知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「野火」(大岡昇平著)

2017年09月03日 14時35分26秒 | 戦争
 2017年8月の「100分de名著」は大岡昇平の「野火」でした。

 昔から気になっていた小説ですが、読まずに今に至っていましたが、それを知るよい機会となりました。

 「戦争の狂気」とはよく使われる言葉ですが、なぜ人間は戦争を起こし殺し合うのでしょう。
 きっかけは上層部の人間の思惑かもしれません。
 それにコントロールされた民衆、扇動するメディアが肯定論を展開し、後戻りできない状況を作り上げます。

 しかし、戦争の現場で殺し合うのは兵士の個人個人です。

 番組の中で、社会生活の中では善良な市民が、どのタイミングで殺人者になるのかという塚本監督のコメントを興味深く聞きました。
 
 捕虜に銃剣をさして殺すよう、上官から命令されます。
 はじめは「とてもそんなことはできない」と拒否する兵士。
 しかし「刺さなければお前を殺す」と脅されます。
 
 その極限状況で、人間の闘争本能に蓋をしていた大脳の抑制が外れます。
 ある兵士は捕虜を刺して殺したとき、罪悪感とともに充実感を感じたそうです。

 人間が獣に成り下がった瞬間です。
 こうして人間は殺し合ったのです。

 日本人の皆さん、また同じ事を繰り返しますか?
 戦争をやりますか?



番組内容
 大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品です。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けています。世界各地で頻発するテロ、終わりのない地域紛争、緊迫する国際関係……現代という時代にも、「戦争」は暗い影を落とし続けています。作家の島田雅彦さんは、戦後70年以上を経て、実際に戦争を体験した世代が少なくなっている今こそ、この作品を通して、「戦争のリアル」を追体験しなければならないといいます。
 舞台は太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の劣勢が確実になる中、主人公・田村一等兵は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否されます。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続けます。絶望的な状況の中で、かつて棄てた神へ信仰が再び芽生えはじめる田村。しかし、絶対的な孤独、発作的な殺人、人肉食への欲望、そして同胞を狩って生き延びようとする戦友たちという現実は、過酷な運命へと田村を追い込んでいくのです。
 この小説は単に戦場の過酷な状況を描いているだけではありません。絶望的な状況に置かれながらも、その状況を見極めようとする「醒めた目」で冷徹に描かれた状況からは、「エゴイズム」「自由」「殺人」「人肉食」といった実存的なテーマが浮かび上がってきます。また、極限に追い込まれた主人公の体験から、人間にとって「宗教とは何か」「倫理とは何か」「戦争とは何か」といった根源的な問いが照らし出されていきます。島田雅彦さんは、その意味でこの小説は、ダンテ「神曲」における「地獄めぐり」とも比すべき深みをもっているといいます。
 番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解きます。そして、終戦記念日を迎える8月、あらためて「人間にとって戦争とは何か」という普遍的な問題を深く考えていくきっかけとしたい。



第1回 落伍者の自由
 日本軍の劣勢が確実になる中、肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否される田村一等兵。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続ける。絶望的な状況の中、田村は「一種陰性の幸福感が身内に溢れる」のを感じ、いつしか「自身の孤独と絶望を見極めようという暗い好奇心」に駆られていく。敵兵にすら孤独への慰撫を求めてしまう異常な心理状態、逃げ惑う同胞にすら滑稽さを感じて哄笑を抑えられない不条理……徹底して「醒めた目」で冷徹なまでに克明に描かれる大岡の筆致から、いかなるイデオロギーをも交えない、純粋で絶対的な戦場の姿が浮かび上がってくる。第1回では、大岡昇平の人となり、「野火」の執筆背景などにも言及しながら、戦場を巡る一人の男の彷徨の意味を読み解いていく。

第2回 兵士たちの戦場経済
 極限状況に追い込まれた人々は、日常とは全く異なった原理に突き動かされていく。絶対的な孤独の中で結ばれていく擬似家族の絆、「塩」や「煙草」といった稀少物資が人と人を結びつける奇妙な戦場経済、「心の空虚」に忍び込んでくる宗教的な象徴、絶望的の果てに行われる発作的な殺人…等々。必死に「人間性」に踏みとどまろうとしながらも、転がり落ちるように動物化していく人間たちの姿が赤裸々に描かれるのが「野火」という小説なのだ。第2回は、極限状況下で展開される人間の経済行為や衝動的行為の意味を読み解きながら、人間の中の「悪」と「卑小」を見極めていく。

第3回 人間を最後に支えるもの
 極限的な飢餓状態の中で、田村一等兵は奇妙な光景に出会う。路傍に打ち捨てられた兵士たちの死体がことごとく臀部に肉を失っているのだ。最初は疑問に思った田村だが、その肉を食べたいという自分自身の欲望に気づき、それが同胞による人肉食によるものだと見抜く。その後、死を目前にした将校から、死後に自分の腕を食べてよいという遺言を聞き、心が揺れ動く田村。その肉を切り裂こうとした右手を左手が力強く制止した。やがて、田村は大自然の中に「神」の姿を見る。それは狂気の中の「幻想」だったのか? それとも人間の奥底に眠る「良心」だったのか? そして、彼に最後まで人肉食を思いとどまらせたものとは何だったのか? 第3回は、田村の戦場での最後の行為から、人間にとって「倫理とは何か」「宗教とは何か」といった根源的なテーマを考えていく。

第4回 異端者が見た神
 極限の中で同士討ちという凄惨な現場を体験した田村。帰国後、彼は狂人とみなされ、精神病院に収容される。しかし、果たして狂気に陥っているのは田村なのか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気ではないのか? 田村は静かに戦争を告発しているかのようにみえる。大岡昇平の問いかけは、現代の私たちを揺さぶり続ける。二度に渡って映画化もされ、国際的にも大きなインパクトを与え続けてきた「野火」。その影響は今も脈々と伝わっているのだ。第4回は、映画監督の塚本晋也さんをゲストに招き、映画化の経緯や自分自身の解釈も交えて読み解いてもらうことで、「野火」という作品が与えた後世への影響や現代の私たちがこの作品から何を受け取るべきかを考えていく。




