知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

“終戦”〜知られざる7日間(2015.8.16:NHKスペシャル)

2016年08月06日 17時55分11秒 | 戦争
番組解説
8月15日の玉音放送で終結したと思われてきた太平洋戦争。しかしその後も各地の部隊が特攻作戦を続け、米軍上陸に備えてゲリラ戦の準備も行われるなど、本土決戦への意欲を高めていた。
一方、日本進駐を進めようとしていた米軍は、日本の部隊が戦闘をやめない事態を想定。武力で日本上陸を行うことを計画していた。再び戦闘が起きれば本土が戦場となり、私たちが知る戦後と違う道を歩む可能性もあったのだ。当時、政府・軍中央の統制は弱まり、空白期間とも言える状況に陥っていた。この危機を乗り越える原動力となったのは、「終戦の詔勅」に向き合い、部下にどう行動すべきかを説いた前線の名も無き将校たちだった。
玉音放送から戦闘が停止するまでの“緊迫の7日間”を追い、今に至る戦後へと踏み出した日本人の姿を見つめる。


1945年8月15日、玉音放送で太平洋戦争は終戦を迎えました。
天皇の言葉を賜り、一般国民は納得しました。

しかし、兵士達は納得するのに時間がかかりました。
前日までは敵を殲滅するという至上命令で戦ってきた人間に、戦争が終わったから今日から武器をおきなさい、といっても頭と体がついていきません。

8月15日時点で、国外に派遣されていた日本兵士は800万人いたそうです。
まず、外地の兵士達は直接玉音放送を直接聞いておらず、「天皇がそんなことを言うなんて信じられない」状態。

かつ、戦闘状態は各地でまちまちでした。
特に中国南部に展開していた「支那派遣軍」は優位に立ち、負けを認める雰囲気は全くなかったといいます。
そこにいきなり武装解除となれば、混乱は必至、攻められていた中国軍の反撃も予想されます。

それから、日本には海上の特攻隊である「震洋隊」が組織されていました。
2×6mのボートの頭部分に火薬を詰め、敵艦船に体当たりして自爆する船が、本土決戦に備えて全国に2000隻以上配備されていました。

日本政府は鈴木貫太郎内閣が総辞職し、皇族の首相へ変わるとともに戦争最高会議を戦後処理委員会と名称を変え、終戦をソフトランディングさせるべく知恵を絞りました。
アメリカ進駐軍とのトラブルを避けるためにはゆっくりと1ヶ月をかけて終戦処理を進めたいとアメリカに提案したところ、アメリカは即刻進駐する旨を突きつけてきました。

その裏事情は、ソ連侵攻にあります。
ソ連は日本領土だった樺太を制圧し、数日以内に北海道に進出する勢いでした。
それを阻止するためには、アメリカが早期に進駐して日本を管理する必要性があったのです。

8月19日に軍部大本営から命令が下されました。
「8月22日を持って一切の戦闘行為を停止する」
戦いに明け暮れた兵士達をなだめて戦争を終わらせるには、大変なエネルギーが必要だったことがわかりました。
判断を誤れば、北海道はソ連領になっていたかもしれません(戦後も返してはくれないでしょう)。

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