知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「日本人は何を考えてきたのか~南方熊楠」 by NHK

2012年01月26日 12時31分46秒 | 神社・神道
 先日放送された内容は「第3回:森と水と共に生きる~田中正造と南方熊楠~」でした。
 田中正造編も興味深く視聴しましたが、私の心をつかんだのは南方熊楠(みなかた くまぐす)の方です。

 明治時代に生きた熊楠は、人間と森の関係を深く思索した「知の巨人」。昨今の里山ブームとは一線を画す、総合的な視点からその重要性を説いていました。
 1906年(明治39年)、明治政府は「神社合祀令」を発令します。
 その内容は、一つの村には一つの神社のみを残し、他は統廃合するというもの。明治政府の目的は、統廃合するとともに伊勢神宮を中心とする国家神道に収束させ、戦争に都合のよい世論を作る体制を形成することでした。
 このときに消滅した神社の数は、日本全国で約5万社。鎮守の森は伐採され、悲しいかな、それを木材として売ってもうける輩も少なからずいたようです。

 なんということでしょう!
 祈りの空間を喪失し、多数の民が心のよりどころをなくしたことは想像に難くありません。

 熊楠は反対運動を起こします。勢い余って役人の講演会に乗り込んで激昂し、投獄されたこともありました。囚われの身にあるとき「石神問答」という書物が熊楠の元に届けられました。民俗学者である柳田国男が自分の著書を送ったのです。熊楠はその内容に共感し、二人の親交が始まるのでした。後年柳田は「わが南方先生ばかりは、これだけが世間なみというものがちょっと捜し出せようにもない」と言葉を残しています。

 熊楠が「神社合祀に関する意見」の中で展開した神社合祀の弊害8箇条を紹介します;

 第一、敬神思想を薄うし、
 第二、民の和融を妨げ、
 第三、地方の凋落を来たし、
 第四、人情風俗を害し、
 第五、愛郷心と愛国心を減じ、
 第六、治安、民利を損じ、
 第七、史蹟、古伝を亡ぼし、
 第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。


 明治時代にエコロジーの概念を掲げて森を守ろうとした熊楠の精神に敬意を表したいと思います。私の知りたいことは熊楠が残した文章にすべて書いてあるのではないか・・・そんな期待さえ生まれてきました。

「彫刻家・籔内佐斗司流 仏像拝観手引」 by NHK

2012年01月22日 17時44分02秒 | 寺・仏教
 仏像にはあまり興味はないのですが、いつの間にか関連本が手元にたまってしまいました(苦笑)。
 でも読んでも「フ~ン」で終わってしまい、記憶に残りません。そんな折にNHKでこの番組が始まりました。映像で見れば少しはインパクトが違うかな、と期待して視聴しました。

番組紹介文
 空前の仏像ブームです。京都・奈良では今日も、仏像ガールたちが古仏を求めて巡り歩いています。人はなぜ、仏像に魅せられるのでしょうか?
 今回、私たちを仏像のふしぎな世界へ誘ってくれるのは、仏像修復の達人・籔内佐斗司さん。「寄せ木造り」「乾漆造り」などの複雑な古典技法を実演をまじえながらわかりやすく解説します。


第1回 ほとけさまの長い長い旅路
第2回 籔内流 仏像拝観の基本
第3回 仏像の原点 大仏さまめぐり
第4回 漆でできたほとけさま
第5回 一木造りのほとけさま
第6回 寄木造りのほとけさま
第7回 運慶・快慶 慶派仏師の仏像ルネッサンス
第8回 岡倉天心を知っていますか?
第9回 若者が受け継ぐほとけの遺伝子


 よく話題になるけどなかなか覚えられない「印相」や「仏像の種類」の話は「フ~ン」と聞き流しました。仏様が「如来・菩薩・明王・天」とビラミッド型に格付けされていることはたけしの正月番組と同じ説明でしたね。
 それより、仏像の歴史が面白かった・・・材料や様式の変遷など縦のラインに沿った解説に引き込まれました。