ゲストコラム
『野火』 ゲスト講師 島田雅彦
「反戦小説」にとどまらない『野火』
 小説は、それが事実であろうとなかろうと、書いてしまうことのできるジャンルです。しかし、事実でないものを事実だということはできません。限りなく事実に接近できる立場にいながら、事実から目を背ける態度は自ら厳しく慎むべきなのです。小説家・大岡昇平は戦争や歴史を美談にすることを拒否した作家です。小説というジャンルや歴史記述の方法に対し、誠実を尽くしたことによって、日本近代文学史上、最も影響力のある作家となったといっても異論はないでしょう。
 私個人にとっても重要かつ特別な作家で、尊敬を込めて「大岡先生」とお呼びしたいのです。私は一九八三年、大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲』という作品で作家デビューしたものの、当時の選考委員諸氏との相性が悪く、不名誉にも芥川賞の落選回数記録を樹立してしまいました。私の祖父と同い年の大岡先生は、その好奇心の強さから、孫の世代の私の初期作品にも目を通し、常にフェアなコメントをしてくださいました。当時、岩波書店の「世界」誌上で埴谷雄高氏と「二つの同時代史」という連続対談を続けておられましたが、そこでも言及してくださいました。『大岡昇平全集』(筑摩書房)の別巻や岩波現代文庫で読むことができます。
 私は『野火』をはじめとする大岡作品に高校時代から親しんでいましたが、文学史上の偉大な先達と見做していましたから、その人物に認められたことの光栄と、生前のご夫妻にお会いして直接言葉を交わした幸運を今でも人生最良の恩恵と受け止めています。後輩には公平で優しい方でしたが、文学や世相に対する批評は辛辣で、中途半端なことを書いたら許さないという睨みも利かせていました。
 今回、「100分de名著」で取り上げる『野火』は、作家大岡昇平の看板的作品です。戦後文学、戦争文学の金字塔であることには疑いがありませんが、戦後文学という限定をつけず、明治以降の日本近代文学史を通じて、ベスト3にランクインする作品でしょう。「日本映画史における最高傑作は?」といったアンケートで必ず挙がるのは、小津安二郎の『東京物語』や黒澤明の『七人の侍』ですが、それと同様に『野火』は近代文学の最重要作といえます。
 『野火』は何処かダンテの『神曲』「地獄篇」を彷彿させる地獄巡りの話で、基本、語り手の「私」こと田村一等兵のモノローグによって構成されています。レイテ島の熱帯雨林を彷徨い、飢餓に喘ぐ部隊、傷病者が放置される野戦病院、道端に累々と横たわる遺体など戦争末期の悲惨な現実を見つめながら、「私」は自意識を反芻しています。その語り口は冷徹で、詩的かつ思弁的です。戦争末期に日本軍兵士たちが経験した極限状況の報告、とりわけ生存を懸けた狡知の応酬、死に限りなく接近すること、緩やかに死んでゆくことについての実存的考察は、人間の本能や欲動を見据えた戦後文学の最も大きな成果といえるでしょう。
 『野火』は同時期に書かれた『俘虜記』や、大岡自身の体験に根ざした諸短篇とは質的な違いがあります。大岡昇平をはじめとする戦後派の作家は、戦前に翼賛体制が成立したときにはすでに成人しており、それ以降の世代とは異なり、とても知的緊張の度合いが高い人々です。彼らは、キリスト教やマルクス主義のような西洋外来思想と真摯に正面から向き合う青年時代を過ごしたのちに不本意ながら戦争を体験した。狭隘な日本文学のコンテクスト(文脈)を外れて、世界文学のコンテクストの中で自分に何ができるのか、戦争による大量死の後に文学にできることはあるのかを真剣に考えた世代です。
 大岡先生や埴谷先生とお会いしたとき、私が普通に世間話をしたいと思っても、ふた言目にはカント、マルクスの名前が出てきたことを思い出します。彼らにとって、文学は全世界と交信するためのメディアでした。大岡昇平は戦後、敗戦国民としての惨めな思いや敗残兵としての筆舌に尽くしがたい経験を携えて、日本に帰還したとき、「戦争には負けたけれど文学で勝つのだ」との思いを抱くのです。自分がどれだけ特異な体験をし、そこで何を考えたのかを世界に問いたい。そうした意図を『野火』から感じ取ることができます。
大岡昇平は戦前、フランス文学の研究者でした。スタンダールを愛するスタンダリアンだった。当時の年齢感覚として、青年期を過ぎ、人生をすでに折り返した三十五歳のとき、召集されて、連敗中の日本にとって最終防衛ラインと位置づけられたフィリピン戦線に送られました。大岡が乗っていた船の後ろを航行していた輸送船は潜水艦に撃沈されています。すでに制海権、制空権を米軍に握られている中では敗戦必至の戦場でした。彼が所属していたサンホセ警備隊の六十余人のうち生き残った兵士はわずか二人(ほかに下士官三人)で、彼はその一人だったのです。どこの国の兵士であれ戦争では辛い思いをしますが、たとえば、レイテ島での死亡率が九十七パーセント、すなわち生存率がわずか三パーセントという悲惨な状況は類を見ないでしょう。勝利し、生還することが前提の米兵に対し、日本兵は玉砕するために戦地に赴いているのです。
 復員した兵士でのちに戦争文学を書いた人は多く、野間宏『真空地帯』、大西巨人『神聖喜劇』、古山高麗雄『プレオー8(ユイット)の夜明け』など、いくつも名を挙げられます。しかし『野火』は、それらの作品ともかなり趣が異なります。主人公の田村一等兵を通じて描かれる戦争の悲惨さは、シンプルに反戦小説と見做されることをどこかで拒んでいる強さがあるのです。
 『野火』は異なるテーマが複層的に打ち出された作品で、多面的な読み方が可能です。これは戦争小説ではなく、一種の「信仰告白」あるいは「意識の流れ」として読む方法もあります。大岡昇平はスタンダールだけではなく、西欧文学の広範な素養を持った作家でした。彼はその知識を駆使して、ダンテやゲーテまで取り込むような世界文学の枠組みの中で『野火』を書いたのです。その奥深さを、これから探ってみたいと思います。


<プロデューサーAのこぼれ話>
ぼろぼろの「野火」にこもった思い



 ちなみに、これは私が愛蔵している「野火」です。もはや何回読み返したわからないほどで、お風呂の中でも読み、旅先でも読みと、いろいろなところに持ち歩き読みまくった結果、こんな姿になってしまいました。今回の講師、島田雅彦さんの研究室に、取材でお邪魔した際も「えらく、ぼろぼろだねえ」と驚かれたのを思い出します。

「野火」はプロデューサーに就任してから、取り上げてみたいと思っていた一冊でした。しかし、取り上げるにはあまりにも重すぎるのでは、と躊躇もしていました。そんな日々の中、かばんの奥の片隅に眠ったままの「野火」を再び読み返すきっかけになったのは、去年8月、哲学者カントの平和論「永遠平和のために」を番組で取り上げたことでした。

カントがあれだけの平和論を書くことができたのは、「オーストリア継承戦争」「七年戦争」「バイエルン継承戦争」など当時のヨーロッパ各地で戦乱が絶えなかったこと。カントは、戦争を肌身で感じていたからこそ、戦争をなんとか防ぐことができないかと切実に考えて、徹底した思索を試みたのです。

一方、私たちはどうでしょう。もちろん今でも世界各地で紛争は絶えませんが、戦後70年以上たって、私たち日本人はすっかり戦争の記憶を薄れさせてしまったのではないでしょうか? どんな立場にたって議論するにしても、戦争自体が一体いかなるものかを、今もう一度見つめなおす必要があるのではないか。そう考えて、「野火」をもう一度、読み直したのです。これまで、それほど印象に残っていなかった次の一節が胸を貫きました。

「この田舎にも毎夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る小数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」
「野火」 三十七「狂人日記」の章より

「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。本物の戦場を生身で体験した大岡昇平さんだからこそ書けた一節だと思います。そこには、生半可な気持ちや机上の空論で戦争を論じるような態度など消し飛んでしまうような凄みがあります。どんな政治的な立場にたつものであれ、大岡さんが描いたような、「絶対的な戦争の真実」「戦争のリアル」をまず厳しく見つめぬくことから始めなければならない。そして、戦争の記憶をもつ人々が年々少なくなっていく中、文学として残された「野火」には、とてつもない価値があると思います。

このような思いに駆られた私は、ぼろぼろになった「野火」の一文一文を再び噛みしめながら、思い浮かべた講師候補の一人、島田雅彦さんにメールをさせていただきました。メールの日付が2016年9月1日とありますから、ちょうど一年前のことになります。その後、「宮沢賢治スペシャル」の朗読を担当していただいた塚本晋也さんの真摯な読みに感銘を受け、映画化を成し遂げた彼にもぜひゲストに出てもらいたいと思いました。お二人からのメールのお返事はとてもとても熱いもので、番組に取り組む決意を改めて強く固めることができました。その「熱」は、今回のシリーズの第四回に、強く、強く現れていると今、実感しています。

さて、「野火」の主人公・田村は、復員後、狂人とみなされ、精神病院に収容されます。この意味に、番組制作終了後、深く思いをいたしました。果たして狂気に陥っているのは田村なのでしょうか? これほどまでに過酷だった戦場へ再び人々を送り出そうとしている現実こそ狂気の沙汰ではないのか。演出を担当したディレクターがエピローグとしていれてくれた、この最後の朗読を何度も見直すたびに、そんな思いがふつふつとわいてきます。「野火」の問いかけ、大岡さんの問いかけは、今も、止むことはないのです。

「ただぬくもりが欲しかった~戦争孤児たちの戦後史~」

2017年08月17日 07時31分25秒 | 戦争
ただぬくもりが欲しかった~戦争孤児たちの戦後史~
(2017.8.13:NHK)



<内容>
過去を知られたくない、つらい記憶を思い出したくないと、路上生活を送った戦争孤児たちは、その経験をほとんど語ってこなかった。そんな中、孤児たちの戦後を記録しようと、全国規模の調査が始まっている。高齢となった孤児たちは、つらい記憶をようやく語り始めた。餓死する仲間たち、生きるために働いた盗み、周囲の冷たい目、そして差別…見えてきたのは、戦争の犠牲者なのに社会からさげすまれた孤児たちの姿だった。


 「学童疎開が大量の戦争孤児を作ってしまった」という文言は衝撃的でした。
 それから、子ども心には「親しかった人達から拒絶される経験は人間不信を生む」こともわかりました。
 学童疎開先は親戚が多く、しかし東京の両親が亡くなるとその子どもは親戚にとってお荷物以外の何物でもなくなります。
 優しかった親戚のお兄ちゃん、お姉ちゃんの態度は一変し、蔑まされ、虐められます。

