CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

五色塚古墳への訪問記 on 2024-9-24

2024年09月25日 05時13分33秒 | 神戸情報
2024年9月24日、久しぶりに五色塚古墳に行ってきましたので写真紹介します。

上の写真は駐車場付近から撮った五色塚古墳と小壺古墳(右手の円墳)
上の写真は階段から撮った後円部の葺石
斜面には葺石(ふきいし)が葺かれその数は223万個 重量にして2,784トンあります。
上の写真は後円部の埴輪群と背景の明石海峡大橋
埴輪は総数2,200本と推定されています
上の写真は後円部の東側の埴輪群



上の2枚の写真は後円部より後方部を撮った遠景

上の写真は小壺古墳

上の写真は入口部
五色塚古墳の整備50年の旗が掲げられていました。

上の写真も入口に入ってすぐの写真
上の写真は垂水観光大使「ごしきまろ」


上の2枚の写真は2026年春に完成予定の五色塚古墳ガイダンス施設のイメージ
金網のの中にこの施設が建設されます。
上の写真は現地管理事務所内の展示
上の写真はこうべ花時計のモチーフとなった五色塚古墳

現地説明板



整備前の写真

上の写真は1960年以前の五色塚古墳

上の写真は1966年頃の五色塚古墳

五色塚古墳の住所及び見学の案内
神戸市垂水区五色山4丁目1−22 (現地管理事務所)
 現地管理事務所のTEL:078-707-3131(団体の見学申し込み等)
開園時間:9:00~17:00 入園料:無料
休園日:毎週 月曜日、年末年始

Googleマップを添付しておきます。




リーフレット
 2020goshikiduka_leaflet.pdf (kobe.lg.jp)

五色塚古墳の概要
 五色塚古墳は3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、
 後円部で18mである。
 (上段の長さは約150m中段の長さは約170m下段の長さは約194m)
 後円部の直径は墳頂で約30m、段部で約72m中段で約100m、下段で約125mである。
 兵庫県下で最大の古墳である。築造年代は4世紀末と推定されています。
 被葬者は明石海峡及び海陸交通を支配した豪族と推定されています。
 斜面には葺石(ふきいし)が葺かれその数は223万個 重量にして2,784トンあります。
 葺石は下段のほうは地元の古墳周辺から集められた小石で上段部になると大きなものだと
 直径30cmくらいにもなり淡路島から運ばれてきたと推定されています。
 「日本書紀」に「仲哀天皇の偽陵をつくる為に淡路島から船で運んだ」との記述あり。
 葺石は太陽光を乱反射する効果をもたらし、明石海峡を往来する船からよく見えたようです。
 五色塚古墳は奈良県にある佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(全長208m、高さ約20m)と
墳形が似ています。埴輪においてもその関係性が指摘されておりヤマト王権と深い関係に
あると考えられています。
 さらに出土した埴輪は総数2,200本と推定されています。
但し、昭和40年(1965)~昭和49年(1974)の発掘調査で取り上げられてたのは600本で
 600本のうち約半数を2002年から2004年にかけて接合復元。その結果円筒埴輪、
 朝顔形埴輪48本を復元。これらは2010年度に国の重要文化財に指定
 五色塚古墳の西側には直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」があります。

上の写真は五色塚古墳の構造と寸法が入ったパネル 
令和3年(2021)度、神戸市埋蔵文化財センター春季企画展 国史跡「五色塚古墳の歩み」 
の展示より


垂水歴史館で掲示の整備前の写真 




上の2枚の写真は復元前の五色塚古墳 昭和39年(1964)
撮影:2024年1月27日
出典:垂水センター街 特別展示 垂水歴史館

過去に入手した説明パネルなどの写真















五色塚古墳と小壺古墳をイメージして作られたベンチ

上の写真は神戸市垂水区役所が入っているビル「レバンテ2号館」の1階に最近、設置された
五色塚古墳と小壺古墳をイメージして作られたベンチ 撮影:2024-4-9

上の写真は2024年4月?に設置のベンチに関する説明パネル

関連ブログ











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弥生の御朱印巡り 兵庫県播磨町 大中遺跡の御朱印 on 2024-3-6

