goo blog サービス終了のお知らせ 

Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

雪の高野。

2007-02-04 | 異国憧憬
 九月以来の出張で、私はいたくご機嫌であった。
 たとえそれが、極寒の高野山であっても。

 南海高野線に揺られながら、山が深くなるとともに少しずつ明らかになる雪の気配を眺めた。乗客もまばらな列車はキイキイと神経質な音を立てつつ、山道をのんびりと登っていった。

 ケーブルカーを降りると、夏の記憶が色濃い霊場はまだ降ったばかりの美しい雪に覆われてきらきらと清められていた。
「お山に雨が降っているときは、大師さんが奥の院に居るんだよ。」
と友人の阿闍梨が教えてくれたことを思い出し、雪が降っているときにも居てくれるのだといいな、と思った。

 バスの車窓からちらと見えた波切不動の向かいの公園に建つ多宝塔は、屋根に薄い雪を纏ってひときわ女性的な風情をしていた。ジャングルジムと並んで建つこの多宝塔は無償に美しくて、子供達の遊び場にまるで当然のように溶け込んでいて、そしてなにより私の気に入りであった。

 仕事は大層スムーズに、和気藹々とした空気の中で行われた。
「今ならまだ、特急連絡のケーブルに間に合うかもしれん。車出せ!」
課長の一言で、若い社員が慌てて車を出し、まるでつむじ風のように私は見送られた。
「雪道ですから、ガードレールぶち抜かないでくださいね。」
「僕、若い頃にここ、単車でぶち抜きましたよ。左半身五箇所折れました。」
そんな年期の入った高速山道カーブの連続に、私は大人しく後部座席でごろごろと転がされているほかなかった。程なく高野山駅に着くと、車のドアを開けた途端にケーブルの発車する警笛が聞こえた。
若手社員はひとえに運転の甘さを詫びながら、役場へと戻っていった。彼は一生のうちにもう一度くらい、どこか骨折するかもしれないな、と思った。

 橋本から連絡を入れておいたら、和歌山駅には修士研究の際にお世話になった方がマイカーで乗り付けていて、改札を出てきょろきょろしている私を迎え、「骨折はもう完治したか?」と笑った。
 昨年の春、和歌山城付近で肘の骨を砕き、真っ青な顔でホテルのロビーに蹲っていた私のところに自転車を飛ばして汗だくで駆けつけてくれた人だ。彼の笑顔は本物で、私はかつて迷惑を掛けた申し訳なさと、痛みと時間の不足で有難うさえまともに伝えられなかった後悔と、再会の嬉しさとが心の中でごっちゃになって、一応は治った右手を使って「これだけ治りました。」とその首元にぎゅうとしがみつきたい気分であった。
 
 そうして、一緒に御飯を食べた。
とりとめのない話も、仕事に関する話も、同じ温度を伴っていた。修士の学生と県庁勤務の職員という関係から始まったとは到底思えないような不可思議な信頼がそこにあった。

「ごめんな。いつもはもう少し元気なんやけど。最近いまひとつでな。」
「じゃあ、携帯で今のお顔を写真撮るね。次に来たとき、元気な顔になっていたら、ちゃんと新しいのを撮って、差し替えてあげるから。」
「ええよ。その代わり、ちゃんとまた来るんやで。次のときは、俺、呑むぞ。」
握手をした手はその笑顔と同じくらいに暖かくて、私は満足した。


 帰途の新幹線は、雪のために案の定、米原あたりで足止めを食った。新大阪を過ぎて、東京から大阪に戻った友人は今どうしているのかと頭を過ぎった。
帰宅すると、その友人から、まるで半年ぶりに「一緒に撮った写真は毎日持ち歩いています。いまでも大好きです。」というメールが届いていた。



 大好きな場所に行き、大好きな人に逢った。
 大好きな場所に、大好きな人に、何度でも好きなだけ逢えることは幸せなのだ。
 




Hotel Lover (2).

2007-01-28 | 異国憧憬
 買ったばかりの不慣れな靴に初めて足を入れて、いつもの黒いキャリーをからからと転がしながら、自宅から半時ほどしかかからない距離にあるホテルへ。
 チークの床を鳴らすごとごとという踵の音が吹き抜けの天井に吸い込まれてゆく。

 部屋に入るなり、茶味がかった深い赤色の光沢あるカーテンをぴしゃりと閉め、靴を履いたままでベッドにどさりとうつ伏せに倒れこんだ。

「君にとっての『安心』って、なに。」
「もしわたしが、何らかの都合で狐の姿に変えられてしまったとしても、百匹いる狐の中からわたしを見つけ出すに違いない人が傍にいるのだとしたら、それはきっととても安心に近いことだと思うの。」
「確かに、君が狐っていうのは妙なリアリズムがあるね。」
「あら、そう?だとしたら、狐が狡猾だなんて誰が決めたのかしらね。不似合いだわ。」


 昨夜のそんなやりとりを思い出してにやりとし、うつ伏せの姿勢のままするりと小一時間ほどの眠りに落ちた。


 ホテルの室内には、キーボードを叩く音だけが乾いて響く。窓の外には、どこか近くで車が通り、遠くに飛行機が舞う音。扉の外からは、クッションフロアを通リ過ぎる誰かの急いだり緩慢だったりする足音と各国語で交わされる時折の談笑の声が聞こえる。そして扉が開いて、締まる音。そのずっしりと重く茶色な風情の振動を一瞬後に引き連れて。

 誰のものでもない小奇麗な部屋に護られて、私がどこの誰であっても等しく涼やかに提供されるサービスを享受する。そして私の身体に流れる時間と血液の音ばかりを聞いて、百に千に紛れる一匹の狐となる。
それができるのは、ここがホテルであるからだ。


 時計も要らない。
 テレビも要らない。

 今日のために持参した寝物語は、『エピクロスの肋骨』。
大きな文字のうえにひどく余白が多くて、金の横糸と紫の縦糸で包まれたこの豪奢なる一冊を開いたときの黴臭さが鼻をつく。一冊の小さな本から放たれた香りが拡散して、希薄になりながらもこの部屋を充填し尽くしたとき、それは「わたし」というものを靄で包み込むようにして、甘やかで削ぎ落とされた時空へと誘ってくれるに決まっている。

 だけれど、もし、この一匹の狐が人語を解することなど先刻承知の誰かが私を膝に乗せてそれを読み聞かせてくれるのなら、私はきっと金色の尾をゆらりとご機嫌に揺らめかせながら、怖れのない眠りに落ちることができるのだろう。



【関連記事】
Hotel Lover.

Hotel Lover.

