いと思いました。

幕末に入ってきた“写真”なるものは、
当初「魂を抜かれる」と恐れられ、
初期はかしこまったポーズで撮影し、あるいはカチッとした集合写真。
その後、自由度が増していろんな表現・作品が現れるようになります。

ホント、似てますねえ。

万葉集に収められている歌を大まかに分けると以下の3種類になるそうです。
雑歌(ぞうか):『万葉集』では,相聞,挽歌以外のすべてを雑歌としているため,行幸,遷都,宮廷の宴会など,公的な,晴れがましい場の作が多数含まれる。
相聞(そうもん):男女・親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答された歌が含まれるが、特に恋の歌が多い。
挽歌(ばんか):辞世や人の死に関するものなどを含む。古今集以後の哀傷歌にあたる。

また、現在の様な形に整理したのは江戸時代の国学者、賀茂真淵だそうです。
では番組に出てきた「万葉集の時代」と代表的な歌人を紹介します;

【第1期】629年(舒明天皇即位)「言霊の宿る歌
 悔しい思いで死んだ魂を“荒魂”(あらたま)と呼ぶ。それを歌を読むことによって“鎮魂”し、平和な魂である“和魂”(にぎたま)に落ち着かせる。
 勝ったものは歴史を作り、負けた者は文学を作る。

【第2期】672年(壬申の乱)「宮廷歌人の登場
柿本人麻呂:“歌聖”と呼ばれる初めてのプロの歌人。
 その形式美のスキルは絶品で、枕詞、擬人法、対句、造語などを自由に操り、天皇をたたえる歌をたくさん作った。
高市黒人:旅を読んだ歌人。
 当時の役人は都と赴任先を馬で行き来した。その際に歌を読んだ。土地の名前を入れることにより土地の神様の守護を得るという習慣があった。

【第3期】710年(平城遷都)「個性の開花
山部赤人:柿本人麻呂を次ぐ宮廷歌人。宮廷における人気は和歌から漢詩へ移り、和歌は宮廷賛歌から自然の美そのものを歌う性質に変わっていった。
大伴旅人:生きることの深みを歌い、人生のつらいことも真正面から見る哲学的・宗教的な世界を詠んだ。亡妻挽歌が有名。
山上憶良:他者に思いを寄せる歌を詠んだインテリ。筑紫国へ赴任し、その地方を見て歩きルポルタージュ的な「貧窮問答歌」を詠った、万葉集の中では別格の孤高の存在。

【第四期】733年(山上憶良没)「独りを見つめる」
大伴家持:大伴旅人の子。歌人であるとともに万葉集の編纂者でもある。「山柿の門に至らず」というコメントが有名で、山上憶良(あるいは山部赤人とも)・柿本人麻呂の足下にも及ばないという意味。“愁い”を詠み、光や音のかすかな揺れにどうしても心が向かってしまう性格。採取・編集した「防人の歌」「東歌」も有名。
※ 「東歌」(第十四巻)投獄の素朴な心を詠った作品で、一人も作者がわからない。方言・訛りがたくさん出てくる。


 以上、万葉集の成り立ちが少し俯瞰できたような気がしてきました。
 興味をかき立てられたのは、山上憶良と東歌かな。
 さて、昔録画した「日めくり万葉集」の残りを見てみよう・・・。

「ダウン・ウィンダーズ」(風下の住人達)

2014年08月12日 16時50分39秒 | 戦争
ダウン・ウィンダーズ~アメリカ・被爆者の戦い~
NHK、2014.3.15放映



番組説明
 大国アメリカが「フクシマ・ショック」に揺れている。1月27日、米国である集会が開催された。「ダウンウィンダーズ(風下の人びと)記念集会」。福島原発事故の直後に連邦議会が制定した記念日だ。参加するのはネバダ核実験で飛散した放射性降下物(フォール・アウト)によって被ばくした米市民。フクシマ報道に接した住民たちは、被災者を自分に重ね合わせた。自分たちも政府から十分な情報を与えられないまま、被ばくしてしまったからだ。被ばくの影響と疑われる症状に苦しみながら、補償されないまま亡くなる住民も多数いる。フクシマを契機に「真実を知りたい」と声を上げる米市民の姿を追いながら、アメリカに残された「知られざる核被害」の傷あとをみつめる。


 今度はアメリカ国民の被爆者の現状を扱った番組です。
 「ダウン・ウィンダーズ」とは「風下の住人達」という意味です。
 なんとなくロマンチックな響きがある言葉ですが、さにあらず。
 「核実験の風下で被曝した住人達」が正確な意味なのです。



 アメリカはそれまで、核実験をマーシャル諸島で行ってきましたが、ソ連との開発競争に勝つために迅速に対応可能な国内のネバダ州へ変更しました。
 ネバダ州では1951年からの40年間に1000回(!?)もの核実験が行われたそうです。
 数が半端ではありませんね。

 その後、周辺の住民に健康被害が発生していることがわかり、放射線被ばく補償法(RECA, Radiation Exposure Compensation Act)が制定され、認定者には一人当たり500万円が支払われました。
 しかし、救済対象は20万人とも云われる被爆者のほんの一部。
 東日本大震災~福島原発事故後、被爆者の意識が高まるとともに救済地域の範囲を広げるべきだという意見が強くなり、RECA改正案が議会に提出されました。
 しかし「予算不足」というシンプルな理由で却下されました。