 番組に登場する目の不自由な老人(写真の男性)もその1人で、「大人が始めた戦争なのに、なぜ俺がこんなひどい目に遭うんだ・・・一生社会に反抗して生きてやる」と当時思ったそうです。
 しかしその後、疥癬でボロボロになった皮膚を撫でて同情し風呂に連れて行ってくれた大人と出会い、希望を持って生きることができるようになり、マッサージを勉強して生業(なりわい)としたという人生。

 戦争孤児が取り上げられるようになったのは、つい最近のこと。
 社会的な力がない存在はいつの時代にも後回しにされてしまいがちです。

“終戦”〜知られざる7日間(2015.8.16:NHKスペシャル)

2016年08月06日 17時55分11秒 | 戦争
番組解説
8月15日の玉音放送で終結したと思われてきた太平洋戦争。しかしその後も各地の部隊が特攻作戦を続け、米軍上陸に備えてゲリラ戦の準備も行われるなど、本土決戦への意欲を高めていた。
一方、日本進駐を進めようとしていた米軍は、日本の部隊が戦闘をやめない事態を想定。武力で日本上陸を行うことを計画していた。再び戦闘が起きれば本土が戦場となり、私たちが知る戦後と違う道を歩む可能性もあったのだ。当時、政府・軍中央の統制は弱まり、空白期間とも言える状況に陥っていた。この危機を乗り越える原動力となったのは、「終戦の詔勅」に向き合い、部下にどう行動すべきかを説いた前線の名も無き将校たちだった。
玉音放送から戦闘が停止するまでの“緊迫の7日間”を追い、今に至る戦後へと踏み出した日本人の姿を見つめる。


1945年8月15日、玉音放送で太平洋戦争は終戦を迎えました。
天皇の言葉を賜り、一般国民は納得しました。

しかし、兵士達は納得するのに時間がかかりました。
前日までは敵を殲滅するという至上命令で戦ってきた人間に、戦争が終わったから今日から武器をおきなさい、といっても頭と体がついていきません。

8月15日時点で、国外に派遣されていた日本兵士は800万人いたそうです。
まず、外地の兵士達は直接玉音放送を直接聞いておらず、「天皇がそんなことを言うなんて信じられない」状態。

かつ、戦闘状態は各地でまちまちでした。
特に中国南部に展開していた「支那派遣軍」は優位に立ち、負けを認める雰囲気は全くなかったといいます。
そこにいきなり武装解除となれば、混乱は必至、攻められていた中国軍の反撃も予想されます。

それから、日本には海上の特攻隊である「震洋隊」が組織されていました。
2×6mのボートの頭部分に火薬を詰め、敵艦船に体当たりして自爆する船が、本土決戦に備えて全国に2000隻以上配備されていました。

日本政府は鈴木貫太郎内閣が総辞職し、皇族の首相へ変わるとともに戦争最高会議を戦後処理委員会と名称を変え、終戦をソフトランディングさせるべく知恵を絞りました。
アメリカ進駐軍とのトラブルを避けるためにはゆっくりと1ヶ月をかけて終戦処理を進めたいとアメリカに提案したところ、アメリカは即刻進駐する旨を突きつけてきました。

その裏事情は、ソ連侵攻にあります。
ソ連は日本領土だった樺太を制圧し、数日以内に北海道に進出する勢いでした。
それを阻止するためには、アメリカが早期に進駐して日本を管理する必要性があったのです。

8月19日に軍部大本営から命令が下されました。
「8月22日を持って一切の戦闘行為を停止する」
戦いに明け暮れた兵士達をなだめて戦争を終わらせるには、大変なエネルギーが必要だったことがわかりました。
判断を誤れば、北海道はソ連領になっていたかもしれません(戦後も返してはくれないでしょう)。

カラーでみる太平洋戦争(2015.8.15:NHKスペシャル)

2016年08月06日 15時41分10秒 | 戦争
番組紹介
1941年12月8日の開戦から4年にわたって続いた太平洋戦争。
その間、各地の戦場での記録映像をはじめ、国内の動きを伝えるニュース、庶民が撮影した銃後の暮らしなど、膨大な映像が残されているが、その大半はモノクロである。戦後70年にあたり、NHKでは、4年間にわたる「戦争の時代」を記録した映像を国内外から収集。徹底した時代考証を行った上で、最新のデジタル技術を駆使して、映像のカラー化に挑んだ。フルカラーでよみがえった映像には、雪のアリューシャン列島での行軍から、熱帯の島々での激戦、戦時下の日常や庶民の表情、そして、終戦の日の鮮やかな青空、次の時代に向かってたくましく動き出した人々の姿など、この4年間の日本人の歩みが刻まれている。
番組は当時の人々の日記や手記に残された言葉を織り込みながら、カラー映像で太平洋戦争の4年間を振り返る。昨秋放送して大きな反響を呼んだNHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」に続く“試み”である。


今年も8月がやってきました。
71年前に日本が敗戦した月。私にとっては戦争を考える月。
昨年録画しておいた番組を1年遅れで見てみました。

白黒映像は自分と違う世界の物語のように感じますが、
カラー映像は「遠い昔じゃない、つい先日のこと」と迫ってきます。

戦争に関する情報提供や教育を避ける傾向のある日本では、50歳を過ぎた私の世代でも知識が不十分です。
この番組を見て、今まで知らなかったことがいくつも出てきました。

たとえば、アリューシャン列島のアッツ島での戦闘
雪と氷の世界の中、食料補充が不十分で疲弊していく兵士たち、ついにはアメリカ軍との戦闘の末、全滅します。

ガダルカナル島は「餓死島」をもじって「ガ島」と呼ばれ、玉砕して撤退したことを国内ニュースでは「転進」という言葉でごまかします。

神風特攻隊は、戦艦武蔵の沈んだフィリピンのレイテ島で始まりました。
ボロボロの機体に往路の燃料と爆弾のみを積み込み、敵戦艦に体当たりする戦法。
国のため、天皇のためと洗脳された20歳前後の若者たちが命を落としていきます。
現在ISが使用する「自爆テロ」作戦とどこが違うのでしょうか?

1945年にアメリカはサイパン島を奪取し、日本はB-29の攻撃範囲に入り、本土空襲が始まりました。
はじめは攻撃対象が軍事施設だけだったのが、徐々に無差別爆撃に変化していきます。
この戦争犯罪は、勝ち組であるアメリカ故に今でも検証されていません。
唯一、オリバー・ストーンが映像で投げかけているのみ(オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史)。

1945年7月にポツダム宣言が発表され、日本に無条件降伏を呼びかけました。
しかし、日本の中枢は受諾を躊躇しました。
その結果、8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下され、その年だけで14万人が死亡しました。

8月9日には長崎に違う種類の原爆が落とされ、7万人が死亡しました。
そして8月15日、ポツダム宣言を受け入れて日本は降伏し、終戦を迎えました。

ソ連が参戦したのは長崎に原爆が落とされたのと同じ8月9日であることを初めて知りました。
しかしソ連は8月15日を過ぎても攻撃をやめず、シベリア抑留が始まります。
そう、ソ連はずるい国です。
今後つき合っていく際に、覚えておかねばなりません。

□ 「NHKスペシャル カラーでみる太平洋戦争」(Youtube)
□ 「NHKスペシャル カラーでみる太平洋戦争 〜3年8か月・日本人の記録〜」(amazonで販売しているDVD)

「キャノン・ハーシー“ヒロシマ”への旅 ~なぜ祖父は語らなかったのか~」

2015年08月08日 16時16分34秒 | 戦争
 戦争を考える月、第4弾は原爆を落とされたヒロシマの惨状をレポートしたアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・ハーシーに関する番組です。
 彼の孫であるアーティスト、キャノン・ハーシーが祖父の足跡を辿る旅。
 前編・後編合わせて100分の大作です。

■ キャノン・ハーシー“ヒロシマ”への旅 ~なぜ祖父は語らなかったのか~
2015.8.4:NHK-BS
 アメリカで初めて原爆被害の惨状を伝えた書として知られるジョン・ハーシー記者の『ヒロシマ』。その孫・キャノンが、祖父の足跡を辿るために現代の広島を旅する。
 1946年。原爆投下後の凄惨な被害を描き、アメリカで大きな反響を呼んだ1冊の本『ヒロシマ』。しかし、著者でピュリツァー賞受賞記者のジョン・ハーシーは、その後、『ヒロシマ』について沈黙してしまう。孫・キャノンは、祖父がどのような思いで本を執筆したのかを知るため調査を開始し、これまで知られていなかった発表当時の状況が次々と明らかに。そしてキャノンは広島で会う人々を通して、今の“ヒロシマ”を見つめる。

