5 冬に来る人
駅前のデパートに行くと、おかあさんはいつも真っ先に四階の画材用品売り場に行く。絵本作家の夢は中断してるけれど、決してあきらめたわけじゃないからだ。
要を連れたおかあさんが、奥の方で店員と話をしている間、環は光の手をひいて、少し離れたところのガラスの陳列棚の前に立ち尽くしていた。ガラスの向こうでは、ドイツ製の水性色鉛筆のケースが、すました顔で環の視線を吸い込んでいる。
環はため息をついた。なんだかんだ言っても、環はやっぱりおかあさんの子どもだ。小さな頃から、ぬり絵やお絵かきをするのが大好きで、ないしょのスケッチ帳の中には、花や、お人形や、自分でデザインしたドレスだとかが、いっぱい描いてある。
でも、絵を描くのが好きだなんて、環はみんなの前ではっきり言ってしまったことは一度もない。環は、自分のスケッチ帳をおかあさんにさえ見せたことはないのだ。だって環は、おかあさんみたいに上手には、とても描けないし、何より、スケッチ帳の中に一枚だけ描いてある広田くんの似顔絵を、だれかに見られたりしたら、大変だから……。
だけど、この色鉛筆は……。前におかあさんに同じのを貸してもらったことがあるのだけれど、使うと、昔のヨーロッパの絵本みたいな、少しくすんだ暖かい色合いになって、環の下手くそな絵でさえも、信じられないくらいにきれいに見えるのだ。
(買いたいけど、ちょっと高価いかな……)
環が頭の中でお小遣いの計算をしていると、そばでじりじり待っていた光が手を引っ張った。
「ねえねえ、早くプチ・ノーレに行こうよお!」
「ちょっと待ってよ。わたしだって買い物するんだから」
「何買うの? 何買うの? 早くしてよ!」
「もう、うるさいわね! わかったわよ」
光がそばにいたんじゃ、色鉛筆を買うかどうかの大事な決断なんて、てきやしない。環は光を連れて画材売り場を離れ、隣にある文房具売り場の方へ向かった。
「あ、これ!」
売り場へ入るやいなや、光が環の手をふりほどいて、アニメのキャラクターグッズが並んでいるコーナーへと突進した。
「ぼく、これ買う!」
光はお気に入りのヒーローの絵が入ったお弁当箱を取り上げると、おかあさんのいる画材売り場の方へ、大喜びで走っていった。
「光ったら、お弁当箱なら持ってるでしょ!」
環が後ろから叫んでも、見向きもしない。
「なによ、もう、勝手なんだから」
環は小声で吐きつけると、ぷいと顔をそむけた。
(お子さまは気楽でいいわよね。まあいいや、この間にこっちの用を片付けよう)
環は思い直して、文房具売り場をながめわたした。
硬い照明が、そこらじゅうに並んだ商品たちをこれでもかと照らしたてている。キンキラのジグゾー・パズル、こびるようにほほえみかけるキャラクターたち、魅惑的ではあるけれど、役に立つのか立たないのかよくわからない、ファンシーグッズの山。そして売り場のすみでは、大きなサンタクロース人形が早々と鎮座して、行き交うお客を見つめている。
なんだか急にやる気がなえてきて、環はかくんとあごをあげて上を見上げた。すると、昨夜の出来事が、アワのように環の脳裏に染み出してきた。
「……あのね、ワキへのプレゼントのことなんだけどさ、上田エミのやつが、今年はプリコールあげるんだって!」
史佳から電話があったのは、昨日の晩、環がお風呂からあがってすぐのことだった。
「プリコール? それって、高価いんじゃないの?」
環はバスタオルで頭をふきながら答えた。プリコールというのは、たしか子ども用の電子手帳みたいなものだ。ハート型の薄いコンパクトで、ふたを開けると小さな液晶ディスプレイとボタンがいくつかあって、メモや通信やゲームができたり、かわいいペットも飼えたりする。
「ちょっとやりすぎよね。でも、他のみんなにも聞いてみたら、今年は去年より高価いものをあげた方がいいみたいだって……。わたしもレターセットじゃだめみたい。砂田さんも、そのへん考えてプレゼント買った方がいいよ」
「うん、ありがと……」
環はふっと、夢から覚めたように、視線を売り場の方に戻した。流れる音楽と売り場の風景が、急に現実となって、よみがえってきた。
でも、なぜ?