 RECA改正案を通すべく運動している住民達は「国は時間が経って我々が死ぬのを待っているようだ。歴史から抹消されようとしている。」という不安・不満を持っていました。
 「核実験は自国民を毒殺するようなもの」という重い言葉が耳に残りました。

 予想外のアメリカの現状を知り、愕然としました。
 日本の補償どころか自国民の補償さえ不十分なのです。

 冷戦を勝ち抜くため、アメリカという国を維持するために自国民さえ犠牲にしてきた歴史。
 これをどう評価すべきなのか?
 善なのか、悪なのか?
 私には答えが見つかりません。

 気になったのが、日本のビキニ環礁での被曝以上に「調査がなされていない、あるいは隠蔽されている」事実。
 あのアメリカという訴訟社会で、健康被害を訴える根拠がないと嘆いている住民の姿が意外でした。
 もっとしたたかな人達だと思っていたのに。

<参考>
日米におけるヒバクシャ研究の現状と課題(竹本 恵美)

 一般的に「ヒバク」は、放射線を浴びることを指す。原爆の炸裂による被害や被害者を指す場合は「被爆/被爆者」、放射線による被害や被害者を指す場合 は「被曝/被曝者」、その両者を指す場合は「 ヒバク/ヒバクシャ」と表記する。原子力燃料はエネルギーを生み出す際に、必ず放射能を持つ核分裂生成物を放出し、原子力利用は必ずヒバクとヒバクシャを伴う。原子力の軍事利用と平和利用といった区分は原子力利権者側にとっての違いであり、被害を受ける側から見れば、ヒバク源が何であれ、その恐ろしさや被害には大差がないと考える。

 放射線物理学者のアーネスト・J.スターングラスは、1978年に原発周辺住民が原子力規制委員会と政府を相手に起こした訴訟で原告側の証人として、数多くの疫学調査結果を提示した。スターングラスは、原子炉がある州で低体重乳幼児率と乳幼児死亡率が高いことを示し、ネバダ核実験の死の灰による影響で、米国で約100万人の乳幼児が死亡したと結論づけた。X線と低レベル放射線の影響に関し、米最高の権威と見なされるラッセル・モーガンは、スターングラスの論文を賞賛した。元ローレンス・リバモア核兵器研究所研究員であり地質学者のローレン・モレは、低体重乳幼児の身体・精神・知的問題を研究している。米大学進学適性試験(SAT)の点数を調査し、平均点とネバダ核実験の規模との相関関係を明らかにし、平均点下降の原因は核実験が放出した放射能の影響を胎児時に受けたことと結論づけた。また、カリフォルニア州で自閉症が核実験開始に合わせて出始め、チェルノブイリ事故や原発の発電量の増加に従って上昇していることを明らかにした。スターングラスとモレは共同研究を行ない、7~8歳の子供から取れた乳歯に含まれる放射性物質のストロンチウム90の含有量を調査し、がんを患う子供は健康な子供の2倍のストロンチウム90を有していることを明らかにし、原発の日常運転も核実験と同様に悪影響を及ぼしていることを指摘した。他にもスターングラスは、放射性物質による人体への影響調査研究を広範囲に行い、ヒバクによって糖尿病発症率や、乳がん、肺がん、白血病などによる死亡率が高まることを示し、1950~99年の間に米国で約1,930万人が死亡したと結論づけた。調査結果は米国議会でも発表され、それをきっかけとして部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結された。統計学者のJ.M.グ ールド博士は、全米3,053郡の40年間の乳がん死亡者数を分析し、増加した1,319郡が原子炉から100マイル(約160km)以内に位置し、乳がん死亡者の死因に原子炉が 関係していることを指摘した。これらの研究により、原子力利用は事故がなくても、人類と環境に取り返しのつかない害を与えていることが明らかになったと言える。

 欧州放射線リスク委員会(ECRR)は2003年、公衆の被曝合計最大許容線量を0.1ミリシーベルト、原発労働者の場合は5ミリシーベルト以下にするよう勧告した。しかし日本は、職業上放射線を浴びる人の被曝量を年間50ミリシーベルトまで、公衆の被曝量を年間1ミリシーベルトまでと規定し、従来の規定を変えようとしない。原発労働による被曝が原因で死亡した労働者の被曝量は、ほとんどの場合が規定値以下であった。50ミリシーベルトとの規定値は、人を殺す可能性のある値であり、この規則は労働者の命を守るためではなく、産業利益を守るため、危険性の高い被曝を労働者に強いるためにあると言える。

 柏崎刈羽原発が中越沖地震によって事故を起こした際、CNNは日本で相次ぐ原発事故と事故隠しに対し,「政府と東京電力による悪質な隠蔽工作であり、隠蔽体質がなくならない限り、日本の放射能事故はなくならない」と批判 した。BBCは「世界に核廃止を訴えるべき被爆国日本が、狭い国土に原発を林立させ、自国が落とされた原爆何万発分にも相当する原子炉の危機管理ができず、原発周辺に住民が住んでいることは異常であり、それは政府が情報を隠蔽し続けてきたことの結果である」と批判した。