 原題:Hiroshima Revealed
 制作:国際共同制作 ZENGO/NHK(アメリカ/日本 2015年)


 原爆投下は、核兵器を実際に使ってみたかったトルーマン大統領、放射能を浴びた人体がどんな状態になるかを知りたい科学者達の思惑が絡み合い実施された「実験」的要素が強いとこの番組でも感じました。
 終戦後にヒロシマに設けられた医療施設は「検査・研究」目的であり、治療はなされませんでした。
 そして、そこで得られたデータは軍事機密として隠蔽されたのでした。

 アメリカでは大戦勝利の歓喜と共に核兵器を賞賛する声が溢れ、「日本の降伏がもう少し遅れれば3つめの原爆を落とせたのに」という声まであったそうです。
 そこに水を差す形で発表されたのがジョン・ハーシーによる6人の被爆者のインタビュー記録「ヒロシマ」。
 雑誌「ニューヨーカー」が秘密裏に発行にこぎ着けた内部告発的内容でした。

 その凄惨な状況を知ったアメリカ人は「なんて恐ろしい兵器を使ってしまったんだ」と我に返りました。
 当然、アメリカ政府は反論します。
 「アメリカ軍が上陸して地上戦になったら100万人の死者が出たはず、原爆はそれを20万人弱で済ませた優秀な兵器」という論法です。
 今でもこの考え方に毒されたアメリカ人がたくさんいますね。

 被爆者は被害者ですが、さらに日本国民からも差別を受けます。
 女性は「異常な子どもが生まれるから」と結婚できません。
 ですから、みな口をつぐんでしまいます。

 公害問題でも同じ現象が観察されます。
 有機水銀による公害の被害者なのに、「あいつはミナだ」と差別されました。
 悲しい人間の性です。

 ジョン・ハーシーも「ヒロシマ」発表以後、口を閉ざしました。
 孫であるキャノンの印象は「被爆者と同化してしまったから」というものでした。

 番組の中で繰り返してできた単語「記憶」。
 記憶を伝えることにより未来が開かれる。
 原爆の悲惨な被害の記憶を伝えなければならない。
 伝えることにより同じ過ちを繰り返さないように。

 これは、オリバー・ストーン監督が「もう一つのアメリカ史」で「記録」として言及したことと同じです。
 そういえば、本番組にもストーン監督の朋友であるカズニック教授が登場していましたね。


「戦争に勝ち 平時に負けた政治家、チャーチル」

2015年08月07日 08時09分35秒 | 戦争
 チャーチルは政治家として有名ですが、私には彼が愛した嗜好品の数々に興味あり、どちらかというとヘミングウェイや開高健のような存在です。
 一方、地元イギリスでは、現在でもチャーチルの政治家としての評価は分かれているそうです。
 その様子をNHK-BSのドキュメンタリーで扱っていました;
 
■ チャーチル 戦争に勝ち 平時に負けた
2015年8月6日:NHK
 20世紀の偉大な政治家の一人と称されるウィンストン・チャーチル元首相。彼がナチスドイツに勝利した直後の選挙で敗北を喫したのは何故だったのか、その理由を探る。
 チャーチルは1945年の総選挙で大敗。福祉国家の充実を掲げた労働党のアトリーが首相の座についた。戦争に勝利した宰相はなぜ、平和を取り戻した国民に疎んじられたのか。上流階級出身のチャーチルは労働者の権利を認めず、戦前から組合との確執が続いていた。「戦争がなければチャーチルは平凡な政治家で終わっていた」という歴史家もいる。総選挙前後のチャーチルの言動を読み解き、知られざるチャーチル像に光を当てる。

 原題:Churchill: Winning the War, Losing the Peace
 制作:Oxford Film and Television (イギリス 2015年)


 チャーチルを評価する歴史家、評価しない歴史家、中立の評論家たちが次々とコメントを述べていく構成なので、聞いている方はちょっと混乱します。
 無理にまとめれば、チャーチルは戦争時に力を発揮した政治家であるが、平和時には時代遅れの考えのため役に立たなかった、という論調です。
 それは貴族階級出身という出自も影響し、労働者の気持ちを理解できなかったことが大きいようです。

 ポツダム会談でスターリンとトルーマンと3人で写真に納まった時、チャーチルは総選挙の結果待ちの状態でした。当選を疑わなかった彼は「また会おう」と軽く挨拶を交わして各国首脳と別れましたが、イギリスに帰ると保守党大敗という現実が待っており、その後歴史の表舞台から消えたのでした。

 確かに、政治家の適材適所、あるいはタイミングというのは歴史上あるようですね。
 ソビエト連邦崩壊にゴルバチョフは尽力しましたが、新しいロシアを造る能力はなく、エリツィンに取って代わられた経緯を思い出します。

 それにしても、ポツダム会談に集まった3首脳(トルーマン、スターリン、チャーチル)は戦争だから力を発揮できた指導者という感が無きにしも非ず。
 みんな変人です。

カラーで見る「独裁者スターリン」

2015年08月06日 13時15分21秒 | 戦争
 戦争を考える月の第三弾は、ロシアの共産党書記長スターリン。
 NHKの「世界のドキュメンタリー」で放映された番組は、その光と闇をあぶり出す内容でした。

■ カラーで見る 独裁者スターリン
(2015年5月12日:NHK-BS)
 第二次世界大戦で、ナチス・ドイツを倒した立役者とされるソビエトの最高指導者スターリン。自らも非道な独裁者であったスターリンの実像が、カラー映像でよみがえる。
 スターリンはいかにして絶大な権力を手にしたのか。どのようにナチス・ドイツと対峙し、ソビエトを勝利に導いたのか。ヨーロッパ各地で掘り起こされた歴史映像によって独裁者の軌跡がよみがえる。貧しい靴職人の家に生まれたスターリンは、若くしてロシア革命に参加した。革命の指導者レーニンが1924年に死去すると、対立するトロツキーを追放。以後、自分に反対する者をことごとく粛清していく…。


 さて、番組を見て私が感じた光と闇を列挙してみます;

☆ 光
・第二次世界大戦でドイツに勝利した。

★ 闇
・レーニンの葬儀の時に棺桶を運んだ共産党幹部はその後権力争いのライバルと化し、全員殺した。
・粛正という名目で、100万人のロシア国民を処刑した。700万人のロシア国民を餓死させた。合計2000万人の自国民を殺した。
・1930年代に飢餓であえぐウクライナから農民がモスクワに来ることを禁止する法律を作り、切り捨てた。
・1930年代以前に強制労働収容所を作り、各地域に「おまえの担当地域はひと月に○○○人」とノルマを課して犯罪人をでっち上げて収容所送りにした(この頃から妄想癖があったらしい)。ドイツに勝利した後は、収容所送りになった人々のほとんどがユダヤ人だった。



 ・・・というわけで、人を殺すことを趣味にしていたのです。ヒトラーに勝るとも劣らない最悪の独裁者と言うほかありません。
 彼の「邪魔者は犯罪者にでっち上げて消す」とか「政策がうまく行かない時は誰かが邪魔していると言い訳して逃げる」などの政治手法を、現在のロシア大統領であるプーチンがまねしていますね。
 スターリンの右腕として働いてくれた腹心が気に入らなくなり抹殺したとき、彼の写っている写真まで修正して抹消したところなんか、北朝鮮の手法と同じです(というか北朝鮮が真似をした)。

 第二次世界大戦が終了したにもかかわらず、満州にいた日本兵をシベリアに年余にわたって抑留するという非常識さは間違いなく犯罪行為ですが、自国民であるロシア国民の方がもっとつらい思いをしていたことを知りました。
 この繰り返されるえげつないやり方はロシア民族の特徴なのでしょうか、それとも共産主義の特徴なのでしょうか。