 意外な驚きだったのが、藪内先生は東京芸術大学に「仏像修復」の講座を持っているのですね。20前後の若手が仏像相手に悪戦苦闘している姿が妙に新鮮でした。

 素材に関して。
 飛鳥時代の木材(樟:クスノキ)、奈良時代の銅と漆、そして奈良時代後期にまた木材(榧:カヤ)となり、「一木造り」や「寄せ木造り」へと発達していったのでした。
 法隆寺の百済観音像が代表作であるクスノキは香りはよいけど目が荒く細かい加工ができません。鑑真が中国からもたらしたカヤは目が細かくて加工しやすい材質。クスノキ時代は衣紋(着衣のドレープ)が直線的で荒かったものが、カヤの時代には流麗なラインへ発展する様が素人の私にもよくわかりました。

 一時期のみ流行した漆製の仏像の代表は興福寺の阿修羅像。乾漆法と呼び麻布と共に何回も重ね塗りする手法なので、何となくふっくらと仕上がるのが特徴です。
 この興福寺の阿修羅像は仏像人気ランキングの常連としても有名です。ふつうはいかつい姿をしている阿修羅像が、優しい少年のような表情をしているのは例外的だそうです。作成を命じた光明皇后が、無くしたわが子を偲んだためそのような造形になったとも伝えられています。



 はじまりは、布教の手段として、あるいは崇拝の対象・偶像として作成された仏像が、いつしかその時代の文化を纏い、仏師の切磋琢磨により芸術の域まで達していった歴史・・・ちょっと仏像を見る目が変わりそう。

 行ってみたい、見てみたいと思った仏像が二つ。
 一つは奈良の飛鳥寺の「飛鳥大仏」。日本最古の寺である飛鳥寺にこれまた日本最古の大仏が鎮座しているのです。大仏と云っても3m弱ですが。1400年の年月を感じてみたいですね。



 二つ目は東京上野の「上野大仏」。上野公園の中の盛山にあります。江戸時代に建立されたものの、関東大震災や戦災により崩落して顔だけが残っているのです。「もう落ちるものはない」ことから受験合格祈願の御利益があるそうです。



※ 解説の籔内佐斗司さんは奈良のキャラクター「せんとくん」の考案者です。専門家なのでしょうが、あの美的センスはちょっと・・・。


「子育ての民俗を訪ねて」by 姫田忠義

2012年01月12日 09時05分32秒 | 民俗学
 副題「~いのちと文化をつなぐ~」
 柏樹社、1983年発行

 前項「忘れられた日本の文化」に触発されて、手元にある他の姫田さんの著書を読んでみました。
 内容は、彼が「民族文化映像研究所」の仕事として日本各地を訪れた際に見聞きした子育て文化に関する文章をまとめたものです。

 う~ん、やはりこの人の著書は肩に力が入っているというか頭でっかちの印象が拭えず、読んでいてちょっと疲れます。現象をもとに推論しているのですが、それが多すぎて概念が先走ってしまう感があります。
 宮本常一氏の「忘れられた日本人」のように、消えつつある生活習俗を列挙し、それを読んでいるうちにぼんやりと「日本」が浮かび上がっている感動は、残念ながらありません。

 ま、それはさておき・・・。

 日本古来の一般人の生活を垣間見ると「弱き者は寄り添い工夫して生き延びてきた」という厳しい現実に突き当たります。
 夫婦・親子の絆、地域の結びつきが現在よりも強かったのは、取りも直さずそうしなければ生きていけなかったから。そして「生きるための知恵」が随所に散りばめられているのを発見することになります。

 当然、子育て習俗にも反映されます。
 子どもを育て、一人前の働き手にするシステムが家・村に存在するのです。もちろん学校がない時代から。
 記憶に残った箇所を列挙します;