「水爆実験 60年目の真実」

2014年08月12日 07時32分34秒 | 戦争
「水爆実験 60年目の真実~ヒロシマが迫る“埋もれた被曝”~」
2014.8.6 NHKスペシャル



番組紹介
 1954年、太平洋ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験。その当時、周辺ではのべ1000隻近くの日本のマグロ漁船が操業し、多くの漁船員が放射性物質を含む「死の灰」を浴びた。しかし、それ以降の研究者やメディアなどの追及にもかかわらず、第5福竜丸以外の漁船員たちの大量被ばくは認められてこなかった。
 あれから60年、「なかったとされてきた被ばく」が科学調査や新資料から、明らかにされようとしている。立ち上がったのは、広島の研究者たちだ。長年、がんなどの病気と放射線被ばくとの因果関係が認められない原爆被爆者らを支援する中で編み出された科学的手法を用い、ビキニの漁船員の歯や血液を解析。「被ばくの痕跡」を探し出そうとしている。
 東西冷戦の大きなうねりの中で、埋もれてきたビキニの被ばく者たち。被爆の苦しみに向き合ってきたヒロシマが共に手を携え、明らかにしようとする「真実」を、克明に記録していく。


 “核”に関する番組を見る度に暗澹たる気持ちにさせられます。
 このNHKスペシャルもしかり。

 ビキニ環礁における水爆実験で、付近で漁業を営んでいた第五福竜丸が被曝したことは歴史的に有名です。
 しかし、第五福竜丸ほど近くではありませんが、周囲で操業していたマグロ漁船は約100隻にのぼり、無視できない被曝と健康被害があったことが証明されたという内容。
 
 アメリカの水爆実験は2ヶ月半の間に6回行われたことをはじめて知りました。
 一回一回に台風のように名前まで付けるご丁寧さ。
 水爆1つはヒロシマに落とされた原爆の1000倍の破壊力があります。

 当時水爆実験場所から1300km離れた位置で操業していた第二幸成丸の乗組員だった老人の話;
「あるとき黒い雪のようなものが降ってきて甲板に1-2cm積もった。それが“死の灰”であることを後で知った。」
「水爆実験による被曝を疑いつつも、小さな漁村では水爆に関する話題はタブーだった。それがわかってしまうと漁ができなくなる、するとこの漁村は生きていけない。」
「そのうち漁師仲間が若くしてたくさん死んでいった。心の中で被曝による病気と感じつつも、誰も口にできなかった。」
 ・・・悲しい裏事情です。

 過去の被曝を評価・測定する方法をヒロシマの原爆関連研究者が確立しています。
 歯のエナメル質は代謝されないので正確ですが入手しにくい。
 血液は入手しやすいが正確性に劣るそうです。

 ビキニ環礁から1300km離れた場所で操業していた第五明賀丸の乗組員の歯が検査されました。
 すると、319mSv という測定結果が得られました。
 国際基準の許容範囲は100mSv以下ですから、異常高値と判定されます。
 ヒロシマ原爆に例えると「爆心地から1.6kmで受ける放射線量と同じ」という驚異的な数字だそうです。
 爆心地から1.6kmの被爆者は、被曝健康手帳が交付され、医療費が全額免除されるレベル。

 血液検査では染色体が調べられました。
 ビキニ環礁から1300km以内の乗組員18人中13人が高い染色体異常率を示しました。
 計算によると、18人中8人が100mSv以上の放射線を被曝したことになるそうです。

 日本政府は前項で記したように第五福竜丸の調査をしましたが途中で打ち切りました。
 その他の漁船乗組員の調査も行ったものの異常が検出されるとそれも打ち切り、こちらは公表さえされずに闇に消えました。
 おそらくアメリカの圧力があったのでしょう。
 密かにアメリカには測定データが報告され、一方日本では“なかったことに”と封印されたのでした。

 第五福竜丸による被曝が問題になり、反米・反核運動が盛んになった1950年代後半の日本。
 当時のアメリカの文書が開示されました;
「日本における“放射能パニック”が共産主義勢力にアジアで勢力を伸ばすチャンスを与えており危険である」
「対策として“核の平和利用”をアピールすべきである」(アイゼンハワー)
「日本で原子力の活用を推進することは、被害を最小限にするもっとも効果的な方法である」

 なんてことでしょう!