2006-09-26 | 異国憧憬
 自分が住んだことのない土地に宿泊することは僅かなり心が躍る。
だから私は出張が好きで、ホテルという箱が好きだ。

それなりに広い空間が確保されているシティホテルも、立地重視のビジネスホテルも、価格重視のさびれた旧式ホテルも、それぞれに好きだ。ここ数日間泊まっているホテルは、東海道の駅からこよなく近く、今年オープンしたばかりの新式ビジネスホテル。部屋の狭さを補う付加価値を有するべく、二名しか立てない手狭なフロントのあるロビーは黒とダークオークで統一され、視点よりも高い位置にこれまた背の高い真っ赤なグラジオラスが活けられ、高級感を演出している。
ロビーの印象通りに狭い部屋も同じく暗い木の色で、上がりの部分はフローリングになっており、靴のかかとがカツカツ鳴るのが少し嬉しい。シャワールームとバスルームは摺りガラスの扉で個別に仕切られ、日本のホテルには何故だか必須と考えられていたバスタブがそこにはない。奥行きの狭いデスクの続きにシンクと大鏡が設置されているので、化粧をするのには嬉しいがうっかりするとPCに水をばしゃっとひっかけてしまう。そして申し訳程度に鏡の前に一輪添えられた赤いカーネーション。

ダークオークと深赤の花はよく似合うことをこのホテルは知っている。
そういえば、前回泊った折にはロビーにカサブランカが香っていた。部屋には白いカーネーションがあった。
うん、ダークオークには白も似合う。

 室内の備品へのこだわりには、口を歪めて笑ってしまう。

浅くて灰がこぼれかねない銀色の四角い灰皿。
黒くて三角形をしていて、受話器が不安定な電話機。
どちらにひねればよいのか判らずに試行錯誤の末に水を撒き散らす蛇口。
半球型をしていて受けた水を飛び散らせるシンク。
目覚ましをセットするまでに五分はかかる、操作難易度の高い時計。
背が高すぎてすぐバタリと倒れるウッドのタオル掛け。
利用機会のない緑色の飾りクッション。

見てくれのスマートさを追求する挙句、使い勝手がこよなく悪い。使用方法がわからない人もいるだろう。異国における謎の仕様と格闘することに慣れっこな私としては笑いこそすれ不快ではなく、いじっているうちに大概の使い方は判明すると知っている。たまに水かと思ったら熱湯が、お湯かと思って冷水が飛び出すこと以外は、怖れるものなどない。ベッドの床が抜けようが、家具の取っ手が外れようが、蛇口が引っこ抜けようが、電話線が切れていようが、窓がサッシごと部屋に落ちてこようが、可愛いものだ。

だってここは私の家ではなくて、ホテルなのだもの。
なにもかもが自分の自由になるとしたら、つまらない。
ちょっとだけ思い通りにいかなかったり、思いがけないことがあったり、自分の部屋で同じことが起きたらしゅんとしてしまうくらいの、何らかの破壊。そんなものがあってよいのは、そこがホテルだから。
最上級のサービスも、豪華な内装も、崩れた窓やベッドも、ほどなく消えてしまう蝋燭の炎のように不安定。不安定なものは、その一瞬を精一杯満喫するためにあるのでしょう?朝焼けも、夕立も、朝顔の花も、美味しい食事であっても。

 一輪だけの、何故だかお洒落な佇まいからは程遠い、貧乏臭いカーネーション。
 ここが自分の家ではないからこそ、その花弁に火を点けてみたくなる。


だって、ここはホテルなのだもの。



沖縄雑感。

2006-09-10 | 異国憧憬
 出張は愉しい。虚弱の私にとって身体は辛いが、それを補って余りある愉しさがある。現地を訪れるからこそ見ることのできるなにか、現地の人と触れ合うからこそ聞くことのできるなにか。出張にかこつけて、純粋にものを見る目を曇らせてはいけない。出張は、仕事であることを前提とした旅でもあると自覚できるのならそれは素敵なことだ。

 沖縄を訪れるのは初めてのこと。そこで感じたなにか瑣末なことは、きっと一週間もしたらぽろぽろと零れ落ちたり、頭の中で勝手に「元から知っていたわ」という知識に成り代わろうとするに違いない。だから今のうちに、くだらない感想の羅列を残しておく。仕事のメモに残して置けないことばかりを。


 自転車が少ない。原チャが多い。
 
 思いのほか、土地が傾斜だらけ。
 
 家の屋根の上には、断水時のための貯水タンクが完備。もう何十年も断水はきていない。
 
 野良猫を見かけなかった。
  
 タクシーが安い。

 車がのろい。

 車がのろいくせに取り締まりをやるときは一網打尽方式。

 小さい車や軽が多い。ワゴンや外車は少ない。

 那覇市内中心部にガソリンスタンドがない。なんてこった!
 
 街路樹の椰子の木には、かなり様々な種類がある。「トックリヤシモドキ」が可愛い。
 
 著名な水族館のアクリル板は、日本の技術(日プラ)製が世界的に人気。
 
 沖縄住民でも、沖縄県民でない人は顔立ちですぐわかる。

 沖縄の夜は長い。

 米軍基地の中は、「見えそうで見えない」アメリカ的チラリズム植樹が苛々を誘う。
 
 マース煮は旨い。

 イルカは微妙な味。

 海ぶどうは50グラムも食べると飽きる。

 ハブとマングースの見世物はまだ細々とやっている。

 那覇のDFSは品揃えが悪すぎる。アウトレットと大差なし。

 レーダー機は恰好いい。

 戦闘機を見たかった。

 墓がでかい。

 新聞に訃報がいっぱい載る。

 公設市場がイスラムのスークに似ている。
 

 
注)思い出したら、随時追加。





根雨雑感。

2006-03-15 | 異国憧憬
 父親の故里は、根雨というところ。
山に囲まれた狭い狭い平たいエリアに、川に沿ってほんの少しだけ家並が連なる。家の際まで山が迫り出して、よくこんなところに急行が止まるものだと思うし、それ以前によくこんなところに住んだものだと思う。
祖父は頭を二度開いているとは思えない元気さで、祖母は驚く程白髪の増えた笑顔で、かつて幼い私を迎えたのと同じような素振りで、伯備線の振り子電車に酔ってふらふらになっている私を迎えた。

根雨には、夏がよく似合う。
旧暦の新年も明けてはやひと月、既に三月も半ばだというのに、山あいのこの町ではまだ充分に冬だ。

狭い狭い町のなかを、私は子供の頃の記憶とともに、好き放題に歩き回ることができた。出雲街道の宿場の名残を残す建物が点在する間に、数年前の震災で倒壊した家のあったさら地が歯抜けになっている。すれ違いのできない単線の線路に、すれ違いのできない道路。町で一軒の本屋に、町で一軒の町医者。町で一軒の酒屋に、喫茶店に、蕎麦屋。