与論島では一人で子どもを産む
 この島では、家族にも誰にも知られないで一人で出産するのが賢い女のすることだとされていた。出産を家族や他人に知られるのは恥だった。産婦は昼間の畑で一人で産み落とし、自分の下着にくるんで帰ったり、夜であれば、主人に知られないように奥の間で一人で産み落とし、産み落とした後に主人を起こしたりした。ヘソの緒は、一人でヤンバルダイ(琉球竹)で切り、マフウ(麻)でしばった。そして1週間ほど、火の燃えるジュウの横で休ませてもらった後、体を慣らしながらふだんの生活に戻っていった。
 この村に産婆さんが登場したのは昭和15年頃だが、その後も自宅分娩がふつうだった。
 出産は自分の力でするものだという気風が、今も脈々と生きている
 しかし、昨今の日本では、そうでもない様子。出産であろうが何であろうが、すべて医者任せの風潮が嘆かわしい。
 ここで生まれた子には、和風の名をつける前にまず伝統的な島風の名(先祖から子孫へ次々に伝えられてきた名)をつける習わしがある。子どもは単に夫婦の子ではなく、先祖から与えられ、神から与えられたものだという意識が脈々と生きており、特に女性にそれが深々と伝えられている。

子どもは神からの授かりもの
 埼玉県秩父地方では「7歳までは神の子」「7~15歳は村の子」「15歳以上は村の人」という。
 これは7歳まで生き延びるのが大変だった時代の名残もあると思われる。事実、7歳になるまで祭事が多く存在し、子どもの発育・成長を喜びながら大切に見守ってきたことの表れであろう。
 伝統的な日本人の認識では、子どもは決して親という個人のなにものかではなく、社会的な集団の一員であり、ことに7歳まではその社会全体が注意深く見守るべき「授かりもの」であった。今日の私たちには、そういう意識が欠落してきていると云わざるを得ない。

大和撫子の意味
 昭和初期は戦争を繰り返した時代だった。
 天皇・国家に忠実な国民として、男には「醜の御楯」「山桜」、女には「大和撫子」という言葉が盛んに使われた。
 ナデシコは秋の七草の一つに数えられた野草で、撫子(撫でる子、愛撫したい子)と書いた。昔の人はこの野草に強い愛着を持ち、また子ども(あるいは女性)への愛情をこの野草の名に託して歌に詠み込んだりしてきた。
 そしてそれが、国民はすべて天皇の赤子だという言い方と同じように、女は大和(国家)の撫子である、天皇の撫子である、というふうに利用されるようになった。撫子として生きるのが女らしさである、言い換えれば愛撫され服従して生きるのが女らしさである、ということ。
 古来日本人が抱いてきた自然の草木への愛情や純なる人間的愛情の表現が、見事に天皇制国家主義のうたい文句に利用されたのである。