 アメリカは冷戦相手のソ連との水爆開発競争で頭の中がいっぱいで、日本人の被爆など目に入らなかった様子が見て取れます。
 さらにアメリカは、ヒロシマ/ナガサキ原爆+第五福竜丸の被曝による日本の反核感情を、“核の平和利用”を推進することにより抑え込もうと画策したのです。

 つまり“毒をもって毒を制す”という構図。
 そのしたたかさに日本はイヌのように従い、今日に至りました。
 “核”に関するマイナスデータは、原発も含めて“隠蔽”する体質ができあがったのでした。

 まあ、日本政府だけを責めることはできません。
 戦争に負けると云うことはこういう事なのでしょう。
 もし水爆実験をアメリカが停止してその開発でソ連が優位になり、アジアに勢力を伸ばして共産主義国家が乱立したら、今の日本はなかったかもしれないのですから。

 当時被曝した漁船員が厚労省相手に調査と補償を求める映像で番組は終わりました。
 しかし、この手の番組でいつも釈然としない感覚が残ります。

 水爆実験をしたのはアメリカ。
 誰が考えても諸悪の根源はアメリカ。
 日本政府に責任を求めるのは、黒幕に手をつけず中間管理職や請負業者を訴えるようなもの。

 「原爆による被曝」
 「水爆実験による被曝」
 これらに対して国際裁判所にアメリカを訴えるのが筋ではないでしょうか。

 「大国の論理」を振りかざして相手にされないことは目に見えていますが・・・。

「ルポ 原発作業員2」

2014年08月11日 06時55分05秒 | 原発
ルポ 原発作業員2 ~事故から3年 それぞれの選択~
NHK ETV特集、2014.8.2放映



番組紹介
 40年ともいわれる「廃炉」への道を歩み出した福島第一原発。その現場を支えているのは 1日あたり5,000人といわれる原発作業員たち。しかし、その日常が報道されることは少ない。
 彼らは、いまどんな思いで、それぞれの仕事に向き合っているのだろうか。
 ETV特集では、2年前に「ルポ 原発作業員~福島原発事故・2年目の夏~」を放送。
 その後も、地元福島の下請け企業の協力を得ながら、彼らの日常を記録し続けてきた。
 事故から3年たったといえ、現場には高線量の汚染エリアがある。作業員の被ばく限度は5年で100ミリシーベルト。増え続ける線量をいかに抑えるか、困難な試行錯誤が続いている。
 一方、コスト削減圧力の中で下請企業の経営環境は厳しくなり、作業員の待遇はじわじわ悪化しているという。原発を避け、割のいい除染などの仕事に切り替える作業員たちも出てきた。
 ことし4月に放送したNHKスペシャル「シリーズ廃炉への道 第2回 誰が作業を担うのか」で放送した内容に、作業員たちへの長期密着ルポの映像を加え、廃炉現場の実態に迫る。




 前項はチェルノブイリの作業員の話でしたが、今回は日本の1F(いちえふ:福島第一原発を指すスラング)で働く作業員に焦点を当てた番組です。

 「あっ、この人達見たことがある」

 前回の「2年目の夏」を私は見ていたのでした。
 その時の作業員の表情は明るく鼻歌交じり。
 不思議に思って観察していると、どうやら報酬がよいらしい。
 1日数時間以内の作業で月給40万越えなので顔がほころんでいるのだと思わざるを得ない展開でした。

 しかし今回の番組では、その表情が曇り、原発での仕事を辞めていく若者も出てきたという内容に変化していました。
 理由は報酬の減額。
 国と東電は廃炉作業の費用を節約するために競争入札制度を一部導入しました。
 すると価格競争が発生して安く請け負う下請け会社に発注することになり、末端作業員の賃金は低く抑えられる傾向になります。
 マンパワー確保が難しくなってきて国は競争入札制度を縮小し、さらに1日の報酬を1万円上乗せすると発表しました。
 しかし、受注金額に組み込まれるため、一次・二次下請けで吸収・拡散し末端作業員に回るのは1000円の上乗せのみ。
 「90%ピンハネされるなんて、バカバカしくてやってらんない!」
 今や原発作業員の報酬は除染作業とあまり変わらなくなり、被曝のリスクを冒してまで選択するメリットがなくなったのです。

 番組の中で、ひたすら「お金」の事が取りあげられました。
 廃炉作業の本質、“やりがいを感じにくい仕事”ということが見え隠れします。
 当初あった「社会の役に立っている」というささやかなプライドは消え去り、何も生みださず、自分の体が汚染される仕事に、心が疲弊してしまう様子が見て取れました。

 石原環境大臣が「最後は金目でしょう」とコメントして物議を醸しましたが、悲しいかな現実はその通りなんだ、と感じました。

 チェルノブイリでは今でも作業員の報酬は高額で、地域の他の仕事の2倍程度と前の番組で知りました。
 「お金のためにここで働いている」と開き直る作業員達。
 日本と違うところは、女性が多いことと、ウクライナ国内だけでなくポルトガルやドイツなどの外国からの出稼ぎ労働者がいること。

 30年後の日本も同じ状況になっているかもしれません。

「チェルノブイリから福島へ~未来への答案~」

2014年08月10日 15時30分00秒 | 原発
毎年8月になると戦争に関する番組が増えます。
私にとっても8月は「戦争」「原発」について思いをめぐらす季節になっています。

され、表題の番組はBS日テレ「NNNドキュメント’13」で2013年10月28日に放映されました。
原発事故を取りあげる番組は多々ありますが、今回はそこで働く労働者に光を当てた内容です。