2024年09月23日 04時52分14秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、播磨町の県立考古博物館に隣接してある播磨町郷土資料館で
標題の大中遺跡の御朱印を貰いましたので写真紹介します。

上の写真が2024年3月6日にいただいた大中遺跡の御朱印

全国の著名な弥生遺跡関連の施設で御朱印が貰えます。
下の2枚の写真がそのリストです。

 関連サイト:




弥生時代関連26遺跡29施設の連携企画「弥生の御朱印巡り〈全国版〉」は
令和5年(2023)10月7日(土)より始まっています。


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きょうは何の日 9月22日

2024年09月22日 16時01分09秒 | Weblog
きょうは何の日、9月22日
6時台のNHKラジオは「今日は何の日」で次の項目をピックアップしています。

 ■1968年(昭和43年)アブ・シンベル神殿の移転工事が完了
   エジプト、アスワン・ハイ・ダム建設に伴うアブ・シンベル神殿の移転工事が完了。

 ■1970年(昭和45年)マスキー法が成立
   マスキー法とは、米国で主に車による大気汚染の抑制を目的とした大気清浄法で
   1970年9月22日、米国の上院を通過した。 

 ■1985年(昭和60年)米プラザ合意
   プラザ合意とは、1985年9月22日に米ニューヨークのプラザホテルで行われた
   G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)での米ドル高是正を目的とした
   協調行動に関する合意 

 ■1988年(平成10年)台風7号で室生寺五重塔屋根が壊れる

上の写真は女人高野室生寺の五重塔 撮影:2011-5-6
  訪問記は下記ブログで書いています。
   
日刊スポーツの「今日はどんな日」9月22日では下記話題を取り上げています。
  ■1862年(文久2年) 南北戦争の真っただ中、リンカーン米大統領が奴隷解放予備宣言を布告 

  ■1994年(平成6年)消費税を3%から5%に引き上げる税制改革大綱が閣議決定。97年実施

  ■1999年(平成11年) 「ブルースの女王」歌手淡谷のり子さんが92歳で死去 


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令和6年度 神戸市埋蔵文化財センター秋季企画展 「ヤマトとコウベ」が9月21日より始まります

2024年09月21日 05時58分16秒 | 神戸情報
令和6年度 神戸市埋蔵文化財センター秋季企画展 「ヤマトとコウベ」
副題:ー邪馬台国時代時代を探るーが本日(9月21日)から始まります。

案内のリーフレットを添付しておきます。
興味のある方は是非、観覧してください。

上の写真はリーフレットの表面

上の写真はリーフレットの裏面

参考として卑弥呼の生きた時代の年表を添付しておきます。

卑弥呼の生きた年代
生誕:不明 死去:248年頃
関連事項 189年頃 共立される(魏志倭人伝より)倭国大乱は147年から189年
     239年、243年、247年 魏に使者を送る(魏志倭人伝より)
     239年 卑弥呼がナシメ(難升米)を使者として魏に送る
     魏の王より卑弥呼の使いが100枚の銅鏡、金印を賜ったことで有名
         金印には「親魏倭王」と刻印されている。
     240年 魏の使者梯儁(ていしゅん)が卑弥呼のところにくる
       この頃、邪馬台国と狗奴国(くなこく)との争いが激しくなる
     243年 卑弥呼がウキグ(伊声耆)、ヤクヤコ(掖邪狗)を魏に送る
     245年 卑弥呼が魏の使者に送る。狗奴国との様子を告げる。
     247年 卑弥呼、狗奴(くな)国王と戦う
     248年 卑弥呼死去後内乱起きるが宗女台与(とよ)が女王となり治まる
         邪馬台国が狗奴国を滅ぼす
     266年 邪馬台国女王台与( 壱与)、西晋に献使
     こののち日本では国内の統一が進み大和朝廷が成立する。

2017年3月28日に訪問した大阪府立弥生文化博物館の展示及び資料より
卑弥呼に関連する資料をピックアップして写真紹介します。
出典が非表示の写真は大阪府立弥生文化博物館の展示からです。