すべてが、ちゃんとひとつずつ、ある。
暮らしというものは、それで充分に成り立つ。

子供の頃に駆け上った権現さんへの階段は、思ったよりも長くなかった。
山の斜面に張り付く墓地は、思ったよりも手入れがなされていた。
そして、岩を飛び込み台にして飛び込んだ淵は、記憶と同じように深かった。
魚と戯れ、魚と一緒に泳ぐことのできる清く澄んだ川は、かつてと同じ水量を湛え、同じような暴力的な音色を立ててうち流れ、かつてと同じ匂いがした。

私の慣れ親しんだ川の音と匂いは、これだ。
東京に流れる川でも、駿河の大きな流れでもない、清流の匂い。
河原に座って、目を閉じる。日差しに焼かれた瞼の裏がオレンジ色の密室のようになり、そのオレンジ色の暗闇の中で、川の流れを聴く。右耳を凝らすと、低い滝から零れ落ちる水の砕ける音が、目前からは座っている私を取って喰おうとすればきっとそれは容易いことだよと笑いながら渦を巻く音が聞こえる。左耳の遠くからは、下流に流れ去る水の音がその暴虐ぶりを少し弱めて、次のからかい相手を探しにゆく。

いきものを受け容れつつ戯れに暴挙をはたらく、澄んでいるからこそどこまでも気紛れな、わたしの川。
急流に足を掬われて傷だらけになり、滝壺に絡まって出られなくなり、そんなふうに私と遊んでくれた川。いつものように誘ってくれるけれど、夏にならないと私はそこに再び足を踏み入れることができない。

川から引いた水が町の中に張り巡らされ、全ての家々の前の水路をこれまた強烈な勢いで流れてゆく。屋根から下がる美しい凶器のようなつららを月にかざし、それがより一層切っ先を細らせながら私の手を凍らせてゆくものだから、私はそれを水路に投げ入れる。透明な剣は、その狂気を水に溶かしてその身を水に同化させながら、川へと戻ってゆく。
静かに静かに、山に囲まれた深い深い闇のなかで、水音だけがじゃぶじゃぶと響き渡る。豪雨のようにも聞こえるこの音に耳を澄ませながら、優しく激しい情熱の音に包まれながら眠るのが私はすきだった。闇の中で水と一緒になろうと願う私の身体は、まるで幼き日のように小さく丸くなっていった。



 出立の日、目覚めて階下に下りた私の靴を祖父が玄関で磨いていた。
 その背にかける適切な言葉を私は見つけることができなかった。

「次に来るときは、夏にするからね。」
そうとしか云えなかった自分を、ほんの少しだけ悔いた。







海と廃墟と観覧車。

2005-11-17 | 異国憧憬
 中東のパリ、と呼ばれるベイルート。
 私はこの街が大好きだ。

レバノン内戦が正式にその火種をぼうぼうと上げるようになった頃、私は生まれた。そして、まだ母や父よりほかの人間を知ることすらなかった時分に、遥か異国の地で行われている内戦のことなど、知る由もなかった。

大人になってからの私も、レバノン内戦のことは歴史として知っているだけだった。現地に足を踏み入れた私ははじめ、その美しい海岸線と煌びやかでハイセンスなビル群に目を奪われた。あちこちを掘れば掘るだけ出てきてしまう、古代ローマや中世の地盤と建造物の亡骸の上に、そのビル群は整然と居並んでいる。
そして、海岸を眩しい白で縁取るビルの陰に、未だ弾痕が派手に残る崩れかけたレンガ色の低層ビルの廃墟がひっそりと、しかし確かな温度をもって隠されていた。
リヤカーを引く建築労働者が、緩い坂道をのそのそと登ってゆき、朽ちた壁の向こうに曲がって消えた。

夜になると暖かく色とりどりの灯で、海岸が彩られる。陸に向かって急激に傾斜する平地の少ないこの土地の灯を海から眺めると、ともすれば笑ってしまいたくなるくらいに綺麗だ。夜の闇のなかで沢山の廃墟たちはビルの裏手に沈み込み、目に映るのは希望に彩られた灯のみ。昼間にはかろうじて直視できる沈黙した廃墟たちはきっと、夜になると語りだす。饒舌に、淡々と、過去の現実を語り出すに違いない。だから夜になると、人は暖かい灯だけを見詰めて明日の太陽に備える。

海の香りがするこの静かな復興を遂げつつある美しい街に、アミンという友がいる。
仕事を終えて夜になると、必ず私を夜の海岸線へと誘ってくれたものだった。ある年にはガタがきて補色だらけの自らの車で。その翌年には走っている途中でホイールが弾け飛んでしまうスリリングなタクシーを駆って。
波打ち際を見下ろす夜のカフェは、真夏でなければ海風で肌寒い。上着の襟元をきゅっと絞って、波音を聞きながらシーシャの煙と会話に酔う。ベイルートでの短い滞在はいつも、彼の笑顔とともにあった。

「アイスクリームは要る?」
「いやよ、ただでさえ寒いじゃない。」
「僕が食べたいんだよ。」
「それならいいけどさ。ね、あれって英語でなんていうんだっけ。」
そういって私は観覧車を指差す。

「うぅん・・あれについて語ったことがないから判らないよ。」
「そっか、じゃぁ次回来るときまでの宿題で。」
「判ったよ。じゃあ、今度は見るだけじゃなくて、あれに乗ろう。」
「いいね。ベイルートの夜景を空から見たいよ。」
「東京にも負けないはずだよ。必ず、見にくるんだよ。」

そう約束したのを最後に、私はベイルートに行っていない。
今にして思えば、「観覧車」なんて簡単な単語なはずで、思い浮かばなかったほうが可笑しなことだ。だけど、単純に「Ferris wheel」(※wheelだけ、あるいはbig wheelでも通ずることが多い)なんて定義できていたら、きらきらとライトアップを受ける「あれ」に乗りたいとか言い出さなかったかもしれず、「あれ」にこの街の持つ儚さと哀しさと確かな美しさとを重ね合わせることもしなかったかもしれない。

闇を彩る波の静かなリズムと潮の香りと煌く街灯かりと、そして友の最高の笑顔のお陰で、煙を吹かす私の笑顔はそのまま眠りに落ちそうな程に緩やかなものであったはずだ。精神の高揚を呼び起こすのを常とする異国の地で浮かべるには不釣合いなくらいの、弛緩しただらしない笑顔。無警戒の幸福。


今でも友は「あいつはいつ、来るんだ?」と仕事で彼の地を訪れる者たちに度々訊いているという。
私が退職したことを友は知っている。
約束は、約束のままに残っている。

約束は、双方がそれを大切に記憶しているだけで既に美しい。
そして、双方が記憶している約束がいつか果たされたとき、それは約束から美しい愛情溢れる現実に昇華される。

ゆらゆらと、細く太く変化しつつ揺らめく蝋燭の炎のように消えそうで消えることのない期間を経て、幸運にもその灯がついえないうちに約束が果たされるのなら、一瞬の水蒸気爆発のように、鮮やかな閃光を発して現実の一瞬が永遠のもののように双方の心に転写される。

