知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

仏像の誕生と変遷

2023年01月22日 13時14分25秒 | 原発
私は仏像ファンではありませんが、
あるとき、一つの仏像に魅せられました。

それは「ガンダーラ仏」。

「ガンダーラ」という単語は、
50歳代以降の人には「ゴダイゴ」というグループが歌い、
ヒットした曲が思い浮かぶと思いますが、
そう、そのガンダーラです。

現在のパキスタン、ペシャワールがその地であり、
シルクロードに存在した都市です。
三蔵法師も立ち寄りました。

ガンダーラは東西文明の交流地点でもありました。

教科書に出てくる「アレキサンダー大王の東征」の際に、
ギリシャ/ローマ文明がこの地にもたらされることになり、
その影響でそれまで作られてこなかったブッダの像(仏像)が作られるようになりました。

ブッダ入滅後、すでに500年が経過していました。

こういう背景があるため、
初期の仏像はギリシャ/ローマ彫刻のように、
彫の深い西洋人のお顔をしていました。

それがなんとも魅力的なのです。
今風に言えば“イケメン”。

西洋と東洋のエッセンスをまじりあわせて作った、
ハーフのような顔立ち。

日本の仏像は中性的で優しい雰囲気がありますが、
ガンダーラ仏は男性像です。

ガンダーラ仏がシルクロードを介して当方に伝わる際に、
徐々にその土地の文化の影響を受けつつ変化し、
日本にたどり着いたときには現在のお顔になった、
ということですね。

こちらのサイトに初期仏教美術について記載されていたので、
メモ的に抜粋させていただきます;

▢ 仏陀の呼び方
・釈迦、釈迦牟尼、釈尊との呼ばれているが、本名は「ゴータマ・シッダールタ」。
・釈迦は出身部族名からくる通称。
・仏陀は「目覚めた人(悟った人)」を意味する語。

▢ 仏陀の生涯
・インド北部の小国の王子として誕生。
・29歳で出家し、35歳の時に菩提樹の下に座して悟りを得た。
・その後インド諸国を旅して周り、80歳でこの世を去るまで説法に努めた。
・入没は紀元前480年ごろ(諸説あり)。

▢ 初期の仏陀美術
・仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた仏塔(ストゥーパ)など仏陀の遺物崇拝と荘厳(しょうごんー装飾)。
(例)インド中部のサーンチーやバールフトに残る仏教遺跡
・仏塔を囲む石造の塔門や、欄楯(らんじゅんー柵)に多くの浮彫がされ、仏伝図(ぶつでんずー仏陀の生涯を描いた図)や本生図(ほんじょうずージャカータ・前世物語)などが彫られている。

▢ 無仏像時代の彫刻
・紀元前3世紀~前1世紀初頭の頃の仏教美術には仏陀の姿は表されておらず、「無仏像時代」と呼ばれている。
・仏陀は人のカタチをとらず、記号のようなものにより存在が示された。
(例)
 仏足跡(ぶっそくせきー仏足石)…仏陀の足跡
 菩提樹…悟りを得た仏陀を象徴
 傘蓋(さんがい)…古代インドの貴人の外出具
 仏塔
 法輪
 台座
 三宝標(仏・法・僧と呼ばれる3つの宝物)
・古い経典には「仏陀の体は形象化できず、また測ることもできない」という意味の言葉が記されている。当時の人々にとって、仏陀を生身の人間の姿であらわすことは畏れ多かったためと推測される。

▢ 仏像の起源
・仏陀の死後500~600年後に仏像が造られるようになった。
・最初の仏像はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)でクシャーン朝時代の紀元1世紀頃という説が有力。続いて中インド北部の小都市マトゥラーで2世紀初頭頃に造られた。
・紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王が東征を行い、ガンダーラ地方にも多くのギリシャ系民族が流入し、西方文化が伝えられた。
・前3世紀半ばに仏教信者であるマウリヤ朝のアショーカ王がこの地方まで領土を広げ、寺院や仏塔が建てられた。
・やがてクシャーン朝(1世紀後半~3世紀頃)に入って最初の仏像が生み出された。