トシドン~失われた「郷中教育」
 鹿児島県下甑島では、毎年大晦日の夜行われる「トシドン」という正月迎えの行事がある。トシドン(歳どん)と呼ばれる異形の神が子どものいる家々を訪れて回る行事で、秋田の「ナマハゲ」や能登半島の「アマミハギ」などと共通の性質の行事である。
 トシドンは伝承によれば天上から首のない馬に乗って降りてくる神様。その異形の神様が闇の中から「おるか、おるかーっ。おるなら雨戸を開けーいっ」と大声で呼ばわる。
 トシドンを迎えるのは3~7歳の子ども。家の中で裸電球一つの暗がりで、子ども達は親と一緒に正座し息を殺して待っている。
 トシドンが入ってくると、親は子どもにきちんと挨拶をさせる。トシドンは容赦なしにふだんの行い・いたづらを問い詰め、改めるべきことは改めるかどうか子ども達の返答を迫る。そして最後は褒め、諭して去っていく。
 つまりトシドンは、子どもを怖がらせるためにくるのではなく、子どもを諭したり励ましたりするためにくるのである。
 そしてトシドンが与えてくれる餅(モチ)がトシダマと呼ぶ。トシダマは、新しいトシ(歳・年)のタマシイ(魂)という意味。今日私たちがお年玉といっているのは、本来そういう意味のもので、それが今ではお金になっている。
 トシドンに変装するのは今は大人だが、第二次世界大戦が終わるまでは7~15歳の子どもが担当した。ということは、3~7歳は迎える側、7歳を過ぎると今度は訪ねる側になるのである。子どもは「教え諭される側から教え諭す側になる」という両方の体験をすることになり、そして15歳を過ぎると様々な村の仕事や行事の担い手となっていく。この3つの段階を「郷中教育」という。
 今の学校教育では、子ども達は常に一方的に「教えられる側」にある。「郷中教育」では、最初は「教えられる側」であるが、すぐに「教える側」になり、しかも絶えず「教えられる側」でもあるという優れた面を持つ。
 なによりもトシドンには、子どもが子どもを教える、子ども同士が教えあうという非常に大事な、また最も有効な教育のあり方、さらには文化の伝承の仕方が内包されている。
 そもそも教育とは何だろうか、それは、人間の自覚を促すと云うことではないだろうか。


 子どもがまともに育ちにくい今の時代、含蓄に富む言葉です。

※ 「トシドン」の動画を見つけました;
種子島行事・鞍勇(くらざみ)の仮面神「トシドン」
種子島行事・野木野平の仮面神「トシドン」

「忘れられた日本の文化」by 姫田忠義

2012年01月12日 07時33分44秒 | 民俗学
 副題「ー撮り続けて30年ー」
 岩波ブックレット、1991年発行。

 62ページしかない小冊子です。タイトルに惹かれてしばらく前に購入したものですが、昨年末蔵書の整理をしていて見つけ、一気に読んでしまいました。

 姫田さんは民俗学者ではありませんが、色々な職種を経験後に宮本常一さんに師事し、1961年から映像による民族文化の記録作業を始め、1976年には「民族文化映像研究所」を創立し、所長として現在に至る方です。
 このブックレットは、彼の反省を詰め込んだエッセンスといったところ。タイトルからして宮本常一氏の「忘れられた日本人」を思い出します。

 はじめの方は、自分がこの仕事をするようになった経緯が記されています。非常に肩に力が入った文章(悪く云えば大げさ)で、ちょっと辟易してしまいましたが、話が進むにつれ、実際に記録映画の作成余録が出てくると俄然魅力的になり引き込まれました。

 時代の流れに消されていく日本の習俗・職業を愛情を込めて映像に残そうという熱意がひしひしと伝わってきました。柳田国男、折口信夫、宮本常一やその後続の民俗学者達が文章で残してきた古からの日本庶民の生活を、姫田さんは映像で残したのです。彼はフィールドワークを実践してきた実体験から「私の仕事は日本の『基層文化』を映像記録に残すことだ」と自信を持って言い切っています。
 専門外なんだけど、血が騒いでフィールドワークを実行して記録に収めたという点では俳優の小沢昭一さん(「日本の放浪芸」)と共通するところがありますね。
※ 一部 YouTube でも予告編や一部の映像を見ることができます。タイトル箇所をクリックしてみてください;

■ 「アイヌの結婚式
 古来北海道に住んでいたアイヌ民族は、明治時代以降、日本民族によって侵略・支配されるようになりました。日本は単一民族ではなかったのです。彼らの生活には、大自然に感謝し、そのおこぼれで生活させてもらっているという敬虔な精神が伺われます。
★ 「イヨマンテ~熊送り~
★ 「沙流川アイヌ・子どもの遊び
★ 「Ainu, First People of Japan, The Original & First Japanese」これは姫田さんとは関係ありませんが、アイヌの古い映像を見ることができます(英語版なので投稿は外国人?)。