 
 私は、いつかきっとこの約束を果たせる予感がする。




シーシャの誘惑。

2005-10-10 | 異国憧憬
 アラブ帰りの友人と久々に逢って、あの国の風と太陽の匂いを思い出してしまった私が、芋づる式にもうひとつ思い出さざるを得なかった強い誘惑があった。
それは水煙草。

イランではカリユン、アラブ圏ではシーシャ、ヨルダンあたりの方言ではアルギラ、トルコではナルギレ。「ありがとう」と並んで、その国に入ってからいつも真っ先に覚える単語だ。単なる趣味ではない。これがなくては仕事もコミュニケーションも始まらないのだ。(ということにしておいて欲しい)

アラブではオープンカフェが沢山ある(イランではチャイハネと呼ぶ)。壮年や老年の男性陣がたむろして真昼間からチャイを傍らに水煙草を囲んで和んでいる風景をよく見かける。現地にも勿論屋内カフェが沢山あるのだけれど、水煙草はぶわっと物凄い量の煙が噴出するため、屋外でのみ愉しむことができるのだ。
あまりにド田舎の都市では、外国人とはいえ小娘の私がその列に加わることは憚られる。女性が表のカフェで堂々と煙草を吹かすなんて、彼らにしてみればきっと相当なカルチャーショックであろうし、タシナミのない姿であろう。あの眼光鋭いご立派な顎鬚を蓄えたご老人たちに叱られそうで怖いのだ。実際は、煙草で和んでいてその眼光は淀んでいる場合が多いのだが。

「水煙草は、普通の煙草と違って、体にいい。」
彼らは決まってこう云う。
確かに水を最強フィルターにしてろ過された煙の中からは、タールやニコチンはぎりぎりまで除かれている。煙草の葉も、直接点火をせず炭で蒸し焼きにすることで不純物の発生を極力抑えている。一度火を入れたら、炭を途中で交換しつつ、煙草を吸いきるまで30分以上かかることが殆どである。だから一台の水煙草をその場に集ったみんなで回し吸いするのが一般的だ。自分が吸ったあとで吸い口をきゅきゅっと指でぬぐって次の人に渡すのが一般的なマナーだが、こだわり派の人は細工をこらした「マイ吸い口」をいつも携帯していたりする。

葉巻のようなストレートな葉もあるのだが、それはさすがに私にはきつい。
アップルフレーバーの煙草が私の気に入りである。現地ではその他にもジャスミン、オレンジ、いちご、ミント、ラベンダー、メロン、バニラ、ローズ・・などなど本当に多種多様のフレーバーがあるのだが、色々試したうえでアップル至上主義に落ち着いた。

手頃なオープンカフェに陣取ってチャイでも飲んでいれば、日本人の小娘が珍しい現地の人々がそのうち周囲を取り囲んでくる。そして必ず、片言の英語が喋れる人間を近くから調達してきて、私との試行錯誤の会話が始まる。集まってくる人々のうちの誰か一人や二人は、既に水煙草を吸っていたりするものだ。
「頂戴、ひとくち。」
とさえ身振りで伝われば、その人の輪がどっと弾ける。アジア人の、しかも小娘が現地の人と同じマナーで躊躇いもなく水煙草を吸う姿は、現地の男性たちを大いに盛り上げるらしい。

この時間があるから、地元の人々に「余所者」と見做されることなく、愉しい時間をいくつも共有してきた。仕事で同席する人々とも、乱暴に、手加減なく接して貰うことができた。

あの香りをつい思い出してしまって、どうにも禁断症状がでてきている。
水煙草を想像しながら普通の煙草を吸うと、うっかり鼻から煙を出してしまう。
(註:フレーバー系の水煙草は、香りを愉しむために鼻から煙を吐くのである)

私の禁断症状を見かねて、今週中にもシーシャバーに連れていってくれると仰る友が居る。友はよきものだ。

都内近郊の方、ご興味があれば一緒にカリユンにでもいきませぬか。


薔薇の都ペトラ。

2005-10-05 | 異国憧憬
時の刻みと同じくらい古い薔薇色の都市、ペトラ。

この街はナバタイ(ナバテア)人によって2000年以上も前に作られた都市であり、ペトラとはギリシャ語で「岩」を意味する。ナバタイ人はそもそも隊商民族であったのだが、この地に王国を作ってペトラをその首都とし、定住することで通商の拠点とし、古代ローマ帝国が脅威に感ずる程の富を築いた。

紀元後4世紀のローマ帝国による侵略・支配、大地震などにより6世紀には街はほとんど衰退して一時廃墟と化した。本来遊牧民であったナバタイ人もちりぢりになり、その後は歴史からぱったりと姿を消す。このことがナバタイ人とペトラ遺跡の神秘性、伝説性を更に高める結果となった。7世紀以後1000年以上に渡って地元のベドウィンにとって聖なる地としてひっそりと、しかし確実にペトラは整備せられ、護られてきた。19世紀にスイス人の探検家ブルクハルトが、この遺跡を「西洋の目で」発見し、それを機会に急速に世界中に知れ渡ることとなったのである。

高さ100メートルはあろうかという岩の裂け目はシクと呼ばれる。幅1~3mしかない奇跡の亀裂は約1km続き、ここが奇跡の都唯一の入口である。このたったひとつの亀裂を守りきったために、千年以上もの間、荒涼とした岩山の内側に潜む都が無傷のまま凍結保存されたのだ。

日も射さない肌寒さと、砂と太陽の香りがする風がシクを歩く自分とすれ違う。そして肌が日の暖かさを感じることができるようになると、出口はもうすぐ。あるひとつのカーブを曲がりきったところに、唐突に、写真のような形でピンクとオレンジを混ぜたような色で陽光に煌く砂岩の王宮、エル・カズネ(王の宝物庫)が出迎えてくれるのだ。

そのスケールは、当地を訪れてみないと決して判らない。
砂岩が鉄や石灰、銅、コバルトなどを含んで織り成す美しい綾織の色も、強い太陽に反射する砂岩の表面の煌きや、午前中の薔薇色、夕刻の茜色も。言葉でも写真でも、忠実な映像でも伝えきれない色と風、想いが満ち溢れている遺跡。刻一刻と表情を変えるからこそ、その全部を決して伝えることができない遺跡。

 住んでもいい。

それはこの都に捧げる最高の賛辞。
汗を流して岩山の頂上に鎮座する巨大な天空の修道院エド・ディルを見下ろす頂上に腰を下ろしてぞんざいな仕草で水をあおり、肌を乾かす乾燥した風を浴びながら、いつもそう思う。千年を超えてここに吹き続けた風に撫でられて、髪はぐしゃぐしゃに乱される。直す気もなくなるくらいに。

