「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。
全国にあまた存在する八幡神社・八幡宮。
この広がりは、源氏の力によるところが大きいようです。
源氏がその守護神と位置づけてから、武士の時代に“武勇の神”として全国の村々が我先に勧請した勢いを感じられます。
でも、もともとは九州の巨石信仰であり、渡来神の影響を受けつつ展開し、のちに応神天皇や源氏と結びついていったとは、意外な驚きでした。
□ 八幡信仰と清和源氏
京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は清和源氏の氏神として知られている。八幡神は八幡大菩薩との呼ばれ、神仏習合の典型的な神である。氏神とは言っても清和源氏の一族の先祖の神ではない。
□ 八幡信仰の始まりと広がり
八幡信仰の根本創始は豊前の宇佐八幡宮である。それが平安時代に京都に勧請されて石清水八幡宮として創建され(859年)、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮として源頼朝により勧請された(1180年)。
それ以前のことを細かく書くと、
①宇佐八幡宮の前身は近くにある大元山(御許山:おもとやま)の馬城峯(まきのみね)の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座祭祀であった。
②御許山の巨石信仰は土着の豪族宇佐氏が祀っていたと推定されるが、それに渡来系氏族で宇佐に住みついた辛嶋氏が祀っていた神と、大和からやってきた大神(おおが)氏が関与しながら形成されたのが八幡信仰である。
③平城京の宮廷にとって八幡神は鎮護国家の祈祷を行う神社のうちの一つに位置づけられていた。
④(749年)『続日本紀』に、宇佐の八幡大神が天神地祇を率いて大仏造立の成就への協力を誓う旨の託宣を下している。東大寺の建立とともに、その守護神として宇佐八幡神が勧請され手向山八幡宮として祀られた。
□ 石清水八幡宮
平城京(奈良時代)にとって宇佐八幡宮は鎮護国家的な護国神であったが、清和天皇の平安京では王城鎮護的な護国神となっていったのが石清水八幡宮である。
鎌倉時代に編纂された書物には、石清水八幡宮を天皇家の先祖を祀った神社と位置づけている。その祭神は、宇佐でも創祀の頃とは異なり、記紀神話が伝える三韓征伐、新羅征討の神功皇后とその皇子の応神天皇へと仮託されてきていた。
八幡大菩薩と呼ばれる神仏習合の典型でもある八幡神を応神天皇になぞらえるようになったのは、弘仁年間(810〜824年)頃からと考えられる。
京都の東北方の艮(うしとら)の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、西南方の巽の裏鬼門を守るのが石清水八幡宮であり、まさに平安京を守る王城鎮護の神社として周知されるようになり、決して清和源氏にとってだけの特別な神社ではなかった。
石清水八幡宮の古文書「田中文書」(1046年)には「八幡大菩薩」は応神天皇でありそれは自分たち清和源氏の二十二代の始祖である」という記述がある(史実<伝承?)。
『吾妻鏡』(1180年)には源頼義が1062年に八幡三所に丹精祈願を込めた伝承を記しており、1063年には頼義はひそかに石清水八幡宮の御神霊を勧請して、相模国鎌倉の由比郷に鶴岡八幡の瑞籬を建立、その鶴岡八幡宮を源頼朝があらためて小林郷の北山の地に遷座した、と記されている。その後頼朝は、そこで「為崇祖宗」(先祖の頼義・義家父子を輝かしき武門の誉れとして尊崇し、その先祖が記念し祭祀したという八幡神をこれから源氏の守り神として崇拝祭祀していくという姿勢表明)した。
源義家が“八幡太郎”と呼ばれるのは、父親の頼義が石清水八幡宮に参詣したときの「霊夢之告」によるものである、という伝説がある。
□ 平家と氏神
文献によると、厳島神社は平家にとっては氏神であり、安芸国にとっては鎮守である、と理解されていた。
平家一門はまもなく滅亡して氏神を祀るという伝承は消えていったが、源氏は頼朝の時代からのちの時代にまで長く武門の棟梁としての位置を占め、その御家人たちによって鶴岡八幡の系統に連なる八幡神社が各地に勧請されて尊崇の対象となっていった。
□ 八幡三所の神
・第一段階:鎮座の原点の古代の渡来系の神であり、かつ八幡大菩薩として神仏習合の神であり、国家鎮守の威力ある神であった。
・第二段階:10世紀以降、応神天皇を中心にその母神の神功皇后を祀る段階へ展開し、源頼義は八幡三所の応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけた。しかし、源氏の八幡信仰はもともとは武闘と武勇の一族の守り神という意味が中心であり、一族の先祖神としての性格はなかった。先祖神というのはいわば後付けである。