■ 「奥会津の木地師
 木の日常食器を造るために移動生活を続ける職人家族の痕跡を追います。里に下りてこない「山人」達の貴重な生活記録となりました。ハンマーのようなノミを見事に使いこなす様は、まさに職人技です。

■ 「周防猿まわしの記録
 これは「反省ザル」で有名になった太郎・次郎コンビの成り立ちのお話。
 村崎義正(太郎さんの父)さんという方が、昭和30年代に絶えてしまった大道芸猿まわしを復活したいと持ちかけ、姫田さんの「椿山」という記録映画を見て感動し、息子の太郎さんを後継者に指定した、という経緯。その後苦労を重ね、紆余曲折を経て現在に至ります。
★ 「講演:宮本常一生誕100年(姫田忠義)

■ 「椿山~焼き畑に生きる
 焼き畑農業は稲作以前から日本で行われてきた歴史的な農業形態です。これは四国の山深い小さな村の、1970年代まで焼き畑農業を営んでいた人々の記録です。
 ひたすら体を使って働き続ける夫婦の姿に引きつけられます。生きるために働く、次世代を育んで命を、生業を伝える、というシンプルな構図に、現代家族が見失っている生の本質を垣間見たようでした。

■ 「寝屋子
 三重県の小さな島の若者宿のお話。男児が一定の年齢になると、信頼できる大人を指定して「寝屋子」という若者宿を造り、そこに集団で寝泊まりする習俗です。他人ながらも親子同然の付き合いが生まれ、育ち合い、漁師として独り立ちした後も一生その関係が続きます。

★ 2012.1.12のNHK「地球イチバン」で「イチバン長~い成人式:パプアニューギニア・フリ族」を放映していました。フリ族では10歳頃から親元を離れて若者だけの宿で暮らすようになり、弓矢、畑仕事、他部族との戦い方/駆け引きの方法を学びます。20歳頃から2年間かけた成人式が行われ、そこで村民から一人前と認められて初めて独立可能となり、結婚も許されるようになる、というシステムが現在進行形で生きていました。
 日本の成人式の話をすると「好き勝手に生きてきて20歳になったら1日で大人になれるなんて信じられない」と驚いていました。
 ゲストは「日本もああやればいい」などとコメントしていましたが、何のことはない、日本にも同じようなシステムが存在したのに、それを捨て去ってきたことをみんな忘れているだけ。


■ 「奥三面
 新潟県の奥深い山村で大正時代の国勢調査までは知られることがなかった平家落人伝説の里。漁業以外の生業をすべて行い生き延びてきた山人たちのがダムに沈んでしまうことが分かり、消えゆく山の生活を残そうと挑んだ記録映画です。

★ 「遙かなる記録者への道~姫田忠義と映像民俗学~
 姫田さんが自分の仕事を語った映像です。

※ YouTubeで閲覧可能な他の民族文化映像研究所の映像
□ 「豊松祭事記
□ 「奈良田の焼き畑
□ 「うつわ~食器の文化


「相撲」はスポーツではなく「神事」です。

2012年01月09日 08時26分42秒 | 神社・神道
 相撲は神事であることを「ブラタモリ~両国編」で再認識しました。

 隅田川東側の土地はもともと江戸郊外で田んぼが広がっていた土地。
 そこに江戸を焼き尽くした「明暦の大火(1657年)」で出た約10万人の死者を弔うために「回向院」というお寺が造られました。お寺とはいうものの、郊外のため幕府の取り締まりがゆるく、繁華街と化してアミューズメントパーク的性格を帯びていたそうです。実際、一時は境内にサーカスとかスケートリンクがあったと住職さんが説明していました。

 さて、江戸時代に寺社仏閣を建立する費用を捻出する目的で行われたのが「勧進相撲」。
 各地で行われていましたが、回向院近くでは仮設の建物が造られるほど盛んで、明治時代末、ついに常設されるに至りました。これが「両国国技館」です。