卑弥呼の登場によりムラの段階からクニ(邪馬台国)へと移行していった
ことを説明したパネル
写真に卑弥呼の館(1番上の建物)が描かれています。
吉野ケ里遺跡は佐賀県吉野ケ里町と神埼市にまたがる遺跡群。国内最大規模の環濠集落跡がある。
弥生時代前期に2・5ヘクタールだった集落が中期に20ヘクタール、後期には
40ヘクタール超に拡大しており、小さなムラがクニに拡大する過程が確認できるとして
1991年に国特別史跡に指定された。
約600メートル続く甕棺墓(かめかんぼ)列や、銅剣などを副葬した弥生時代中期の有力者の墓が見つかっている

邪馬台国の組織
上の写真は邪馬台国の組織図
出典:歴史人 2023年10月号(No.154) Page34
卑弥呼が生きていた頃、万物を支配する力を人々は「神」と呼んでいた。
山にも海にも川にも、その他すべてのものには「神」が宿っていると考えられていました。
神に一番近いのが遠い祖先の霊。祖先の言葉を理解し、神の声を聞き取ることが出来る人を
「巫女」と呼び人々は崇めた。卑弥呼は巫女でも一番偉い巫女の女王。
邪馬台国の女王でもあった。卑弥呼には弟王のトネリが居た。
卑弥呼には夫はおらず、弟の王が卑弥呼を助け、政治の補佐をして国を治めていた。
トネリには側近で邪馬台国の政治を取り仕切っているナシメ(難升米)がいた。
卑弥呼が女王になって以降、卑弥呼の顔を見たものは皆無であった。
卑弥呼の言葉は全て弟王によって人々に伝えられた。

箸墓古墳の関する説明パネル

上の写真は箸墓古墳が卑弥呼の墓の候補であるとした根拠を示す土器のAMS年代測定結果
を説明したパネル  

卑弥呼の館

上の写真は卑弥呼の館の模型展示


上の2枚の写真は復元 卑弥呼の館 縮尺模型1/50
右半分(上) 左半分(下)
上の写真は卑弥呼の住まいの中心部 卑弥呼は神殿の奥に住んでいます。


卑弥呼の宝石箱


上の写真は吉野ケ里遺跡の出土品を復元した「胸飾り」と「ガラス管玉」
出典:兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」2021年7月4日、観覧 

卑弥呼と鏡の世界
魏の年号である景初3年(239)卑弥呼は魏へ使いを送った。これに対して、魏の皇帝の曹芳は
卑弥呼を親魏倭王に封建した。さらに銅鏡100枚を授けた。
景初3年の年号の入った三角縁神獣鏡は島根県の神原神社古墳より1面出土している。
この三角縁神獣鏡は卑弥呼が連合国に分与した1枚であるという説もあるが疑問視されている。





漢委奴国王の金印



上の2枚の写真は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印の複製品
と説明パネル。倭の字がにんべんが無いことに注目。
天明4年(1784)福岡市の志賀島(しかのしま)で出土(甚兵衛さんが発見)
重さ109g 一辺2.3cmの角印  現物は福岡市立博物館蔵
上の写真は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印の複製品 の展示
出典:兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」2021年7月4日、観覧 
西暦57年、九州北部の玄界灘に面した奴国の王が中国の都・洛陽に使者を送り金印を授与した。

魏志倭人伝



「中平」年銘の鉄刀

上の写真は「中平」銘の太刀の説明パネル
上の写真は「中平」銘の太刀の展示(左)、卑弥呼の食卓の展示(中)と
卑弥呼の宝石箱の展示と説明パネル(右)の遠景

邪馬台国の候補地


上の写真は邪馬台国とその周辺諸国の推定地(九州説&畿内説)
出典:真鍋和子著 邪馬台国の女王卑弥呼(1997)Page21
上の写真は魏志倭人伝にみる邪馬台国への道
出典:帝国書院 地図で訪ねる歴史の舞台(2016)Page41

邪馬台国の戸数は7万戸ということから畿内又は九州に絞られます

九州北部の弥生遺跡
上の写真は弥生遺跡の中で先進的な技術である銅剣、銅鐸、銅矛、銅戈、ガラス玉、銅釧、鏡
などを製造するための鋳型の遺物を出土した弥生遺跡です。
九州北部では鋳型が出土した弥生遺跡は多く古くから先進的な地域であったことが判ります。


