Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

天心先生、ご機嫌麗しゅう。

2005-08-09 | 徒然雑記
北茨城市の五浦(いづら)というところに、岡倉天心は東京美術学校と喧嘩別れしたのちほどなく日本美術院を創設した。今では、天心を偲ぶ旧跡が、その周囲の景観とともにぽつぽつと残っている。
岡倉天心は、恐らく一風変わったお人ではあっただろうけれども、九鬼隆一らとともに、彼らがいなかったら私は大学で美術史を学ぶことも、今こうして文化財に関わる研究をすることもなかったかもしれない。
という訳で、一度くらいはきちんとご挨拶をせねばと、五浦を訪れることにした。

天心が五浦に滞在していた期間はそう長くない。天心のような俗世的な気性の人間が、うら淋しい漁村の風景に染まって長く暮らすことができるはずもない。とはいえ、海水浴場から離れた断崖絶壁に打ち付けるどん、どん、という強い波の響きと崖上から海を見下ろす絶景は鄙びた風情とはかけ離れた自然の力を感じさせ、天心が徒に都を離れて隠遁ごっこをしていた訳ではないことが伺える。

茨城県天心記念五浦美術館では、普段あまりお目にかかれない天心の絵や、日本美術院の学生であった当時の横山大観下村観山菱田春草などの写生画(課題画)を見ることができる。天心の、常に酔っているような右肩下がりの個性的な字や大観の美しい線描による写生、春草の神経質な画調といかにも夭逝しそうな(失礼)字体。日本美術院関係の展示物は決して多くないが、普段の展覧会には並ばないような面白いものが見られた。

当時の日本美術院(絵画課)は、崖の際の僅かな平地に建てられた平屋であって、今は影も形もない。その跡地に立つと、実習部屋に座って絵を描いていてふっと顔を上げればその正面には広く取られた窓(あるいは障子)があり、その先がすぐ海であったことが判る。
どどんという波のしぶきの音と振動が身体に伝わるこの場所で激しい自然の脈動を聞きながら、絵のことだけに没頭していた人々がいた。

そこから更に奥に進むと、見晴らしのよい崖の際に出る。
海沿いの風は涼しくて、内地ではもう枯れてしまっている山百合が海を背にして見事に咲き誇っていた。潮の香りに鼻が慣れてしまった折に、百合の強い香りは目を覚まされるように刺激が強かった。
見事に咲いている山百合の中で、もっとも崖の際で海がよく見える一等地に咲いている一輪を手折ることにした。安全柵の向こうに咲いているため、足場をどこに取るべきか、根元から折るにはリーチが足りない・・など試行錯誤をしているうちに肌や服に花粉がついてしまって少し大変なことになった。

だけども、分骨された天心の墓に、誰も一輪の花も手向けていない中にひとつだけ花を活けるとしたなら、海の香りを一杯に吸って海の音も色もいちばん近くでよく見てきた花を活けてあげたかった。
真っ白な百合を通して、土くれの中で眠る天心の目には綺麗な夏の海が見えるに違いない。

 
 先生。ご機嫌麗しゅう。