<番組解説>
爆発した原発の廃炉は、通常の廃炉より格段に難しい。今も福島第一では溶けた核燃料がどうなっているか全く分からない。しかも廃炉にあたるのは3次、4次、5次下請けなどの原発関連の作業経験が少ない人が多い。被曝線量がオーバーすると働けなくなり、また新たな人が補填される。これでは想定の30~40年で廃炉を完了できるとは思えない。核大国・旧ソ連がチェルノブイリ収束の為に取った対応と比較して、今の日本はどうなのか?一番の違いは姿勢だ。チェルノブイリには廃炉・除染の作業員を養成する訓練センターが作られた。廃炉に手練れを、という戦略だ。日本は今の形のままでいいのか?福島とチェルノブイリの大きな違いをつまびらかにし、日本が取るべき正しい道筋を探りたい。


27年前に起きたチェルノブイリ原発事故。
ソビエト崩壊後はウクライナが管理しています。
チェルノブイリの“今”を知るべく取材班は操作室まで乗り込み撮影しました。
そこで見て感じたことは・・・チェルノブイリは「廃炉」ではなく「廃墟」と化した事実。



コンクリートで固めた“石棺”はあちこちほころび、雨漏りをして汚染水がたまる一方。
すでに運転は停止しているのに何千人もの職員が働いています。
現在、石棺劣化の対策として「新シェルター」の建設が進んでいます(2015年完成予定)。
これは石棺を丸ごと覆うシェルターで、将来その中で無人器械が解体作業と放射性物質の取り出しを行う予定とのこと。



しかし、
「その“将来”とはいつか?」 
と問われて関係者の言葉は濁ります。
「おそらく100年後・・・我々の世代ではないだろう」
とのコメント。
いや、100年後に放射性物質を取り出すかどうかわからない、放射性物質の処理・最終的な廃棄方法が決まらないなら、むしろそのままの方が安全かもしれないと判断される可能性も示唆していました。

ここに、廃炉作業に潜むジレンマが垣間見えました。
廃炉を急ぐと線量の高い作業となり被曝のリスクが高くなる。
廃炉が遅れると現場を熟知した技術者がいなくなりトラブルが多くなる。
ウクライナの技術者の口からは「福島は廃炉を急いではいけない。急ぐと危険だ。」というコメントが発せられました。

チェルノブイリ原発で働くためには国家資格が必要です。
近隣の街で5日間40時間の講習を受け、試験に合格しなければなりません。
その研修は実際的で「事故が起きた原発内での働き方」をたたき込まれます。
取材に当たった解説者が試しに受けたら不合格でした。
原発の知識よりも「現場でどう動くか」に重点が置かれていると感想を述べていました。

一方、日本の福島原発の現場はどうでしょうか。
はじめて働く人向けに研修があるようですが、そこでは事故の起きていないふつうの原発で働く内容しか教えていないそうです。

ウクライナの講師は「放射能は怖いもの」と教え、
一方、日本の講師は「放射線は安全なもの」と教えている
、この歴然とした差が印象的でした。

さらに、チェルノブイリ近郊の街から遠くへ強制移住させられて住民達が、
私たちはもう故郷に戻れない。福島の人たちも帰れないと思った方がよい。
と重い言葉を残して番組が終わりました。

「ビキニ事件と俊鶻丸」

2014年08月09日 17時07分54秒 | 戦争
海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸
NHK Eテレ(2013年9月28日放送、2014年2月1日再放送)。



<番組紹介>
 1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸が被ばくしました。被害は水産物にも及び、日本各地の港では放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされます。しかし、核実験を行ったアメリカは、放射性物質は海水で薄まるためすぐに無害になる、と主張しました。
 このとき、日本独自に海の放射能汚染の実態を解明しようという一大プロジェクトが始動します。水産庁が呼びかけて、海洋や大気、放射線の分野で活躍する第一線の専門家が結集、「顧問団」と呼ばれる科学者たちのチームが作られました。
 そして水爆実験から2か月後、顧問団が選んだ若き科学者22人を乗せた調査船・俊鶻丸がビキニの実験場に向けて出発します。2か月に渡る調査の結果、海の放射能汚染はそう簡単には薄まらないこと、放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることが世界で初めて明らかになりました。
 俊鶻丸「顧問団」の中心的な存在だった気象研究所の三宅泰雄さんは、その後も大気や海洋の放射能汚染の調査・研究を続けます。原子力発電所が次々と作られていく中で、三宅さんをはじめとする科学者たちは、大きな原発事故にも対応できる環境放射能の横断的な研究体制を作るべきだと声を上げます。
 しかし、それは実現しないまま、2011年3月11日、福島第一原発の事故により、再び放射性物質で海が汚染されました。
 ビキニ事件当時、日本の科学者たちが行った調査から、今私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。俊鶻丸に乗り込んだ科学者の証言や、調査を記録した映像などから描きます。


 水爆実験による放射能海洋汚染は、俊鶻丸の調査により、予想より停滞し、かつ潮流に沿って回旋を続ける事が明らかになりました。
 しかしアメリカはこれを隠そうとし、日本に圧力をかけて経時的調査をやめさせたことは象徴的であり、衝撃を受けました。

 人間が殺し合う「戦争」を生き抜くために開発された原子爆弾・水素爆弾。
 この開発にブレーキをかける放射能汚染データはアメリカ幹部にとっては存在してはならない情報なのです。
 人間の本能の暴走と申しましょうか。

