Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

こんな夢をみた【5】。

2006-05-02 | 夢十六夜
 私は恐らくアフリカのどこかの国の、サファリにいた。
だけれどそこはとてもこぢんまりとしていてまるで撮影のセットのようで、本当のサファリのように広大さや恐怖を感じさせるようなものではなく、むしろうきうきとした気分を呼び起こすテーマパークに相応しかった。そもそも、サファリなのにこちらはジープやトロリーに乗ったり降りたりがそこかしこで自由にできる。そのおもちゃ加減が、うまく云えないけれど大層可愛らしくて、私はいたく満足だった。

木々の緑は嘘のような光沢をもってきらめいて、人々の衣服は太陽にも負けないくらいに色鮮やかな競演を呈していた。
私は川が好きだから、恐らく大河の支流であろう細くてぐねぐねとうねりながら森の中に隠れていってしまうような川のほとりを歩いていた。近くまではトロリーに乗っていたのだが、周囲に集落があるらしく、歩いている人の姿が至るところにあることから安全にこよなく近い状態であると判断した訳だ。

散歩をしたり、川に水を汲みにきている人々は皆女性だった。彼女たちは、私よりは格段に黒い色の肌をしていた。言葉は判らないけれど、私のような「異国のひと」を見慣れている様子で、にこにこと屈託のない笑顔と、一定以上の距離と、一定の好奇心と適度な無関心とを上手に持ち合わせていた。そのことが私の気分を更にゆったりさせた。

彼女らのうちの一人が、笑顔のままちょいちょいと私の背後を指差した。その笑顔には、その指の先にあるものが危険ではないよという意思表示もちゃんと含まれている。私はその親切を有難く思いながら、くるりと首を背後に向けた。

 そこには、思いがけないいきものの群れがいた。

それは日本で言うところの蒼鷺にそっくりな鳥だった。
しかし、体長がゆうに2メートルはあった。彼らは頭が木の枝にぶつかるのを避けるようにきょろきょろと周囲を確認し、長い首を巧みに左右に振り分けてしっとりと足音もさせずに歩いていた。彼らは列になって小川沿いを進み、列の最初から最後までに何羽いるのかは木々に隠れて判らない。私の背後10メートルに見える範囲だけでも、6、7羽は居たに違いない。

 もうひとつ、彼らは驚くべきなりをしていた。

胸のあたりから腹のあたりまで、丁度羽毛が細かくてふわふわと柔らかくて、青みがかった灰色が薄く淡くなっている緩やかな丘の部分に、鮮やかな絵が描かれているのだった。描かれている、という表現は正確でない。何故ならそれは人間が自らの都合で描いた絵ではなく、彼らが自分の意思でその身に写し撮ったものなのだから。

彼らは、こんなふうに人間の集落の近くにも平気で顔を出す。だから人間の文化を目にすることも多々ある。森の中とはまた別の、鮮やかな色や鮮やかなフォルムを目にする。鳥全般の習性としてよく云われるように、彼らも鮮やかな色やきらきらと光るものが大好きだ。ふと目にした風景や空き缶、看板、落し物。それらの中で、彼らの心をもし惹くことができたなら、彼らは眼を通じてその画像を写し撮り、自分の胸に転写することができるのだ。

そこには、ウォーホルまがいの絵もあったし、アンリ・ルソーの描くような深い森と、そこに似つかわしくないドレスの女性がいる絵もあった。一見して何か判らない現代美術風のものもあったし、車やバスといった乗り物の絵もあった。
共通することはひとつ、底抜けにカラフルであること。

灰色の身体の中心にある大きなカンヴァスに、これみよがしに下品に陳腐に描き出される人間の文化のひとかけら。
それらは選別され、抽象化され、アイコンとなり、森の住民である彼らの身を飾る。彼らは無邪気且つ得意げにそれらを見せびらかし、しゃなりしゃなりと森へ消えてゆく。