知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

江戸時代の性事情

2024年08月08日 08時07分25秒 | 民俗学
突然ですが、私は「性教育認定講師」という資格を持っています。
これは「日本思春期学会」に入会し、講習を受けて取得する資格です。

講習を受けていて疑問に思ったことがいくつかあります。

1.デリケートゾーンは国や地域・文化により異なるのではないか?
・・・講習ではデリケートゾーンを「水着で隠すところ」と説明していました。
でも考えてみてください。
熱帯地方に住む裸族は、胸を隠していません。
 → 彼らにとってバストはデリケートゾーンとは言えない。
イスラム教の女性は肌を極力隠す。
 → 彼らにとっては全身がデリケートゾーン。
つまり、講師が設定しているのは「西欧文明」のデリケートゾーンなのです。

2.LGBTQの隠された歴史は?
・・・出産で子どもを取りあげる際、従来は、
「おめでとうございます!元気な男の子(あるいは女の子)です」
と言ってきましたが、講習で登場した産婦人科医は、
「おめでとうございます!元気な赤ちゃんです」
「外性器は男性型(あるいは女性型)ですが、
 この子の心が男子か女子かは大きくなってからわかるでしょう」
と説明する、と断言したのです。

すご〜く違和感がありました。

でも、こんな話を耳にしたことがあります。
歴史の教科書に載っているフランシスコ・ザビエル氏。
彼の日本旅行記には、
「日本仏教寺院の僧は男色に走る傾向にある、
 これはいただけない」
と記されているそうです。

とかく性の問題は隠されがちで、歴史の表舞台には出てきません。
ここでは、江戸時代の性事情について情報を拾ってみます。

▢ はなしちゃお!〜性と生の学問〜「裸大国ニッポンより;
・江戸時代、かごかきや飛脚などの仕事着は“ふんどし一丁”だった。銭湯では混浴が一般的で、男も女も裸はあたり前のことだった。
・明治時代になると、文明開化を掲げた政府は西洋に習い、裸や肌の露出を条例で禁止した(それでも脱いでしまうひとが続出した)。
・民俗学者柳田国男の著書にも「夏の仕事着には裸という一様式もあった」と記されている。その習慣は戦後まで残っていた。海女さんも仕事の時は上半身裸だった。
・(民俗学者の言葉)当時のひとからすれば、それは裸ではなく、当たり前の恰好だった。それを隠せと言われても違和感があっただろう。

▢ 「エロティック日本史」下川 耿史著より;
・現代のような娯楽の無かったら江戸時代は、月を見て酒を飲み、男女は自由に交わることで楽しんだ。
・盆踊りはお百姓さんの楽しみの一つで、祭りの日は男女の営みが無礼講だった。独身の男女も、結婚してる男も女も、その日は自由にその場で出会った人と楽しんだ。
・混浴文化も、乱交の文化と密接に関係がある。
・日本がこんなに何もかも厳しくなったのは明治時代以降で、本来の日本は多様性や寛容のお手本のような国だった。
・性に対する古くからの日本人の感覚は、神話の神々に現れている。

以上、江戸時代の性事情はおおらかだった…
と結論づけられそうですが、そうでもない一面もあった様子。

それは」「不義(不倫)に対する刑罰」です。
こちらによると「姦通罪は死罪」だったとのこと。

・江戸時代の「姦通罪」は、町人にも適用されていた時期もあったが、基本的には武家にのみ適用されていた法律で、御定書百箇条(おさだめがき ひゃっかじょう)に定められていた。
・江戸時代の武士は面目を何よりも重要視していたため、恥を搔かされた場合は相手を殺すという、厳しい罰を科していた。
・御定書百箇条の「四十八.密通御仕置之事」には、次のように定められている。
  • 密通致候妻:死罪
  • 密通之男:死罪
  • 密通之男女共夫殺候ハ:無紛ニおゐてハ無構
(現代語訳)
  • 不倫した妻:死刑
  • 不倫相手の男:死刑
  • 夫が不倫現場に遭遇した場合:妻と相手の男を殺してもかまわない
・この不平等な法律は(刑罰こそ緩和されたものの)明治の法律にも引き継がれ、昭和22年まで残っていた。
・江戸時代に心中が流行したのは、不倫相手とは絶対に結ばれず、関係が続けばその先には死しかないことが明らかだったため。時代劇などでは不倫相手との駆け落ちが描かれることもあるが、当時は駆け落ち(本来の表記は「欠落」)も重罪であり、残された家族や関係者にも大きな迷惑を掛けることになるため、恋愛で周りが見えなくなっている男女は「あの世で一緒になろうね」と心中を選んだ。