夜、誰もいなくなった遺跡の中にこっそりと忍び込んで、数々の墓穴の一つに潜り込む。堅くて冷たい岩の上に毛布を敷いて、寝転ぶ。遊牧民を先祖に持つ友が、その場で手早く墨を起こしてくれるから、二人して交代に水煙草をくゆらせる。
月だけが照らすごつごつとした岩肌の波。数百、数千とその壁に穿たれた墓穴に風が吹き込み、それぞれに音階の異なるホウホウというフクロウの声のような音が響き渡る。

 ホウ、ホウ。
 ボゥゥゥ・・
 ワワワワ、ワ、ワワ。
 ホウ、ホウ。

 目を閉じると、幾重にも重なる岩の哭き声がきこえる。
 時が戻ったようだ。
 時がとまるようだ。
 
いや、時なんて、なかったのかもしれない。



※参照)
NHK世界遺産の旅 ペトラ
みんなで作る世界遺産ガイド ペトラ

会津若松紀行(2)。

2005-05-06 | 異国憧憬
 宿の近くを散歩することにした。宿の場所は七日町駅のすぐ近く。ここは景観配慮のため、古くからある蔵や近代洋風建築を活かした商業施設が多く見られる心地の良い通りである。通常は車が行きかう主要道路の一本で、地元の人もよく使う通りであるため、観光客だらけのアミューズメントパークまがいのチープで嫌味な感じはそこにはない。生活の空気と観光地の活力とがマイルドに溶け合っている。

 まずはまっすぐ歩いて野口英世青春通りへ。野口英世が左手の手術を受けた会陽医院の建物は今も残っており、1階は喫茶店に、2階が資料館になっている。因みに、野口英世が手術を受けた診療室は現在喫茶になっている1階奥の部屋だそうで、折角なのでその部屋に陣取って連れに隠し続けていた煙草をおもむろに取り出し、テーブルの上の徳用マッチで火を点ける。珈琲1杯に20分待たされたので少々興冷めするが、田舎なのでこんなものだろう。珈琲じゃなくてインカコーラにすればよかったかな。

青春通りは今一歩だったので、もと来た道を辿って宿へ。途中、骨董屋に骨董市、和菓子屋、木地屋、会津塗の店、駄菓子屋、水産問屋などをはしごしつつ戻る。所々でお茶を戴き、飴をいただく。連れに無断で買い物すると叱られる怖れがあるのを言い訳に「明日寄るね」の言葉を残して宿に戻る。「明日寄るね」が本当かタテマエか、それを決めるのは自分自身。

 宿の夕食には会津の郷土料理が並んだ。にしんの山椒付け、にしんの昆布巻、棒たら、こづゆ、会津牛、季節の天麩羅、そば粥などなど。海から近い場所で育ち、鮪に鰹、鰻が特別なご馳走料理でも何でもなかった自分にとって、海からたった100キロ離れただけでこんなにも異なる食文化に箸を止めた。ことごとく乾物になってしまっている魚たちと、そこまでしてタンパク源を確保しようとする努力。そして、その貴重なタンパク源に精一杯の手間をかけて惜しげもなく振舞うというご馳走料理の姿。海の近くで育った自分にとっては手放しで「美味しいねぇ」とは決して言えるはずもなく。しかしゆっくり噛んで味わうことを余儀なくされる風情がそこには確かにあった。
 
因みに、食事を頂いた部屋の隣は三島由紀夫によって「憂国の間」と名付けられた部屋で、4人以上が食事できる座敷となっている。2.26事件に唯一の民間人として加わり死刑となったこの家の渋川善助が、少年時代を過ごした部屋として保存されている訳である。

さて、前日の記事の写真に使っている湯呑みであるが、漆の素塗りで木目がいい。軽い。熱くない。といいとこ尽くしで、渋川問屋で出されて一目惚れしたものである。頼み込んで販売店を教えて貰い、翌朝早速鈴木屋利兵衛にて手に入れたものだ。長い付き合いになりそうな湯呑みである。
その他、水産問屋のおじいの店で棒たらやにしんの昆布巻、豆麩や貝柱などを買い込むと、スチロールの箱に入れてくれた。「化学氷入れといてやるから。」70歳を越えるとドライアイスのことを化学氷と云うものなのか?3度ばかり聞き直してようやく解読できたその言葉はなんとなく可愛らしくて、好きだ。おじい、またね。

 一人旅は得意だ。
「有難う。また、来るね。」その言葉に添えられる互いの笑顔を、その後どうしたい?
「また来るね。」の不安定極まりない約束の結果は旅人に掛かっている。約束を破っても誰も傷付かないし怒らない。されど、約束を形にした時の驚きと喜び、偶然の点を自らの意思で線と繋げる意味を知るのは約束を守ってみたことのある者だけ。「また、来たよ。」たった2度目の出会いは最早偶然でなく、その日を起点として旧知のように紡がれる様々な言葉と笑顔と、新しい約束。今度の約束は期待と実体を伴う、血の通ったなにか。

旅人の来訪をずっと待っているはずはないのだけれど、いざ顔を見るとなぜかその人をずっと待っていたような錯覚に囚われる。訪れる者も、ずっとここに戻って来たかったような気がする。
だから、旅は二度目以降がすきだ。

会津は、私をもう一度呼んでくれるだろうか。

会津若松紀行(1)。

2005-05-05 | 異国憧憬
 常磐道からいわき経由で磐越道へ。初めての東北である。
高速道路から眺める景色は関東平野を抜けて徐々に山がちになり、様々な緑色とその間を埋める淡い山桜の色がほわほわとした柔らかい質感と相まって、初夏の兆しを見せるパッチワークとなっている。雑木林の美しさは紅葉の時期に限らない。初夏の雑木林がとりどりな色をして、まるで笑いが弾けるように陽光を反射する気配の美しさは手入れのされたどんな庭園にも優る。近くに見える木々の枝に山藤のつるが絡み付き、小ぶりな紫色の花房を風に揺らしてなどいればなおいい。

磐梯山はまだほんの少しだけ山頂に雪を頂いている。
会津村の慈母観音像が右手に見えてきたら目的地はもうすぐ。会津若松インターを降り、名の通り「観音前」交差点を左折すれば目指す市外へもう少し。

まず最初は、今回のメイン「さざえ堂」のある飯盛山へ。午前10時前でそれなりに人も出ているが、混雑という程でもない。山を登るための参道(階段)の脇にエスカレーターが設置してあるのだが、その麓にエスカレーター乗車券売り場の窓口が4つもあった。「歩いて登ると本とぉ~ぅに大変です。途中でへこたれても途中から乗ることはできません。是非こちらでお買い求め下さい・・」という肉声アナウンスが流れる。実は正面階段を登らなくとも裏参道として緩やかな坂道がある。裏参道経由では疲れたという自覚もないくらいだったので、あのアナウンスはちょっと脅かしすぎではないか。

