知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「日本人の心を解く」(河合隼雄著、河合俊雄訳)

2017年04月30日 06時07分49秒 | 日本人論
副題「夢・神話・物語の深層へ」
岩波現代全書、2013年発行

数年に一度のペースで河合隼雄さんの著書に手が伸びます。
何となく、生理的欲求が生まれるのです。
現実の生活に迷いが生じたとき、自分の立ち位置を再確認する作業なのかもしれません。

「無意識の構造」という彼の著書を初めて読んだのが、確か高校生の時。
それ以来、折に触れて教えを請うてきた人生の先生です。

さて、この本は「河合俊雄訳」というちょっと不思議なフレーズがくっついています。
河合俊雄氏は河合隼雄氏の息子さんで、やはり臨床心理学者。
この本はもともと英語で発表され、それを日本語に訳したと云うことです。

内容は5回分のエラノス会議の講演です。
後の彼の著書にキーワードとして現れてくる事項を扱っており、1980年代の研究のダイジェスト版と云ってよいかもしれません。

第一章:夢
第二章:明恵
第三章:日本神話
第四章:日本の昔話
第五章:とりかえばや

私がとりわけ興味を抱いたのは、第三章の日本神話でした。
『古事記』『日本書紀』に記されている日本神話ですが、私は「当時の政治情勢を反映させた天皇家の正当性を都合よく説明する内容」と捉えてきました。
しかし河合氏はそれを一歩も二歩も掘り下げ、その本質を「中心となる神の中空構造」と捉えており、目から鱗が落ちました。
そしてその中空構造は、現代にも繋がる日本社会の特質であると。
以下のフレーズが象徴しています;

「日本の天皇は太陽の女神アマテラスの子孫であると云われているけれども、人々の中心としての力という意味では、実際のところは月の神ツクヨミの性質を持っている」

この文章を読んで、いろんなことが腑に落ちるようになりました。
さすが、河合先生!

<備忘録>

【第一章】

□ 『宇治拾遺物語』
 逸話・伝説・そしてインド、中国、日本の歴史的出来事の記録が含まれており、僧侶達はこれを説教に用いた。夢と覚醒時の世界が相互浸透する際だった例が多く含まれる。
 当時のコスモロジーは死の世界や死後の世界を含んでいた。我々の生を本当に考えるためには、この世もあの世も包摂する立場をとることが重要である。

□ 日本語の「私」
 第一人称のいい方には「わたくし」「ぼく」「おれ」「うち」などのように多くのものがあり、どれを選ぶかは、状況と話しかける相手によって決まる。このような点で、日本人はもっぱら他者の存在を通じて「私」を見いだしていると云ってよい。

□ 自然(しぜん-じねん)の概念
 ユングは人間のことを「自然に反する作業」であるとしている。
 西洋文化との摂取句以前には日本人は自然の概念というものを持っていなかった。
 中世日本における夢についての物語を通じて、そこには生と死、現実と空想、自己と他者の間のはっきりとした区別はないことがわかる。同様のことはヒトと自然の関係についても当てはまる。
 西洋の歴史において、自然は文化や文明と対立する概念であって、常に人間により客観化されてきた。Natureという言葉は日本語で「自然」と翻訳されたが、これ以前には日本語に自然という概念がなかった。「自然」とはすべてが自発的に流れる状態を表現していた。常に変化する流れのようなものがあって、そこにはすべてー空、大地、人ーが含まれている。この「自然」の状態は、日本人により直観的に捉えられ、後に“Nature”を翻訳するために用いられた「しぜん」ではなく、もともとは「じねん」と読まれた。

【第三章】

□ 太陽の女神、アマテラス
 多くの他の文化において太陽は男性神で表されるのに、日本においては女神であり、日本の代々の天皇は、この女神の子孫であるとされている。アマテラスの孫の孫(玄孫:げんそん、やしゃご)が日本における最初の天皇になった。
 『古事記』によると、アマテラスは母親(イザナミ)が亡くなったあとに父親(イザナギ)の左目から生まれた「父親の娘」である。イザナギは穢れを禊ぐ目的で中つ瀬に背理、左の目を洗うとアマテラスが、右の目からは月の神であるツクヨミ、鼻からは嵐の神であるスサノオが生まれた。イザナギはアマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の国を、スサノヲに海の領域を支配するよう命じた。
 ・・・『日本書紀』での記述内容は異なる。

□ 中空としての月の神
 太陽の女神(アマテラス)と嵐の神(スサノヲ)はお互いに戦うが、どちらかが明らかに正しいわけでも、悪いわけでもない。嵐の神は太陽の女神の敵ではなく、微妙な対をなす存在である。
 『古事記』『日本書紀』において、月の神(ツクヨミ)に関する話がないのは奇妙である。ツクヨミは神々の中心に位置していながら何もしないという逆説的な役割を担っている。そしてこのトライアッド(三神一組)のうちの他の二つの神である太陽の女神も嵐の神も日本の神々の中心の神となる役割を担い切れていないこともポイントである。

□ 日本神話に登場する3つのトライアッド(三神一組)
1.天地のはじめー自ら誕生ータカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒ
2.天国と黄泉の国のはじめての接触ー父親からの水中出産ーアマテラス、ツクヨミ、スサノヲ
3.天つ神と国塚にとの間のはじめての結婚ー母親からの火中出産ーホデリ(=海幸彦)、ホスセリ、ホヲリ(=山幸彦)
・・・後に山幸彦とトヨタマビメの間の子どもが、日本の最初の天皇の父親となる。
 
 3つのトライアッドに共通する特徴は、何もしない神が中心に存在すること。
 一つ目は父性原理と母性原理を、二つ目は女性と男性、天と地を、三つ目は山と海の対立を内包している。
 この中空をめぐる動き・争いの目的が、権力を勝ち取ったり獲得することではなく、いかに均衡がとれるかに終始していることが最も大切である。
 これが古代日本のコスモロジーであり、キリスト教神話の構造と明確に対照をなしている。キリスト教においては、絶対的で常に正しい唯一神が中心に立っていて宇宙を支配している。日本神話の曖昧な性質とは対照的に善悪の区別は極めて明快である。
 キリスト教では中心がすべての要素を統合する力を持つのに対して、日本の神話においては、中心は力を持たないのである。
 この中空均衡モデルは、今日の日本においてもまだ機能している。このモデルの最大の欠点は、中心があまりにも弱いので、どのような要素も簡単に侵入できることである。
 日本の天皇は太陽の女神アマテラスの子孫であると云われているけれども、人々の中心としての力という意味では、実際のところは月の神ツクヨミの性質を持っている。

【第四章】

□ 西洋と日本の昔話における象徴の使い方には際だった対比が認められ、西洋の象徴が人間から構成されているのに対して、日本の象徴は自然から成り立っている。
 竜宮、つまり竜の宮殿と聞くと、西洋人はそこから竜との戦いを連想する傾向があるのに対して、日本人はそこから宮殿の美しさを連想する。

□ 日本人は「葛藤の美的解決」を好む(ジェイムズ・ヒルマン)

□ 日本神話においては、対をなす者同士の間で、戦いの代わりに多くの重要な妥協がなされる。
 イザナミとイザナキとの間の妥協は、男性と女性、あるいはこの世と黄泉の国との間になされたまさに最初のものである。

□ 日本神話とキリスト教神話の違い
1.双方の間で、禁止する者と禁止される者の性が逆になっている。西洋において男性原理が支配しているのに対して、日本においては女性原理が優勢であることを示唆している。
2.西洋において、人間が神に対して禁を破ることが行われるのに対して、日本においては神々の間でなされている。
3.西洋の神が厳しい罰を与えるのに対して、日本の神々はそのようなことを行わない。

「日本語の歴史」(山口仲美著)

2017年04月26日 06時57分25秒 | 日本人論
日本語の歴史」(山口仲美著) 
 2006年、岩波新書

 学生時代、古文や漢文は苦手でした(^^;)。
 ただ、その頃から漠然とした疑問を持っていました。

 「自分が読んでわかる日本語っていつの時代までさかのぼれるんだろう?」

 それから早30年以上経過してしまいました。
 最近新書版のこの本を見つけ、五十の手習い(?)として読んでみました。

 日本語の歴史を俯瞰するにはちょうどよい分量と思われます。
 文字を持たない日本人が「漢字」を導入したために発生したメリットとデメリットの解説にはじまり、それが時代にもまれ紆余曲折を経て現代の「漢字かな交じり文」にたどり着いた長〜い旅路。
 もちろん、大学で「日本語学」を研究するには、より膨大な資料を読む必要があるのでしょうが、一般人にはこれで十分です。