環は昨夜からおなかの中でいじり続けてきた疑問を、また繰り返した。あれだけ、かげで和希のことを悪く言いながら、どうしてみんなは、あの大きらいなやつに、プレゼントなんかあげられるんだろう? 環にはそれがどうしても納得できない。それとも、環が子どもだから、わからないだけなんだろうか。他のみんなは、大人だから、ちゃんとわかって、やってるんだろうか?
環は奥歯をかみしめ、頭を左右にふった。それ以上深く考えようとすると、脳みその奥がぐるぐるして、気分が悪くなってきそうだった。環はもう考えるのを、やめた。とにかく、いやなことは早いとこすませてしまおう。それが一番いい。
環は足早に売り場をめぐり、ぬいぐるみがずらりとならんだ棚の前で足をとめた。見上げると、真っ先に、一番上の棚でふんぞりかえって座っている大きな緑のカエルが目に入った。何だか、目をぎょろりとむいて、意地悪そうに歯を見せて笑っている顔が、和希に似ている。大きいのは買えないけれど、同じデザインの一番小さいのが、ちょうど手頃な値段だ。
環はカエルに手を伸ばした。でも、一瞬、カエルだと和希に嫌がらせだと思われはしないかと言う考えがよぎって、手は微妙にそれ、その隣にあったオタマジャクシの方に伸びた。オタマジャクシのぬいぐるみなんて珍しいけれど、よく見ればおしゃぶりなんかくわえてたりして、ちょっとかわいい。和希が気に入るかどうかはわからないけど、もうこれ以上このことにエネルギーを使う気になれなかったで、環はそれをレジに持っていった。
「おつかいものですか?」
「あ……、あの、クリスマス・プレゼントなんです……」
店員にたずねられて、環はなんだか悪いことをしてるみたいに、おどおどとした。デパートの店員は、オタマジャクシを箱に入れ、クリスマス向けお派手なラッピングで、てきぱきと包みこんだ。
「タマキも買い物すんだ?」
いつの間にか、お母さんたちがすぐ後ろに来ていた。環は無意識のうちに箱を小わきに隠しながら、うん、と小さく言った。
「そろそろおなかが空いたでしょ。九階に行って食事しようか」
お弁当箱を買ってもらえなくて、すねて床に座り込んでいた光が、急に元気になって立ち上がった。
「ぼくラーメンがいい! ラーメンがいい!」
「ヒカルはラーメンばかりだね。タマキやカナメはどう?」
「ラーメンでいいよ」
光がまたすねだすとめんどうなので、環はぶっきらぼうに言った。要も異存はないようだったので、おかあさんは、「よし、じゃあラーメンだ」と言って、みんなをエレベーターの方に連れていった。
エレベーターで九階の食堂街まで上がると、環たちは、ちょっと迷ってから、少し奥まった所にある目当ての中華料理店に入っていった。お昼の時間帯だったので、店の中は混んでいたけれど、ちょうどテーブルが一つ空いたところだったので、環たちはすぐに座ることができた。
「ついてるついてる、今日はラッキーな日ね!」
おかあさんは要を椅子に座らせると、さりげなくコショウやラー油のビンに触らせて、その位置を教えた。環はメニューをとって、それを声に出して読んだ。要は、環がチャーシューメンと言ったところで、それがいい言った。
「じゃ、わたしは何にしようかな……」
環はそう言いながら、ふと目をあげた。黒っぽいコートを着た子どもが、店の出口のあたりに立って、じろじろこっちを見ているような気がしたからだ。でも環が顔をそっちに向けると、その子はさっとそっぽを向いて、出口から走って逃げて行った。環は少しムッとしたけど、おなかがすいていたのですぐにそのことは忘れて、またメニューに目を移した。
注文したものがテーブルに運ばれてくると、割り箸をこすりながら、おかあさんは今後の予定について言った。
「まずは地下で食料を買い込んで、それから、プチ・ノーレへGOよ。……あらカナメ、それはコショウじゃないよ」
おかあさんの注意が、コショウと間違えて楊枝入れをとろうとしていた要の方にいったので、光が不満そうに声をあげた。
「どうしてすぐに行かないの?」
「ヒカルったら、気持ちはわかるけど、あせらないで。おかあさんはちゃんとアポを取ってあるんだから」
「アポ? アポって何?」
要が楊枝をもとにもどしながら、ぱっと顔を明るくして言った。どうやらアポという言葉が気に入ったようだ。
「アポイントメント、の略よ。要するに、今日の何時から何時まで、会ってくれますかってお願いしてあるのよ」