白虎隊についてはさしたる思い入れがないので、礼儀程度に墓前参りをし、さざえ堂へ直行。入場券売り場のおばさんの口上が堂内までも響き渡り、田舎の観光地ならではのアナログ性と暖かみがとても心地よい。さざえ堂は上のURLをご覧頂けば判るように、かなりぼろい。いつ壊れるか判らないから、という理由で今回の旅の目的地になったくらいだ。二重螺旋構造のスロープで堂内を登り下りするわけだが、どうやら床にオイルを塗りこめてあるらしく、革靴で滑って慌てて手すりにしがみ付いた。全体的に華奢な構造になっているので摑まった手すりも派手な音を立ててきしみ、あまり助けになってくれないことが判った。格子から堂内に差し込む光線と堂内の暗さのコントラストが激しく、手狭な空間。極めつけに平らな床の一切ない空間。客がもし居なければ、不思議な光線の中で下りスロープに横になって天井の千社札を見上げながらぼんやりと時間を過ごすこともできようか。平らでない床は、歩くためでもなく眠るためでもなく、ただそこに暫くの時間ハタと留まるためにあるものだ。

ちょっと休憩して、予定していた土産の調達へ向かう。8年前に友人に貰ってからずっと忘れられずにいた飴、それだけを買いに長門屋へ。母親と同じ年のおかみさんと話が弾み(捕まった、という方が正しいか)お抹茶2杯とお茶うけのもてなしを受けた。次の観光までに腹ごなしを・・のつもりだったが余計に腹一杯になってしまった。旅行というものはなかなか予定通りにゆかないものだ。

 さて次は鶴ヶ城。「荒城の月」のモデルがここと青葉城であるらしいことは有名だが、昭和の大修理を経た城は荒城の面影もはやなく、凛とした鉄筋コンクリートの威容を呈している。今では、加藤氏時代の白壁5層天守閣だが、それより以前の蒲生氏の天守閣は7層の黒壁に、秀吉の影響を受けた金瓦葺きであったと推測されている。蒲生期の野面積みの石垣の上に立つ黒天守閣。あぁ、こちらのほうが見てみたい。
隅櫓はひとつだけが復元されている。この地域では赤瓦が主流なようで、調査の結果近年になって復元された隅櫓と腰櫓は赤瓦となっている。加藤氏の天守閣も恐らく赤瓦であったのだろう。
ここは、ボランティアガイドに案内をお願いした。地域を愛するガイドによる説明はあたたかく、教科書的でなく、隔てのある歴史でなく今に繋がる時と土地の息吹。長谷川さん、ありがとう。

御薬園に寄ったあと、早めに宿に入る。渋川問屋別館は蔵を改造した宿とのことだが、大改造の結果であろう、まるでセミスイートのようなモダンな部屋となっていた。妙に気合が入りすぎて揃いも揃って笑顔の引きつっている女性スタッフを早々に振り切って部屋で一休みしながら、夕方の散歩のコースを練る。
一人旅に慣れきっていたので、連れのいる旅は不思議に疲れの度合いが違う。二人旅で二人ぶんの愉しみを得るのは難しい。しかも今回は旅に不慣れな連れが相手なので、私の気まま一人旅ペースにもう一人が巻き込まれている形だ。とはいえ連れを安心させる為に今回は事前計画を立て、計画の変更やアレンジも随時伝えつつ旅を進行させている。2人旅パックツアーといったところだろうか。

さて、夕方の町中散策は連れを差し置いて一人旅の本領発揮といこう。

インバウンド考。

2005-04-08 | 異国憧憬
 ようやっと落ち着いてきたが先月は怒涛のように仕事をしていて、主な業務はフランスからの招請ツアーに随行するというものだった。
今まで私が主として接していた外国人はイコールアラブ人であったし、私が日本を出て彼の地で彼らと接するという所謂「アウトバウンド」の文脈から、彼らの文化や彼らの抱く日本への関心事に触れるといった経験しかなかった。今回はおフランス人という未知の人種であり、且つ今までと真逆のインバウンド事業。予想通り、私の思っていた風には事は進まず、フランス人とは判り合うことができずに終わった。フランスとの距離はまだ遠い。

今回は記録した報告書の一部をかいつまんで載せることにする。私が書いた文章であっても、版権は私に帰属するものではない。概してそういうものだよね。

 月  日 旅 程
3月25日 午前、関西国際空港着。京都へ。(三十三間堂他)
  26日 京都(清水寺、二条城、龍安寺、金閣寺、富田屋他)
  27日 飛騨高山(舩坂酒造、春慶会館他)
  28日 名古屋(大須観音骨董市、トヨタ博物館、名古屋城他)
  29日 名古屋(愛知万博)
  30日 東京(浅草寺、かっぱ橋、大江戸温泉物語他)
  31日 午前、成田国際空港より帰国

【フランスにおける日本ブーム】
 かつて、日本を訪れるフランス人観光客は「遥か東洋のオリエンタルな国」を求める一部のマニアに限定されていた。それが近年になって、テクノロジーやファッションをはじめとする最先端のスマートな側面が着目されると同時に、本や映画の影響もあって「武士道」や「禅」の精神が広く知られることとなる。現代のフランス人は、日本の長い歴史の中で形成されてきた伝統的なモニュメントを見に来ると同時に、歴史の中で培われた日本人の精神文化に触れることを望む。東京のお台場付近の景観や秋葉原のような現代都市、あるいはデパートの地下食品売場などは、歴史的町並みと等価値のものとして評価される。
 
【歴史・文化に対する造詣】
 フランス人にとっても日本人にとっても、観光は巡礼から生まれている。教会の中のしんとした雰囲気と比べると、かつては極彩色であっただろう寺の堂内で、その美しさ見事さに感嘆の声を上げる寛容さがかつての日本人にはあったのではないだろうか。そして今でも「綺麗だねぇ」「すごいねぇ」と声をあげて褒め讃えながら人々は堂内を歩いてゆく。その拝観スタイル自体が日本の文化のひとつと云えないこともない。文化が多様であれば、文化に対する姿勢もまた多様である。文化と向き合う姿勢にどれかひとつの正解はない。

【旅を愉しむこととは?】
 旅は進化して便利になり、そのスタイルも多様化した。今では、少しの不便を我慢すればどんな秘境にでも行くことができる。一見観光ブームにさえ見える潮流の中で、日本ではまだまだ外国人に対してユーザーフレンドリーなサービスが充実しているとは云い難いのが現状だ。しかし参加者が日本の文化についての様々な質問を我々日本人に投げかけ、初めて見る日本食の数々やマナーに積極的に挑戦し、至るところで写真を撮り、雨や風などの悪天候をも愉しんでジョークに変えるさまをずっと見てきて思うのは、旅を愉しむ主体の姿勢によっては、どんな不便もハプニングも旅のひとつの体験として愉しむことができるということ。