フムフム・・・武士はメンツが大事なので厳しい罰が設定されていたのですね。
一方で、武士以外の階級はおおらかに性を解放していた、というのが本当の姿かな?
もうちょっと、探求する必要がありそうです。
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仏像の誕生と変遷

2023年01月22日 13時14分25秒 | 原発
私は仏像ファンではありませんが、
あるとき、一つの仏像に魅せられました。

それは「ガンダーラ仏」。

「ガンダーラ」という単語は、
50歳代以降の人には「ゴダイゴ」というグループが歌い、
ヒットした曲が思い浮かぶと思いますが、
そう、そのガンダーラです。

現在のパキスタン、ペシャワールがその地であり、
シルクロードに存在した都市です。
三蔵法師も立ち寄りました。

ガンダーラは東西文明の交流地点でもありました。

教科書に出てくる「アレキサンダー大王の東征」の際に、
ギリシャ/ローマ文明がこの地にもたらされることになり、
その影響でそれまで作られてこなかったブッダの像(仏像)が作られるようになりました。

ブッダ入滅後、すでに500年が経過していました。

こういう背景があるため、
初期の仏像はギリシャ/ローマ彫刻のように、
彫の深い西洋人のお顔をしていました。

それがなんとも魅力的なのです。
今風に言えば“イケメン”。

西洋と東洋のエッセンスをまじりあわせて作った、
ハーフのような顔立ち。

日本の仏像は中性的で優しい雰囲気がありますが、
ガンダーラ仏は男性像です。

ガンダーラ仏がシルクロードを介して当方に伝わる際に、
徐々にその土地の文化の影響を受けつつ変化し、
日本にたどり着いたときには現在のお顔になった、
ということですね。

こちらのサイトに初期仏教美術について記載されていたので、
メモ的に抜粋させていただきます;

▢ 仏陀の呼び方
・釈迦、釈迦牟尼、釈尊との呼ばれているが、本名は「ゴータマ・シッダールタ」。
・釈迦は出身部族名からくる通称。
・仏陀は「目覚めた人(悟った人)」を意味する語。

▢ 仏陀の生涯
・インド北部の小国の王子として誕生。
・29歳で出家し、35歳の時に菩提樹の下に座して悟りを得た。
・その後インド諸国を旅して周り、80歳でこの世を去るまで説法に努めた。
・入没は紀元前480年ごろ(諸説あり)。

▢ 初期の仏陀美術
・仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた仏塔(ストゥーパ)など仏陀の遺物崇拝と荘厳(しょうごんー装飾)。
(例)インド中部のサーンチーやバールフトに残る仏教遺跡
・仏塔を囲む石造の塔門や、欄楯(らんじゅんー柵)に多くの浮彫がされ、仏伝図(ぶつでんずー仏陀の生涯を描いた図)や本生図(ほんじょうずージャカータ・前世物語)などが彫られている。

▢ 無仏像時代の彫刻
・紀元前3世紀~前1世紀初頭の頃の仏教美術には仏陀の姿は表されておらず、「無仏像時代」と呼ばれている。
・仏陀は人のカタチをとらず、記号のようなものにより存在が示された。
(例)
 仏足跡(ぶっそくせきー仏足石)…仏陀の足跡
 菩提樹…悟りを得た仏陀を象徴
 傘蓋(さんがい)…古代インドの貴人の外出具
 仏塔
 法輪
 台座
 三宝標(仏・法・僧と呼ばれる3つの宝物)
・古い経典には「仏陀の体は形象化できず、また測ることもできない」という意味の言葉が記されている。当時の人々にとって、仏陀を生身の人間の姿であらわすことは畏れ多かったためと推測される。

▢ 仏像の起源
・仏陀の死後500~600年後に仏像が造られるようになった。
・最初の仏像はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)でクシャーン朝時代の紀元1世紀頃という説が有力。続いて中インド北部の小都市マトゥラーで2世紀初頭頃に造られた。
・紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王が東征を行い、ガンダーラ地方にも多くのギリシャ系民族が流入し、西方文化が伝えられた。
・前3世紀半ばに仏教信者であるマウリヤ朝のアショーカ王がこの地方まで領土を広げ、寺院や仏塔が建てられた。
・やがてクシャーン朝(1世紀後半~3世紀頃)に入って最初の仏像が生み出された。