「うわー、おかあさん、すごい!」
要の声は、はきはきしてる上によく通るから、まわりの席に座っていた人が何人かこっちを振り向いた。
「ばか、もっと小さい声で言いなさいよ」
小声でたしなめながらも、環はちゃんと要にコショウをとってやった。まだ9歳のくせして、要はラーメンにコショウをかけて食べるのが好きだ。要に言わせれば、ほんの少しかけるだけで、味と香りが、魔法みたいにかわるんだそうだ。
さて、おなかもいっぱいになったし、食料も十分に買いこんだ。駐車場に停めてある車に荷物と子どもたちを詰め込むと、おかあさんは運転席によいしょと乗りこんで、目をきらめかせて言った。
「さあみんな、いよいよ本番よ。サンタさんへの質問はもう決めた?」
「うん……」
光が、緊張した声で言った。見ると、助手席に座っている光は、両手を口の前で固く組んで、ちっとも落ち着かない様子で、体をしきりに上下にゆらしている。環が隣を見ると、要はくちびるをきゅっとかみ、環に貸してもらったラジカセを、手が真っ白になるくらい硬くにぎりしめて、ぶるぶるふるえていた。環はなんだか吹き出したくなった。
「OK、みんな出発よ!」
おかあさんが車のキーを回した。車はぶるるんとエンジンを震わせて、ゆっくりと駐車場を出た。
洋菓子店プチ・ノーレは、駅前デパートのある目抜き通りから、通りを二つ過ぎた旧駅前通りの方にある。旧駅前通りというのは、ずうっと前には駅の建物が今と違う所にあったからなんだそうで、もちろん目抜き通りと比べるとちょっとさびしい感じはするけれど、大きなプラタナスの並木と、古めかしい形の街灯が道の両側に並んでいるのが、なんとなく外国の風景みたいで環は好きだった。魅力的な作りの喫茶店や、由緒ありげな骨董店などもあって、人通りも少なくない。
信号がかわって、車が交差点を曲がり、プチ・ノーレの銀色の看板がちらりと見えた時、光が小さく「あっ」と言った。店の前にいるはずのサンタさんの姿が見えないのだ。
「おかあさん……」
不安そうな顔で光がおかあさんを見ると、おかあさんは、大丈夫よ、と言って光に笑いかけた。
車はプチ・ノーレの店舗の横の細いすき間に入りこみ、裏の駐車場にすべりこんだ。表の小ぎれいでしゃれた感じとは違って、裏にまわると、古びた家が、駐車場の狭いスペースをぎっちりと囲っているので、ちょっとガッカリする。枯れヅタのからみついたさびたトタンの壁と壁の間には、犬や子どもくらいしか通れないような細い小道があって、その向こうには、こわれた三輪車が転がしてあるのが見えた。
環は駐車場の隅に、そんな背景にはちょっと不似合いな、派手な赤い車が一台停まっているのを見た。ぴかぴかに磨かれたその車には、ボンネットの突端に金色のエンブレムがついている。前足をあげて走りだそうとしている四本足の動物のように見えたので、馬かなと思ったが、車が近づいた拍子によく見てみたら、それは頭に大きな枝角をつけた、トナカイだった。環は、ちょっとびっくりして、思わず窓にとりついた。少し古い型のスポーツカーで、左ハンドルだから外国の車だってことくらいしか環にはわからない。でも、こんな車、売ってるわけないし、わざわざ作ったのかな? 環はその発見を言うべきかと思ったけれど、みんな気づいていないのか、それとももうとっくに知ってるからなのか、だれも何も騒がないので、結局は黙っていた。
「さ、行くわよ。大事なものはちゃんと持った? 忘れ物はないわね」
車のエンジンを止めると、おかあさんはみんなを見回しながら言った。要はラジカセをぎゅっとにぎりしめた。おかあさんが車を下りると、緊張した子どもたちも、ぎくしゃくしながら車を下りた。環も、しかたなく後に続いた。
店の横を回り、表の入り口をくぐると、いつものおばさんの声が、はじけるように耳に飛びこんで来た。
「いらっしゃい! 待ってたよ!」
おかあさんが笑顔で答えた。
「こんにちは。遅れなかったかな?」
「十分前ってとこかしら。先方はもう二十分待ってるけど!」
おばさんは、バレーボールみたいな胸をゆらして、けたけたと笑った。マッチ棒みたいに細いお母さんと並ぶと、まるでエントツとお月さまだ。
「忙しいのに手をわずらわせてごめんね」
「いいわよう。サンタのインタビューなんて、あんたらしくていいわ。店の宣伝にもなるから、おもしろいことがあったら教えてね」