 高校の古文で習う文法は、平安時代の文章のルールだそうです。「係り結び」の変遷を、その時代が要求する文章(貴族は柔らかい文章を好み、武士は力強い文章を好む)を背景に説明しており、なるほどなあと納得させられました。

 意外に感じたのが「話し言葉と書き言葉の一致・不一致」という問題提起。
 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」だった・・・。
 ふだんは意識しないこの視点が新鮮に感じられました。

 文字を持たなかった日本人が導入したのは中国由来の漢字であった。
 便利な反面、ジレンマも抱えることになった。
 その後、簡略化を目的に、漢字の一部を取り省略しようとしたカタカナ、漢字そのものを簡略化したひらがなが誕生した。
 紆余曲折を経て、現在の「漢字仮名交じり文」が完成した。


 そして最初の疑問に対する答えは・・・江戸時代以降かなあとなんとなく思っていた私ですが、なんと平安時代末期の漢字カタカナ交じり文で書かれた『今昔物語集』のようです。


<備忘録>

□ 日本語には擬音語・擬態語が豊かに存在するが、英語にはあまりない。

□ 日本語の歴史は「話し言葉と書き言葉のせめぎ合い」
【奈良時代】他国の文字である漢字と巡り会い、日本語を必死になって漢字で書き表そうとした。万葉仮名を発明して日本語の表記の土台を築いた。
【平安時代】漢字を手なずけ、とにもかくにも日本語を話すように書き表すことができるようになり、言語芸術の花が開いた。
【鎌倉・室町時代】ふたたび書き言葉は話し言葉から離れはじめ、平安時代の話し言葉の文法は姿を変えていく。
【江戸時代】現代語に連なる話し言葉が形成された。
【明治時代】話し言葉と書き言葉は、絶望的に離れてしまった。人々は、書く言葉を話す言葉に近づけようと戦い、とにもかくにも両者の一致を完成させる。
※ 漢字は紀元前1500年頃に中国で発生した。

□ 日本語のルーツ
 北方からという説と南方からという説が大きく対立している。落ち着くところは、南方系のオーストロネシア語の系統を下地に、北方系のある対語の系統が流れ込んで融合し、日本語の基盤が形作られていった。

□ 万葉集の時代、女性は本名を知られてはならなかった
 女性の名前はおろそかに男性に知られてはならない。自分の名前を知られた途端に、相手の支配下に置かれることになる。だから昔の女性達は、身を許してもよいと思える男性にしか、自分の実名を打ち明けなかった。
 万葉集では、女性が自分の名を言えば、求婚を承諾したことになる下りがある。

□ ハングルとは?
 李朝第四代国王世宗(せじょん)の時代に学者により考案され、1446年に「訓民正音」(くんみんせいおん)として公布された朝鮮固有の文字。アルファベットのような表音文字でありながら、漢字の原理を取り入れ、母音字と子音字を組み合わせて音節単位に各文字。

□ 『古事記』の序文に見る「借り物の漢字ではうまく日本語を書き表せないもどかしさ」
 日本語と中国語は語順が違う。
 日本語には多くの助詞・助動詞があり、それが実質的な意味を持つ単語に膠(にかわ)で接着したようにくっついて文法的な役割を示している(膠着語)。中国語には日本語の助詞・助動詞に該当するものがとても少ない。文法的な役割は実質的な意味を持つ単語の順序で表す(孤立語)。
 このように系統の異なる文字を借りてしまったために、日本人は日本語を書き表すのに相当な苦労を払わなければならなかった。
 『古事記』の序文より;

 この『古事記』は、表意文字としての感じに、音だけを借りた漢字を混ぜて書くことにする。また、事柄によっては表意文字としての漢字を連ねて書く。

□ 混乱の根源は「漢字一字に対して複数の読みを与えてしまったこと」につきる(奈良時代)。
(例)「山」という漢字を「サン」という中国音とともに受け入れる。次に「山」を意味するやまとことばを当てはめて「やま」とも読む。
 韓国も中国から漢字を取り入れたが、漢字とその発音を受け入れただけ。
 日本語の表記が、世界でも稀なほど複雑なのは、一つの漢字に複数の読み方をするような受け入れ方をしたところから生じてしまった。だから、日本最古の歴史書『古事記』は、漢字を辿ると意味はわかるけれど、声に出して読もうとすると読めない。現在でも、日本人が時々経験する「漢字が読めない」という不思議な現象は、漢字という文字を受け入れたときに遡る。

□ 万葉仮名(奈良時代)
 漢字の表意性をそぎ落として音としてだけ使う方法。
 おそろしく効率の悪い表記法だが、次の平安時代には日本固有の文字「ひらがな」「カタカナ」を生み出す源流となった。

□ 奈良時代には現代の私たちが発音しないような清音や濁音がたくさんあった。
 現在は清音44音、濁音18音。
 平安時代は清音61音、濁音27音もあった(万葉仮名で使い分けられていることから推測)。
 奈良時代には母音が8つあった(八母音説・・・ほかにも六母音説、五母音説もある)。
 現代で使う拗音(きゃ、きゅ、きょ、ぎゃ、ぎゅ、ぎょ、等)は奈良・平安時代にはなかった。
※ 五十音図は平安時代につくられた(奈良時代にはまだ存在しなかった)。仏典を学んでいる平安時代のお坊さんが音韻の知識を整理するためにつくった。

□ 平安時代の日本語は漢文中心だった(奈良〜平安時代)
 日本語の文章を書き始めたのは大化の改新(645年)以後のこと。
 日本語の文章として古くて有名な法隆寺金堂薬師仏の「光背銘」は「漢式和文」(漢文様式で書いた日本語の文章)で書かれている。
 漢式和文で「日記」を書いていた平安貴族は、中国人も読める「漢文」も書いていた。エリートしかかけない「漢文」が、当時の最もステイタスの高い文章であり、上手い漢詩や漢文が作れることが男性貴族の重要な能力の一つだった。
 公式の文章・当時の歴史書『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの国史はすべて漢文で書かれていた。『和名抄』(わみょうしょう)『医心方』などの学術書もすべて漢文で書かれており、漢文による権威付けがなされていた。

※ 「天皇」という言葉は、東野治之氏によると、持統朝(687年)以降に使われ出した。それ以前は「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。

□ 漢文の“訓読”という裏技/翻訳方法を発明(奈良〜平安時代)
 日本人は漢文を理解するのに訓読をした。高校の漢文の授業は漢文の訓読練習である(私たちが高校で学んだ「古典文法」は平安時代の言葉の決まり)。「返り点」に従って漢文の字面を下に行ったり上に戻ったりしながら、中国語の語順を日本語の語順に変えて読む作業であり、行間には日本語にのみ存在する助詞や助動詞や活用語尾が小さく書いてある。
 これは漢字に日本語の読みを当てはめて受け入れたために可能になった、巧妙な翻訳方法である。
 英語を翻訳するときに、こんなことはしない。英語文は英語文で存在し、その翻訳である日本語文はきちんと別に日本語文で存在する。
 なのに漢文の訓読では、原文の漢文に符号を書き込み、助詞・助動詞などを書き込んで翻訳完了。新たに日本語の文章を書き起こしたりしない。
 奈良時代以前から、日本人はそうしたやり方で漢文を理解してきたが、訓読を漢文の行間に書き込むようになったのは平安時代になってからである。

□ カタカナの発生(平安時代)
 漢文読解法をより簡略化する工夫の一つが「カタカナ」である。
 万葉仮名の字形の一部分を書いて済ませることを考え出した。「伊」という万葉仮名なら最初の人編の「イ」だけで済ませてもわかるのではないか、「礼」という万葉仮名なら最後の部分の「レ」だけで済ませてもいいのではないか。
 こうして万葉仮名の一部分をとって「カタカナ」が発生した。部分を取った不完全な文字だから「カタカナ」と名づけた。「カタカナ」の「カタ」は不完全な、十分でないという意味の言葉である。
 もともと1音を表すのに複数の万葉仮名があったので、カタカナも1音に対してたくさんの文字ができてしまったが、次第にある音に対してはこの文字というように固定化してゆきやがて1音に対して一つのカタカナが対応するようになっていった。
 傾向として、カタカナは万葉仮名の最初の画をとるか末画をとるかのどちらかである。
(例)「ッ」は「川」から、「シ」は「之」から。「ソ」は「曽」から、「ン」は符号「V」から。

□ 漢字カタカナ交じり文の誕生(平安時代)
 漢文訓読の場から漢字カタカナ交じり文は生まれた。
 平安中期にも書かれているが、平安時代末期には一つの文章様式となって『今昔物語集』のような説話集を生み出す。返り点がなく、カタカナの地位が高くなってきているので、我々現代人も「読める」文章である。
 鎌倉・室町時代になるとカタカナの部分がほとんど漢字と同じ大きさになり、さらにカタカナの部分がひらがなにあらためられ、現在の漢字かな交じり文に流れ込むことになる。

