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創生期の洋紙産業とウォルシュ兄弟

2019年01月12日 04時57分16秒 | Weblog
日本の洋紙の黎明期又は創生期と言われるのは明治7年(1874)から明治12年(1879)に
かけて7つの工場が出来て生産を始めた時期をさします。

本稿では明治12年(1879)4月に上質紙の製造を開始した神戸製紙所(後の三菱製紙)の
創業期に経営に関与したウォルシュ兄弟に焦点を当てて創生期の洋紙産業の概況についても
併せて書いていきます。


参照資料

1)神戸みなと知育講座 Part10 神戸開港150年記念 150年を彩る人々(その2)
   神戸ものづくりはじめ物語:機関車・紙から船まで
    トレビシック兄弟、ウォルシュ兄弟、キルビー、ハンター
     2018年11月24日 神木哲男先生 講演資料

2)紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)


3)古代製紙の歴史と技術 Dard Hunter著 久米康生 訳 (2009)


4)紙の源流を尋ねて 『月刊紙パ』抜刷集  高尾尚忠 著 室町書房(1994)


5)外国人居留地と神戸 田井玲子 著(2013)


1.ウォルシュ兄弟

 トーマス・ウォルシュ Thomas Walsh 文政10年(1827)~明治33年(1900)
 ジョン・ウォルシュ  Jhon Walsh  文政12年(1829)~明治30年(1897)

 ニューヨーク州ヨンカーズYonkersでアイルランド系移民の子として生まれる。
 長男はリチャードRichard、次男トーマスThomas、三男ジョンJhon、四男 ロバートRobert

 安政5年(1858)インド・中国を舞台に活躍していたジョンが上海経由で長崎にやって来て
 安政6年(1859)長崎の居留地12番にウォルシュ商会を開いた。兄のトーマスは遅れて来日。
 ウォルシュ商会は機械、武器、船舶の輸入を手がけ、生糸、茶、樟脳を買い付け輸出した。
 ジョンは安政6年(1859)~元治2年(1865)アメリカ合衆国初代長崎駐在領事を務めています。
 文久2年(1862)頃にジョンは日本人の山口リンと結婚し、娘アイコ(1864-1910)を設けた

 安政6年(1859)、横浜の居留地1番にジョージ・ホールと共にウォルシュ・ホール商会を
 創設(通称アメリカ一番=亜米一)し生糸、茶、樟脳を扱う。




上の写真は山口リンと共に修法ガ原の神戸市外国人墓地に眠るジョン・ウォルシュの墓碑
撮影:2018-11-17


出典:https://www.findagrave.com/memorial/78443375

   
https://books.google.co.jp/books?id=Si-NAgAAQBAJ&pg=PT216&hl=ja#v=onepage&q&f=false


https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man06.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルシュ兄弟

ウォルシュ兄弟の肖像については下記のサイトで参照することができます。
 https://www.findagrave.com/memorial/78443375/john-glia-walsh


2.ウォルシュ兄弟の来神

 明治元年(1868)の神戸開港と同時に来神、居留地第1回競売(1868-9-10)で
 居留地2番(527坪)にウォルシュ商会(Walsh & Co.)を開業、後に
 ジョージ・ホールと共にウォルシュ・ホール商会(Walsh,Hall & Co.)を開設
 商会の事務所及びThe Japan Paper Making Co.の事務所として使用されます。


3.製紙業の活動経過

 明治5年(1872)、英米人に呼びかけ5万ポンドを資本金としてイギリスの法律による
 株式会社を設立、社名をThe Japan Paper Making Co.とした。
  (日本での商法公布は明治26年以降のことである)
 資本金の半額をウォルシュ兄弟が出資していた。

 明治7年(1874)、雑居地外の海岸沿いの莵原郡小野浜新田の土地を借り受ける
 ことを申請したが許可が得られず、明治8年(1875)1月、神戸区三宮町1丁目外29号の
 民有地2,319坪、借用期間25年、地代は坪4銭で借り受け、工場建設を計画。当初は
 英国人のオルコック氏と木綿ボロからパルプ化し米国に輸出する計画であったが
 米国では輸入パルプに高い関税をかけており、日本の石炭も高価なところから採算が
 合わないこともあってパルプ工場を製紙工場に切り替えることとなった。
 明治9年(1876)3月、工場の建設を抄紙会社(後の王子製紙)の建設を手がけた
 鹿島岩蔵(鹿島建設の創業者)に依頼。完成段階で大幅な資金不足が発生。
 他の出資者が手を引きウォルシュ兄弟が経営を引き受けることとなり、明治10年(1877)
 7月、Kobe Paper Millと会社名を変更。
 Kobe Paper Millの経営はウォルシュ兄弟の二男トーマス(Thomas)、
 三男のジョン(John)を中心に長男のリチャード、4男のロバートも事業を補佐した。