 「相撲はスポーツではなく神事です」と元大関栃東の玉ノ井親方がコメントされていました。
 土俵の上にぶら下がっている屋根は神社本殿の屋根と同じ形をしています。
 千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)に注目。千木が外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)で、堅魚木が5本と奇数ですから男神を表しています。

 土俵は毎場所、新たに造られます。
 呼び出しの方々が総出で、場所の6日前から3日間かけて造り直します。崩して盛って形を整え、踏み固めて叩き固めて・・・すべて手作り。
 完成後に「土俵祭」が行われます。宮司立会いのもと、土俵中央に縁起を担ぐ意味で勝栗や昆布・米・スルメ・塩・榧の実が神への供物として埋められるのです。
 相撲の古来の性格として「健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為である。そのため礼儀作法が非常に重視されている。」とWikipedia にもあります。かつての朝青龍のような不作法は他のスポーツ以上に咎められる所以です。土俵入りの際、力士が手をたたくのも神社参拝の「柏手(かしわで)」ですし、しめ縄も神社由来です。
 
 私は「鎮守の森巡り」と称して、近隣地域の小さな神社を訪ねる趣味がありますが、時々境内に土俵を見つけることがあります。「奉納相撲」(※)の名残ですね。今でもやっているのかなあ。

※ 祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い(Wikipedia より)。

『ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎』~仏教編~

2012年01月03日 06時15分48秒 | 寺・仏教
 毎年お正月に放映される番組だそうです。
 その年末には再放映され、今回わたしは2011年版(第3回)を拝見しました。

<内容>
・なぜこれほど日本に仏様が根付いたのか
・最澄と空海は何をしたのか
・たけし人生初の高野山参り


 この回は、日本の仏教に焦点を当て、小島よしおとカンニング竹山によるコントを交えて、まことにわかりやすく解説しています。
 はっきり云って、大変勉強になりました。
 学校の歴史の授業では建前が邪魔になり、一般民衆にとってどういう意味を持っていたのか今ひとつイメージできない事柄が多いのですが、人間くさい裏事情も知ると興味深く身近に感じることができます。

 特に以下の事項が新鮮でした;

仏の階級
 ピラミッドの頂点に悟りを開いた「如来」、その下に修行中の「菩薩」、その下に番人の「明王」、その下にインドの神々を転用した「天」という序列が存在する。

如来】・・・薬師如来(医療担当)、阿弥陀如来(極楽浄土の案内人)、大日如来(太陽を神格化)、
 ちなみに奈良の大仏は毘虜遮那(びるしゃな)如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来。

菩薩】・・・弥勒菩薩、観世音菩薩(観音様)、地蔵菩薩(お地蔵様)
 ちなみに観音菩薩は女性ではない(男性でも女性でもないらしい)。簡素な如来の姿に比して装飾がされているのは、出家前の釈迦の王侯貴族時代の姿を表している。
 観音様は人気を博し、バリエーションが生まれた。たくさんの人々を救うため、手の数を増やした千手観音、顔を増やした十一面観音、巨大化した高崎観音、等々。
 親切にも出張して救済してくれる菩薩も登場・・・皆さんご存じのお地蔵様のこと。庶民のアイドルとなり細々とした願いも聞き入れてくれる存在となり、身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、子育て地蔵などが登場した。

明王】・・・不動明王、他
 明王は密教では大日如来の化身・分身であり、明王が救うのは難解の衆生(なんげのしゅじょう:いくら言っても聞かない人)。明王は激しい煩悩を背後の炎と剣で焼き尽くし、左手の縄で縛ってでも救うという。慈悲の心ではなく怒りで仏教界を守る、いうなれば闇の仕事人。
※ 歌舞伎の市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王でしたね。