▢ ガンダーラの造像
・初期の仏教遺跡であるインドのサーンチーやバールフトでは、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、仏陀を象徴表現(仏足跡や菩提樹など)で表した仏陀なき「仏伝図」がつくられていた。
・期限1世紀頃のガンダーラでは、象徴表現ではなく頭光(ずこう)や僧衣をつけた人物像として表現したものが登場し、これが仏像の始まりとされている。
・初期の仏像は仏伝図に描かれた他の人物と同程度の大きさであったが、しだいに大きく目立つように表現されるようになり、これが礼拝の対象となり、ついには「単独の彫像」が造られるようになった。

▢ ガンダーラ仏は西洋人?
・ガンダーラ仏はギリシャ・ローマ美術の影響を受けている。
・人物表現は、彫の深い顔立ちに高い鼻、引き締まった口元にひげを蓄えた顔貌で、東洋人よりは西洋人の特徴を備えている。
・その思索的な表現と写実味あふれる肉体表現は、ガンダーラ美術が東西文明の交流により形成されたヘレニズム美術の影響下に造られたことを物語る。

もう一つの仏像の起源とされてきたマトゥラーについても記述されていますので、
こちらも引用・抜粋されていただきます:

▢ マトゥラーという都市
・仏像の起源をめぐって北西インドのガンダーラと長年論争の的になってきた地であり、中インド北部のジャムナー川とガンジス川が合流する地点にある。
・水路によりインド全域と交流があり、通商路の交差点として栄えてきた。
・宗教に関する造形活動も行われ、土俗神の石像や大型のストゥーパ(仏塔)、寺院建築など、紀元前2世紀ごろにまでさかのぼる造形技術の長い伝統を有していた。
・ガンダーラ地方でヘレニズム美術の影響による造像が始まったのと同時期に、マトゥラーではインド独自の様式を持った仏像が造られ始めた。

▢ マトゥラーでの造像の発生
・マトゥラーに仏像が出現したのは、クシャーン朝時代の紀元2世紀初め頃で、仏教庇護者であったカニシカ王の時代(2世紀半ば頃)に最盛期を迎えた。
・マトゥラーにおける仏像の政策は、ガンダーラと同様ストゥーパ(仏塔)の装飾として彫刻された仏伝図からはじまり、しだいに礼拝用の単独像が造られるようになった。
・ガンダーラの仏像は西洋文化の影響を強く受けた彫りの深い顔立ちや、写実的な衣文(えもんー絵画や彫刻に描かれる衣装類のシワ)を特徴としていたが、マトゥラーの仏像は力強く生気があふれる表情をしており、肉付きのよい豊満な体と、強く張り出した両肩と体に密着したごく薄い衣文、小ぶりにあらわされた巻貝の肉髻(にっけい) などが特徴。

▢ マトゥラー仏の衰退と復活
・3世紀半ば頃にはクシャーン朝が終わりを告げ、同時に仏像づくりも陰りが見え始めた。
・北インドの仏教芸術が再度活発になったのは、4世紀のグプタ朝時代で、古典復興の機運に乗り、マトゥラー彫刻の伝統を踏まえた新たな造像が始まった。
・伝統的な造形に加え、写実性が増し、顔の表情にも微妙な表現が付与されるなど、精神性を加味した優美な様式に変化していった。
・仏教美術は東南アジア諸国や西域、中国にも伝播し、影響を及ぼしていった。



藤原定家と後鳥羽上皇 〜百人一首の背景〜

2022年08月24日 18時00分29秒 | 古典文学
百人一首・・・昔から気にはなっていたけれど、手を出さずにいたら、
いつの間にかアラ還になってました。

しかし近年、映画「ちはやふる」を観て俄然、興味が湧きました。
競技カルタにかける青春もキラキラと眩しく輝いているのですが、
私の興味は歌の内容です。

そんな折、NHK-BSで特集番組が放映され、録画しておきました。
視聴する時間がなかなかなくて、2年後に観ることになりました;