「赤い屍体」と「黒い屍体」

2015年08月06日 05時28分17秒 | 戦争
 私的「戦争を考える月間」の第2弾。
 NHKで放映された“知の巨人”と呼ばれる立花隆さんの戦争論です。

■ 立花隆 次世代へのメッセージ ~わが原点の広島・長崎から~
(2015年2月14日:NHKで放映) 
 日本を代表するジャーナリストで評論家の立花隆さん(74歳)。実は、立花さんは原爆と深い関わりがあります。1940年、原爆投下の5年前に長崎で生まれ、20歳のときに被爆者の映画や写真を携えて半年間ヨーロッパを回り核兵器の廃絶を訴えました。
 知の巨人と呼ばれ、これまで100冊以上の著作を世に問うてきた立花さんですが、原爆の問題を本格的に取り上げたことはありません。しかし、ガンや糖尿病など多くの病気を抱え、死を意識した今、核廃絶を夢見たあの若き日を振り返り、未来に何かを残したいと考えるようになりました。
 さらに戦後70年を迎えた広島と長崎では、被爆者が次々と亡くなる中、被爆体験の記憶をどのように受け継いでいくのかという深刻な問題に直面しています。「被爆者なき時代」にどのように核廃絶の道を探るのか。立花さんは去年夏から、被爆地、広島・長崎を精力的に訪ねながら核廃絶の問題への思索を深めていきました。ヨーロッパで学生時代に大きな刺激を受けたカナダ人社会活動家との半世紀ぶりの再会。そしてことし1月、長崎大学で30人の学生を前に行った核廃絶についての初めての特別授業。立花さんは次世代を担う若者たちにどのようなメッセージを送ったのか。
みずからの原点に立ち返り未来を考えた半年間の密着の記録です。


 立花氏は50年前、東京大学在学中から反核運動に参加して世界中を奔走したものの手応えがなく、一時離れていました。
 しかし残り少ない人生を自覚した今、再度取り組み始めています。

 彼の原点は、シベリア抑留を描いた画家、香月泰男(かづきやすお)の「赤い死体」という作品だそうです。
 その作品は、シベリア抑留から帰国する途上、中国を列車で移動する時に目にした、皮膚を剥がれて赤い筋肉をさらけ出したたくさんの死体を描いたものです。
 その死体はおそらく、戦争中に日本人に虐げられてきた中国人が、終戦後に恨みを晴らすべく日本人を殺戮した姿。
 「赤い死体」が目に焼き付いた香月氏は日本に帰国し、ヒロシマやナガサキでの惨状を写真で見ました。
 そこには黒こげの「黒い死体」が写っていました。

 終戦後、日本では被害者の象徴である「黒い死体」を中心に戦争が語られるようになりました。
 しかし、それはちょっと違うんじゃないか、という違和感が香月氏にありました。
 加害者の象徴である「赤い死体」の視点でも語られる必要があるのではないか?

 非人道的核兵器である原爆を投下されて敗戦を迎えた日本人は“被害者目線”で戦争を語る傾向があります。
 それは、アジア諸国に対して“加害者”として君臨した歴史から目を背けてしまうことにもなってきたと反省する立花氏。
 日本の反核運動が世界の人々に今ひとつ届きにくいのは加害者としての反省が伴わないからではないのか?

 ・・・そんな内容の番組でした。

 2013年、映画監督のオリバー・ストーン氏が「もうひとつのアメリカ史」という作品で、戦勝者としてのアメリカではなく、加害者としてのアメリカを検証することを初めて試みました。
 彼がその後のインタビューで「次は日本の番だ、日本も加害者としての戦争責任を自ら検証すべきではないのか?」とコメントしたことが耳から離れません。

 近年の中国・韓国とのすれ違いの一因はここにあるのではないか、と考えさせられる今日この頃です。

ファットマン~マッハステム

2015年08月05日 14時01分11秒 | 戦争
 毎年8月は私的には戦争を考える月。
 録画しておいた戦争関連の番組を今年も見始めました。

 まずは 2014年8月18日に放映されたNHKスペシャル;

■ 「知られざる衝撃波~長崎原爆・マッハステムの脅威~
 1945年、長崎に投下された原子爆弾。被爆直後の死者のおよそ半数は、爆風が原因と見られているが、詳しいことはわかっていない。2013年、爆風による破壊を解明する手がかりが見つかった。爆心地から遠ざかるほど爆風が威力を増す「マッハステム」という現象を捉えた一枚の地図。取材を進めるとアメリカがマッハステムの破壊力を事前に計算し、意図的に利用したことが明らかになった。長崎を襲った衝撃波マッハステムの脅威に迫る。

 「ファットマン」とは1945年8月9日に長崎に落とされたプルトニウム型原子爆弾の名前です。
 ファットマンの爆弾としての特徴は、放射線や熱線よりも爆風による衝撃波の威力が強いことでした。
 投下された年に死亡した7万人のうち約半数が爆風死だったそうです。

 ファットマンは地上503mの高さで爆発しました。いや、正確には“させました”と言い換えるべきですね。
 事前の実験でその高さが一番効果的に被害を与えるという綿密な計算の結果はじき出された数字なのでした。
 
 当時のアメリカ軍は攻撃対象として民家と軍事施設を区別していませんでした。
 とにかく、町の中心地に原爆を落とし、大きな被害をもたらすことが最優先の目的でした。
 今、こんな無差別爆撃をしたら、世界中から非難囂々です。

 終戦後にアメリカの調査隊が長崎原爆の被害を詳細に調べ上げました。
 建物の被害状況から、どの部屋にどういう名前の人がいて何が原因(爆風、圧死、火傷など)で死んだのかがノートに詳しく記載されていました。

 ファットマンは“戦争を終わらせる”というより“新しいタイプの原爆の人体実験”という目的だったのですね。
 戦争という狂気(凶器)の恐ろしさを改めて思い知らされる内容でした。

「ダウン・ウィンダーズ」(風下の住人達)

2014年08月12日 16時50分39秒 | 戦争
ダウン・ウィンダーズ~アメリカ・被爆者の戦い~
NHK、2014.3.15放映



番組説明
 大国アメリカが「フクシマ・ショック」に揺れている。1月27日、米国である集会が開催された。「ダウンウィンダーズ(風下の人びと)記念集会」。福島原発事故の直後に連邦議会が制定した記念日だ。参加するのはネバダ核実験で飛散した放射性降下物(フォール・アウト)によって被ばくした米市民。フクシマ報道に接した住民たちは、被災者を自分に重ね合わせた。自分たちも政府から十分な情報を与えられないまま、被ばくしてしまったからだ。被ばくの影響と疑われる症状に苦しみながら、補償されないまま亡くなる住民も多数いる。フクシマを契機に「真実を知りたい」と声を上げる米市民の姿を追いながら、アメリカに残された「知られざる核被害」の傷あとをみつめる。


 今度はアメリカ国民の被爆者の現状を扱った番組です。
 「ダウン・ウィンダーズ」とは「風下の住人達」という意味です。
 なんとなくロマンチックな響きがある言葉ですが、さにあらず。
 「核実験の風下で被曝した住人達」が正確な意味なのです。



 アメリカはそれまで、核実験をマーシャル諸島で行ってきましたが、ソ連との開発競争に勝つために迅速に対応可能な国内のネバダ州へ変更しました。
 ネバダ州では1951年からの40年間に1000回(!?)もの核実験が行われたそうです。
 数が半端ではありませんね。

 その後、周辺の住民に健康被害が発生していることがわかり、放射線被ばく補償法(RECA, Radiation Exposure Compensation Act)が制定され、認定者には一人当たり500万円が支払われました。
 しかし、救済対象は20万人とも云われる被爆者のほんの一部。
 東日本大震災~福島原発事故後、被爆者の意識が高まるとともに救済地域の範囲を広げるべきだという意見が強くなり、RECA改正案が議会に提出されました。
 しかし「予算不足」というシンプルな理由で却下されました。

 RECA改正案を通すべく運動している住民達は「国は時間が経って我々が死ぬのを待っているようだ。歴史から抹消されようとしている。」という不安・不満を持っていました。
 「核実験は自国民を毒殺するようなもの」という重い言葉が耳に残りました。

 予想外のアメリカの現状を知り、愕然としました。
 日本の補償どころか自国民の補償さえ不十分なのです。

 冷戦を勝ち抜くため、アメリカという国を維持するために自国民さえ犠牲にしてきた歴史。
 これをどう評価すべきなのか?
 善なのか、悪なのか?
 私には答えが見つかりません。

 気になったのが、日本のビキニ環礁での被曝以上に「調査がなされていない、あるいは隠蔽されている」事実。
 あのアメリカという訴訟社会で、健康被害を訴える根拠がないと嘆いている住民の姿が意外でした。
 もっとしたたかな人達だと思っていたのに。