▢ ガンダーラの造像
・初期の仏教遺跡であるインドのサーンチーやバールフトでは、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、仏陀を象徴表現(仏足跡や菩提樹など)で表した仏陀なき「仏伝図」がつくられていた。
・期限1世紀頃のガンダーラでは、象徴表現ではなく頭光(ずこう)や僧衣をつけた人物像として表現したものが登場し、これが仏像の始まりとされている。
・初期の仏像は仏伝図に描かれた他の人物と同程度の大きさであったが、しだいに大きく目立つように表現されるようになり、これが礼拝の対象となり、ついには「単独の彫像」が造られるようになった。

▢ ガンダーラ仏は西洋人?
・ガンダーラ仏はギリシャ・ローマ美術の影響を受けている。
・人物表現は、彫の深い顔立ちに高い鼻、引き締まった口元にひげを蓄えた顔貌で、東洋人よりは西洋人の特徴を備えている。
・その思索的な表現と写実味あふれる肉体表現は、ガンダーラ美術が東西文明の交流により形成されたヘレニズム美術の影響下に造られたことを物語る。

もう一つの仏像の起源とされてきたマトゥラーについても記述されていますので、
こちらも引用・抜粋されていただきます:

▢ マトゥラーという都市
・仏像の起源をめぐって北西インドのガンダーラと長年論争の的になってきた地であり、中インド北部のジャムナー川とガンジス川が合流する地点にある。
・水路によりインド全域と交流があり、通商路の交差点として栄えてきた。
・宗教に関する造形活動も行われ、土俗神の石像や大型のストゥーパ(仏塔)、寺院建築など、紀元前2世紀ごろにまでさかのぼる造形技術の長い伝統を有していた。
・ガンダーラ地方でヘレニズム美術の影響による造像が始まったのと同時期に、マトゥラーではインド独自の様式を持った仏像が造られ始めた。

▢ マトゥラーでの造像の発生
・マトゥラーに仏像が出現したのは、クシャーン朝時代の紀元2世紀初め頃で、仏教庇護者であったカニシカ王の時代(2世紀半ば頃)に最盛期を迎えた。
・マトゥラーにおける仏像の政策は、ガンダーラと同様ストゥーパ(仏塔)の装飾として彫刻された仏伝図からはじまり、しだいに礼拝用の単独像が造られるようになった。
・ガンダーラの仏像は西洋文化の影響を強く受けた彫りの深い顔立ちや、写実的な衣文(えもんー絵画や彫刻に描かれる衣装類のシワ)を特徴としていたが、マトゥラーの仏像は力強く生気があふれる表情をしており、肉付きのよい豊満な体と、強く張り出した両肩と体に密着したごく薄い衣文、小ぶりにあらわされた巻貝の肉髻(にっけい) などが特徴。

▢ マトゥラー仏の衰退と復活
・3世紀半ば頃にはクシャーン朝が終わりを告げ、同時に仏像づくりも陰りが見え始めた。
・北インドの仏教芸術が再度活発になったのは、4世紀のグプタ朝時代で、古典復興の機運に乗り、マトゥラー彫刻の伝統を踏まえた新たな造像が始まった。
・伝統的な造形に加え、写実性が増し、顔の表情にも微妙な表現が付与されるなど、精神性を加味した優美な様式に変化していった。
・仏教美術は東南アジア諸国や西域、中国にも伝播し、影響を及ぼしていった。


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藤原定家と後鳥羽上皇 〜百人一首の背景〜

2022年08月24日 18時00分29秒 | 古典文学
百人一首・・・昔から気にはなっていたけれど、手を出さずにいたら、
いつの間にかアラ還になってました。

しかし近年、映画「ちはやふる」を観て俄然、興味が湧きました。
競技カルタにかける青春もキラキラと眩しく輝いているのですが、
私の興味は歌の内容です。

そんな折、NHK-BSで特集番組が放映され、録画しておきました。
視聴する時間がなかなかなくて、2年後に観ることになりました;

▢ 英雄たちの選択 正月スペシャル「百人一首〜藤原定家 三十一文字の革命

百人一首の成り立ちを、
貴族社会から武家社会へ変遷する時代背景を解説しながら、
編纂者の藤原定家と後鳥羽上皇の人間関係に焦点を当てた番組内容です。

番組はドラマと並行して話が進んでいきます。
ふつう、このスタンスってドラマが邪魔になることが多いのですが、
今回のドラマは秀逸で、思わず魅入ってしまいました。

和歌好きの若き貴公子、後鳥羽天皇。
後鳥羽天皇は壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇の後を継いだ天皇です。
一緒に草薙剣も沈んでしまったため、
「三種の神器を持たない天皇は正統な天皇ではない」
と世間では揶揄され、常日頃悔しい思いをし、
いつか皆が認めるような大仕事をしたいと望んでいました。