上の写真は鋳型の種別。

近畿地方の弥生遺跡
上の写真は同じく鋳型が出土した近畿地方の主な弥生遺跡
邪馬台国との関連で言えば唐古・鍵遺跡が纏向遺跡(邪馬台国の候補地)のすぐ近くに立地

池上曽根遺跡
上の写真は池上曽根遺跡の発掘の歴史とムラの歴史
上の写真は池上曽根遺跡周辺の地形図(推定図)
上の写真は池上曽根遺跡から出土の木製呪術具(左の2つ)
上の写真は池上曽根遺跡の復元された大型建物



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祝 大谷選手 50-50達成 on 2024年9月19日(米国現地時間)

2024年09月20日 12時21分16秒 | Gooニュース

大リーグ・ドジャースの大谷翔平選手(30)が9月19日(日本時間20日)、
メジャー史上初の「50本塁打、50盗塁」を達成しました。

本日(9月20日)の朝、7時台にNHKBSを視聴していた時に臨時ニュースが有り
知りました。心より祝したいと思います。

試合前、48本塁打、49盗塁であった。

大谷選手はマーリンズ戦に1番指名打者で出場し、1回に三盗、2回に二盗を決めて51盗塁とすると、6回に右翼に2ラン、7回にも左越え2ランを放って50本塁打に到達し、9回に51号右越え3ランを放った。

この日は6打数6安打10打点と大活躍した大谷翔平選手は50-50越えの51-51の大記録も達成した。
チームの勝利にも貢献した。

上の写真は50本塁打を達成した瞬間。
出典:2024年9月20日 8時台のNHK総合テレビ

コメント (1)
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稲荷山古墳で出土の鉄剣の解読結果発表  on 1978年9月19日

2024年09月19日 12時23分26秒 | Weblog
本日(2024年9月19日)のNHKラジオ「きょうは何の日」で
1978年(昭和53年)稲荷山古墳で出土の鉄剣の解読結果が発表されたとの報道がありました。

そこで、本ブログでは解読結果の内容及び雄略天皇の時代(5世紀)の歴史
について紹介します。

稲荷山古墳出土の鉄剣に記載の115字の文字と解釈

上の写真は稲荷山古墳出土の鉄剣に記載の115字の文字と解釈
 出典:詳説 日本史図録 山川出版(2008) Page29

ワカタケル大王=雄略天皇
5世紀後半には大王という言葉が使用され大王の権力が東国から九州まで及んで
いたことが埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣や熊本の江田船山古墳から出土の
鉄刀から伺える。


雄略天皇関係図
上の写真は武=雄略天皇を中心とする系図です。
 出典:歴史群像シリーズ特別編集 古代天皇列伝 学研(2010)Page67

稲荷山古墳の概要
上の写真は埼玉古墳群の稲荷山古墳
出典:2017年12月14日、NHKBS 英雄たちの選択
「古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略~半島危機と倭の五王~」

上の写真は埼玉県行田市の埼玉古墳群の全体の地図
出典:白石太一郎著 古墳の語る古代史 岩波書店(2000) Page167



5世紀の関連年表
上の写真は5世紀の年表
出典:2017年12月14日、NHKBS 英雄たちの選択
「古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略~半島危機と倭の五王~」
宋に朝貢し、称号を与えられた倭の五王に関する記事がメイン

倭の五王に関する年表

上の表は倭の五王に関する年表
 出典:歴史人 別冊 合本古代史の謎 KKベストセラーズ(2014)Page98

倭の五王と天皇


上の写真は上述番組(NHKBS 英雄たちの選択)で示されたもので倭の五王と天皇の対応表である。
最初の二人、讃と珍は事実であるか疑わしい推測なのだが、済・興・武の三人に関しては
現在、確実視されている。

『日本書紀』などの天皇系譜からは「讃」→第17代履中天皇、「珍」→第18代反正天皇、
「済」→第19代允恭天皇、「興」→第20代安康天皇、「武」→第21代雄略天皇
  注)現在の令和天皇は第126代

日本書紀に見られる系図
上の写真は日本書紀の記述をもとに系図で表したもの
 出典:歴史人 別冊 合本古代史の謎 KKベストセラーズ(2014)Page98
「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇と
する説などがある。

