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自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

柳田国男の氏神論「日本の神の中心は先祖である」

2018年01月11日 08時18分35秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第四章より。

 著者は柳田国男の『先祖の話』という書物から氏神論を抽出しています。
 氏神とは先祖の霊の融合した霊体であり、それは同時に稲作を守る田の神であり、家と子孫の繁栄を願う神である、とする考え方が日本各地の民俗伝承から帰納できる、とのこと。

『先祖の話』の氏神論のポイント
①あの世とこの世とは近い、死者と生者との境は近い、と考えられてきた。
②遺骸を保存する慣行は民間には行われず、肉体の消滅を自然のものと受け入れて、霊魂の去来を自由にすることをよしとする考え方が伝えられてきた。
③死者の霊魂は、その祀り手が必要だ、と考えられてきた。
④その祀りを受けて死者は個性を失い、やがて先祖という霊体に融合していく、と考えられてきた。
⑤その先祖の霊は、子孫の繁栄を願う霊体であり、子孫を守る霊体である、と考えられてきた。
⑥その子孫の繁栄を願う霊体は、盆と正月に子孫の家に招かれて、その家と子孫の繁栄を守る神でもある、と考えられてきた。
⑦子孫の繁栄を守るその先祖の霊こそが、稲作の守り神であり、季節の巡りの中で、大和多を去来する田の神であり山の神でもある、と考えられてきた。
⑧その先祖の霊であり、田の神でもある神こそ、村の繁栄を守る氏神として敬われている神でもある、と考えられてきた。
⑨老人には無理だが、子どもや若い死者の霊魂は生まれ変わることができる、と考えられてきた。
⑩この度の戦争で死んだ若者達のためにも、その祀りが是非とも必要である。
⑪この度の戦時下から戦後への混乱の時代こそ、未来のことを考えるためには、古くからの慣習をよく知ることが肝要である。国民を、それぞれ賢明にならしむる道は、学問より他にない。

日本の神の中心は先祖である
 柳田が日本各地の民俗伝承の比較研究の視点によって導き出した日本の神の中心は、先祖であり、先祖の御魂(みたま)であった。
 ただし、死者はその死後ただちに先祖様になるのではない。死者は死の穢れに満ちた「荒忌」の「荒御魂」(あらみたま)であり、それが子孫の供養と祀りを受けて死の汚れが清まってから、先祖の列に加わっていく。その大きな隔絶の線は、およそ三十三年忌の弔い上げと考えていた。
 個々の祖霊が個性を捨てて先祖として融合したものこそが、日本の各地の郷土の信仰の中心であるところの氏神に他ならない。

「村氏神」←「屋敷氏神」←「一門氏神」
 氏神は上記3つに分けられる。氏神とは、元来は藤原氏と春日社のように、氏ごとに一つあるべき神であったのが、古代から中世、近世へという長い歴史の展開の中で大きなまた多様な変化があり、その結果として、現在では3つのタイプが見られるようになった。
(村氏神)・・・「或一定の地域内に住む者は全部、氏子としてその祭に奉仕している氏神社」
(屋敷氏神)・・・「屋敷即ち農民の住宅地の一隅に、斎き祀られている祠で、(中略)こういう屋敷付属の小さな祠だけを氏神と謂っている地方は存外に広い。千葉茨城栃木の諸県、東北はほぼ一体に層だと言ってよい。大体に国の端々、中央から遠ざかった治法にもこの例が多いかと思われるのは、偶然の現象ではなかろう」
(一門氏神)・・・「特定の家に属する者ばかりが、合同して年々の祭祀を営むという、マキの氏神または一門氏神というものが、今も地方によっては残っている。
 分布の上からも「屋敷氏神」は「村氏神」の形態よりも古い氏神の形態と考えられ、さらに「一門氏神」の形態こそが、もっとも古い氏神の形態を伝承している。


 本書には、続いて折口信夫の神道論の項目があります。
 しかしどうも私は昔から折口氏の説を読んでもピンときません。柳田の学説は、(ときにユニークな発想もありますが)豊富なフィールドワークのデータから帰納的に導き出したものと頷けます。
 一方、折口氏の学説は彼の創造物あるいはファンタジーの要素が大きいような気がしてちょっとついて行けないのです。
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