□ 「宣命体」(奈良時代)
 奈良時代に栄えた文章様式で、実質的な意味の語を大字で、助詞・助動詞や活用語尾を小さく右寄せに書く。
 天皇の命令をのべ知らせるための文章がこの様式で書かれているので「宣命体」と呼ばれる。祭りの儀式に唱えて祝福する「祝詞」、神前仏前で読む文章もこの様式で書かれている。
 人前で読みあっゲル必要のある文章なので、日本語の語順で書くことを原則としているので、漢字カタカナ交じり文の源流とは見なせない。
 宣命体は平安時代には限られた場合にしか使われなくなった。

□ ひらがなの誕生(平安時代)
 万葉仮名の字形を少し崩して草体化すると、労力が少し省ける。これを草仮名と呼び、草仮名をさらに崩して別の文字と認識できるようにしたのがひらがなである。
 ひらがなもカタカナと同じく、古くは1音に対して複数の文字が存在したが、次第に整理されていき、現在のように1音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の小学校令による。
 ひらがなは10世紀前半には文字としての体系を整え、和歌を中心とする文学の花を咲かせた。
 ひらがなとカタカナは文字体系を支える思想が異なっている;
 カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだと捉えているから万葉仮名の部分を取る。
 ひらがなは、文字というものを連続体と捉えているから、全体を書き崩すけれど部分をとったりはしない。
 同じ文字に対して、異なる側面から捉えたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統が出来上がった。
(例)
・「加」という万葉仮名の最初の二画をとったのがカタカナの「カ」、「加」という万葉仮名全体を崩したのがひらがなの「か」
・万葉仮名の「己」の二画をとったのがカタカナの「コ」、全体を崩したのがひらがなの「こ」。
・「奴」の最後の二画をとったのがカタカナの「ヌ」、全体を崩したのが「ぬ」
※ 「へ」のひらがなだけは「部」の全体を崩さずに「阝」の部分のみをとって崩したので、カタカナとほとんど同じ字形になってしまいました。

□ ひらがな文と文学(平安時代)
 ひらがな文は決してひらがなだけで書かれている文章ではない。
 ひらがなをもった平安時代の人は、まず、それまで口で語り伝えられてきた歌にまつわる物語を文字化するという試みを行なった。その結晶が『伊勢物語』である。話し言葉を中心にする柔らかい口調は、漢文や漢式和文や漢字カタカナ交じり文では表現することが困難である。その他に『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』などが書かれ、またひらがな文の日記として『蜻蛉日記』が書かれ、清少納言は『枕草子』を書いて随筆文学の道を開いた。
 韻文である和歌も、平安時代にはひらがな文で記され、繊細な文学的感性と表げんっぎじゅつを磨き上げた。和歌で使う言葉は、日常の話し言葉よりも伝統的で雅やかな香りを漂わせている。また、散文と違って、掛詞・縁語・本歌取りなどの独特の技法がある。そうした和歌で使う言葉と技法を散文のひらがな文に取り入れて物語を書いたらどうなるのか・・・『源氏物語』の誕生である。
 『源氏物語』は散文のルールの中に、和歌で用いる言葉と技法を取り込んで、長編の男と女の物語を作り上げた。物語の中で、登場する男と女の感情が高まってゆくと、彼らに和歌を歌い上げさせる。『源氏物語』の文章が、話し言葉だけで書かれたひらがな文よりも格段に優美な趣を供えているのは、和歌の言葉と手法を取り込んで語られているからである。

□ ひらがな文 vs 漢字カタカナ交じり文(平安時代)
1.読みにくい。
2.漢語を取り込みにくい。
3.論理的に物事を述べていくのには不向き
これらに対して、漢字カタカナ交じり文は、
1.読みやすい。
2.抽象的な表現がしやすい。
3.論理的な漢文の発想を持っている。
等の特徴を有するため、最も効率的な文章として漢字カタカナ交じり文がひらがな文を抑えて日本語の文章の代表になっていった。

□ 「係り結び」(平安〜鎌倉/室町時代)
 「係助詞-連体形/已然形」で結ぶことによる強調表現/疑問表現/反語表現。
 平安時代に出来上がった文章の決まりであるが、鎌倉・室町時代には慣用句化するとともに姿を消していく。とくに「なむ-連体形」はやわらかい口調に限って出現する強調表現なので、強さやたくましさを求める武士の時代には不向きであり、衰えていく。

<強調表現>
なむ-連体形
 念を押しつつ語る強調表現。事実だけを直截的に述べる文に対して、「なむ」が入ると、聞き手を意識し、聞き手の目を見つめ、念を押し、同意を求めて穏やかに語る口調を持った文になる。
ぞ-連体形
 指し示しによる強調表現。
 「ぞ」の下で説明される動作や状態が起きるのは、「ぞ」の上に示された点においてなのだという、指し示しによる強調表現。
 鎌倉時代になると、ただ強い口調を生み出すための慣用表現的なものを変わっていく。
こそ-已然形
 取り立てることによる強調表現。「こそ」は、その上に述べられた事柄を強く取り立てて強調する。
 鎌倉時代になると「こそ候え」という一種の慣用句的な言い回しになってしまう傾向があり、平安時代の生々しい雰囲気が薄れていく。
 しかし、「已然形」で結ぶパターンが幸いし、ほかの係り結びより長生きした。鎌倉・室町時代には連体形が終止形と同じような機能を持ち始めたため、終止形が連体形に吸収合併されていく形で係り結びも消えていった。
 現代語では終止形と連体形が同じ形をしている。
(例)「する」・・・現代人は文を終わりにするときの形として「する」を使う。「勉強する」のように。これが終止形。名詞に続けるときも「勉強するとき」という形をとる。これは連体形。あれ?同じだ。
 平安時代までは「する」という形は連体形で、終止形は「す」だった。
 つまり、もとは連体形であった形が終止形にもなってしまった。すると、係り助詞-連体形で結ぶという緊張感のある呼応関係は意味をなさなくなってしまい、係り結びの存在意義が希薄となり、室町時代末期には姿を消した。

<疑問表現・反語表現>
 奈良時代は「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも優勢であったが、平安時代になると逆転する。
か-連体形
(疑問表現)文の1点を疑問の対象にする。
(反語表現)つねに「いかで」「など」等の疑問詞と一緒に用いられる「か-連体形」の方が「や-連体形」よりも誤記が強い。
や-連体形
(疑問表現)文全体の内容を疑問の対象にする。

 係り結びそのものは現在まったく残っていないが、その痕跡なら指摘できる。「こそ」は結びの已然形こそないが現在でも文中に使われ、取り立てて強調する意味を持つ。他の係り結びの痕跡は、すべて日常会話からは失われている。

□ 助詞が係助詞を駆逐した(鎌倉・室町時代)
 係助詞は、主語であるとか、目的語であるとかという、文の構造上の訳ありを明確にしない文中でこそ活躍できるもの。ところが、主語であることを明示する「が」が入ってくると、係り助詞は入り込みにくくなる。
 鎌倉時代に入ると主語を示す「が」が発達し、文の構造を助詞で明示するようになっていった。
 係り結びが消失したということは、日本語がゆるく開いていた構造から、しっかりと格助詞で論理関係を明示していく構造に変わったことを意味する。情緒的な文から、論理的な文へ変化していったのである。その背景には、日本人が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったことが窺われる。

□ 近代語は江戸時代に始まる
 宝暦年間(1751-1764)には江戸語が共通語的な位置を占め、近代語の基盤を造った。
 江戸時代になると話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が出てくる。
 「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」はもともとは違う音だったが、室町時代の終わり頃、つまり16世紀の終わり頃に近くなってきた。
 江戸時代の元禄頃になると、「じ(ʒi)」と「ぢ(di)」「ず(zu)」と「づ(du)」が統合されて、現在と同じ発音「dʒi」と「dzu」の2音になった。
 現在ではこの2音に「じ」と「ず」の文字を与えつつ「ぢ」と「づ」の文字も残した。そして「現代仮名遣い」でこんなルールを作った。まず、ふつうには「じ」や「ず」の文字を当てる。ただし、つぎの①と②の場合には、例外的に「ぢ」や「づ」を使う。
①「ち」や「つ」に続く場合には「ぢ」と「づ」を使う。
(例)「ちぢむ」「つづく」
②複合語になる前に「ち」や「つ」で始まっている語に関しては「ぢ」「づ」を使う。
(例)「はなぢ」「みかづき」