倭国の宋への朝貢
5世紀の関連年表の項で記述されているように倭の五王の時代(讃、珍、済、興、武)
には中国の南朝である宋に対して朝貢し宋より「安東将軍・倭国王」や「安東大将軍・倭国大王」
の称号を叙授しています。
武=雄略天皇の時代には大王家(天皇家)の優位が確立され、冊封体制から抜け出した
約100年後の700年の遣隋使の派遣まで中国王朝との外交関係は断絶となります。

西暦 干支 代 天皇名

394年 甲午 十五代 応神

427年 丁卯 十六代 仁徳

432年 壬申 十七代 履中

437年 丁丑 十八代 反正

454年 甲午 十九代 允恭

489年 己巳 二十一代 雄略

527年 丁未 二十六代 継体

珍は反正(はんぜい)天皇である可能性が高いが古事記の没年からは整合性がない。

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神戸市立外国人墓地の概要と歴史

2024年09月17日 17時28分58秒 | 神戸情報
神戸市立外国人墓地の歴史と概要を調べてみた結果を紹介します。

神戸市立外国人墓地の概要
 昭和12年(1937)再度公園が開設、修法が原外国人墓地の建設工事開始
 昭和16年(1941)修法が原外国人墓地1次工事終了するが太平洋戦争勃発で放置される
 昭和26年(1951)修法が原外国人墓地2次工事終了(12月)
    修法が原外国人墓地に小野浜外国人墓地移転(22ヵ国、666人改葬)
 昭和36年(1961)
    修法が原外国人墓地に春日野外国人墓地移転(40ヵ国、1,406人改葬)

 再度公園内に設けられた神戸市立外国人墓地は面積約14ha(2万2千坪)
 慶応3年(1867)から現在まで61区画2900人の方 が埋葬されています。
 平成19年(2007)2月、再度公園や再度山永久植生保存地とともに国指定の名勝として指定



上の2枚の写真は2018年11月17日に訪問した時に撮った現地の説明板

説明文をそのまま転記しておきます。
神戸市立外国人墓地
Kobe Municipal Foreign Cemetery

神戸の外国人墓地の歴史は、兵庫開港に先立つ慶応3年(1867年)5月の欧米外交団と日本政府との合意書調印にはじまります。その年のクリスマスに、当時外国人の居留していた地域に隣接する今のフラワーロード(旧 生田川尻)の東側、小野浜(現在の神戸市中央区浜辺通り付近)で最初の埋葬が行われました。翌明治元年(1868年)元旦には兵庫の港が外国貿易のため、公式に開かれ、外国人居留地が設けられました。その後、明治31年(1898年)に小野浜墓地は一杯になり、翌年閉鎖され、青谷付近の春日野、現在の神戸市中央区篭池通4丁目(旧 上春日野町)に外国人墓地が設けられました。昭和5年(1930年)に至り、現在の修法ヶ原に外国人墓地を移転する提案がなされますが、昭和13年(1938年)7月5日の阪神大水害や第二次大戦をはさみ、昭和27年(1952年)5月から8月にかけて、小野浜墓地666基をはじめ、歴史的記念碑や樹木が移されました。昭和29年(1954年)5月には春日野墓地が閉鎖され、昭和35年(1960年)10月に修法ヶ原へ移転がはじまり、1406基の移転が完了する昭和36年(1961年)10月11日に現在の墓地の開園式が行われ、現在に至っています。なお、春日野墓地移転にあたっては28基の墓が、横浜など神戸以外の土地へ移されています。
現在、この墓地には、明治以来日本とかかわりをもった外国人やその日本人妻など約2800柱が埋葬されています。そして、初代神戸港長J・マーシャルや造船など近代産業の発展に鉱石のあったE・H・ハンターはじめ、神戸の洋菓子の礎をつくったFDモロゾフ、フロインドリーブ、ハインリッヒ、私学振興に尽くしたE・タルカット、J・Wランバス、外国人スポーツクラブKR&ACを創り近代スポーツの振興に尽くしたA・C・シムなど多くの著名人も異国での眠りについています。

