Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

初夏の風。

2006-05-06 | 物質偏愛
 桜も散り、端午の節句も過ぎた。
風は湿気を纏ってどこかしつこく絡んでくるし、木々はその溢れかえる生命感をこれ見よがしに枝葉から垂れ流し、葉の表に反射した眩しい陽光が風に揺らめいて私の瞳を刺し貫く。

爽やかな服を着た、極めて自己顕示欲の強い、ぎらぎらした暑苦しい季節。
そう、きっと、真夏よりもずっと強くしなやかで、厭らしい鞭のような笑顔を纏った季節。


 この季節の眩しさに私が目を細め、ちっと舌打ちをしたらそれが合図。私の身体と心にほんのちょっとの不慣れな引っ掻き傷ができる頃には、あるひとつの儀式に向かうための準備が整う。
それは、扇子を新調するということ。

この厄介な季節のスイッチが入って、一旦湿気やじっとりとした暑さを感じてしまったらもう扇子は手放せない。考え事をする際には右手で握った扇子を左の掌や腕、肩にぴたぴたと叩き、苛々した気分をリセットするためには扇子の要のほうを机にぱちん!と叩きつけて涼やかな音を立てたりもする。
「あれ、冬場にはどうやって考え事していたのだっけ」と晩秋の頃にはよく思う。
まるで落語の席のように、一本の扇子は私の思考と生活と仕草と一体化する。半年の間だけ、思い出したかのように。


最初に買った扇子は、藍色の紙張りで骨も藍、両面に白い筆で紫陽花が描かれたもの。
次のは翡翠色の布張りで、黒い骨にその艶やかな色がとてもよく映えた。
次は、「からす」という漆黒の紙に柿渋の骨。少し大きかったけれど、よい風情をしていた。

迷いに迷った挙句、久々に新調したのは透かし模様の入った紙で、裏張りは草色と萌黄色のちょうど中間のような色の布。澄んだ水が流れる川面に向かって瓢箪がしゅるしゅると下がる夏の情景が描かれている。いや、切り抜かれている。

骨は竹の色をそのまま残し、無駄な透かし装飾もなく、瓢箪の図像をイメージさせるに相応しいフォルムの凹凸のみで形作られる。秀逸なのは、柄の中ほどから少し要寄り、丁度きゅっと握りたくなる場所が柔らかい曲線を描いて細くなり、こちらの指を受け入れてくれる構造になっていること。閉じたまま横から眺めたとき、隙のない優雅な曲線を示している扇子は決して多くない。 


扇子は風を孕み、かたちは風を纏う。
ぴしゃっと扇子を畳んだその先をつと差し向ける。

「ねぇ、なにか私を愉しませることして頂戴。」

扇子が一本あるだけで、ふとそんなことが云いたくなる。