後鳥羽天皇と定家が出会った最初の頃、二人は和歌を楽しんで盛り上がります。
天皇は「新古今和歌集」の編纂を定家に依頼しました。
この大仕事は、自分が歴代の天皇と並ぶ正当な存在であることを証明する役割もあったのです。

しかし時代が許しません。
時は12世紀末〜13世紀初頭、
混乱の世の中から日本初の武家政権である鎌倉幕府が生まれるタイミング。

後鳥羽天皇は権力を失い、
上皇として一旦は政治の舞台から退きます。

しかし鎌倉幕府が内紛に明け暮れているのを京都で見ていて、
権力を取り返す機会を虎視眈々と狙うようになりました。

その間、定家との関係は徐々に悪化しました。
“和歌好き”だけでは仲良しを続けられるよう世の中ではありません。
和歌道に頑固に突き進む定家、
一方の上皇は権力・政治の視点から和歌を利用するようになり、
二人のベクトルが別の方向を向くようになっていきました。

上皇が一念発起して起こした「承久の乱」は上皇側が敗北し、
このとき、日本は純粋な天皇制から武士政権へ変換したのです。

上皇は隠岐に流され、都に帰ることなく60歳の生涯を閉じました。
ケンカ別れしてもお互いに尊敬し合っていた定家もその後を追うように80歳の長寿を全うしました。

定家は天皇から支持して編纂する勅撰和歌集(新古今和歌集)の他に、
王朝文化を後世に残そうと、
過去500年にわたる著明な歌人の作品から100首を選ぶという作業を細々と続けていました。
名付けて「百人一首」。

過去500年?

現代文学に500年間の作品をセレクトしたセットがあるでしょうか。
「◯◯文学全集」という名のモノはいくつもありますが、
長大な全集で全部読み終わるには何年もかかりそうです。

王朝文化が花開いた500年の記録・・・
しかし歌い手は貴族に限定されず、女房や僧侶も入っています。

そして99首目が切っても切れぬ縁の後鳥羽上皇(後鳥羽院)の歌。

「人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふ故に もの思ふ身は」

「人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。
つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には。」

ん、番組での解説とちょっとニュアンスが違いますね。

「人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、
(歎かわしいことではあるが) それと言うのも、この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。」

う〜ん、これもピンとこないなあ。
番組を見返してみました;

「人を愛おしくも思い、人を恨めしくも思う、
つまらないこの世なら、だったら、精一杯生きてやる」

この現代語訳は厭世観に終始するのではなく、決意を持って生きていく意思表示をしていると読み込んでいます。
後鳥羽上皇の強い気持ちと選者の定家の思いが、
凄味を持ってこめられていると感じました。


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名刀「膝丸」

2022年08月24日 10時54分26秒 | 日本の美
近年は“刀剣ブーム”なんだそうな。
意外にもそのコアなファン達は、男性ではなく女性達。
アニメやゲームをきっかけにファンになり、
全国の名刀を見歩いているとのこと。

そんな平和な時代になったのですね。

刀についてあまり真面目に考えたことがなかったので、
録画してあった番組を見てみました。

名品の来歴「幻の刀“膝丸”が語る1000年」(NHK-BS 2021.11.23再放送)
DVDも販売されています)

まず興味深かったのは、鎌倉時代以前と以後では刀の形が違うこと。
初めて知りました。

その理由は「戦いの形」。
馬上戦か、地上戦かにより、刀の長さや形が異なるのです。

馬上戦では馬に刀が当たると刺激になり暴れてしまうので、
後方に反った形を中央でぶら下げる感じ。
刀を腰につけることを「太刀をはく」と呼んだそうです。
この付け方では刃は下向きです。
相手との距離が近くないので、長さは長め。

そして地上戦が中心になった江戸時代になると、
刀は直線に近くなり腰から帯にかけてぶら下げるようになりました。
刃は上向きです。
刀身は直線的になり、長さは70cm程度。
江戸時代は戦いのない平和な時代だったので、
「刃文」は波打ち、華やかさが追求されるようになりました。