「もちろん。帰りにケーキも買っていくわ」
一通りのあいさつがすむと、おばさんはニコニコしながら環たちを店の奥の方に案内した。ドアを一つ抜けると、厨房の入り口が目の前にあって、四角い背中をした大きなおじさんたちが忙しく立ち働いているのが見えた。ケーキ屋さんの厨房って、すごく興味があったけど、環たちはそっちには入らず、せまい廊下を曲がって階段を上った。
階段を上りきると、またせまい廊下があり、周囲の壁にドアが幾つかあったが、ちょうど環たちの正面にあるドアに、きれいなリースがかけてあった。何かのつるを編んで作った輪に、常緑樹の葉っぱや松ぼっくりを飾り付け、金色の鈴のついた赤いリボンで結んである。
「さあ、いよいよだよ」
おかあさんは、リースのついたドアの前でいったん立ち止まり、後ろの子どもたちにちらりと笑顔を向けてから、こつこつとノックした。
「どうぞ」
中から、やわらかい、男の人の声が聞こえた。おかあさんがドアノブに手をかけた。
ドアは、軽いきしむ音をたって、ゆっくりと内側に開いた。ドアのすき間から、白い光があふれて、環は目を細めた。次に、かすかな香りと、音楽が、流れてきた。
そこは、ちょっとした応接室という感じの部屋だった。正面に大きな窓があって、白いレースのカーテンが外の風景をやわらかく隠している。照明がとても明るく、すみずみまで光が満ちているので、灰色のどんよりした曇り空の下に、さっきまでいたことが、なんだか嘘のように感じられた。向かって左側に、立派な書棚とクローゼットがあって、右側の壁には、森と湖の風景を描いた大きな版画が飾られていた。真ん中にソファーが、小さなセンターテーブルを挟んで向かい合っていた。ソファーには、深い緑の地に赤い小花模様を一面に散らしたきれいなカバーが、ゆったりとかぶせてあった。部屋の中はエアコン暖房でとても暖かく、空気も清浄で、モーツァルトによく似た耳に快い音楽が、まるで空気に溶け込んだやわらかいシーツのように、環たちをやさしくとりかこむ。
やがて、環たちの視線は、部屋の中で、そこだけ光るように赤いものが立っているところへと、吸い込まれた。
環は、いつしか、まぶしげにサンタを見つめている自分に気がついて、はっとした。環はあわててサンタから目をそらすと、からみついた魔法をふりほどくように、ぶんぶんと頭をふった。そうしてやっと冷静さを取り戻すと、今度はもうだまされないぞとばかり、両目に、ぎりっと力をこめて、サンタをじろじろ観察した。
サンタの来ている服は、ビロードかスエードのような、深い光沢のある布でできていて、全身ムラなく鮮やかな赤に染められていた。袖口や裾に少し灰色がかった白い毛皮の飾りがついていて、前ボタンは金色。足もとには焦げ茶色の革ブーツをはき、同じ色のベルトが大きなおなかまわりをめぐっていた。部屋の中だからだろうか、帽子はかぶっていなくて、つやのいいはげ頭が、てらてらと照明をはねかえしている。
へえ、ちょっとは凝ってるじゃないと、環は意地悪く思った。クリスマスの商店街なんかでよく見かけるサンタは、綿でできたおもちゃみたいなヒゲだとか、薄手の安っぽい風だとかを着てたりするものだけど、その点このサンタはすごく真に迫ってて、見た目にも上等な服を着ている。
サンタの服を着たおじいさんは、ソファーカバーとおそろいのカーテンのそばに立って、にこやかに笑いながら環たちに向かって腕を広げて立っていた。そのポーズが、なんだかあまりに芝居じみていたので、環はおしりの辺りがもぞもぞするような居心地の悪さを感じ、あわててすぐ前のソファーカバーに目を移した。
(あ、これ、きれい)
よく見ると、カバーの中に咲いているのは、きれいな赤いミニバラで、こまやかな花びらの感じが、すごくきれいに描かれていた。深い緑の地に、オレンジがかった赤いバラが、一面に咲きほこっている。花々の間には、くすんだ金色と薄いブルーをからめた葉っぱが踊るようにからみあっていて、ところどころに真珠のような露が宿っていたりする。こんなきれいな模様の布は、ちょっと見たことがない。サンタのインタビューなんてばかばかしいと思うけど、とりあえずこのカバーだけはよしとした。今度絵を描くとき、この色合いを参考にしてみよう。
(つづく)
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