 同じ事が日本の3.11の原爆事故にも言えると思います。
 世界の中で“経済活動”という名の戦争を勝ち抜くためには原子力エネルギーが必須と考える日本政府。
 それにブレーキをかけるようなデータは存在してはならぬのです。

 ビキニ事件の際は批判対象がアメリカだったので、日本の科学者の叡智を集めた「顧問団」が組織され貴重な報告書が残されました。
 しかし3.11では、そのような総合的な調査団は組織されませんでした。
 なぜって、日本の原発推進政策にブレーキをかけるデータを出す調査団を、日本政府が許すはずはないのです。

 顧問団のような組織が作られなかったことを「残念」「おかしい」と発言した岡野眞治氏。
 どこかで見たご老人と思いきや、3.11後の放射線測定でも活躍した方でした。

 その姿勢は現在も続いていると感じます。
 つい先日、福島原発の第3号機も事故後早期にメルトダウンしていたことが明らかにされました。
 ほとぼりが冷めてから、こそっと小出しに情報提供する“ずるがしこさ”を感じざるを得ません。

 学生時代に「大脳半球は人間の本能を抑制する機能を持ち、これが人間の本質である」と習いました。
 そう、動物と人間の違いは“抑制”して自ら律することができるかどうか、ということ。
 本能のままに生きていている友人を冗談交じりに「大脳の抑制が取れている」とからかうことが流行ったことを記憶しています。

 今の世界を見渡すと、人間は憎しみ合い、殺し合っています。
 昔の自分が「大脳の抑制が取れてるよ~」とつぶやいています。

 日本人の叡智は、日本の暴走を止めることができるのでしょうか。

「神社と日本人」(島田裕巳監修)

2014年08月02日 18時51分47秒 | 神社・神道
別冊宝島、2014年発行。



宗教学者の島田裕巳氏監修。
私にとってある意味「目から鱗が落ちる」内容で、想定外の収穫のあった本です。

神社には祀られている神様達がいます。
その神様達に、以前から私はある疑問を持ってきました。

「なぜ、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神様ばかりなんだろう?」

もともと、神社はその土地の守り神である「産土神」を祀る場所であったはず。
田舎の小さな神社に「天照大神」とか「大国主命」などの天皇家の祖先神が祀られている違和感。

なので、私が好きな神社は、仏教や『古事記』『日本書紀』の影響を受けない産土神を祀る場所です。
滅多にお目にかかれませんが・・・。

島田氏がその理由を教えてくれました。
神様達は、皆明治時代に再編されたとのこと。
「明治になると神話を歴史的な事実としてとらえて、神話に登場する神様も重要なものと考えるようになるから、それまで各地域で祀られていた神様を、記紀に因んだ祭神置き換えていく作業が行われた。」

疑問が氷解するとともに、がっかりしました。
市町村統廃合による地名の喪失よりひどい。
明治時代に南方熊楠が「神社合祀反対運動」を繰り広げましたが、それ以前に神様のすり替えが行われていたとは・・・呆然。


メモ
 自分自身のための備忘録。

「磐座」(いわくら)
 神道の一番古い信仰の形は、岩に神様が降りてくるというもの。そしてその岩そのものが、現在でも信仰の対象となっている。これを「磐座」と呼ぶ。

神道の柔軟性
Q. 海外の場合、原始信仰の上にキリスト教が乗ったことで、実体が見えなくなった。しかし日本において、仏教と混ざりながらも原始信仰が現在まで残ってきたのはなぜか?
A. 神道には、開祖も教義も「ない宗教」であるがゆえに、仏教という「ある宗教」と衝突することがなかった。時代に応じて、状況に応じて融通無碍にその姿を変えていけるという、神道の性質そのものが存続した理由である。

神社と記紀神話の神様
 神社にとって、記紀神話の神様は、それほど重要なものではなかった。日本で一番数の多い八幡神社を見ても、八幡神は記紀神話とまったく関係ない。稲荷、天神も関係ない。
 例えば、「祇園さん」で有名な京都の八坂神社の祭神は素戔嗚(すさのお)ということになっているが、もともとは牛頭天皇(ごずてんのう)という正体不明の神様を祀っていた。長野の諏訪大社ももともとはミシャグチ神という正体不明の神がいたのに、後に記紀の国譲り神話に因む建御名方(たけみなかた)という神が祀られたということになっている。
 つまり、日本人は記紀神話に記載された神を祀ってきていなかったということになる。結局、記紀で体系化されている今の神社の世界を一度忘れないと、昔の姿はわからない。
 明治時代になると神話を歴史的な事実としてとらえて、神話に登場する神様も重要なものと考えるようになるから、それまで各地域で祀られていた神様を、記紀にちなんだ祭神に置き換えていく作業が行われた。すでに置き換えから百数十年経っているので、みんな自分たちの神社の神様は昔からのものだと思っているけど、実際にはそんなに古いものではない。根本的に日本の宗教世界というものは、近世から近代にかけて偽造あるいは変容させられたのである。
 その目的は、近代の日本国家において、国民全てが共通の「神話」をもった一つの民族であるというふうに統合するため。それ以前の日本は藩のゆるやかな集合体であり、それぞれの地域の神様を拝んでいた。そういう意味では、今、我々が知っている神社神道は、近代が生んだ「新宗教」である。