】・・・帝釈天、毘沙門天、金剛力士、等
 明王グループと同じく武闘派集団で、「寅さん」で有名な葛飾柴又の帝釈天、戦の神様の毘沙門天、東大寺の金剛力士、地獄の閻魔様も天の一員。

仏教の宗派はなぜたくさんあるのか?
 宗派は、膨大な教典の何を重視するかで分離した派閥のこと。
 ラーメンに例えると、スープ極め派、麺極め派、全体のバランス重視派、と考えるとわかりやすい。

政治に利用されてきた仏教
 仏教は6世紀に日本に伝えられ、当時の中央政府が全国統一の方便として利用された。釈迦を中心とした一神教という性格が、天皇を中心とした日本統一とイメージがピッタリ重なったから。
 仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立した。その後も長い間、仏教・僧侶は日本の政治の中枢に関わることになった。
 ただし、奈良時代は権力者・上流階級向けの宗教という性格にとどまった。

最澄(天台宗)と空海(真言宗)のインパクト:官から民へ
 この二人は上流階級の宗教であった仏教を民衆に広めようとして人気を博した。最澄は超エリートの役人でもあり、年下の空海は当時ブームであった密教をひっさげて重用されるに至った。二人は同じ遣唐使船に乗り、当初仲が良かったが、その後ちょっとしたトラブル(本の貸し借り?)で袂を分かった。空海はそのカリスマ性から自分がお寺の本尊になってしまった(弘法大師)。

※ 脱線しますが、こんな記事がありました;
1200年ぶり…天台・高野山真言宗トップ対談(2012年1月7日 読売新聞)
 天台宗の半田孝淳(こうじゅん)座主(ざす)(94)と、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の松長有慶(ゆうけい)座主(82)による対談が昨年12月25日、京都府と滋賀県にまたがる仏教聖地の一つ、比叡山で行われた。
 両宗の開祖、最澄と空海が晩年、対立したとされることから、両座主が長時間にわたり意見を交わすのは1200年の歴史の中で初めてとなる。
 東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示したいという松長座主の提案に、半田座主が応じる形で実現した。日本人はこれからいかに自然や環境と関わっていくべきか。両座主による初めての対談は、被災後の日本人への示唆に満ちたものとなった。


法然(浄土宗)/親鸞(浄土真宗)の特徴:民への普及促進
 法然は「南無阿弥陀仏(阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい)と唱えればどんな人間でもあの世では救われる」と説き、民衆の支持をさらに得た。親鸞は自ら妻帯し悪人でも救われると説いた(悪人正機説)。ここで言う「悪人」とは犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
 注目ポイントは、釈迦ではなく阿弥陀如来ただ一人の神を崇拝したこと、この世ではなくあの世での救済を主眼に置いたこと。
※ 親鸞の云う「悪人」は平民以下の蔑まれてきた民衆を指すという説もあるようです(五木寛之の著書)。

禅宗(栄西の臨済宗/道元の曹洞宗)の特徴:武士への普及
 当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうという教え(自力信仰)。座禅というストイックな修行によりこの世での救済を説き、新興勢力の武士に支持され広まった。
 武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。金閣寺、銀閣寺、龍安寺が建てられ、能や華道、茶道といった文化も禅宗から派生した。

日蓮宗(日蓮)の特徴:現世での救済
 来世で人を救おうという禅宗に対し、日蓮は現世で人を救うべきと説いた。法華経という経典の中にこそ最高の真理があり経典を信じることで救われると説いた。

墓地・檀家制度は江戸時代から
 戦国時代に勢力を持ちつつあった寺の武装解除をしたのが豊臣秀吉。
 後に続いた徳川家康は異なる手法で寺を政治利用した。
 徳川幕府は「寺請制度」を敷いて地域の寺院に戸籍登録を管理させ、人の出入りを把握するとともに隠れキリシタンの取り締まりを行うという一石二鳥の方策をとった。寺にも「確実に信者を得ることができる」というメリットがあった。さら信者を確保するために宗派同士が争う必要もなくなったのであった。
 というわけで、葬式・お墓を寺が扱うようになったのは、実は江戸時代から。