<参考>
日米におけるヒバクシャ研究の現状と課題(竹本 恵美)

 一般的に「ヒバク」は、放射線を浴びることを指す。原爆の炸裂による被害や被害者を指す場合は「被爆/被爆者」、放射線による被害や被害者を指す場合 は「被曝/被曝者」、その両者を指す場合は「 ヒバク/ヒバクシャ」と表記する。原子力燃料はエネルギーを生み出す際に、必ず放射能を持つ核分裂生成物を放出し、原子力利用は必ずヒバクとヒバクシャを伴う。原子力の軍事利用と平和利用といった区分は原子力利権者側にとっての違いであり、被害を受ける側から見れば、ヒバク源が何であれ、その恐ろしさや被害には大差がないと考える。

 放射線物理学者のアーネスト・J.スターングラスは、1978年に原発周辺住民が原子力規制委員会と政府を相手に起こした訴訟で原告側の証人として、数多くの疫学調査結果を提示した。スターングラスは、原子炉がある州で低体重乳幼児率と乳幼児死亡率が高いことを示し、ネバダ核実験の死の灰による影響で、米国で約100万人の乳幼児が死亡したと結論づけた。X線と低レベル放射線の影響に関し、米最高の権威と見なされるラッセル・モーガンは、スターングラスの論文を賞賛した。元ローレンス・リバモア核兵器研究所研究員であり地質学者のローレン・モレは、低体重乳幼児の身体・精神・知的問題を研究している。米大学進学適性試験(SAT)の点数を調査し、平均点とネバダ核実験の規模との相関関係を明らかにし、平均点下降の原因は核実験が放出した放射能の影響を胎児時に受けたことと結論づけた。また、カリフォルニア州で自閉症が核実験開始に合わせて出始め、チェルノブイリ事故や原発の発電量の増加に従って上昇していることを明らかにした。スターングラスとモレは共同研究を行ない、7~8歳の子供から取れた乳歯に含まれる放射性物質のストロンチウム90の含有量を調査し、がんを患う子供は健康な子供の2倍のストロンチウム90を有していることを明らかにし、原発の日常運転も核実験と同様に悪影響を及ぼしていることを指摘した。他にもスターングラスは、放射性物質による人体への影響調査研究を広範囲に行い、ヒバクによって糖尿病発症率や、乳がん、肺がん、白血病などによる死亡率が高まることを示し、1950~99年の間に米国で約1,930万人が死亡したと結論づけた。調査結果は米国議会でも発表され、それをきっかけとして部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結された。統計学者のJ.M.グ ールド博士は、全米3,053郡の40年間の乳がん死亡者数を分析し、増加した1,319郡が原子炉から100マイル(約160km)以内に位置し、乳がん死亡者の死因に原子炉が 関係していることを指摘した。これらの研究により、原子力利用は事故がなくても、人類と環境に取り返しのつかない害を与えていることが明らかになったと言える。

 欧州放射線リスク委員会(ECRR)は2003年、公衆の被曝合計最大許容線量を0.1ミリシーベルト、原発労働者の場合は5ミリシーベルト以下にするよう勧告した。しかし日本は、職業上放射線を浴びる人の被曝量を年間50ミリシーベルトまで、公衆の被曝量を年間1ミリシーベルトまでと規定し、従来の規定を変えようとしない。原発労働による被曝が原因で死亡した労働者の被曝量は、ほとんどの場合が規定値以下であった。50ミリシーベルトとの規定値は、人を殺す可能性のある値であり、この規則は労働者の命を守るためではなく、産業利益を守るため、危険性の高い被曝を労働者に強いるためにあると言える。

 柏崎刈羽原発が中越沖地震によって事故を起こした際、CNNは日本で相次ぐ原発事故と事故隠しに対し,「政府と東京電力による悪質な隠蔽工作であり、隠蔽体質がなくならない限り、日本の放射能事故はなくならない」と批判 した。BBCは「世界に核廃止を訴えるべき被爆国日本が、狭い国土に原発を林立させ、自国が落とされた原爆何万発分にも相当する原子炉の危機管理ができず、原発周辺に住民が住んでいることは異常であり、それは政府が情報を隠蔽し続けてきたことの結果である」と批判した。

「水爆実験 60年目の真実」

2014年08月12日 07時32分34秒 | 戦争
「水爆実験 60年目の真実~ヒロシマが迫る“埋もれた被曝”~」
2014.8.6 NHKスペシャル



番組紹介
 1954年、太平洋ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験。その当時、周辺ではのべ1000隻近くの日本のマグロ漁船が操業し、多くの漁船員が放射性物質を含む「死の灰」を浴びた。しかし、それ以降の研究者やメディアなどの追及にもかかわらず、第5福竜丸以外の漁船員たちの大量被ばくは認められてこなかった。
 あれから60年、「なかったとされてきた被ばく」が科学調査や新資料から、明らかにされようとしている。立ち上がったのは、広島の研究者たちだ。長年、がんなどの病気と放射線被ばくとの因果関係が認められない原爆被爆者らを支援する中で編み出された科学的手法を用い、ビキニの漁船員の歯や血液を解析。「被ばくの痕跡」を探し出そうとしている。
 東西冷戦の大きなうねりの中で、埋もれてきたビキニの被ばく者たち。被爆の苦しみに向き合ってきたヒロシマが共に手を携え、明らかにしようとする「真実」を、克明に記録していく。


 “核”に関する番組を見る度に暗澹たる気持ちにさせられます。
 このNHKスペシャルもしかり。

 ビキニ環礁における水爆実験で、付近で漁業を営んでいた第五福竜丸が被曝したことは歴史的に有名です。
 しかし、第五福竜丸ほど近くではありませんが、周囲で操業していたマグロ漁船は約100隻にのぼり、無視できない被曝と健康被害があったことが証明されたという内容。
 
 アメリカの水爆実験は2ヶ月半の間に6回行われたことをはじめて知りました。
 一回一回に台風のように名前まで付けるご丁寧さ。
 水爆1つはヒロシマに落とされた原爆の1000倍の破壊力があります。

 当時水爆実験場所から1300km離れた位置で操業していた第二幸成丸の乗組員だった老人の話;
「あるとき黒い雪のようなものが降ってきて甲板に1-2cm積もった。それが“死の灰”であることを後で知った。」
「水爆実験による被曝を疑いつつも、小さな漁村では水爆に関する話題はタブーだった。それがわかってしまうと漁ができなくなる、するとこの漁村は生きていけない。」
「そのうち漁師仲間が若くしてたくさん死んでいった。心の中で被曝による病気と感じつつも、誰も口にできなかった。」
 ・・・悲しい裏事情です。

 過去の被曝を評価・測定する方法をヒロシマの原爆関連研究者が確立しています。
 歯のエナメル質は代謝されないので正確ですが入手しにくい。
 血液は入手しやすいが正確性に劣るそうです。

 ビキニ環礁から1300km離れた場所で操業していた第五明賀丸の乗組員の歯が検査されました。
 すると、319mSv という測定結果が得られました。
 国際基準の許容範囲は100mSv以下ですから、異常高値と判定されます。
 ヒロシマ原爆に例えると「爆心地から1.6kmで受ける放射線量と同じ」という驚異的な数字だそうです。
 爆心地から1.6kmの被爆者は、被曝健康手帳が交付され、医療費が全額免除されるレベル。

 血液検査では染色体が調べられました。
 ビキニ環礁から1300km以内の乗組員18人中13人が高い染色体異常率を示しました。
 計算によると、18人中8人が100mSv以上の放射線を被曝したことになるそうです。

 日本政府は前項で記したように第五福竜丸の調査をしましたが途中で打ち切りました。
 その他の漁船乗組員の調査も行ったものの異常が検出されるとそれも打ち切り、こちらは公表さえされずに闇に消えました。
 おそらくアメリカの圧力があったのでしょう。
 密かにアメリカには測定データが報告され、一方日本では“なかったことに”と封印されたのでした。

 第五福竜丸による被曝が問題になり、反米・反核運動が盛んになった1950年代後半の日本。
 当時のアメリカの文書が開示されました;
「日本における“放射能パニック”が共産主義勢力にアジアで勢力を伸ばすチャンスを与えており危険である」
「対策として“核の平和利用”をアピールすべきである」(アイゼンハワー)
「日本で原子力の活用を推進することは、被害を最小限にするもっとも効果的な方法である」

 なんてことでしょう!