日本の神社システムはコンピュータのクラウドに似ている
 家の神棚にお札を祀れば、本来の神様と家の神棚はつながったということになる。
 これは現代でいうと、コンピュータの「クラウド」の構造に近い。だからインターネットの論理で考えた方が、神道の論理はわかりやすい。
 神を降ろすのはダウンロード、お札の更新はソフトのバージョンアップ、穢れや災難はウイルスだと考えればしっくりくる。

神籬(ひもろぎ)と 磐境(いわさか)
 神道の起源は縄文時代にまで遡るといわれる。
 初期の神道では、自然の中でも異彩を放っている巨木や巨石を神の降りる「依代」として崇拝するようになったと考えられる。
 このとき、巨木の代わりに榊などの樹木に神を降ろしたものを神籬、神を祀るための岩でできた祭場を磐境という。現在でも家やビルなどを建築する前には結界としてその中に簡単な祭壇を作り、地鎮祭を行うが、この祭壇が神籬である。
 ちなみに磐境に似た言葉で「磐座」(いわくら)というものがある。厳密にいうと、神が直接降りる石を磐座といい、その磐座を中心とした祭祀場磐境と呼ぶようだ。
 良くも悪くも神道には「実体」がない。さまざまなことを受け入れ、いかようにも姿を変えていく。それでいて、本質はまるで変えられることもない。

稲と神道と天皇
 日本は「豊葦原の瑞穂の国」だと『古事記』には書いてある。瑞穂は稲だから、日本は稲の国であり、国の繁栄が永遠に続くように神に祈り続ける役割を担った祭祀王、それが天皇ということになる。
 神道では神への供物として食料が捧げられる。これを「神饌(しんせん)」というが、一般的には以下のようなものが品目として定められている。
にきしめ(白米)・あらしめ(玄米)・酒・餅・海魚・川魚・野鳥・水鳥・海菜・野菜・果物・塩・水
 筆頭は米であり、いかに稲が重視されていたかがわかる。
 現在でこそ日本は米余りだ。しかし、稲穂あふれる国はずっと日本人にとっての理想郷であり、夢の国だった。白い米を誰もが好きなだけ口にできるようになったのは比較的最近(せいぜい第二次世界大戦後)であり、日本の歴史全体から見ればわずかな期間でしかない。逆に言えば、神道が理想とする稲穂の国は、最近になってようやく実現したと云えるのかもしれない。


神社の社はいつできたのか。
 神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)をルーツとするが、初期の神社は祭祀のたびに設けられるものであり、常設されるものではなかった。
 宗像神社の沖津宮が置かれた沖の島(福岡県宗像市)の古代祭祀場跡が参考になる。祭祀は4世紀後半にはじまり、以後600年にもわたり神への祈りが捧げられてきたことが調査で判明しており、この遺跡をみれば4~10世紀の日本人の信仰形態が窺い知れる。
 沖の島では島内で祭祀が行われた場所が時代と共に変化している。もともと神への祈り、祭祀は神が降りる巨大な岩(磐座)の上で行われていたのだが、時代と共に磐座の陰になり、ついには磐座から離れた露天で行われるようになる。その結果、最終的に神の降りる磐座と祭祀場は分離され、祈りのための社ー神社が人里に近い山の麓などに造られるようになったのではないか、と想像される。
 一つの説として、神社の社は寺院建築の影響を受けて造られるようになったのではないか、というものがある。もしそうなら、神社の出現は仏教伝来(6世紀中頃)よりも確実に後ということになる。
 仮に神社建築が仏教建築の影響を受けて始まったものだとしても、その後の発展過程では、意図的に神社側が仏教建築の特徴を排除しようとしたらしい。