□ 清音の統合:61→ 44音
奈良時代:61
平安時代:47 ・・・「いろは歌」のできた10世紀中頃
平安時代末期:46 ・・・「を」と「お」の音を統合
鎌倉時代末期:44 ・・・「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」を統合
それ以降、700年間の間、変化していない。

□ 濁音の統合:27→ 18音
奈良時代:27→ 20音
江戸時代:18音

□ 上方語 vs 江戸語
 伝統を培ってきた上方の人から見ると、関東弁の「べい」(行くべい、帰るべい等)は田舎者丸出しで聞くに堪えず、「関東べい」と上方女は江戸の人間を馬鹿にしていた。原因や理由を表す「から」(さうだから、かうだから)も気に入らない(上方では「さかい」)。

□ 連声(れんじょう)
 撥音[n][m]や促音[t]の次に来るア行・ヤ行・ワ行音が、ナ行音やマ行音やタ行音に変化する現象。発音のしやすさを求めて起こる、江戸語にみられる一種の訛りである。平安時代から室町時代までしばしば診られ、江戸時代以降は特定の語の読みグセとして残り現代語に至る。
(例)因縁→ 「いんえん」ではなく「いんねん」、輪廻→ 「りんえ」ではなく「りんね」、陰陽師を「おんようじ」ではなく「おんみょうじ」

□ 人称代名詞の変遷
アナタ)江戸時代後期に出現。現在は対等かやや目下の相手に用いるが、当時は敬意が高かった。町人が武士に話しかけるときも「あなた」だった。
オマエ)江戸時代前期に出現。まだ「あなた」の語が現れていないので「おまえ」が最も敬意のある呼び方だった。けれども江戸後期になると、敬意の度合いが笠利、対等もしくは下の者に対して用いるようになる。
 敬意の度合いが下がってくると「さま」や「さん」をつけて敬意の度合いを上げる(例:おまえさん)。ちょうど現在、敬意の下がった「あなた」に「さま」をつけて「あなたさま」として客を呼ぶときの言葉にするのと同じ。
オメー)「おまえ」ほどではないが敬意のこもった言葉だった。決して目下に用いる言葉ではなかった。
キサマ)もともと「貴様」と書いて、手紙などで使った敬意ある書き言葉だった。江戸時代後期になると、同等あるいはそれ以下の者に対して使われるようになる。さらに「キサマ」の語の下落は止まらず、明治時代中頃には相手を罵倒する時に使うののしり言葉になってしまった。敬語は使っているうちに次第に敬意の度合いが低くなる傾向があるが、「キサマ」の価値の下落は目立つ。

ワタクシ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に地位が確定した、最も敬うべき人の前で使う一人称代名詞は現在と同じく「わたくし」。
ワタシ、ワシ)江戸時代に出現。「ワタクシ」→ 「ワタシ」→ 「ワシ」が生まれた。「ワシ」は江戸時代前期では若い女性が使うこともあった(相手への敬いの気持ちがこもっていた)が、江戸後期になると主に男性が用いるようになり現在に至る。
オレ)鎌倉・室町時代に出現し、江戸時代に頻用されるようになる。江戸時代前期では現在と違ってとても使用範囲が広く、女性も使っていた。江戸時代後期になると女性が「オレ」を使うことはなくなり、男性専用語になるとともに敬意もなくなり現在に至る。
ボク)江戸時代末期に出現。漢文にある「僕」の語を「ボク」と音読みしたことが始まりで、漢文訓読出身の言葉であり「学者言葉」として知られていた。現在のように話し言葉として日常会話で「ボク」が活躍するのは明治時代以後である。

□ 武士特有の人称代名詞
・相手を指すとき:なんぢ、貴殿(きでん)、貴公、そのもと、その方、そち
・自分を指すとき:それがし、みども、身、われ、拙者
 明治時代になるとみっぶんせいどの廃止に伴い一挙に失われる。

□ 東京語には二つある
・武士や知識人が使っていた山の手言葉の系統
・「ベランメー」口調と言われるような下町言葉の系統
 山の手言葉が標準語(後に共通語)に採用された。

□ 前島密による言文一致運動(明治時代)
 幕末に存在していた文章は漢文と漢字かな交じり文だった。
 明治政府は公用文を漢字カナ交じり文で書くことにした(例:五箇条のご誓文)。それまでの最も権威ある文体であった漢文や漢式和文からの切り替えは大きな出来事である。
 明治時代になり言文一致の試みが行われたが挫折することが多かった。その理由として、
1.人々の意識が江戸時代の身分制度からなかなか抜け出せずにいた。
2.言文一体の文章がなかなかうまくいかない。話すように書くと言うことは、日本語の場合、読み手との関わり合い方が問題になり、西洋語の場合よりもややこしい。

□ 明治時代の文学界における言文一致運動
・二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)・・・坪内逍遙のアドバイスにより三遊亭円朝の落語を取り入れ「だ」調を採用。
・二葉亭四迷はツルゲーネフの『あひびき』(明治21年)を漢文直訳調ではなく言文一致体で翻訳した。
・山田美妙の『武蔵野』(明治20年)・・・足利時代に舞台をとった歴史小説。地の文は「だ」調による言文一致体。微妙はこのあと、「です」調の言文一致体に変更している。微妙が友達に漏らした言葉:地の文で「であった」「ある」などと動詞の言い切りにすると、文章として読んだときに、ひどく「ぶっきらぼう」で「いかにもぞんざいに聞こえるのが困る」、かといって「ました」「でした」「でございました」というと、「ぞんざいには聞こえないが、だらしがなく長くなる」。

□ 明治時代の文学界における言文一致体の抵抗勢力
・幸田露伴の『風流仏』(明治22年)・・・才覚流の雅俗折衷体を用いた。
・森鴎外の『舞姫』(明治23年)・・・典雅な雅文体を用いて文語文を復活させた。「べし」「たる」などの文語的な言い回しを基調にしつつ、「をとめ」「まみ」「おもて」「うれひ」「やどせる」などの優美な和語を駆使した華麗な文体で書かれている。
 鴎外の登場により、二葉亭四迷は筆を折り、微妙は飽きられ、言文一致体は再び暗礁に乗り上げた。

□ 尾崎紅葉の「である」体〜言文一致体の復権
 『二人女房』(明治24年)で「である」調を使用しはじめ、『多情多恨』で完成させた。
 紅葉の「である」調は、広津柳浪に継承され、さらに山田美妙、小杉天外、田山花袋、島崎藤村、泉鏡花などに影響を与えた。
 言文一致体の一番の悩みは、地の文の記述に客観性が確保できない点だった。日本語のように、常に相手を意識して話す話し言葉を書き言葉に採用する時のネックだった。それが「である」体の出現により打破できた。
 このあと、言文一致体は正岡子規や高浜虚子、自然主義作家達により熱烈に支持されていく。紅葉の試みは言文一致体にとっての決定打だった。

□ 大正10年(1921年)、新聞もとうとう言文一致体になったが、公用文は・・・
 大正10年には「東京日日新聞」「読売新聞」、翌11年(1922年)には「朝日新聞」がようやく言文一致に踏み切った。
 しかし公用文が言文一致体を採用したのは、なんと昭和20年(1945年)。

□ 個性の出せる言文一致体
 現在、私たちは言文一致運動の成果を満喫している。
 主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたい時は「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使う。
 ヨーロッパではルネッサンス以後に言文一致運動が起き、話し言葉と書き言葉を一致させる努力をしてきた。日本は明治になって出会った西洋文明が気づかせてくれたので、4-500年遅れで体験したことになる。

□ 多すぎる語彙
 日本語には三系統の言い方がある;
1.和語:日本民族が元々使っていた
2.漢語:中国から輸入し江戸時代まで影響を受け続けた
3.外来語:西洋から室町時代末期から入り始めた
(4.和製漢語:明治時代に西洋文明を取り入れるために日本人が翻訳語として作り出した)
(例)「宿屋/旅館/ホテル」「口づけ/接吻/キス」

□ まとめ
・日本語の歴史は、平安時代にさまざまの文章を試み、その中で最も優れている漢字かな交じり文を明治時代に採用し、現在に至る。
・漢字を借り入れたことにより、日本語は豊かになると同時に煩雑さも背負い込んだ。漢字一字に多くの読みを与えすぎたため、かなりの知識人でも漢字が読めないという事態が起こっている。訓読みも意味の近い日本語を当てたため何種類もの訓読みができてしまった。
・鎌倉・室町時代から、主語がどれであるか、目的語がどれであるかをきちんと明示するげんっごに変化してきている。接続詞も使って、文と文とをしっかりと論理的につないで文章を書いている。