概要
面積 約14ha 墓碑数 約2,300基
慰霊碑 3基 記念碑 2基

2018年3月
神戸市

神戸市立外国人墓地の歴史
 慶応3年(1867)4月13日(新暦換算1867年5月16日)
  幕府と条約国が取り決め「兵庫港井大坂ニ於テ外国人居留地定ムル取極」
  11条で外国人墓地は「居留地背後の山手」と取り決めた
 慶応3年(1867)12月(旧暦)   
  神戸港開港式に臨席する各国の代表者を乗船運行した外国艦隊乗組員4名が死亡
  山手の外国人墓地は未着手であったので、4名は急ごしらえの「小野浜外国人仮墓地」に埋葬
 慶応4年(1868)1月 
  大阪湾で米国艦隊ベル提督の小型ボートが転覆し提督・副官・下士官兵ら合計
  10名が死亡し「小野浜外国人仮墓地」に埋葬された
 明治32年(1899)5月 
  居留地返還(7月17日)の2ヶ月前に春日野外国人墓地完成
  1868年開港以降外国人墓地の管理は外国人により管理運営されていたが
  居留地返還後は神戸市に管理は移行した。
 昭和12年(1937)再度公園が開設、修法が原外国人墓地の建設工事開始
 昭和16年(1941)修法が原外国人墓地1次工事終了するが太平洋戦争勃発で放置される
 昭和26年(1951)修法が原外国人墓地2次工事終了(12月)
    修法が原外国人墓地に小野浜外国人墓地移転(22ヵ国、666人改葬)
 昭和36年(1961)
    修法が原外国人墓地に春日野外国人墓地移転(40ヵ国、1,406人改葬)


神戸市立外国人墓地公開の情報
 神戸市立外国人墓地は4月から11月の第4日曜日 8回/年公開されています
 その情報を紹介します。

 
上の写真は2018年11月17日に訪問した時に撮った現地の説明板

上の写真は2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット

神戸市立外国人墓地の地図など
上の写真はGoogleマップに神戸市立外国人墓地の配置図を記載

上の写真は現地説明板にA区からD区及び小野浜墓地からの移転分の位置を明示

主な埋葬者、記念碑

芝生地区
 ゴードン・スミス


上の2枚の写真はR.ゴードン・スミス(1858-1918)の墓碑と芝生墓地の遠景
身寄りの無い人々が百数十柱、眠っています。
撮影:2018年11月17日

各地区は宗教・宗派別に区分されています。

A地区 ゾロアスター教 A1,A2 回教A3 ユダヤ教
 

B地区 プロテスタント・カトリックB1 カトリックB2
 J.R. ドルウェル ラインの館の建築主

C地区  ギリシャ正教、ロシア正教 C1~C6
 モロゾフ 製菓
 上の写真、左手はモロゾフの墓碑 (ロシア正教の墓碑)
  出典:2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット
 
D地区 プロテスタント D1~D6
 エドワード・ハンター D1区(⑭)-17 造船業(日立造船の前身)

 

小野浜墓地からの移転分 ㉑ 1区~7区
 米艦隊遭難者の慰霊碑  1区 10~23
  慶応3年(1867)12月15日(新暦換算1868年1月11日)、大阪湾での海難事故の死者12名を慰霊


 上の2枚の写真は神戸開港直後に大阪湾で遭難死した人々の慰霊碑
  撮影:2018年11月17日
 
 堺事件の死者の墓碑 6区
 
上の写真は堺事件で犠牲になった仏水兵11名の墓とモニュメント。 
撮影:2018年11月17日

 ジョン・マーシャル  4区-15 初代神戸港長
上の写真はジョン・マーシャルの墓碑
出典:2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット

 A.C.シム  3区-1 KR&ACの創設者、薬剤師
上の写真はA.C.シムの墓碑
出典:2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット

上の写真もA.C.シムの墓碑
撮影:2018年11月17日

ウォルター・ランバス 3区-52 関西学院創設者

上の写真の中にウォルター・ランバス氏の墓碑があるそうです
出典:2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット

H.A.スティーブンス 4区-25 岩国で教育に尽力

ジョン・ウォルシュ 製紙業

上の写真は山口リンと共に修法ガ原の神戸市外国人墓地に眠るジョン・ウォルシュの墓碑
撮影:2018-11-17

上の写真は小野浜墓地からの移転分の遠景
出典:2018年11月17日に訪問した時に入手したリーフレット


㉔の位置
 タルカット 11区-6号-1 宇治野英学校(のちの神戸女学院)の開設に尽力 した米国人女性宣教師
  

墓地入口
 勇士の慰霊塔

上の2枚の写真が勇士の慰霊塔です。 撮影:2008年8月18日
  

神戸市立外国人墓地について過去に書いたブログ









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2024年9月の神戸市の最高気温と最低気温

2024年09月12日 04時29分26秒 | 神戸情報
9月に入っても真夏日が続く毎日です。
昨日(9月11日)19時前のNHK総合テレビで標題のデータが気象予報士の南さん
から紹介されました。非常に判り易い図なので記憶のためにブログとしました。


9月9日の35.9度Cの猛暑日は過去1番遅い猛暑日との解説もありました。

関連サイト:

全国的に見ればそれでも神戸の最高気温はましな方だと思います。

熱中症に充分注意してお過ごしください。

足などの痙攣(こむら返り)も熱中症の症状の一つと考えられています。
こむら返り対策としてブログを作成しています。ご参照ください。


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徳川家康の戒名はなんと19文字の長い戒名です

2024年09月11日 05時21分59秒 | Weblog
徳川家康の戒名は「東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」
読み方は「とうしょうだいごんげんあんこくいんでんとくれんしゃすうよどうわだいこじ」で
なんと19文字の長い戒名です。

遺言に沿って、仏式の神道説により家康公の御霊を「東照社(東照宮の前身)」に
東照大権現として祀り、増上寺から「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という戒名を授かった

参考として一番短い戒名は幸田露伴の「露伴」

徳川家康(1542年-1616年)の墓所は以下の通りです。
 ・久能山東照宮(静岡県)
 ・日光東照宮(栃木県)
 ・高野山(和歌山県)
 ・南宗寺(大阪府)
 ・圓光寺(京都府)
 ・大樹寺(愛知県)

各墓所について下のサイトで詳しく書かれていますのでリンクさせていただきました。

最近、覚園寺の重要文化財 石造宝篋印塔(開山塔と大燈塔)を調べていた際、
東照宮奥社宝塔(徳川家康の廟)を見つけたので写真紹介します。

上の写真は徳川家康の墓(東照宮奥社宝塔)
出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page 74
著作権失効

この神域は昭和40年(1965)350年大祭以降は特別に公開されています。
徳川家康はこの地に、没後1年経った元和3年(1617年)に改葬されたと言われています。
高さは5mほどあり、もともとは元和8年(1622)に木造で創建されましたが、寛永18年(1641)に石造に改められました。さらに地震で倒壊した為、天和3年(1683)に
鋳銅製に改められました。1908年8月1日に国の重要文化財に指定されました。

今回作成のブログは内容が薄いので重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)
Page 74より徳川家3代将軍(徳川家光)、4代将軍(徳川家綱)、5代将軍(徳川綱吉)の
墓の写真を添付して筆を置きます。いずれも重要文化財に指定されています。



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藤原道長の御岳詣がNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で放送される

2024年09月10日 05時24分51秒 | Weblog
9月8日放送のNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で寛弘4年(1007)
世の安寧と一条天皇中宮「彰子」の懐妊を祈願するため御岳詣(金峯山への参拝)に
時の権力者「藤原道長(966-1027)」が嫡男の藤原頼道、中宮権大夫の源俊賢を
伴って京を出立する場面が放送されました。(下の2枚の写真)




御岳詣について
宇多天皇は899年に出家し宇多法皇となったその翌年(900年)頃に金峰山寺に参詣し御岳詣の
先駆となった。その後、藤原道長や師通ら皇室や有力貴族が登拝してからは
「御嶽詣」が盛んに行われるようになっています。
金峯山寺の中興の「聖宝」が参拝路を整備したことも貴族の参詣を呼び込む事となりました。
平安時代は末法思想の広がりにより、当時の貴族や多くの人々は56億7千年後の
弥勒如来の出現と仏法の再生を願い経塚の造営を盛んに行っています。