▢ 英雄たちの選択 正月スペシャル「百人一首〜藤原定家 三十一文字の革命

百人一首の成り立ちを、
貴族社会から武家社会へ変遷する時代背景を解説しながら、
編纂者の藤原定家と後鳥羽上皇の人間関係に焦点を当てた番組内容です。

番組はドラマと並行して話が進んでいきます。
ふつう、このスタンスってドラマが邪魔になることが多いのですが、
今回のドラマは秀逸で、思わず魅入ってしまいました。

和歌好きの若き貴公子、後鳥羽天皇。
後鳥羽天皇は壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇の後を継いだ天皇です。
一緒に草薙剣も沈んでしまったため、
「三種の神器を持たない天皇は正統な天皇ではない」
と世間では揶揄され、常日頃悔しい思いをし、
いつか皆が認めるような大仕事をしたいと望んでいました。

後鳥羽天皇と定家が出会った最初の頃、二人は和歌を楽しんで盛り上がります。
天皇は「新古今和歌集」の編纂を定家に依頼しました。
この大仕事は、自分が歴代の天皇と並ぶ正当な存在であることを証明する役割もあったのです。

しかし時代が許しません。
時は12世紀末〜13世紀初頭、
混乱の世の中から日本初の武家政権である鎌倉幕府が生まれるタイミング。

後鳥羽天皇は権力を失い、
上皇として一旦は政治の舞台から退きます。

しかし鎌倉幕府が内紛に明け暮れているのを京都で見ていて、
権力を取り返す機会を虎視眈々と狙うようになりました。

その間、定家との関係は徐々に悪化しました。
“和歌好き”だけでは仲良しを続けられるよう世の中ではありません。
和歌道に頑固に突き進む定家、
一方の上皇は権力・政治の視点から和歌を利用するようになり、
二人のベクトルが別の方向を向くようになっていきました。

上皇が一念発起して起こした「承久の乱」は上皇側が敗北し、
このとき、日本は純粋な天皇制から武士政権へ変換したのです。

上皇は隠岐に流され、都に帰ることなく60歳の生涯を閉じました。
ケンカ別れしてもお互いに尊敬し合っていた定家もその後を追うように80歳の長寿を全うしました。

定家は天皇から支持して編纂する勅撰和歌集(新古今和歌集)の他に、
王朝文化を後世に残そうと、
過去500年にわたる著明な歌人の作品から100首を選ぶという作業を細々と続けていました。
名付けて「百人一首」。

過去500年?

現代文学に500年間の作品をセレクトしたセットがあるでしょうか。
「◯◯文学全集」という名のモノはいくつもありますが、
長大な全集で全部読み終わるには何年もかかりそうです。

王朝文化が花開いた500年の記録・・・
しかし歌い手は貴族に限定されず、女房や僧侶も入っています。

そして99首目が切っても切れぬ縁の後鳥羽上皇(後鳥羽院)の歌。

「人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふ故に もの思ふ身は」

「人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。
つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には。」

ん、番組での解説とちょっとニュアンスが違いますね。

「人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、
(歎かわしいことではあるが) それと言うのも、この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。」

う〜ん、これもピンとこないなあ。
番組を見返してみました;

「人を愛おしくも思い、人を恨めしくも思う、
つまらないこの世なら、だったら、精一杯生きてやる」

この現代語訳は厭世観に終始するのではなく、決意を持って生きていく意思表示をしていると読み込んでいます。
後鳥羽上皇の強い気持ちと選者の定家の思いが、
凄味を持ってこめられていると感じました。



名刀「膝丸」

2022年08月24日 10時54分26秒 | 日本の美
近年は“刀剣ブーム”なんだそうな。
意外にもそのコアなファン達は、男性ではなく女性達。
アニメやゲームをきっかけにファンになり、
全国の名刀を見歩いているとのこと。

そんな平和な時代になったのですね。

刀についてあまり真面目に考えたことがなかったので、
録画してあった番組を見てみました。

名品の来歴「幻の刀“膝丸”が語る1000年」(NHK-BS 2021.11.23再放送)
DVDも販売されています)