日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」

2017年04月26日 06時24分19秒 | 日本の美
 2016年にNHKで放送

 マッカーサーや故・ダイアナ妃が愛した版画家として有名な吉田博。
 川瀬巴水、小林清親、井堂雅夫とともに、私のお気に入りの版画家です。

 木版画とは思えない精緻なタッチ、しかし木版画としての構図のまとまりの完璧さは言うに及ばず。
 なによりもそこに広がる“日本の叙情”の虜になってしまいました。

 件名の番組で、彼の生涯を知りました。
 山に取り付かれた画家と言ってもおかしくない。
 若かりし頃の山の絵には凄みさえ感じます。

 以前から吉田博の版画の雰囲気はどこかで見たことがあるなあ・・・と気になっていたのですが、最近やっとわかりました。
 mont-bellというアウトドア・ブランドのイメージに使用されていたのですね。

 山の作品もいいのですが、遺作となった「農家」もたまりません。


















石上(いそのかみ)神宮の成り立ち

2017年04月22日 08時06分58秒 | 神社・神道
同じく前出の「新編・神社の古代史、岡田精司著、學生社、2011年発行」の第5章:王権の軍神より。

関東地方の鹿島神宮・香取神宮との関連がある奈良の古社です。
古代には、大和王権の武力の象徴である霊剣フツノミタマを祭神とした、武器庫と神宝の格納庫という重要な役割を担っていました。
歴史の流れの中でその役割が変遷し、物部氏の氏神となり、現在は地域の鎮守神に落ち着くという、波瀾万丈というか栄枯盛衰というか・・・壮大な物語を秘めていることを知りました。

興味が湧き、抜粋ですがここに書き残しておきたいと思います。


■ 石上神宮の禁足地に埋まっていた鉄刀
 拝殿(鎌倉時代の建物で国宝)の御簾を挙げると向こうに空き地があって一区画が禁足地になっている。その中央が少し高くまんじゅうのようになっており、ここが信仰の対象である。その土盛りの地下にご神体の刀剣が埋まっているという伝承があった。
 明治時代には神職の世襲を禁止され、それに伴い大宮司に任命された水戸の国学者である菅政友が赴任した際、発掘調査を行った。報告書によると、3m司法ほどの石積みのへやっが裏、その中に刀剣や翡翠の勾玉、琴柱形石製品、金剛垂飾品、などがあった。鉄刀は1本だけで、素環頭内反太刀(そかんとううちぞりたち)と呼ばれるもので、これこそが御祭神の石上のフツノミタマ(布都御魂)あるいはフルノミタマ(布留御魂)と呼ばれた、その霊験に相違ないとされた。これらの出土品は、古墳時代前期のだいたい四世紀頃のものと同じである。
 この禁足地の発掘に続いて、大正2(1913)年には禁足地の後方の窪地を埋め立て拡張して本殿を造ってしまった。そしてもと土盛りのあったところは、いま白い砂利を敷いてそこに丸石が一つ置かれているのみ。

■ 石上神社の祭神は霊剣フツノミタマ
 『延喜式』の神名帳には「石上坐布都御魂神社」(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)とある。名神大社で、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)のお祭りに朝廷から特別にお供え物がある待遇。
 石上という土地にお祭りされているフツノミタマという忌みであるが、祭神はフツノミタマノ大神という名の霊剣だといわれている。神の依り代というのと違って、刀剣が神体で神そのものという興味深い例である。
 この剣は日本神話では2回活躍する;
1.オオクニヌシの国譲りの時にタケミカヅチとフツヌシが活躍するが、その時に持っていった刀がこのフツノミタマ。
2.初代大王である神武天皇の東征の時。神武天皇が熊野路に進んだときに熊野姿の土地神が出てきて、その毒気に当てられて全軍の兵士が倒れてしまう。それを天井から見ていたアマテラス大神がタケミカヅチを呼んで「お前が助けにいけ」というと「私が行かなくても横刀フツノミタマを投下しましょう」と答えてその刀を地上に投げ下ろす。するとタカクラジという人の家の倉の屋根を貫いて床に刺さった。タカクラジがそれを神武天皇に献上すると、たちまちの内に気を失っていた兵士達が目覚め、熊野を平定できた(古事記)。

■ 石上神宮は物部氏の氏神ではない
 この神社は最初から物部氏がお祭りしていたわけではない。
 物部氏の先祖は、天から石の船に乗って下りたというニギハヤヒだという伝承がある(「先代旧事本紀」)が、本来は祖先ではなく守護神であろう。すると、物部氏は石上神宮のフツノミタマを氏神として祭る必然性はなかった。物部氏はもともとは大和盆地の氏族ではなくて河内平野の出身の氏族である。
 物部氏が石上神宮を祭るというのは、ちょうど伊勢神宮において荒木田、度会という氏族が祭祀を司るのと似ている。渡会氏は外宮の方を氏神とするが、内宮は天皇家の氏神で荒木田氏の氏神ではない。物部氏は軍事と合わせてこの石上神宮の祭祀に奉仕すると考えるとよい。伊勢や住吉、鹿島の場合同様、物部氏と石上神宮についても氏子と氏神の関係ではなく、大和王権における職掌の分担としてここに奉仕していた。

■ 物部氏は遠征、大伴氏は御所の警備
 両方とも大和王権の軍事氏族である。
 大伴氏の伝承は「醜(しこ)の御楯」になるという内容が多い。御所の固め、帝の守りなど天皇や御所を守るという伝承がある。大王の側近に奉侍することから大伴というのだろう。
 物部氏については逆に遠国を征討するときに出かけていった。九州の磐井の反乱、伊勢の反乱など。
 大伴は天皇の側近の護衛、親衛隊長、近衛師団。それに対して物部は遠征軍を率いた将軍。
 
■ 石上神宮は武器庫(神庫)だった
 石上神宮の西側の平地にあたるところ、今の天理教本部の建物があるあたりを布留遺跡といい、古墳から出土するのと同じような刀の柄や鞘や馬の歯など軍事関係のものが随分出てくる。
 石上神宮は大和王権の武力の象徴である霊剣を祭る。
 古代では具力で平定することと呪祷で祈り倒そうという行為が一体であり、征服したら必ずそこの豪族が持っている神宝を取り上げることが重要だった。降伏した豪族には必ず神宝を差し出せ、それらを一つの所に集めてフツノミタマの威霊のもとに抑えて収納することによって、天皇が日本中の国魂を抑えることになる。武力的な政策と合わせて、そういう呪術的な行為が必要だと考えられ、それが石上の神庫であった。
 以上のように、武器庫と神宝の格納庫、二つの役割を石上神宮は持っていた。

■ 石上神宮の歴史に伴う変遷
 ここに納められた神宝=国魂の象徴は、のちに地方豪族に全部返還した。なぜ返すのかというと、大化の改新の後、国造制や県主制が廃止されて中央集権制となり、地方豪族の脅威が無くなり、地方はみな越後守とか但馬守とか、そういう中央から派遣された行政官=国司が支配するようになって、もうそこの神宝を中央政権で押さえている意味がなくなったから。
 このような石上神宮の国家的性格は、平安京に移る桓武天皇の頃までは続いていたが、それ以後は古代国家の変質に伴い大きく変わっていった。『延喜式』では正式の名称もそれまでの石上神宮から石上布都御魂神社に変わり、武神の性格は残しながらも物部首の子孫の布留朝臣の氏神へと変貌していく。
 鎌倉時代になると国家との関係は薄れ、中世以降は地域の鎮守神としての性格を強め、名称も布留大明神・岩上大明神などと呼ばれるようになり、永久寺・石上寺などの神宮寺と結びついた展開を見せるようになる。土地の人々の農耕の祈りを捧げる布留の社は、もう古代の石上神宮とは全く異質のものに変わってしまった。
 なお、「石上神宮」という現在の名称は、1883年に古代の名称を復活したもの。もともと本殿はなかったが、現在の本殿は1913年に禁足地の一画に新設されたものである。

鹿島神宮・香取神宮の成り立ち

2017年04月21日 13時06分39秒 | 神社・神道
「新編・神社の古代史」(岡田精司著、學生社、2011年発行)第6章・東国の鎮守より。

 近隣県にあり、有名な神社でありながら、実はまだこの二つの神社に参拝したことがありません(^^;)。
 以前から、古事記や日本書紀に出てくる関東唯一の神社・神様であることを知ってはいたので、なぜ茨城県なんだろう、と不思議に思っていました。
 しかしこの本を読み、俄然興味が湧いてきました。
 とくに出雲国譲り伝説にも出てくるタケミカヅチは、鹿島神宮がオリジナルで出雲はその転用だったという著者の説には驚かされました。そこには古代日本における豪族の覇権争いが反映されていたのですね。さらにそれが春日大社の創建につながるとは・・・スリリングなミステリー小説を読んでいるようでした。