 アメリカは冷戦相手のソ連との水爆開発競争で頭の中がいっぱいで、日本人の被爆など目に入らなかった様子が見て取れます。
 さらにアメリカは、ヒロシマ/ナガサキ原爆+第五福竜丸の被曝による日本の反核感情を、“核の平和利用”を推進することにより抑え込もうと画策したのです。

 つまり“毒をもって毒を制す”という構図。
 そのしたたかさに日本はイヌのように従い、今日に至りました。
 “核”に関するマイナスデータは、原発も含めて“隠蔽”する体質ができあがったのでした。

 まあ、日本政府だけを責めることはできません。
 戦争に負けると云うことはこういう事なのでしょう。
 もし水爆実験をアメリカが停止してその開発でソ連が優位になり、アジアに勢力を伸ばして共産主義国家が乱立したら、今の日本はなかったかもしれないのですから。

 当時被曝した漁船員が厚労省相手に調査と補償を求める映像で番組は終わりました。
 しかし、この手の番組でいつも釈然としない感覚が残ります。

 水爆実験をしたのはアメリカ。
 誰が考えても諸悪の根源はアメリカ。
 日本政府に責任を求めるのは、黒幕に手をつけず中間管理職や請負業者を訴えるようなもの。

 「原爆による被曝」
 「水爆実験による被曝」
 これらに対して国際裁判所にアメリカを訴えるのが筋ではないでしょうか。

 「大国の論理」を振りかざして相手にされないことは目に見えていますが・・・。

「ビキニ事件と俊鶻丸」

2014年08月09日 17時07分54秒 | 戦争
海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸
NHK Eテレ(2013年9月28日放送、2014年2月1日再放送)。



<番組紹介>
 1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸が被ばくしました。被害は水産物にも及び、日本各地の港では放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされます。しかし、核実験を行ったアメリカは、放射性物質は海水で薄まるためすぐに無害になる、と主張しました。
 このとき、日本独自に海の放射能汚染の実態を解明しようという一大プロジェクトが始動します。水産庁が呼びかけて、海洋や大気、放射線の分野で活躍する第一線の専門家が結集、「顧問団」と呼ばれる科学者たちのチームが作られました。
 そして水爆実験から2か月後、顧問団が選んだ若き科学者22人を乗せた調査船・俊鶻丸がビキニの実験場に向けて出発します。2か月に渡る調査の結果、海の放射能汚染はそう簡単には薄まらないこと、放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることが世界で初めて明らかになりました。
 俊鶻丸「顧問団」の中心的な存在だった気象研究所の三宅泰雄さんは、その後も大気や海洋の放射能汚染の調査・研究を続けます。原子力発電所が次々と作られていく中で、三宅さんをはじめとする科学者たちは、大きな原発事故にも対応できる環境放射能の横断的な研究体制を作るべきだと声を上げます。
 しかし、それは実現しないまま、2011年3月11日、福島第一原発の事故により、再び放射性物質で海が汚染されました。
 ビキニ事件当時、日本の科学者たちが行った調査から、今私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。俊鶻丸に乗り込んだ科学者の証言や、調査を記録した映像などから描きます。


 水爆実験による放射能海洋汚染は、俊鶻丸の調査により、予想より停滞し、かつ潮流に沿って回旋を続ける事が明らかになりました。
 しかしアメリカはこれを隠そうとし、日本に圧力をかけて経時的調査をやめさせたことは象徴的であり、衝撃を受けました。

 人間が殺し合う「戦争」を生き抜くために開発された原子爆弾・水素爆弾。
 この開発にブレーキをかける放射能汚染データはアメリカ幹部にとっては存在してはならない情報なのです。
 人間の本能の暴走と申しましょうか。

 同じ事が日本の3.11の原爆事故にも言えると思います。
 世界の中で“経済活動”という名の戦争を勝ち抜くためには原子力エネルギーが必須と考える日本政府。
 それにブレーキをかけるようなデータは存在してはならぬのです。

 ビキニ事件の際は批判対象がアメリカだったので、日本の科学者の叡智を集めた「顧問団」が組織され貴重な報告書が残されました。
 しかし3.11では、そのような総合的な調査団は組織されませんでした。
 なぜって、日本の原発推進政策にブレーキをかけるデータを出す調査団を、日本政府が許すはずはないのです。

 顧問団のような組織が作られなかったことを「残念」「おかしい」と発言した岡野眞治氏。
 どこかで見たご老人と思いきや、3.11後の放射線測定でも活躍した方でした。

 その姿勢は現在も続いていると感じます。
 つい先日、福島原発の第3号機も事故後早期にメルトダウンしていたことが明らかにされました。
 ほとぼりが冷めてから、こそっと小出しに情報提供する“ずるがしこさ”を感じざるを得ません。

 学生時代に「大脳半球は人間の本能を抑制する機能を持ち、これが人間の本質である」と習いました。
 そう、動物と人間の違いは“抑制”して自ら律することができるかどうか、ということ。
 本能のままに生きていている友人を冗談交じりに「大脳の抑制が取れている」とからかうことが流行ったことを記憶しています。

 今の世界を見渡すと、人間は憎しみ合い、殺し合っています。
 昔の自分が「大脳の抑制が取れてるよ~」とつぶやいています。

 日本人の叡智は、日本の暴走を止めることができるのでしょうか。

「足尾から来た女」

2014年07月11日 05時52分56秒 | 戦争
NHK土曜ドラマで2014年1月18/25に放映されました。

作:池端俊策
音楽:千住明
視聴率:前編10.4%、後編9.0%
出演:尾野真千子(サチ)鈴木保奈美,北村有起哉,岡田義徳,松重豊,藤村志保、柄本明(田中正造)原沙知絵(与謝野晶子)渡辺大(石川啄木) 國村隼(原敬)



概要
 明治末。栃木県谷中村は足尾銅山の鉱毒で田畑を汚染された。田中正造の闘いもむなしく、村は16戸にまで激減。国は住人に村を捨てるように命じ、残った家の強制執行に踏み切った。
 この谷中村の娘が田中正造の仲介で社会運動家・福田英子宅に家政婦として派遣された史実をもとに、一人の女性が見知らぬ東京の地で石川三四郎や幸徳秋水ら社会主義者たち、さらに石川啄木や与謝野晶子など多彩な人物と交わる中で成長する姿を描く。
 故郷を失う苦しみを味わいつつ人間としての尊厳を守り、たくましく生き抜くヒロインを、NHKドラマでは連続テレビ小説「カーネーション」以来の単独主演となる尾野真千子が演じる。



ストーリー
 谷中村に住む貧しい農家の娘・新田サチ(尾野真千子)は、兄の信吉(岡田義徳)の仲介で「東京に出て雑誌『世界婦人』を主宰する福田英子(鈴木保奈美)の家政婦をしてくれないか」と正造先生(柄本明)に頼まれる。時は明治39年、政府は足尾銅山の操業を守るため、渡良瀬川下流の谷中村を池にし、鉱毒をそこに沈殿させようとしていた。東京に向かうサチには、国の監視役・日下部錠太郎(松重豊)が同行し、正造と福田家に集まる知識人をスパイさせようと言葉巧みに命じる。
 住み込み先の福田家には、美貌の女主人・福田英子と年下の恋人・石川三四郎(北村有起哉)を中心に、幸徳秋水、大杉栄など時代を代表する社会主義者たちが出入りしていた。明治40年2月。足尾銅山の賃上げ闘争を支援する社会主義者達の言論活動は警察の弾圧に繋がり、石川三四郎も投獄されてしまう。三四郎の逮捕に罪の意識を感じたサチは福田家を飛び出すが、戻り着いた故郷で目にしたのは国の強制執行で打ち壊される自分の家だった。しかも強制執行の中心にいたのは、兄の信吉だった・・。


 小野真千子演じる新田サチは足尾ではなく栃木県谷中村出身ですから、正確には「谷中から来た女」ですよね。
 私も栃木県人で、渡良瀬川の辺の住人です。
 足尾に関してはいろいろな情報が入ってきます。
 子どもを連れて足尾へ行ったこともあります。
 今回も興味を持って視聴しました。

 田中正造の筋の通ったポリシーが素晴らしい。
 当時、日露戦争の勝利に沸く日本では、都市の発展を優先する政治がまかり通っていました。
 田舎の村は、日本の発展のためには犠牲になっても仕方ないという風潮。
 しかし正造は「都市は街からできた、街は村からできた、村を大切にしない政治はいずれ滅びる」と宣います。
 現在でも通用する概念だと思いました。

 サチの兄、信吉の独白も当時の日本が抱えていた矛盾をあぶり出します;
 「自分の田んぼを、村を大切にしたいのは当たり前だ、しかし戦争に行って命を助けられたのはこの銅でできた弾丸だ、足尾銅山で作られた弾丸だ。」
 足尾銅山がなかったら、戦争に負けて国がなくなっていたかもしれない・・・。

 日本がどんな国を目指すべきなのか、そこがぶれると何も決められないと感じました。
 今の日本のように。

 演技では田中正造を演じる柄本明、福田英子の母を演じる藤村志保、国の監視役・日下部錠太郎を演じる松重豊が秀逸でした。
 石川啄木が出てきたのは意外な展開でした。史実なのかな?