まず興味深かったのは、鎌倉時代以前と以後では刀の形が違うこと。
初めて知りました。

その理由は「戦いの形」。
馬上戦か、地上戦かにより、刀の長さや形が異なるのです。

馬上戦では馬に刀が当たると刺激になり暴れてしまうので、
後方に反った形を中央でぶら下げる感じ。
刀を腰につけることを「太刀をはく」と呼んだそうです。
この付け方では刃は下向きです。
相手との距離が近くないので、長さは長め。

そして地上戦が中心になった江戸時代になると、
刀は直線に近くなり腰から帯にかけてぶら下げるようになりました。
刃は上向きです。
刀身は直線的になり、長さは70cm程度。
江戸時代は戦いのない平和な時代だったので、
「刃文」は波打ち、華やかさが追求されるようになりました。

そして“膝丸”です。
膝丸は馬上戦の時代に属するので、刃渡り87cm、
弓なりに反った形が美しく見えます。

約1000年前、10世紀に“膝丸”は造られました。
源平合戦がはじまる前の時代です。

造らせたのは源満仲という、関西にいた源氏の祖先となる豪族。
他にも名刀をいくつも造らせたという伝説が残っています。
刀工の名前は残っていません。
刀の持ち手部分に銘があり「◯忠」と読めますが、詳細は分からないようです。

それをひっさげて朝廷(天皇)の言うことを聞かない豪族達を滅多斬りにし、
朝廷の信頼を得て地位を固めていきました。

膝丸は満仲の子息である頼光が受け継ぎ、
その後も源氏が受け継ぎ、義経も頼朝も使いました。
画面の資料で確認できた源氏名は、
 満仲→ 頼光→ 頼基→ 頼義→ 義家→ 為義→ ・・・義経→ 頼朝

しかし地上戦が中心となる時代が到来し、表舞台から姿を消し、
その後は嫁入り道具の一つとして使われたりしていました。

さて、膝丸の正式な名前は“薄緑”というそうです。
膝丸というニックネームの由来は、
頭から振り下ろしたら膝まで達した、という伝説からとか。

昔の刀の切れ味を表現する名称として、
「二つ胴」「三つ胴」という表現があったことを思い出しました。

処刑された罪人を使って、新しい刀の切れ味を試したのです。
死体を3つ重ねて、一番下まで切れれば「三つ胴」、
二つ切れれば「二つ胴」というわけです。

なんだか、すごい話になってきました。

人を殺傷する刀剣も、
時代を経て今は観賞用になりました。

膝丸を造らせた源満仲は、
膝丸をブンブン振り回して力尽くで周囲をねじ伏せていったのです。
つまり“究極のパワハラ”です。

刀剣女子達は、その辺のことをどう考えているのでしょうか、
一度聞いてみたいですね。


100分 de名著「日蓮の手紙」 by 植木雅俊氏

2022年08月23日 17時09分29秒 | 寺・仏教
私は日本の仏教があまり好きではありません。
一応、曹洞宗のお寺にお墓はありますが。

なんていうかな・・・釈迦の教え(原始仏教)が世界に広まる過程で、
いろんな地元宗教を飲み込んでいき、
ずいぶん姿を変えてしまっていると感じるんです。

例えば、修行で痩せたイメージのある釈迦です。
修行しても覚りの役には立たないと釈迦は覚り、
厳しい修行を捨てたと聞いています。

でも、日本の曹洞宗(道元)などは、今でも必要以上に厳しい修行を課しています。

釈迦の教えでは「男女平等」でした。
しかし「男尊女卑」思想のあるバラモン教の影響で、
いつの間にか日本仏教でも「男尊女卑」が当たり前になっていました。

そんな流れに異を唱えたのが鎌倉時代に生きた日蓮です。
異を唱えれば、抵抗勢力が発生します。
彼は時の政府(鎌倉幕府)寄りの宗派から迫害を受けたり、
えん罪を突きつけられたり・・・。