 機会があったらぜひ参拝したいと思います。

■ 鹿島神宮の拝殿・本殿は北向き
 古い時代の神社は参道正面に社殿がないのがふつう。神社の森が鬱蒼と茂って、参道から絶対に社殿が見えないというのが古代の信仰だった。
 御神木は本殿の真裏にあり、御神木の背後に鏡石がある。それから奥宮を越えてずうっと東へ行くと要石がある。要石は見た目は小さいが、地面に埋もれている部分がとてつもなく大きいらしい。
 社殿が北向きである理由は、この神社が大和王権の東国の鎮めとして設置されたという性格と関わりがある。東国平定が完了すると、中央政権の関心はその北にあるエミシの世界へ向かう。鹿島の神はエミシ征討の神としての機能を持たされ、エミシの世界がある北向きに鎮座することになった。鹿島神宮を分祀した神社は『延喜式』の神名帳では東北地方に分布しているのが特徴である。
 年号の延暦、桓武天皇の時代には坂上田村麻呂による蝦夷征討が行われたが、征討軍の陣中の守護神として、また征服地の鎮守神として鹿島の神が祭られた。

■ 鹿島神宮と香取神宮は2つでセット
 『六国史』『延喜式』には鹿島香取使(両神宮に対して毎年2月に朝廷から任命・派遣される勅使)の記述があり、鎌倉時代まで続いていた。地方の神社としてこのように勅使が派遣されるのは、ほかに宇佐八幡宮だけという特別扱いである。
 春日大社の御祭神は四座並んでいるが、この四座のうち第一座が鹿島のタケミカヅチ、第二座が香取のフツヌシ(イハヒヌシ)と、ここでもセットで扱われている。
 現在の祭りでも、12年に一度ずつ午年(うまどし)に、鹿島の神幸祭(霞ヶ浦を船で鹿島から香取へ向かう)、香取の軍神祭(香取から鹿島へ向かう)という。

■ 「神宮」を名乗る神社
 『延喜式』の神名帳の中で「神宮」は伊勢神宮と鹿島・香取神宮だけ。

■ 神郡を有する神社
 神郡とは神社の特別な領地で、幾外に限って神郡という地域が特別の神社で設置された(例:伊勢神宮、宗像大社、出雲大社など)。鹿島・香取神宮はそれぞれ常陸国鹿島郡、下総国香取郡を所有し、それは軍事上かつ交通上重要なところにある神社だからというのが定説である。
 『常陸国風土記』によると、649年(大化5年)に那賀の国造の領地と、茨城の国造の領地、南の方は下総の海上の国造の領地からの一里を合わせて鹿島郡をつくった。

■ 鹿島神宮の神話
 常陸国風土記では鹿島を香島と書いているが、のちには鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて鹿の字に固定した。
 常陸国風土記では高天原の神々の神集い(かむつどい)によりカシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)の天下りが決定された。この「高天原から天下った」ということは、ただ事ではない。古事記と日本書紀では高天原には天皇家と中央の有力豪族の祭る氏神以外の籍はない。風土記には高天原から天下ったという話は2つだけで、カシマノアメノ大神(『常陸国風土記』)と天孫ニニギの降臨(日向国風土記)。
 カシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)は出雲神話で活躍する神である。出雲国譲りの時にタケミカヅチは香取神のフツヌシのお供をして下ったという神話と対応する。
 どうもタケミカヅチの物語は、最初は関東へ下って平定する方が古い神話だったらしい。それがあとで出雲神話がつくられたときに、タケミカヅチの下りる先が出雲へ変えられたのではないか。
 鹿島の神が現れたのは崇神天皇の時代であり、ここに神宮を造営したのは天智天皇だと『常陸国風土記』に書いてある。元は霊石だけがあって海に向かって拝む形だったのかもしれない。鹿島神宮は広い大地の上にあって、継代は原生林になっており、いまは天然記念物になっているが、この森そのものが聖地で、その中に不思議な鏡のように平たい鏡石があったり、大地に広く根を張ってちょこっと頭を出しているだけの要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから合って、そして天智朝の頃にはじめて社殿が創建されて神社の形を整えたのかもしれない。
 『常陸国風土記』には船を造って納める話がある。これにちなんで古代では、毎年7月に津宮というところに船を奉納した。

■ 鹿島神宮のタケミカヅチという神はどういう性格の神か?
 鹿島神宮の古い神体としては、本殿の後ろに磐座と神木があるが、社殿ができてからは刀剣が御霊代になった。現在は鹿島神宮の宝物館に2mを越す長い直刀が飾ってある(国宝)。やはり鹿島は刀剣と関係の深い神であった。
 タケミカヅチという名前の神は、鹿島神宮の他には全国どこにも祭られていない。唯一、石上(いそのかみ)神宮には、タケミカヅチが天上から投げ下ろした刀が祭られているという伝説があるのみ。
 タケミカヅチは、もとは物部氏が奉じていた神らしい。物部氏が没落した後で二次的に中臣氏が祭るようになったのではないか。
 以下は著者の推察;

 石上神宮の主祭神はフツノミタマである。5-6世紀の頃、フツノミタマを奉じて物部氏が各地に遠征した。そういうものがおちこちにある布都御魂神社や物部神社に反映している。その中で関東はとくに重要なところで、東国遠征が物部氏が大連の時に行われている。そして東国の守護神として、関東平野の一番東の鹿島の地に、ちょうど伊勢神宮が太陽が東から昇るところに造られたのと同じように、鹿島神宮を造った。
 安閑〜欽明朝ごろになり、武蔵や上野毛の反乱などが平定されたその時点で、石上の分霊というか、国譲りの神話でフツノミタマの剣をを操るタケミカヅチが、とくに東国を鎮めるための神になる。そして平定に活躍した神だから、これが記紀の神話を造るときには出雲の平定にも転用された可能性がある。

 東国へ遠征しタケミカヅチを鹿島の地に祭った物部氏は、聖徳太子の頃に蘇我氏に敗れて没落する。その後藤原鎌足がこの辺を領地にした(『常陸国風土記』)。そしてその時期から中央でのお祭りを分担する氏族であった中臣氏が、物部氏に代わって鹿島神宮をお祭りするようになった。
 やがて藤原氏が中臣氏から独立すると、新しい神社を造らなければならなくなった。そこで中臣氏の氏神の枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)の神二座と、鎌足の封戸(ふこ)に縁のある土地の鹿島のタケミカヅチ、香取のイハヒヌシを合祀して平城京に祭ったのが春日大社である。そうして新たに、鹿島の神が鹿に乗って東国からはるばる春日山にご神幸になるという藤原氏の神話ができた。

■ 香取神宮の神イハヒヌシ
 現在のご祭神はフツヌシになっているが、『日本書紀』ではイハヒヌシとなっている。香取の神をフツヌシとしている古い例は、平安時代に斎部広成(いんべのひろなり)が編纂した『古語拾遺』であり、これは中臣系ではなくて斎部系の手になるもの。つまり関東の神に関しては正確な知識を持ち合わせていなかったため間違って記述した可能性がある。この後の記述は南北朝の『神皇正統記』までない。
 フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名という説がある(三品彰英、松前健)。
 イハヒヌシは地元の豪族の祭る神だったらしい。イハヒヌシの語源を考えると、“いわう”は斎あるいは祝だからイハヒヌシ=斎王はお祭りを執行する責任者ということになる。祭りをする人が神になるとはどういうことか。鹿島の祭神は大和の大王の命で祭られている大事な神様なので、地元の豪族の祭っている神が奉仕するような形があったのかもしれない。
 このような関係は伊勢神宮にも見られる。伊勢神宮には内宮と外宮があり、今は同格に扱われているが、もとは内宮が格が上である。古くは外宮は「御饌都神」(みけつかみ)と呼ばれたアマテラス大神に奉仕する料理番の神様であった。
 香取の方は斎王という神主の形で、鹿島の神を祭る役である。もとはちゃんとした地主神としての神名があったはずだが、それが鹿島の神の斎王ということになり、その名前が残ってしまったと考えられる。