呪術としての神道
 魏志倭人伝(魏の史書『魏志』の「倭人の条」)での記載。
 倭国では、人が死ぬと喪に服して泣き、他の者は歌い踊って飲酒していた。その後、遺体は棺に納められ、土に埋められて塚が作られた。そして葬儀が終わると、人々は水に入って体を清めた。
 これを読むと、基本的には後の土葬による葬儀の風景とあまり差はない。また、水に入って体を浄めるというのはいわゆる神道の禊ぎであり、今日の神道儀式につながる思想が既にあったことがうかがわれる。
 呪術的な面では、倭の船が海を渡るときに「持衰」(じさい)という航海の無事を神に祈る生け贄を置いた記述もある。食事も肉は決して口にせず、ひたすら船の帰りを待つ。そして無事に船が帰ってくれば褒美が与えられ、不幸にも災難があれば殺されてしまう。
 同書には卑弥呼が行った「鬼道」という言葉も出てくる。卑弥呼は生涯独身で、弟が彼女を助けていたとされ、女王になってからは彼女の姿を見た者はほとんどなく、一人の男子だけが給仕で出入りしていたと伝えられている。この形態から推測されるのは、卑弥呼が神に仕える巫女で、神の言葉を取り次ぐ役割を担っていた可能性がある。
 神道には「亀卜(きぼく)」という占いが残されている。九州・対馬の雷(いかづち)神社では、現在でも亀の甲羅に焼けた棒を指し、一年の吉凶が占われている。これは中国の「令亀(れいき)の法」という、亀の甲を焼き、熱によってできる裂け目を見ることで吉凶を占う方法に由来する。
 また、『古事記』には雄鹿の肩の骨(肩甲骨)を使った占いの記述も見られる。こちらは雄鹿の肩の骨を抜き、そこに波波迦(ははか)(朱桜)の枝を突き刺して占うもので、天皇家の伝統的な占いとされた。この方法は東アジア全般に広く見ることができる。
 古代の日本には亀卜と鹿卜の二つの占い法が存在していたが、律令時代になってからは朝廷の役所である神祇官ではもっぱら亀卜のみが行われるようになった(『令義解(りょうのぎげ)』・・・『養老令』(757年)の注釈書)。そして驚いたことにこの亀卜は、現在でも天皇の即位式である大嘗祭において悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎場を卜定する宮中祭祀の秘儀とされている。朝廷での亀卜は応仁の乱以降に急激に衰退し、本格的に復活したのは大正天皇の即位大典のときだったといわれている。
 かつて、朝廷内に占いを専門とする役所「卜部(うらべ)」が置かれていた。もともとは諸国の神社に属していたが、なかには神祇官に所属する者もいた。その一部は役職を世襲するようになり、ついには「卜部氏」と称するようになっていく(例:吉田兼好の本名は卜部兼好)。興味深いのは、朝廷内に卜部氏が存在していたにもかかわらず、国家に関わる大きな占いでは、地方の神社からも人が集められていたことだ。『延喜式』には辺境であるはずの壱岐と対馬から3/4が集まられているところを見ると、いかに壱岐と対馬地方の卜部の力が優れていたかがわかる。

■ 分霊・勧請
 神社は、もともとその土地の神様を祀る信仰から始まった。一般にいう「氏神」「鎮守の森」「産土神」と呼ばれる神々がそれで、神社は全てローカルな存在であった。
 そのローカルな神々が全国展開するシステムが分霊(あるいは勧請)である。勧請とは神仏の来臨を請うことを意味し、神道・仏教のどちらでも用いられる。全国展開する契機はさまざまだ;
【八幡神】

「二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~」

2014年08月02日 18時27分06秒 | 歴史
2014年7月26日放映、NHK

番組紹介
「日本人は何を目指してきたのか」~2014年度「知の巨人たち」
第4回 二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~

 戦後、日本人に最も愛された歴史小説家、司馬遼太郎。その作品を、“22歳の自分への手紙”と述懐した司馬は、学徒出陣し、22歳で戦車兵として敗戦を迎えた。
“どうして日本人はこんなに馬鹿になったんだろう”―
 8月15日に抱いた関心が原点となり、司馬は、幕末から明治の国民国家の歴史をたどっていく。しかし、ノモンハン事件について多くの聞き取り調査を行いながら、昭和の戦争を書くことなく、この世を去った。
 なぜかー。生前のインタビューや半藤一利さんや編集者たちの証言などから探っていく。さらに、古代史研究者の上田正昭さんや在日の友人・姜在彦さんらの証言からは、司馬の、アジア共生への思いが浮かび上がる。
 「日本人とは何か」を問い続けた司馬の思索を、戦争体験、アジアの視点からたどる。


 一言でまとめると「昭和を書けなかった司馬」という内容でした。

 近代日本の成り立ちを知りたくて取材を重ね小説にしてきた司馬。
 「龍馬がゆく」「坂の上の雲」が代表作です。
 日本は日露戦争を契機にアジアへ進出し、植民地化、戦争へと突き進んでいきます。
 現地の軍部が暴走し、それを本部が追認し、政府も追認するという、収拾のつかないシステムの中でとうとう太平洋戦争まで起こし敗北を迎えました(何となく今の中国と似ていて危機感を感じざるを得ません)。

 昭和という時代を書こうとノモンハン事件を中心に取材をしてきた司馬は「龍馬がゆく」の坂本龍馬、「坂の上の雲」の秋山好古、秋山真之の兄弟と正岡子規のような「主人公となるべき日本人がいない」という壁にぶつかり、とうとうそれを越えられませんでした。
 つまり、ずるずると戦争の深みにはまることを止めようとした人物がいなかった、ということです。
 
 その忸怩たる思いをぶつけたのが「21世紀に生きる君たちへ」です。

 世界の中で日本人として生き抜くには「アジア人」たれ。
 優しさや思いやりは訓練して得られるもの、本能ではない。

 
 ~ということが書かれているそうです。

 隣町の栃木県佐野市植野小学校が出てきて驚かされました。
 その校庭には大きな鈴掛の木(=プラタナス)があり、巨樹フリークの私は訪ねて写真を撮ったことがあります。
 今から70年前、鈴掛の木陰で司馬が休憩の際にタバコをくゆらせていたそうです。



 それから、歴史学者の上田正昭氏も登場し、こちらも驚きました。 
 生前の司馬と親交があったとのこと。

 いろんなところで不思議な繋がりがあるものですね。