Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

硝子の眼XII。

2006-05-28 | 物質偏愛
今日は何の日だっただろうか。

ただ阿呆のように晴れ渡り、住宅街の間を抜ける風は折々に強くなって新聞の切れ端やビニール袋を厭な音をたてて巻きあげたりして、そんな無邪気な不安定さをこれ見よがしに突きつける季節。
いや、季節なんてほんとうはいつもそんなものだ。季節はその美しさを私たちのために演じてくれるのではないし、意地悪にも私たちを不快がらせるための悪戯を仕掛けてくれるのでもない。季節はいつも不安定で、だからこそ情緒的で、そのくせとっても論理的だから腹が立つ。結局のところ私はそれに手出しができなくて、それを享受するしかなくて、だいいち私はそれに惑わされて、そんな自分に満足するようにできている。

季節というのは、その顕現というのは、だからこんなにも厄介だ。
だからというわけではないけれど、今日は私の記念日だ。
 人形になれなかった記念日だ。


彼は私に云った。
「君の肌はこんなにも柔らかくて湿っていたっけ。」

つい一瞬前まで、彼にしがみついてどこか遠く東欧あたりの夕焼け空の色を脳裡に描いていた私は、その言葉によって冷や水を浴びせられ、現実に引き戻された。
彼は私の肌、特に背中や腕のあたりを撫ぜる癖があった。私はいつも、自らの肌の上を飽きずに往復する掌の感触のお陰で、自分がそこに在ること、自分の肌とそれ以外のものとの境界を知り、安堵して眠りに落ちるのが常だった。
それなのに、彼はまるで私の境界を初めて知った人のような言葉を発した。

「知らなかったの?」

そう云おうとして、やめた。
仮に、彼がそれを知らなかったのならば、どんなにか。

「えぇ、残念ながらね。」

そう云い換えて、くるとうつ伏せに起き上がって、煙草に火を点けた。
彼は押し黙ったまま、煙を吹かす私の背中にその掌を往復させた。そのとき、彼のまなざしが何処を向いていたのかを私は知らない。

湿気た肌。熱い熱情を内に押し込んだ肌。
それを知りながら、かつてはそれを愛しながら、なにかを知ったがためにいつしかそれを拒否して、ついには忘れた。

短くなった煙草を挟んだ指先にちょこんと乗る、紅の爪紅。ちりと胸の奥が焦げるような音がしたから、私は煙草を持ったままの爪の先をきりりと噛んだ。
無闇に近付いた煙が私の顔をふわと包んで、煙の痛さに泪を流した。

紅い爪をしていたって、所詮私は泪を流すことができる。




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