八幡神は古代は国家鎮護の神であり、それが源氏によって武勇の一門の守護神へと読み替えられ、読み込まれていった。
全国にあまた存在する八幡神社・八幡宮。
この広がりは、源氏の力によるところが大きいようです。
源氏がその守護神と位置づけてから、武士の時代に“武勇の神”として全国の村々が我先に勧請した勢いを感じられます。
でも、もともとは九州の巨石信仰であり、渡来神の影響を受けつつ展開し、のちに応神天皇や源氏と結びついていったとは、意外な驚きでした。
□ 八幡信仰と清和源氏
京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮は清和源氏の氏神として知られている。八幡神は八幡大菩薩との呼ばれ、神仏習合の典型的な神である。氏神とは言っても清和源氏の一族の先祖の神ではない。
□ 八幡信仰の始まりと広がり
八幡信仰の根本創始は豊前の宇佐八幡宮である。それが平安時代に京都に勧請されて石清水八幡宮として創建され(859年)、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮として源頼朝により勧請された(1180年)。
それ以前のことを細かく書くと、
①宇佐八幡宮の前身は近くにある大元山(御許山:おもとやま)の馬城峯(まきのみね)の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座祭祀であった。
②御許山の巨石信仰は土着の豪族宇佐氏が祀っていたと推定されるが、それに渡来系氏族で宇佐に住みついた辛嶋氏が祀っていた神と、大和からやってきた大神(おおが)氏が関与しながら形成されたのが八幡信仰である。
③平城京の宮廷にとって八幡神は鎮護国家の祈祷を行う神社のうちの一つに位置づけられていた。
④(749年)『続日本紀』に、宇佐の八幡大神が天神地祇を率いて大仏造立の成就への協力を誓う旨の託宣を下している。東大寺の建立とともに、その守護神として宇佐八幡神が勧請され手向山八幡宮として祀られた。
□ 石清水八幡宮
平城京(奈良時代)にとって宇佐八幡宮は鎮護国家的な護国神であったが、清和天皇の平安京では王城鎮護的な護国神となっていったのが石清水八幡宮である。
鎌倉時代に編纂された書物には、石清水八幡宮を天皇家の先祖を祀った神社と位置づけている。その祭神は、宇佐でも創祀の頃とは異なり、記紀神話が伝える三韓征伐、新羅征討の神功皇后とその皇子の応神天皇へと仮託されてきていた。
八幡大菩薩と呼ばれる神仏習合の典型でもある八幡神を応神天皇になぞらえるようになったのは、弘仁年間(810〜824年)頃からと考えられる。
京都の東北方の艮(うしとら)の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、西南方の巽の裏鬼門を守るのが石清水八幡宮であり、まさに平安京を守る王城鎮護の神社として周知されるようになり、決して清和源氏にとってだけの特別な神社ではなかった。
石清水八幡宮の古文書「田中文書」(1046年)には「八幡大菩薩」は応神天皇でありそれは自分たち清和源氏の二十二代の始祖である」という記述がある(史実<伝承?)。
『吾妻鏡』(1180年)には源頼義が1062年に八幡三所に丹精祈願を込めた伝承を記しており、1063年には頼義はひそかに石清水八幡宮の御神霊を勧請して、相模国鎌倉の由比郷に鶴岡八幡の瑞籬を建立、その鶴岡八幡宮を源頼朝があらためて小林郷の北山の地に遷座した、と記されている。その後頼朝は、そこで「為崇祖宗」(先祖の頼義・義家父子を輝かしき武門の誉れとして尊崇し、その先祖が記念し祭祀したという八幡神をこれから源氏の守り神として崇拝祭祀していくという姿勢表明)した。
源義家が“八幡太郎”と呼ばれるのは、父親の頼義が石清水八幡宮に参詣したときの「霊夢之告」によるものである、という伝説がある。
□ 平家と氏神
文献によると、厳島神社は平家にとっては氏神であり、安芸国にとっては鎮守である、と理解されていた。
平家一門はまもなく滅亡して氏神を祀るという伝承は消えていったが、源氏は頼朝の時代からのちの時代にまで長く武門の棟梁としての位置を占め、その御家人たちによって鶴岡八幡の系統に連なる八幡神社が各地に勧請されて尊崇の対象となっていった。
□ 八幡三所の神
・第一段階:鎮座の原点の古代の渡来系の神であり、かつ八幡大菩薩として神仏習合の神であり、国家鎮守の威力ある神であった。
・第二段階:10世紀以降、応神天皇を中心にその母神の神功皇后を祀る段階へ展開し、源頼義は八幡三所の応神天皇を清和源氏の先祖と位置づけた。しかし、源氏の八幡信仰はもともとは武闘と武勇の一族の守り神という意味が中心であり、一族の先祖神としての性格はなかった。先祖神というのはいわば後付けである。
八幡神は古代は国家鎮護の神であり、それが源氏によって武勇の一門の守護神へと読み替えられ、読み込まれていった。