おかげで伊豆に左遷されるは、
死刑で向かったはずの佐渡に流されるは・・・
波瀾万丈の生涯だったようです。

さてこの番組は、日蓮の残した著書ではなく、
彼が門徒や弟子やその奥さんに書いた手紙を紹介する内容です。

するとどうでしょう。

説教臭い要素は一切感じられず、
ときに顧問弁護士だったり、
時にカウンセラーだったり、
相手を思いやる気持ちにあふれた手紙の数々なんです。

武士の時代にあって、
「女人も男子と同じ、イヤそれを越えてエライ」
なんて発言すれば、闇討ちに遭いそうですよね(実際合ってます)。

悪いことばかり降りかかる女性に向けては・・・
彼女は夫を早くして失い、長男も失い、三男も失い、
慰める言葉が見つからない境遇です。

彼女に日蓮は、
「◯◯さんの方が不幸だから大丈夫」
とかで慰めることはしません。

その時代に起こった蒙古襲来。
戦うために九州に出向く夫と、
すがりつく妻。
世の中にはいろんな悲しみがあります。
そちらに目を向けてはいかがですか?

という離れ業のカウンセリングをしたのです。

とにかく、希有な思想家だと思いました。
すごいのは、どんなことがあっても、どれだけ迫害されても、
それを一生貫いたこと。


日本料理の歴史(抄) by 原田信男氏

2022年02月27日 22時04分48秒 | 原発
私は数年前からロカボ(炭水化物制限)をしています。
厳しく制限するのではなく、
ご飯を食べない、
パンやパスタを食べない、
芋も食べない、
という“主食抜き”の食事です。

提唱した医師は、その昔、玄米食を提唱した医師でもあります。
健康を考えたら1000年前の食事にたどり着いた、
糖尿病食を考えたら10000年前の食事にたどり着いた、
と著書の中で記述しています。

なるほど、と思いながらもずっと私の頭に引っかかっていることがありました。
それは日本の伝統食である神饌と精進料理の栄養バランスはどうなっているかということ。特に蛋白質と炭水化物の比率は、現代食と比較してどうなのか?

時間がないのでまだ本格的には調べていませんが、
ネット検索したら以下の文章に出会いました。
発言者の原田信男氏は国士舘大学教授で、食文化の研究者です。

日本の食文化の歴史を俯瞰しており、
なかなか興味深い内容です。
料理としては、歴史上以下の順番で登場したとのこと;