■ 神社と国家の関係
 寺院にも国家的なものと民間の檀那寺的なものの両方があるが、神社の場合も国家の鎮護にとくに力を入れているお社と、そうでない民衆信仰のお社がある。日本の歴史の那賀でこの両方の信仰が絡み合いながらも、二つの系統として流れてきている。
 鹿島・香取と国家の関係は中世では全く絶えていたが、明治からまた別の形で復活する。明治維新の際に明治天皇が「大阪行幸」を行ったが、進発前と帰還後に御所の紫宸殿において「軍神祭」が催された。軍神祭の祭神は天照大神・大国主神・武甕槌之男神・経津主神の四座で、明治天皇が自ら祭文を奏上した。四柱の神々はいずれも記紀神話の出雲国譲りに登場する神々であり、維新の王政復古と江戸開城を国譲りになぞらえたもので、ここに鹿島・香取の祭神が登場した。この軍神にあやかり命名した軍艦に「鹿島」「香取」がある。
 神社は古代の姿のまま現代まで続いているのではなく、時代とともにいろいろ変化するよい例かもしれない。

「神社の古代史」(岡田精司著)

2017年04月18日 13時09分34秒 | 神社・神道
2011年、學生社。

以前から読みたい読みたいと思いつつ、諸般の事情でなかなか手が出せなかった本をようやく読むことができました(^^)。

期待に違わず、充実した内容でした。

日本における神の概念から始まり、
神社そのものの起源、
有名神社の成立の背景、
1000年前の神社をめぐる環境、
神社と政治の関わりの変遷、

などなど盛りだくさん。
私のような初級者にはうってつけの入門書です。

ただし、古文や初めて聞く単語が羅列するところでは、なかなか頭に入らずちょっとくじけそうになりました(^^;)。

一番印象に残ったのは「延喜式」の解説です。
奈良時代の延喜年間に作成した律令の細則ですが、日本全国の神社を歴史上初めて格付けした貴重な資料とされています。
しかしその実は、政権は力による日本統一だけでなく、伊勢神宮を頂点とする神社のピラミッドを造ることにより国民のこころをも支配することを目論んだ、という政治絡みの法律なのでした。
質は違うけど、政治に利用されたという点では、明治時代に国家神道の元に神社を統制し、世界戦争へ突入していった史実と一部重なるところがありますね。
・・・そのおかげで昔の神社の記録が残ったという功績もありますけど。

それから、奈良時代には奴隷がいたとサラッと書いていることに驚きました。
奈良時代の人口600万人の中で、よい生活を保障された支配階級はその家族も入れてせいぜい1000人だったと。
一般民衆は租庸調に苦しむばかり。


<備忘録>

■ 古代日本の神々の特徴
1.あらゆるもの(物体でも生物でも)に神霊が宿っていると考えられ、多様な神格が存在する。
2.神は平常は人里に住まない。遠方の清浄の地、それは山の奥や海の彼方と考えられ、そこから祭りの日だけやってくる。
3.神は目に見えないもの。だから神の形(神像彫刻など)は本来はけっして造らなかった。つまり偶像崇拝はかつてはなかった。現在残されている神像彫刻は、すべて仏教の影響を受けた平安時代以降のもの。
 姿を見せぬ神が人々の前に現れて祀られる時には、神様が憑(よ)り付く物体などが祭りの対象として必要となる。
 神社ではご神体を見せない構造になっているのは、神の姿は見えない、また見てはならないという神社以前からの古い信仰が潜在的に伝わっているためと推測される。
4.神と死者の霊とは本来まったく区別されたものであった。
 平安時代に入ると天神さまなどの御霊信仰以後、人を神に祀る風習が始まるが、それが拡大されるのは近代の国家神道のもとにおいてのこと。
5.イネの祭りが日本の神と強く結びついている

■ 山の信仰(大場磐雄氏の説)
1.浅間型:山容が秀麗で周囲の山々から一際高く目立つ形をしている(例:富士山、白山)。浅間型の山は麓の聡美屋から仰いで拝むのが原則であり、古くは登る対象ではなかった。信仰のために登山が始められるのは修験道以後のこと(例:男体山、穂高岳、立山)。
2.神南備型:人里に近い比較的低い山で、傘を置いたようななだらかな優しい山容が特徴(例:奈良の三輪山、春日山)。全山緑で覆われていることも特徴。
 浅間型が峻険な山容で人々を寄せ付けないのに対し、神南備型の方は村里に近い緑の小山だから、人々の生活と密着していることが特徴。


■ 桃太郎伝説
 神聖な山の中から流れ出す川、川の上流から流れてくるものは神の世界から来たもの。川を媒介にして神の世界から来臨する神の子。

■ 磐座(いわくら)と神木
・磐座:岩、岩石を崇拝対象とするもの。大きいものとは限らない(例:鹿島神宮の要石)
・・・やがて信仰が進むと、そのような岩石は神そのものではなく、神を祭るときに神霊を憑り付ける依り代と考えられるようになる。
・神木:常緑樹を崇拝対象とするもの。ケヤキは例外で、巨木になり枝振りがいいせいか、落葉樹だがしばしば御神木になる。大きさは問わない。
 常緑樹の立木でも、切り取った枝でもよく、そこに神霊を迎えるものがヒモロギ。
(例)老蘇神社(滋賀県安土):老蘇森(おいそのもり)という森そのものを神として祭っている。

※ サカキはサカキだけではない?
 ヒモロギや玉串などに用いられる植物をひっくるめて榊と呼ぶ。神事に使われる榊は、ツバキ科のマサカキだけではなく、今でも地方ごとに榊の名で呼ばれる植物はさまざま。ツバキ・ナギ・スギ・マツなどさまざまな植物が、各地で「サカキ」として神事に用いられている。共通の条件は「常緑樹」。

■ 神社が成立する条件3つ
1.一定の祭場と祭祀対象
 祭りを行うための場所は、日常の生活の場から切り離された神聖な空間でなければならない。弥生時代・古墳時代の祭祀遺跡の多くが生活・生産の場から離れた山麓や水辺に営まれている。
 古い神社の境内地では樹木の伐採や立ち入りを禁じている例が早くから見られ、おそれくそれは古い祭場の慣行に基づくものであろう。古い神社の境内地は、背後に山か森があり、手前には川や溝があって、水によって俗界と判然と区別されていることが多い。水流が境界となっている場合には、祭りに参加する人がその水で身を清めたと思われる。
2.祭る人の組織
3.祭りのための建造物の成立
 古代の神祭りの場所は、はじめは特に建造物は造らず、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座やヒモロギ=神木があるだけの簡素のものであった(古墳時代の祭祀遺跡の多くはこの段階のもの)。やがて祭りの日だけ神を迎えるための何らかの構造物を立てるものに発展し、さらにその社殿(=本殿、とは限らない)が立派になるとともに常設化する。
 神社建築の起源は多元的であり、各地でそれぞれの土地の神祭り岡達に相応しい社殿の形が生み出されていった。例えば、伊勢神宮の神明造は稲倉様式から発展し、出雲大社の大社造は豪族の住宅様式から発展した。

■ 神祭りは夜に行われた
 灯火の普及しない時代には、人の行動する昼間と神の行動する夜間とがハッキリ区別されていた。古代の宮廷祭祀でも、天皇が自ら行う新嘗祭(にいなめさい)や月次祭(つきなみさい)の神今食(じんこんじき)という神事は深夜の行事だった。村々の神社でも、近世以前からの古い夜の祭りが現在では宵宮・夜祭として大祭の前夜の行事として保存されている場合も少なくない。

■ 「氏神」には2通りの意味がある
1.血縁氏族
 古くは氏神といえば、物部氏とか大伴氏とか、蘇我氏とかそういう氏族、あるいは共同の氏神祭を行う同族の守護神として祭る神であった。
 氏族ごとの氏神の名残として、民俗信仰の中に残っているのが屋敷神である。一族の本家の屋敷の隅とか、裏での丘の上とかに小さな祠として祭られている。お稲荷さんが多いが、八万三があったり、ご先祖の霊を祭るという所もある。土地によっては内神(うちがみ)とか内鎮守(ないちんじゅ)とかいろんな言い方をする。
 お祭りには神主さんを呼ぶ場合もあるが、大抵は本家のご当主が祭主となって行われる。神前に幣(ぬさ)を捧げたり神酒・神饌を備えたりするのは女性(家刀自・・・本家筋の主婦)であった。
 氏神祭は2月または4月と、11月行われた。
2.地域の鎮守さま
 中世になって血縁的な集団から地縁的な関係が主になる集団に代わると、氏神という名前だけが残って、実際にはその土地の鎮守さま、別の言い方でいうと産土神(うぶすながみ)のことに変わってしまう。