そして“膝丸”です。
膝丸は馬上戦の時代に属するので、刃渡り87cm、
弓なりに反った形が美しく見えます。

約1000年前、10世紀に“膝丸”は造られました。
源平合戦がはじまる前の時代です。

造らせたのは源満仲という、関西にいた源氏の祖先となる豪族。
他にも名刀をいくつも造らせたという伝説が残っています。
刀工の名前は残っていません。
刀の持ち手部分に銘があり「◯忠」と読めますが、詳細は分からないようです。

それをひっさげて朝廷(天皇)の言うことを聞かない豪族達を滅多斬りにし、
朝廷の信頼を得て地位を固めていきました。

膝丸は満仲の子息である頼光が受け継ぎ、
その後も源氏が受け継ぎ、義経も頼朝も使いました。
画面の資料で確認できた源氏名は、
 満仲→ 頼光→ 頼基→ 頼義→ 義家→ 為義→ ・・・義経→ 頼朝

しかし地上戦が中心となる時代が到来し、表舞台から姿を消し、
その後は嫁入り道具の一つとして使われたりしていました。

さて、膝丸の正式な名前は“薄緑”というそうです。
膝丸というニックネームの由来は、
頭から振り下ろしたら膝まで達した、という伝説からとか。

昔の刀の切れ味を表現する名称として、
「二つ胴」「三つ胴」という表現があったことを思い出しました。

処刑された罪人を使って、新しい刀の切れ味を試したのです。
死体を3つ重ねて、一番下まで切れれば「三つ胴」、
二つ切れれば「二つ胴」というわけです。

なんだか、すごい話になってきました。

人を殺傷する刀剣も、
時代を経て今は観賞用になりました。

膝丸を造らせた源満仲は、
膝丸をブンブン振り回して力尽くで周囲をねじ伏せていったのです。
つまり“究極のパワハラ”です。

刀剣女子達は、その辺のことをどう考えているのでしょうか、
一度聞いてみたいですね。

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100分 de名著「日蓮の手紙」 by 植木雅俊氏

2022年08月23日 17時09分29秒 | 寺・仏教
私は日本の仏教があまり好きではありません。
一応、曹洞宗のお寺にお墓はありますが。

なんていうかな・・・釈迦の教え(原始仏教)が世界に広まる過程で、
いろんな地元宗教を飲み込んでいき、
ずいぶん姿を変えてしまっていると感じるんです。

例えば、修行で痩せたイメージのある釈迦です。
修行しても覚りの役には立たないと釈迦は覚り、
厳しい修行を捨てたと聞いています。

でも、日本の曹洞宗(道元)などは、今でも必要以上に厳しい修行を課しています。

釈迦の教えでは「男女平等」でした。
しかし「男尊女卑」思想のあるバラモン教の影響で、
いつの間にか日本仏教でも「男尊女卑」が当たり前になっていました。

そんな流れに異を唱えたのが鎌倉時代に生きた日蓮です。
異を唱えれば、抵抗勢力が発生します。
彼は時の政府(鎌倉幕府)寄りの宗派から迫害を受けたり、
えん罪を突きつけられたり・・・。

おかげで伊豆に左遷されるは、
死刑で向かったはずの佐渡に流されるは・・・
波瀾万丈の生涯だったようです。

さてこの番組は、日蓮の残した著書ではなく、
彼が門徒や弟子やその奥さんに書いた手紙を紹介する内容です。

するとどうでしょう。

説教臭い要素は一切感じられず、
ときに顧問弁護士だったり、
時にカウンセラーだったり、
相手を思いやる気持ちにあふれた手紙の数々なんです。

武士の時代にあって、
「女人も男子と同じ、イヤそれを越えてエライ」
なんて発言すれば、闇討ちに遭いそうですよね(実際合ってます)。

悪いことばかり降りかかる女性に向けては・・・
彼女は夫を早くして失い、長男も失い、三男も失い、
慰める言葉が見つからない境遇です。

彼女に日蓮は、
「◯◯さんの方が不幸だから大丈夫」
とかで慰めることはしません。

その時代に起こった蒙古襲来。
戦うために九州に出向く夫と、
すがりつく妻。
世の中にはいろんな悲しみがあります。
そちらに目を向けてはいかがですか?

という離れ業のカウンセリングをしたのです。

とにかく、希有な思想家だと思いました。
すごいのは、どんなことがあっても、どれだけ迫害されても、
それを一生貫いたこと。

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