神饌
大饗料理
精進料理
本膳料理
懐石料理
会席料理

神饌は昔は神と共食する料理だったはずなのに、明治時代に生もの中心にすり替えられてしまった経緯があるそうです。残念。

大饗料理は平安時代の貴族の食べたもので、庶民の口には入らなかった様子。

精進料理は禅宗に伴い鎌倉時代に日本に入ってきた料理で、植物性のものを動物性に似せるよう工夫して調理したもの。

本膳料理は武士の時代に発達した料理。室町時代には今は馴染みの“だし”も登場したそうです。

懐石料理は戦国時代の茶の湯の一期一会の精神の元にもてなしの心を尽くした料理。

会席料理は江戸時代に発達した料理屋さんでみんなが集まって食べる料理。

等々。

■ 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録
・・・
・一番古い日本の料理様式は、実はわかりません。つまり、これは文字で書かれることが非常に少ないわけです。ただ、考えられる一番古い日本の正式な料理は、恐らく神とともに食べる食事、神饌であっただろうと思われます。ただ、神饌は現在変わってきてしまっています。もともとは人間が神様にお願いをして、そのために食べ物をささげる。そして神に食べてもらった食べ物を人間が食べる。つまり、先ほどの言葉で言うと、神人共食、神と人間が共食をすることによって神の恩恵を得ると同時に、神への感謝を示すという料理ですから、これが最高の料理形式であったと思われます。
・ただし、明治になって国家神道になったときに、祭式を改めて以降、神饌は全部生饌、生のものに改められました。そのように神社庁が指導したわけです。しかし、もともとは熟饌、料理したものを上げていたはずです。・・・神が食べた後に食べるということが重要なわけでありまして、直会というのがそれに当たって、神道の儀式の中で非常に重要な意味を持つわけですが、ただ、先ほど言ったように、わからない。
・現在残っている神饌について資料に上げておきましたけれども、これは春日大社の神饌です。これは中国大陸の影響を受けております。まず、色がついている。さまざまなものを盛り上げている。これは中国大陸からの影響です。
・日本の神は素木、色をつけないのが本来です。色をつけるのは仏教の影響です。春日大社は神社であるけれども、興福寺との関係で色をつけているわけです。したがって、現在残っている神饌料理からかつての神饌料理のあり方はわからないということになってしまいます。
・その次が大饗料理です。これは平安貴族などが天皇たちをもてなすための料理であって、台盤、テーブルが出されて、そこに料理が並びます。この料理は、後で数えていただくとわかるのですが、膳組みが偶数仕立てです。偶数仕立てということは、中国料理の影響です。そして、手元のところに白い皿があって、その横に箸とスプーンが置かれているわけです。スプーンも中国料理で、朝鮮半島まで参りましたけれども、日本には入っておりません。
・大饗料理には料理の原形が示されております。それはどういうことかというと、ここには生ものとか干物とか、そういうものが並んでおるのですが、味つけは自分でするのです。手前に四種器という4つの器がありまして、そこに酢とかお塩とか、醤だとか、そういう調味料が盛られておりまして、白いのはとり皿であって、ここに並んでいるものをとって、自分なりの味つけをして食べるということです。実はこれが料理の原型なのであります。
・・・
・大饗料理は中国の影響が強いのですが、1つだけ日本的な特徴があります。それは何かというと、切るということです。皆さん、切るというのは料理でないと思われるかもしれませんけれども、刺身は立派な料理なのです。刺身のどこが料理かというと、片刃の薄い包丁で魚の肉の細胞を壊さずに切るということです。つまり、肉汁が逃げない。あれを西洋料理とか中国料理の包丁で切ったら、あの刺身の味は出ません。そういう意味で、日本は、切るという料理技術を物すごく重視し、発展させた文化です。それはこの大饗料理の中にあります。ですから、庖丁人というのはこのころから使われておりますけれども、「包丁」という言葉が料理の代名詞になるということであります。
・その次は精進料理です。精進料理も中国の禅院から伝わったもので、いかに植物性のものを動物性のものに見せるかということです。動物性のものに見せるためには、粉食、小麦粉とかいろんな粉を強烈な調味料、つまり、ゴマ油とかみそとか、そういうもので特別な味つけをして肉の味に近づけさせるということですから、これは先ほどの大饗料理みたいに自分で味をつけるということではなく、要するに、料理人が徹底して味つけをする、調理するというのが示されたのが精進料理で、これが鎌倉時代に日本に入ってまいります。しかし、これも中国文化の影響でありまして、日本独自のものとは言いがたいことになります。
・そうした日本文化の中で日本料理というものがいつ成立するかというと、室町期なのです。料理に限らず、今日的な日本の伝統文化というものは室町時代に成立しております。お茶、生け花、香道とか、能とか、大体伝統的な文化は室町時代に発達し、日本料理もそのときに発達してきている。