起こりうる全ての出来事を等価に受け止め、受け入れ、愉しみ、味わうこと。
それこそが、旅。


中国における四合院保存。

2005-03-09 | 異国憧憬
 さて、四合院
中国(特に北部)の伝統的な一般住居である。日本で例えるなら町家になるだろうか。こういう住宅が今でも北京市内のみならず、中国全土に残っており、普通に人々がそこに生活している。

 上のリンクから図解を見て頂いたものが「理想的」「本来的」四合院の姿である。特徴的要素は
A)外壁がある
B)外壁の門と、内側もうひとつの門は直線状になく、外から内部が見えない
C)中庭が共有空間としてある
D)トイレは付属しない(道に出れば公共トイレが多い、という文化)
E)名前の通り、4つあるいはそれ以上の棟からなる

こんなところか。
かつては、大家族が家長、娘たち、息子夫婦などでそれぞれ棟を分け合っていたのだが、急激な人口増加に伴って家が足りなくなり、悠長な暮らし方は不可能になってきている。そこで現在ではそれぞれの棟に1家族あるいは2家族が住んでいることが多い。上の図のようなスケールの家では、聞いたところ8家族40人が暮らしているというところもあった。そしてそれは別段驚くにあたらないケースである。

 その状況を踏まえ、現状をみてみよう。
中庭にはそれぞれの家族が思い思いにレンガやコンクリートで台所や別棟を増築し、共有空間として見渡せる中庭空間というものが存在している住宅は極めて稀。各棟を繋ぐ廊下には壁が設けられ、部屋化してしまっている。縄張りを先に広げたもの勝ち!という積極的な意識が見られるが、それなりに他人同士が協力し合って住んでいるようだ。

そして前述したオリンピック熱でこれらの「美しくない」四合院は道路拡幅のために国の方針でどんどこ取り壊されている。「このあたりは比較的きれいに残っているから、保存しようか~」と国が思った部分についても同様にどんどこ取り壊され、近代工法による金ピカ四合院がどどんと立ち並び、中華パビリオンの様相を呈している。それを止める手立ては・・ないのか。(止めたいための調査だったんだけど)

思うに、中国は国家権力が大きすぎ、住宅その他の所有権意識が希薄だ。そのくせ、共有空間意識も乏しく、広場は駐車場になるし中庭は増築の山で迷路のようになるし、マンションの非常階段や通路もことごとく部屋化してゆく。
また、日本では空襲や開発によって古き良きものたちの殆どが失われてしまったから、ふと気づいたときに僅かばかりになってしまったものは自然と「貴重」に見え、「残さなきゃ!」という感覚になり易かったのと比較すると、割にそこここに沢山残っているものたちを保存の対象と見るまでには一つ越えなければならない思考の枠があるように見受けられる。

日本人やヨーロッパ人が思うところの「保存」概念が中国に浸透するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。


オリンピック祭り。

2005-03-08 | 異国憧憬
 極寒の北京より戻りました。
心理的なじたばたで、先月は更新が滞って情けない限り。書かないと習慣がなくなって勘も鈍るので頑張って書きます。

 北京は最高気温が3度とか5度とかで、朝夕は当然氷点下。川という川、気合を感じさせる数々の人造湖もことごとく凍り付いていて、見るだに寒い。風も寒い。ダウンジャケットのフードが実用化されたのははじめてだ。

北京といえば、2008年北京オリンピックで目下おお盛り上がりだ。「北京市計画展覧館」というこれまた気合の入った都市計画博物館?のようなものに行くと、オリンピックへ向けての国家的な意気込みが厭という程伝わってくる。

 補足するが今回は観光ではない。中国の伝統的な四合院住宅の保存状況を調査するための補助だ。計画展覧館には「保存の観点からみた都市計画」の視点なり方向なりが判るかなーという思いで訪れたわけなのだけれど、保存そっちのけ!そんなのお題目だけ!という中国バブル全開の開発大工事パワーに全てが呑まれていた。
補足終わり。(※四合院住宅については腐るほど見てきたので次回。)

 さて、ここから少し、オリンピック用施設(仮案含)を紹介しよう。
まず、英東水泳館。東京近郊にお住まいの方。もしくは建築をかじった方。何かに似てると思いませぬか。そう、それはまさに東京オリンピックのために斬新な吊り構造で丹下健三氏によって設計された(部分的に吊りと違うけど)代々木体育館。これを見て「おぉ!」と思ったものの、吊り構造なんて中国ではやったことないし、工期は迫ってるしということで外観だけを似せてなんと無理矢理トラス構造で建設してしまったエセ代々木体育館(結構これは古い)。色々な意味を含めて、圧巻ではある。

 北京射撃場(案)。手前の建物が銃の形になっているそうだ(模型では判りすぎるくらい判る)。短絡的にもほどがある。

 自転車競技館(案)。とにかく暑そうだ。温室のような見た目である。テニスセンターも凄い。構造はどうなっているのだろう。
全般的にモデル案を見てきたところ、A)まぁるい感じ B)キラキラしている C)構造が判らない、もしくは不安定 という感じの建物が多かったように思う。
ここで図を引っ張ってこれないのが残念だが、新しい水泳場は細胞のようなバブル構造を壁としている、かなり無理げなものに見えた。

 現在、北京市の中の工事中建築物の数は、ヨーロッパ全土の工事中建築物の数にほぼ等しいと言われている。北京市の目標とするまちづくりは、キラキラの未来都市。
 あと、3年半。

廓の残照。(飛田百番に寄せて)

2005-02-09 | 異国憧憬
 ねぇ、旦那。
伊達に女と生まれちまったからにはさ、おんなっていう商売をしてみたいと一度は思うっていうのはさ、何もいけないことじゃない。女だったら大抵の人はなにかのきっかけでふっとそんな馬鹿なことを考えてみたりするものさ。
あら、そんなにびっくりした顔をするもんじゃないよ、あはは。女って生き物は元来博打うちに生まれついているもんだからね、大概は面白半分でそんなことに足を突っ込むことはないけどさ。旦那がたが思っていなさるほど綺麗さっぱりした生き物なんかじゃぁないからね。そんなことだって気紛れで思い付いたりなんかするもんだよ。

立ち切れ線香やら三枚起請やらさ、古典落語じゃあるまいし、今どきは気性や気概のいいおんなも少なくなっているし、こんなこと云っちゃぁあんたに失礼かもしれないけど、男のほうも「旦那」じゃなくなってきたでしょう?気風のいいっていうかさ、おんなも客もどっちも楽しめるような正しい遊び方を忘れちゃってさ、なぁんかみんな辛気臭いじゃないの。流行らないよねぇ、人情ばなしが似合うような異世界っていうか、やさしい遊び場みたいなものってさ。