■ 古代の祭りにおける男女の役割分担
 古代の祭りは女性と男性が役割分担してペアで行っていた例がたくさんある。お供えはいまでは男の神職がしているが、昔は伊勢神宮のように、女性が神饌を供える役であった。彼女たち(斎女)によって神を喜ばせるために歌があり、舞があったりと思われる。
 その時に祈願のことを申し上げる祝詞の奏上とか、正式に参拝する主役になったのは斎主で男性、音楽演奏も男性の分担と思われる。
 祭りは、神秘的な夜の祭りの部分と、晴れがましい昼の祭りの部分と、それがセットになり行われていた。
 祭りから女性を排除したのはむしろ仏教の影響などがあってからあと、とくに中世以後だと思われる。中世の封建社会で、本土ではお祭りが男だけになり、沖縄では女だけになった。

■ 氏神は祖先神なのか?
 柳田国男は「氏神さまはご先祖」と言っているが、戦後になり「氏の守護神はご先祖さまと違う」という学説が有力になってきている(和歌森太郎ほか)。
 ご先祖のお祭りの仕方と、氏の守護神の祭りの仕方とは大きく違う。
 お社を建ててお祭りするのは守護神である氏の神様である。2月または4月ち11月に行う。
 ご先祖についてはお正月とお盆の年2回、定期的にご先祖さまをお迎えして家の中でお祭り(先祖祭り)をすればよい。
 氏神(守護神)はお祭りしなかったら祟るかもしれない。その祟る神が祭ることによってはじめて自分たち一族の守り神になる。こういう性格のものだから、お社を建てたりして厳粛にお祭りしなければならない。
 守護神が人格神化する以前の状態は守護の精霊と言った方が相応しい。守護の精霊が祖神化するまでには神の通婚があり、そこで若宮の誕生がある。この若宮が人間になる場合はご先祖になる。

■ 『延喜式』と式内社
 “式”は律令の施行細則という意味で、延喜5(905)年に編纂が開始されたため延喜式と呼ぶ(それ以前にも『弘仁式』『貞観式』などが存在)。全50巻からなり、巻第一から巻第十までが神祇に関する内容で、そのうち巻第九と巻第十が一般に「神名帳」と呼ばれる神々のリスト。
 最高神としての伊勢神宮を頂点として、全国の神々を序列化することが律令制度の神祇政策の目的であった。「神名帳」に載っているのは、あくまでも神祇官でお供え物を配ったりする祈年祭の、その対象になる神社だけ。このような神々の階層化・序列化ということは、現実の天皇を頂点とした中央帰属集団による律令的な全国支配の形態を、そっくり神々の体系として反映させたものと言える。
 延喜式の一番始めに四時祭(春夏秋冬の祭)が記されており、その中で一番重要なのが2月4日の祈年祭(トシゴイノマツリ)という、天皇の名で行う稲の豊作祈願の祭儀である。
 この祈年祭に調停から幣帛つまり供物を下賜する3132座の神々のリストが神名帳で、これらの神社が「式」の内に載せられているという意味で「式内社」と呼ばれる。この時代の「幣」というのはゴヘイのことではなく、神に供える絹などのお供えの品物を指す。
 式内社の分布には非常に偏りがある。
 式内社のうち神祇官の祭る神737座、これがいわゆる「官幣社」であり、神祇官から幣(供物)を奉る社ということで官幣社と呼ぶ。官幣社は案上官幣304座と案下官幣433座に分けられる。
※ 「案」とは机のこと。神職達を神祇官に集めて班幣するとき、机の上に供物を置く、丁寧な扱いの神社が大社。机なしに床に直に薦(ごも)を敷いて供物を並べるのが案下の官幣社であり、幣物の品がグッと落ちる。
※ 「座」というのは神社の数ではなく祭神の数。

■ 奉幣と班幣〜神社の序列化/主従関係
 祈年祭の時に、天皇の使いという形で勅使が幣物を持って出かけてお供えをするのは伊勢神宮だけでありこれを奉幣と呼ぶ。それ以外の神社に対しては班幣といって、“神主と祝集まれ”と命令して、祈年祭の幣物を神祇官に集まった神職達に配布する。
 その集まりの時に祈年祭の祝詞を読み聞かせることになるが、その内容は、祈願の対象としては天皇が祭る神祇官西院の神々と、同じく伊勢神宮の神、そして古来天皇家と縁の深い南大和のいくつかの神々だけを挙げているだけ。そういう神々たちをお祭りする言葉を地方の神々に言い聞かせて「おまえ達よく承って天皇の祭る尊い神々を助けて五穀豊穣になるようにせよ」と命令している。
 つまり、朝廷が尊んでお祭りする神々と、朝廷に服従して命令される神々とがはっきり分けられている。
※ 延喜式ができる前後の頃に、祈念班幣の制度はすでにがたがたに崩壊しつつあったことが記録(三善清行による「意見十二箇条」)からわかっている。

■ 国弊社2395座
 国司の庁が神祇官に代わって弊を班(わか)つ社で官幣社に対して国弊社という:大188座位、小2207座。
 国司が国弊社にお供えする品々は、官幣社に比べてずっとレベルが落ちている。

■ 神社の社格
1.名神(みょうじん):延喜式では大社は304座で、その中の285座を「名神」にする。名神祭というのが神祇官で行われるが、そこでお祭りされるのが名神社で、これが最高の待遇になっている。
 名神大社と他の大社、地方の小社、まったくの無格社という区別。
2.神階:神々に位を与えること。たいていの神に与える位階は五位か六位であり、国司(受領)クラスであった(今の県知事にあたる)。
※ 律令制度の下でいろいろな点で優遇を受けるのは五位以上の官人であり、位田という領地や位禄または位封(いふ)、封戸(ふこ)といった莫大な給与をもらう。

■ 奈良時代の日本の人口は奴隷を入れて約600万人。
 奴隷がどれくらい板かという推定はおそらくできない。

■ 奈良時代の神社の序列
 天皇・畏施腎盂宇野元に中央貴族と関係の深い畿内の少数の大社の神々と、地方のごくわずかの特定の神にだけ名神大社の社格と高い神階を与える。園下の地方豪族の祭る神々は式内の官社に組み入れる。そしてその神々の間にも社格の大・小や神階に差を付けて階層化する。村里の神々はその下にあって国家祭祀の対象にはならなかった。

■ 国司神拝と一の宮制度・総社制度
 奈良時代に始まる制度で、本来は祈念祭班幣を行う官社制度に対応していたもので、国司が管内の官社を掌握し、管理するために巡検したもの。
 神宝、つまり盾や矛などを国司が作って都から持っていき、その国の有力な一の宮、二の宮などに奉納した。これは国司が代わるたびに行い、前の御神宝と取り替えた。つまり、地方の神々の真の祭祀権はその地方の豪族にはなく、本当は天皇が握っているのだ、ということを示威するために国司が行う、祭祀権者である天皇に代わって、国司が地方の神社の祭祀権を行使することを意味すると考えられる。
 やがて平安時代中頃になると参拝する神社の順序がやかましくなり、格の高い神様のところから順番に参拝するようになる。これが“一の宮”の制度で、一の宮、二の宮と順番を付ける。このように形式化されていくのは平安時代の半ば10世紀から11世紀で、鎌倉時代にも引き継がれ、室町時代になると消えていく。
 形式化が進んでくると、全部回るのが面倒くさいという国司が出てくる。そこで“総社”という制度が始まる。国内の有力な神社を国衙(こくが)つまり国庁の近くの1箇所に国内の神々を勧請してお祭りする制度で、現在も国府跡の近くに総社神社、六所神社という名前で残っているものが多い。
※ 大國魂神社(府中市)は延喜式に出てくる大國魂神社ではなく、武蔵の国府の側につくられた総社で六所宮といったのを、明示になって式内社の大國魂神社にしたもの。
※ 群馬県の総社神社は、上野国内の神々の名簿が巻物になってご神体になっている。

■ 明治時代に始まった祈念祭は古代の祈年祭とは別物
 明治時代になり全国の神社の大祭として2月17日に祈年祭が行われるようになった。これは国家神道の元で全国一律に開始されたもので、それぞれの神社の伝統や事情を無視して共催されたものであり、古代の祈年祭とは名前は同じでも全く別物。戦後はこの行事は廃れたが、まだ戦前の形式を続けている神社が少なからず存在する。

■ 明治時代の官社制度復活
 国家神道の立場からの序列として官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社という社格が新たに設けられた。形式上のもので古代のものとは目的・性格も全く異なる。そこでは天皇=宮内省から幣帛を供える神社が最高の官幣社、つぎが政府=大蔵省が共進する国幣社となる。
 また官幣社・国幣社の中でもそれぞれ大社・中社・小社のランクがあり、その地位を巡って昇格運動があったりした。また古代にはなかった別格官幣社、勅祭社というものができた。
 この制度も敗戦とともに崩壊した。