・それまでも日本料理のだしとして昆布とかつおは用いられていましたが、特に昆布などの場合は食べるだけでありまして、それをだしとして用いるようになるのは遅かった。かつおは初め、堅魚煎汁という形で煮出してだしをとっていたわけですけれども、それをかつおぶしという形で今日的なだしをとり、それに昆布を合わせる。これが成立したのも室町時代の話であります。
・そして、これでつくり上げられたのが将軍の御成の際に出される本膳料理という料理様式であります。本膳料理は、まさに膳であります。膳を使っているのは東アジアの中では日本と朝鮮半島と沖縄だけです。そういう意味で、日本的な膳を使う料理文化というものがまさに室町時代に生まれた。しかも、膳組みは七五三の本膳組みです。ですから、今日の奇数組みの日本料理にここで初めて変わった。ある意味で言えば、室町時代に日本料理が成立したと言っても過言ではありません。
・それと同時に、それまでは宮廷を中心とした大饗料理などの料理流派であった四條流が主流だったわけですが、ところが、室町時代にかなりの数の武家の庖丁流派というものが生まれてくる。生間流とか進士流とか大草流とか、そういう庖丁流派が生まれてきて、さらに日本の食事文化の発展というものが基礎づけられ、そしてそのものを秘伝として残す料理書、つまり、何とか流料理書というものが室町時代にたくさん成立を見てくるわけです。そういう形で日本料理が成立するわけです。
・・・
・最後に、本膳料理を発展させたものとして懐石料理が出てくるわけです。まず、千利休が大成するわけで、これが戦国時代のことであります。これは本膳料理のいいとこ取りをして、なおかつ、茶の湯には一期一会という考え方がありますから、どうやって最高のもてなしをするか、それが茶会の理想であるという形で、もてなすためには、そのときそのときの1回の出会い、季節感をいかに大切にするか、盛りつけをどうするか、部屋のしつらえをどうするか、そういう中で今日代表されるような、世界にも通じる料理としての懐石料理が戦国時代に成立しております。
しかし、戦国時代、中世までの料理というのは、食べられる場所と人間が決まっていた。茶会に招待される、あるいは将軍、貴族の儀式に参加できる人間は限られております。場所も時間も限られております。
・江戸時代、近世になると、これは封建時代というふうに皆さんは考えられているかもしれませんけれども、かなり発達した時代で、近世になって初めて自由な料理が成立したと思っております。つまり、料理屋の成立です。料理屋があるから、そこに行けば、もちろん予約することがあるかもしれないし、ふらっと行くこともできますけれども、そういう形で、いつでも好きなときに、お金さえ出せば誰でも料理が食べられるようになった。
・先ほど申しました秘伝の巻物として伝えられた料理書が、江戸時代になると出版されます。秘伝書が出版されるということになってきてしまうわけであって、これによって料理法も金で買えるという形になった。江戸時代になって料理の体系そのものは変わらないのですが、それが非常に浸透し、普及していったのが江戸時代。
・なおかつ、さらにそれに磨きがかかった。特に宝暦・天明期から文化・文政期、18世紀の後半から19世紀の前半にかけて料理文化というものは著しい発達を見ます。まさに江戸では八百善だとか、聞いたことがあると思いますけれども、そういう会席料理。これは「会席」で、料理屋で食べる日本料理です。これが非常な発達を見る。
・・・
そしてそのまま明治維新を迎えて、それまで国家の正式な晩さん料理であった日本料理から、明治天皇が主催する晩さん会では西洋料理、フランス料理に変わってまいります。実は肉食を禁止しましたけれども、明治4年に天皇は肉食再開令を出しまして、みずから進んで肉を食べるということをやっているわけです。これも細かいことは省きますが、しかし、そう簡単に西洋料理が広く受け入れられるわけではありません。
・すき焼きというのは江戸時代からあって、まさに農具のすきで焼く料理でした。江戸時代のすき焼きは鳥と魚だったわけです。ところが、それに肉を使って牛鍋という形とかで肉食が入ります。しかし、明治の後半、30年代、女学校の料理教室で教えていたのは何かというと、西洋料理と日本料理の間に折衷料理というのがありまして、牛肉のかす漬けだとか、カレー粉入りの味噌汁だとか、まさに今日的なコラボレーションの料理ではあるのですが、今の我々からすると、えっと思うような、まさに和洋折衷の料理を苦心して女学校で調理の時間に教えております。
・やがて大正ぐらいにると、洋食がかなり普及してくる。その後、戦争の間、日本の食糧事情は物すごく落ちますから、食文化の料理も衰退してしまいます。
・戦後になって、高度経済成長の波に乗って再び日本料理がかなり身近なものになる。もちろん、これにはコールドチェーンの発達、要するに、冷凍技術とか施設・設備のもので今日的な食文化、まさにグルメブームが出てくるわけです。
・注意していただきたいのは、日本人は米を食べてきたと言われていますけれども、日本人が腹いっぱい米を食べられるようになったのは1960年代のことであります。逆に60年代に何が起きているかというと、米の排斥、米食はよくないという形、米偏光、是正というような形での運動も起きている。
・日本料理の成立というのはそんなに古いことではない。しかも、その後、さまざまな変遷があった。つまり、私に言わせれば、和食とか日本料理というものは時代によって概念が変わるものであるということ、この点にも注意していただきたいです。