 このように俯瞰すると、仏教はその時代の権力者に利用されて日本に根付いたのですね。その後対象を民衆へ広げていくことにより、現在のように普及した歴史が伺われます。

 やはり、自然に感謝し八百万の神を敬う神社の方が私は好きです。明治時代以降の富国強兵に利用された国家神道はイヤですけど。

 2012年版は1月9日放映予定です。ちょっと楽しみ。

「チェルノブイリ 再生の歴史」

2012年01月01日 19時42分12秒 | 原発
 Eテレで「日本賞」受賞作品として紹介・放映されました。

~番組紹介文~
 教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を紹介する。チェルノブイリの原発事故から25年、周囲の生態系への影響を検証するフランスのドキュメンタリー番組。
 教育コンテンツの国際コンクール「日本賞」の受賞作品を3夜連続でノーカット放送する。2夜目は、生涯教育カテゴリーで最優秀作品に選ばれた「チェルノブイリ 再生の歴史」(カメラ ルシーダ プロダクション/フランス)。原発事故から25年。チェルノブイリ周辺は、悲劇の結果ではあるものの、予期せず手に入れた重要な野外実験場となっている。現地で調査を行う専門家の長年の研究結果をもとに、放射能汚染の脅威を描く。


 以前、チェルノブイリの特集番組で「現在のチェルノブイリは野生動物の天国となっている」というコメントがあり、ずっと気になっていました。この番組は、その現象を多角的に捉えた内容です。

放射能汚染の影響
 まず、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染の影響。
 事後直後の周辺は、放射能の直接の毒性により動物は死に絶え、植物も枯れました。
 しかしその後、徐々に動物が増え、植物も勢いを取り戻してきたのでした。
 放射能汚染は続いているのになぜ?
 現在も半径30km以内は立ち入り禁止地区のままです。

 研究者達は、植物・動物の種類により放射能への抵抗性の違いを証明しました。
 例えば、マツは枯れてしまったが、シラカバは生き残った。
 この違いを遺伝子DNAの太さの違いで説明していました。
 マツのDNAは太いので、放射能により傷つきやすい一方で、カバのDNAは細くて傷つきにくいということ。
 ネズミは傷ついたDNAを修復する能力が高いが、ツバメは低い。これは渡り鳥という習性を持つツバメはDNA修復に重要な抗酸化物質を長距離飛行の際に使い果たしてしまうから、と説明していました。
 ネズミは立ち入り禁止区域外から複数の種が入りこみ増えている一方で、鳥類は入ってきても死んでしまうので総数は減っている。

 動物の種により、放射能への抵抗性が異なるのですね。
 ヒトはどうなんでしょう?

化学物質汚染からの解放
 次に、本来の自然の再生という視点。
 チェルノブイリ周辺の自然は、人間が住むことにより化学物質汚染を被ってきました。材木を作るための植林とそれに伴う殺虫剤、農作物を作るための農薬散布。
 そして原発事故後は人間がいなくなるとともに、化学物質汚染からも解放されたのです。
 すると、処理されない朽ち木に虫が住み、それを食べる鳥や哺乳動物が増えて昔の食物連鎖が復活し、多様性が育まれるに至りました。
 つまり、人間の手が入らない、原初の豊かな自然に戻ってきたわけです。

 人間って、自然にとってはストレス以外の何者でもないのですね。
 いや、自然と共生する「里山」システムは良かったはず。農薬(化学物質)を使うようになってからは「敵」に変化してしまいました。
 皮肉にも、現在のチェルノブイリは放射能毒性の研究者や食物連鎖の研究者には貴重な宝の山になっていると番組は締めくくりました。