本ブログではその場面を紹介すると共に実際の旅程を御堂関白記の記述から
御岳詣の前後の記録を辿っていきます。月日はすべて旧暦

寛弘四年(1007年) 八月二日 都を出発

  二日、乙巳。金峰山に参る。丑時を以て出立す。御物忌に立つ。門を出づる間、塩湯を以て衆人に灑ぐ。中御門より西行し、大宮より南に出づ。二条より朱雀門大路に到る。礼橋の下にて解除す。羅城門より出で、鴨河尻にて舟に乗る。時に辰。八幡宮に参る。午時、奉幣す。諷誦。信布三十端。宮より出づ。身主渡より東に渡る。内記堂と云ふ処に宿す。

 寛弘四年(1007年)八月三日 奈良に到着
 三日、丙申。大安寺に宿す。扶公、事を儲く。華美に依りて、其の処にあらざるに依り、南中門の東腋に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月四日
 四日、丁酉。井外堂に宿す。雨、日を尽くして降る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月五日
 五日、戊戌。終日、雨降る。軽寺に宿す。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月六日
 六日、己亥。天晴る。壺坂寺に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月七日
 七日、庚子。観覚寺に到る。沐浴す。御明・諷誦。信布三十端。現光寺に到る。御明・諷誦。信布三十端。野極に宿す。此の間、雨下る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月八日
 八日、辛丑。終日、雨下る。宿す。

寛弘四年(1007年)八月九日
 九日、壬寅。時々、雨下る。寺祇園に宿す。宝塔にて昼、飯を為す。両寺に皆、諷誦を修し、御燈を奉る。

寛弘四年(1007年)八月十日
 十日、癸卯。時々、雨下る。御在所の僧房金照の房に着す。午時、沐浴し、解除す。

寛弘四年(1007年)八月十一日 大峯山寺への参拝
 十一日、甲辰。早旦、湯屋に着し、水十??を浴む。解除して、御物の前に立つ。小守三所に参上す。金銀・五色の絹幣・紙の御幣等・紙・米等を献ず。護法、又、同じ。三十八所に詣づ。同じく又、幣等を供す。五師朝仁、之を申す。被物を賜ふ。次いで御在所に参り、綱二十条・細盖十流を献ず。御明燈を供し、経を供養す。法華経百部・仁王経□□は三十八所の御為、并びに主上・冷泉院・中宮・東宮等の御為。理趣分八巻、八大竜王の為の心経百十巻を、七僧・百僧を請じ、供養し了んぬ。講師・呪願に綾の褂一重、五僧に白き褂一重。
 十一日。百僧に絹一疋・袈裟一条。未前に七僧に法服・甲袈裟を送る。余には宿衣。御燈申上の僧に単重。七僧の布施、□□□□□□□□□□百僧の布施、米二石・信濃三端。諷誦百端。満寺の僧供料、米百石。又、前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。今日より初む。今日、諷誦を修す。五師・三綱に禄を給ふ。別当金照・朝仁等に白き褂一重。自余に単重。権大夫、経を供養す。七僧・三十僧。七僧に疋絹。金照に単重・米三十石を加ふ。□□□源中納言、之に同じ。我が経に次いで、女方、経十部を供養す。我が御明の百万燈、皆、所々の御為に有り。事了りて所々を見るに、霧下りて、意のごとく見えず。房に還る。金照に褂を賜ひ、即ち下向す。夜に入りて、寺に宿す。祇園

寛弘四年(1007年)八月十二日
 十二日、乙巳。天晴る。宝塔に着く。膳を進る。又、金照の申すに依りて、石蔵に着く。金照の房を定む。其の寺、甚だ美なり。膳を進る。即ち野極に立つ。馬に乗る。下道より水辺に着く。頼光・維叙・業遠等、来たる。余の人々、誡に依りて、来たらず。夜に入りて、宿す。

寛弘四年(1007年)八月十三日 舟で大和川を下る
 十三日、丙午。天晴る。広大野より□□に着す。国司、膳を儲く。仮屋数屋を立つ。国司に馬を給ふ。泉河の岸上の仮屋に着す。大和守の為す所なり。即ち舟に乗る。

寛弘四年(1007年)八月十四日 都に帰着
 十四日、丁未。暁、淀に来たりて、車に乗る。鴨河の精進所に着す。精縄を以て解除す。土御門に着す。即ち大内、并びに東宮に参り、退出す。

大峯山寺、藤原道長が奉納した経塚、経筒を含めて下記ブログで詳述しています。
 

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