「はだしのゲンは終わらない」

2013年01月23日 14時16分51秒 | 戦争
 2012年12月28日に放送された、NHK・BSプレミアム「はだしのゲンは終わらない 幻の続編からのメッセージ」
 原作者の中澤啓治さんの晩年をカメラで追ったドキュメンタリーです。
 制作・放送されたのは約3年前で、幾度となく再放送されてきました。

~番組紹介~
 広島の原爆資料館に、14枚の漫画の原画が寄贈された。それは、世界に原爆を伝えた「はだしのゲン」の続編だった。この続編は作者の中沢啓治さんが「訴えなければならないテーマがある」と語ってきたものだった。しかし中沢さんは、描きかけにも関わらず、資料館に寄贈した。続編はなぜ発表されなかったのか。そして、そこに込められるはずだったメッセージとは。中沢啓治さんが訴えようとした「ゲンの真実」に迫る。


 世間で知られている第一部では「戦争・原爆の悲惨さ」を扱った内容でした。
 未完の第二部では「被爆者への差別」を扱う予定でしたが、病のため筆を折らざるを得なかった経緯が番組で描かれていました。
 残念です。

 中澤さんは毎年開催される広島での原爆記念式典に自ら参加したことは一度もないそうです。
 「安らかに眠ってくださいという気持ちにはまだなれない、ひどい目にあったのだから怒れ!世界中に知らせるんだ!と云う気持ちの方が強い」と生々しいコメントを残しました。

 潜行し広がる被爆者への差別を扱った作品には「夕凪の街 桜の国」があります。

ドキュメンタリー「日本人の忘れ物」(BSフジ)

2013年01月17日 09時43分08秒 | 戦争
 録画しておいたものを視聴しました;

~番組解説より~
日本人の忘れもの』(制作:サガテレビ)
<2011年5月31日放送>
 戦後60年以上経った。豊かで平和な日本に生きる。一方で、沖縄などかつての戦地には、まだ多くの遺骨が残されたままになっている。戦没者の遺品もその多くが遺族のもとにたどり着かずさまよっているのが現状だ。戦没者の遺骨や遺品の返還をしている佐賀県のNPO法人の活動を通して、戦後日本が忘れてきたものを今一度見つめ直したい。
※ 第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品


 戦争を知らない世代の私には、「沖縄」というと観光地、リゾート地というイメージが先行します。
 しかし現在でも沖縄県では戦闘のあった場所を掘ると遺骨が出てくることを知り、番組のはじめから驚かされました。

 なんてことでしょう。

 番組の主役である塩川氏はボランティアで遺骨発掘を続けてきた方。
 彼自身の父親も、彼と一度も対面することもなく戦地に散っていった1人なのでした。
 ある時、戦地から妻と子ども宛に出したハガキがアメリカ兵から提供され、それを届けようと前橋の地をさまよう彼の姿、そして遺族に渡して安堵する姿に涙が流れました。

 遺品があっても遺族にわたりにくい理由に「国と地方自治体が別々に人名録を管理している」二重構造があるそうです。
 それを戦後65年放置してきた日本とはどういう国なのか。

 昨年の中国で起きた列車事故の車両を埋めようとして中国政府に批判が集中しましたが、日本人にその資格があるのか、自問自答が必要であると感じました。

<解説の全文>

 戦後、日本は目覚ましい経済成長をとげ、“豊かさ”と“平和”を手にした。一方で、沖縄などかつての戦地には、まだ多くの遺骨が残されたままになっている。第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『日本人の忘れもの』(制作:サガテレビ)では戦没者の遺骨や遺品の返還をしている佐賀県のNPO法人の活動を通して、戦後日本が忘れてきたものを今一度見つめ直す。
 2011年1月、全国から40人が沖縄にやってきた。戦没者の遺骨や遺品を遺族に返す活動をしている佐賀県みやき町のNPO法人「戦没者追悼と平和の会」が毎年呼びかけている「沖縄戦戦没者遺体収容の旅」の参加者。その多くは戦争を知らない若者たち。遺骨を収容するのは那覇市から車で30分、住宅街に程近い雑木林。斜面に設けられた陣地壕と呼ばれる穴からは、次々と戦没者の遺骨が見つかる。そばからは手りゅう弾や小銃弾、砲弾の破片など、かつてここが戦地だったことを物語るものも。この日、43柱の遺骨が見つかった。参加した若者たちはかつて戦地だった沖縄の今と向き合い何を感じたのだろうか。沖縄では今でも年間100柱前後の遺骨が見つかるという。その7割以上はこうしたボランティアの手によるものだ。戦後65年余り経った今でも沖縄を含む海外などの戦地には元日本兵の遺骨114万柱が眠っている。最近はDNA鑑定の技術が進み、遺骨の遺族が判明するケースもあるが、2009年度は収容された遺骨数のわずか1%にも満たないのが現状だ。
 塩川正隆さん66歳。旅を主催した戦没者追悼と平和の会の代表理事を務める。塩川さんが遺品などの返還活動を始めたのは34年前。きっかけは、沖縄戦でなくなった父親が所属する部隊がいたという壕の跡を訪れたこと。壕の中には遺骨や遺品が散乱していたという。以来、これまでに100点あまりの遺骨や遺品を遺族の元に届けてきた。今、平和の会の倉庫には約1000点の遺品がある。平和の会はホームページで遺品を公開し、情報提供を求めているが、遺族にたどり着くのは容易なことではない。この中にあった1通のはがき。群馬県前橋市の住所が記され、家族の健康を気遣う内容がつづられている。8年前、国に該当する戦没者や遺族がいないか問い合わせたが、該当者なしとの回答があった。手がかりを求めて前橋市を訪れた塩川さん。当時とは変わってしまった町、個人の力ではそう簡単には見つかるはずもない…。あきらめかけたその時、携帯電話が鳴った。群馬県庁から「遺族判明」の知らせだった。
 塩川さんと10年来の付き合いがある那覇市の国吉勇さん72歳。50年以上前から毎日、たった一人で壕に入り戦没者の遺骨収容を続けている。これまでに収容した遺骨は2600柱にのぼる。自宅には遺骨収容の過程で見つかった戦争の資料がところ狭しと並ぶ。こうした資料の一部は沖縄県内の資料館などに寄付してきた。70歳を超えた今、活動は続けながらも、これまで集めた資料を平和学習などに活用してもらうために有償で譲りたいと考えている。
 ボランティアの手によって続いてきた遺骨の収容や遺品の返還。遺族や戦友の高齢化にともない今後、返還がますます難しくなることも予想される。“豊かさ”“平和”と引き換えに、私たちが忘れてきたもの…。これまで、サガテレビがニュースで取材してきた塩川さんの活動を中心に戦後65年余り経った今の日本を見つめる。
峰松輝文ディレクターコメント
 佐賀県のNPO法人戦没者追悼と平和の会の塩川正隆さんを初めて取材したのは2004年でした。戦没者の遺品を返すため情報提供を呼びかける記者会見でした。「万年筆を返しに千葉に行こう」、「シベリア抑留者に会いに新潟へ…」、「厚生労働省と交渉に」、「年明けは恒例の沖縄ばい」、「群馬に行ってみようか」。この1年間だけでも全国各地を飛び回りました。戦没者のはがきを返すため訪れた先で聞いてみました、「どうして34年間もこの活動を続けているのですか?」答えは「たかが、はがきだけど遺族にとっては宝物なんだ」。取材中、塩川さんはよく「こうした活動ができるのも生きているからこそ」と話します。豊かで平和な日本に生きる私たち、“生きているからこそできること”を再確認したい。