明日は広い地域で雪だそうですね。
皆様足元にお気をつけくださいませ。
足元・・ということで、アオザイの裾上げを済ませて一段落しているところ。
アオザイは男性陣の好む民族衣装の第一位であると聞いたことがある。本当だろうか。
日頃、胸がどうとか足がどうとか云っている割には、アオザイは基本的に長袖なので露出も少ないうえ、足に至ってはワイドパンツでどこに足があるのか判らない。ウエストが絞れているように見えるだろうが実はうまいことできた錯覚で、本当はウエスト辺りまで裾~脇部分に切り込みが入っているので、少しばかり腹が出ていようが早々にはばれない、という都合のいい代物である。
そんな訳なので着るほうとしては着やすくて万々歳。美的観点から言えば、ごくごく個人的なマオカラー趣味を除いても、あの脆弱な素材感に、脇の切れ込みから若干除く脇腹辺りの素肌の覗き具合がなんとも微妙に抑制がきいていて、いい。
民族衣装は大概どれもすきだ。
しかし表社会に着てゆけるものが少ない。
チャイナドレスは、赤坂見附や六本木あたりでお仕事の人と間違われそうだし、サリーは布の量が多くて重いうえ上半身は寒く下半身のみ暖かくて日本の気候に合わない。おまけに歩いているうちに着崩れたら想像するだに大変だ。エチオピアに至っては極厚ガーゼのような白コットンで、明らかに道を歩くのは憚られる。恥ずかしながら着物は自分じゃ着れないし、生地が繊細なので管理に手を抜けない。
民族衣装を着るということ(※他民族の)は、突然人類学的な解釈をすると
「オリエンタリズムの眼差しに基づいて、自らがある異文化を表象するレプリカになること」
とでも云えようか。今思いついた(搾り出した)だけなので正確性に疑問があるため、フレーズ転用厳禁。
オリエンタリズムの解釈の幅によっても解釈が変わってしまうと思われるが、ひとまず「オリエンタリズムとは、異文化に対するイメージに基づく偏見」としておく。日本=サムライ、マオリ=勇敢、中国=商売上手、ニューギニア=裸族、みたいなものである。
民俗衣装とは、とても判り易く手軽に異文化を象徴するアイコンとして機能する。イラン航空のアテンダントが頭にスカーフを巻いていたり、ベトナム航空ではアオザイ、マレーシア航空でもアジアンプリントの綺麗な衣装などそれぞれの国が、自らの文化をアイコン化して我々に見せてくれ、それを見る我々はまだ見ぬ何か神秘的なもの、美しいもの、エネルギッシュなもの・・を身勝手に想像して愉しみ、胸躍らせる。
オリエンタリズム的偏見のひとつに、ベトナムや中国の女性はスタイルの美しい美人さんが多い、というものがある。同じアジア人として、そんな彼らの衣装をお借りして異文化をレンタル体験してみること、彼らの文化に片足を踏み込ませた気分になること、それが民族衣装を着ることである。
・・例え、我々の想像する「異文化」が実際の彼らのもつ真の文化とイコールでなかったにせよ。
それはオリエンタリズムの眼差しからは無視される。
ニューギニアではもはやカニバリズムは存在しないのに、その痕跡を求めるツアーがある。
フィジーではもはや市場経済が確立しているのに、腰蓑を見るとカメラを構える。
それがレプリカであることを認識しながら、それを求める。
自分がレプリカになる行為。それもまたよし。
自分が彼らの持つ「真の文化」のレプリカでさえないのだということ、
自らが勝手に彼らに押し付ける偏見による理想や想像の産物のレプリカでしかないことを、
自覚しているつもりであるのならば。
皆様足元にお気をつけくださいませ。
足元・・ということで、アオザイの裾上げを済ませて一段落しているところ。
アオザイは男性陣の好む民族衣装の第一位であると聞いたことがある。本当だろうか。
日頃、胸がどうとか足がどうとか云っている割には、アオザイは基本的に長袖なので露出も少ないうえ、足に至ってはワイドパンツでどこに足があるのか判らない。ウエストが絞れているように見えるだろうが実はうまいことできた錯覚で、本当はウエスト辺りまで裾~脇部分に切り込みが入っているので、少しばかり腹が出ていようが早々にはばれない、という都合のいい代物である。
そんな訳なので着るほうとしては着やすくて万々歳。美的観点から言えば、ごくごく個人的なマオカラー趣味を除いても、あの脆弱な素材感に、脇の切れ込みから若干除く脇腹辺りの素肌の覗き具合がなんとも微妙に抑制がきいていて、いい。
民族衣装は大概どれもすきだ。
しかし表社会に着てゆけるものが少ない。
チャイナドレスは、赤坂見附や六本木あたりでお仕事の人と間違われそうだし、サリーは布の量が多くて重いうえ上半身は寒く下半身のみ暖かくて日本の気候に合わない。おまけに歩いているうちに着崩れたら想像するだに大変だ。エチオピアに至っては極厚ガーゼのような白コットンで、明らかに道を歩くのは憚られる。恥ずかしながら着物は自分じゃ着れないし、生地が繊細なので管理に手を抜けない。
民族衣装を着るということ(※他民族の)は、突然人類学的な解釈をすると
「オリエンタリズムの眼差しに基づいて、自らがある異文化を表象するレプリカになること」
とでも云えようか。今思いついた(搾り出した)だけなので正確性に疑問があるため、フレーズ転用厳禁。
オリエンタリズムの解釈の幅によっても解釈が変わってしまうと思われるが、ひとまず「オリエンタリズムとは、異文化に対するイメージに基づく偏見」としておく。日本=サムライ、マオリ=勇敢、中国=商売上手、ニューギニア=裸族、みたいなものである。
民俗衣装とは、とても判り易く手軽に異文化を象徴するアイコンとして機能する。イラン航空のアテンダントが頭にスカーフを巻いていたり、ベトナム航空ではアオザイ、マレーシア航空でもアジアンプリントの綺麗な衣装などそれぞれの国が、自らの文化をアイコン化して我々に見せてくれ、それを見る我々はまだ見ぬ何か神秘的なもの、美しいもの、エネルギッシュなもの・・を身勝手に想像して愉しみ、胸躍らせる。
オリエンタリズム的偏見のひとつに、ベトナムや中国の女性はスタイルの美しい美人さんが多い、というものがある。同じアジア人として、そんな彼らの衣装をお借りして異文化をレンタル体験してみること、彼らの文化に片足を踏み込ませた気分になること、それが民族衣装を着ることである。
・・例え、我々の想像する「異文化」が実際の彼らのもつ真の文化とイコールでなかったにせよ。
それはオリエンタリズムの眼差しからは無視される。
ニューギニアではもはやカニバリズムは存在しないのに、その痕跡を求めるツアーがある。
フィジーではもはや市場経済が確立しているのに、腰蓑を見るとカメラを構える。
それがレプリカであることを認識しながら、それを求める。
自分がレプリカになる行為。それもまたよし。
自分が彼らの持つ「真の文化」のレプリカでさえないのだということ、
自らが勝手に彼らに押し付ける偏見による理想や想像の産物のレプリカでしかないことを、
自覚しているつもりであるのならば。