親から貰った立派に苗字も揃ってる名前をどこかの小箱にしまってさ、頼りないくらい短いふたつ名と、それよりもっと頼りにならない馴染みの旦那のひとつ心をあてにしてさ。ほとんどが辛いことや退屈なことばかりの中で、客のくれるほんのちょっとの暖かさが妙に嬉しいっていうじゃないかい。

聞いた話だけど、一度こういう商売してしまうと、見ず知らずの他人がなかなか悪人に見えなくなって困るんだってさ。貸座敷の上じゃ、お互いの氏素性も判らない中で相手の表情なりその場の会話なりだけを糸口にして付き合う訳で、娑婆じゃどこで何してる人だかも判らないで、会うことだって叶わない。そんな条件で接する相手っていうのは、ちょっとばかし頬に傷があったり何かしら後ろ暗いところがある旦那でさえ、なんとなく心穏やかに優しぃくなってしまうんだ、って云ってた娘がいたよ。

判る気もするねぇ。狭い部屋の中だけなんだもの、ちょいとばかし優しくしてやったって、お互いにばちは当たらないよねぇ。折角そんな座敷にいてさ、優しいおんなが脇にいて話を聞いてやるっていうのに、仕事やら何やらの愚痴ばっかり垂れてるっていうのが多いらしいけど、そういうツマラナイ輩にはおんなと遊んで欲しくないねぇ。そんな返事も要らない愚痴なら電気釜にでも向かって話してりゃいいと思わないかい?

この辺りは変わらないね。初めて歩いた頃と殆ど一緒だよ。
今どき、椿油の香りとか、このなんともいえなく哀しくなるよな安おしろいの香りがこんなにも似合う通りは他にはないよ。
え?あたしをここに連れてくるのは初めてだって?
おかしぃねぇ。そういえば、誰に教えて貰った訳でもないのにどうしてこの香りをあたしは知ってる、いや覚えているのだろう?どうしてだろうね。見たこともないはずの赤い提灯がやけに目にひりひりするようだよ。

(※飛田百番[国の登録文化財です]に寄せて。)

神話と大地の国の記憶。

2005-01-20 | 異国憧憬
「生命や心が埃で曇ったとき、きっと私はこの国が恋しくなる。」

 このフレーズは、多くのクライアントや社員の心に響いたようだ。
 今私が自らの生んだこのフレーズを思い出しているということは、きっと心が雲ってきている証拠なのだと思う。

 それは、エチオピア。
この国の魅力を簡単に説明することは難しい。
飢餓のイメージが強いと思うが、あながちそれは誤りではなく、ストリートで見かける子供たちは皆一様に痩せ細り、つぎの当たっていない服あるいは元の色彩を留めている服を着ている子供は一部にすぎず、大概はどこかが引きちぎれている、ほんのり泥色に染まった服を着ている。土は赤土が多く道路の舗装も大都市の中心部だけだったりするので、舞い上がった砂埃の色かもしくは洗濯の泥水の色なのだと思う。

閉口したのは、ハエ。兎に角どこでも一面にいる。乾燥した国なので、人体の放つ湿気に引かれてやってくる。そして水分の多い三箇所「目」「鼻」「口」にハエが止まる(たかる)ので、常にそれとの戦いとなる。(※因みに、現地では「ハエ追い払い器具」なる専用の道具が存在する。細い木の棒に馬のたてがみ/尻尾の毛束をつけたもの。)ハエが菌を媒介し、盲目の人がやけに多い。
盲目の人は大抵物乞いになるしかなく、教会の周りや空港の近所には、こちらを追いかけてくる余力もない物乞いが束になっている。
おまけに常時栄養失調状態なので、手足がおかしな方向を向いていて這い歩いている人もいる。昔の日本でも「いざり」と呼ばれていた人がいて、足なえの場合は車輪のついた板と棒でごろごろと地面を進むのだけれど、ここエチオピアではいざる道具も存在せず、手足にゴムサンダルを履いた不自然な状態で這うしかない。

飽食の日本人にとっては、余程の心構えができていないと怯んで後ずさってしまう光景も数多くある。

 だけれども、最終的な印象は「美しい」というものだった。
子供たちは、身振り手振りを交えて、仕事で見ることのできなかったワールドカップの準決勝と決勝の具合をラジオばりに丁寧に教えてくれたし、朝のミサにも連れていってくれた。夕暮れには、べこべこに凹んだボールで、車なんて通るはずのない通りに出てサッカーの真似事をして遊んだ。
私が仕事で来ていて、観光客のように簡単に現金やお菓子を与えてくれる人間でないことを理解してさえくれれば、コミュニケーションは早いものだ。(そこまでがタイヘンなのだが)

 エチオピアは、イエメンと並んで「シバの女王伝説」が息づく国である。
シバの女王の王国があったとされる場所、とエチオピア国民は固く信じている。
<シバの女王伝説>
むかしむかし、シバの女王は、噂に高いイスラエルのソロモン王に会いたいと思い立ち、他の王国では真似のできない多くの贈り物を持ってイスラエルに行った。ソロモンの叡智と器量、シバの女王の美貌と才気は互いを惹き付け、二人は恋に落ちた。シバの女王は国に帰り、息子メネリクを生んだ。メネリクは成人し、父ソロモンに会いに行ったのだが、その帰途に家来が聖櫃(アーク)を盗んできたことを知る。これも神の御心と判断したメネリクは聖櫃を持ち帰り、以後ずっとそれはエチオピアのアクスムという都市にあるとされている。
この聖櫃は、「失われたアーク」として映画の題材になっているアレである。

我々はこの物語を「伝説」として聞く。
しかし不思議なことだが、彼らにとっては「史実」であるらしい。
高学歴で高収入なインテリでさえ、この物語を伝説であるとはしない。極めて資料薄弱なのにも拘わらず、史実であるといって憚らない不思議さがある。そして預言者モーセが神から授かった十戒を収めていた箱である「聖櫃」はアクスムの聖マリア教会付属の特別な建物(24時間非交代制の番人がいる)に収められていると信じている。

内戦や飢餓を語るのと同じ口調でシバの女王の美貌を語り、「あそこに銀行があるよ」と同じ口調で「あそこにアークがあるんだ」と告げる。
その時空が歪むような不思議さといったらない。
独特な暦(多分今年は1997年くらい)と独特な時間の読み方(夜明けである朝6時が0時)を持ち、神話と現実の茫洋とした境目を無きが如くにして一括に包み込み抱擁するかのような彼ら。

あのちりちりと肌を焼く太陽の下で、美味しい珈琲が飲みたい。
願いがたくさんあるだろう彼らには、私にはなにひとつしてあげることができないけど、一緒に笑ってお喋りならできる。
黄色や青の鳥が集うタナ湖の湖畔で、真っ赤な日暮れを待ちながら。