上の写真は神戸製紙所の工場があった位置を示したものです。
出典:田井玲子 外国人居留地と神戸 (2013) Page52


上の写真は神戸製紙所の工場のスケッチ
出典:田井玲子 外国人居留地と神戸 (2013) Page187


上の写真はThe Japan Paper Making Co.の人たち(王子製紙社史)
出典:高尾尚忠 紙の源流を尋ねて (1994) Page320


 明治11年(1878)岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟で米国留学の際ウォルシュ商会の親族
 から援助を受けた)から資金不足を補充するため13万円を借用。
 抄紙機はジョンが渡米し米国(ライス・バートン社製)の72インチ(1.88m)円網抄紙機を輸入し
 据付。明治12年(1879)4月より抄造が開始されました。
 抄造関係の技師としては抄紙会社(後の王子製紙)より小野寺正敬(まさのり)を招き
 指導を受けています。小野寺は明治27年まで神戸製紙所の技師長を務めています。
 神戸製紙所は新聞用紙や印刷用紙を抄造しウォルシュ・ホール商会を通して販売して
 いましたが同商会は輸出入目的の会社であるため製品の消化には限度がありました。
 諸経過があって、明治17年(1884)柏原孫左衛門と契約を結ぶことにより関東の一手
 販売店を持つことができました。
 明治20年(1887)には2.13m幅の長網抄紙機を増設した。
 明治22年(1889)5月、Kobe Paper Millから神戸製紙会社と改称
 明治30年(1897)8月 三男のジョンが急死(68歳、小野浜外国人墓地に埋葬)
   次男のトーマス(当時70歳)は事業を整理し帰国を決意により三菱の岩崎久弥は
   ウォルシュ兄弟の持ち分を買い取り。
   トーマスは事業譲渡後スイスに移住 明治33年(1900)、死去
 明治31年(1898)1月、合資会社神戸製紙所を設立
 明治35年(1902)5月 高砂に新工場建設移転
 明治37年(1904)  三菱製紙所に改称
 大正6年(1917)  三菱製紙株式会社となる 


4.製紙所連合会の結成 
 
わが国の洋紙製造業は西南戦争(明治10年=1877)後から始まった不況のもと、販売不振と
輸入紙との競争に喘ぎ、明治13年(1880)製紙会社(後の王子製紙)の渋沢栄一氏などの
主唱で製紙会社、神戸製紙所など同業者の11名が会合して、同業会組織を結成することを決めた。
これに洋紙商も加わって明治13年(1880)12月製紙所聯合会が発足した。

ウォルシュ兄弟は渋沢栄一と共にこの組織結成の功労者である。
製紙所聯合会は近代工業分野で最初の同業者団体で後の日本製紙連合会に繋がっていきます。

5.黎明期の製紙業

冒頭で述べた創生期の7つの工場とは上述した神戸製紙所の他、日本で最初の製紙会社有恒社、
および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、パピール・ファブリックの6つの会社
と明治9年から紙幣用紙の製造が始まった大蔵省紙幣寮抄紙局(現在の印刷局)である。

神戸製紙所を除く5社の沿革について簡単に記していきます。

 (1)有恒社
   旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に明治5年(1872)設立されました。
   工場建設には至らなかったが明治3年(1871)に設立された日本初の製紙会社
   である洋法楮製商社に続く、2番目の製紙会社であった
   有恒社は明治7年(1874)6月に日本で最初の機会漉きの洋紙製造に成功しました。
   工場の敷地は東京府日本橋区蛎殻町3丁目10番地(水天宮付近)の浅野家所有地。
   抄紙機は60インチ長網多筒式(乾燥筒は0.91mφ12筒)。工場の建設はイギリス人
   建築技師トーマス・ウォートルスの手により建設に着手した。抄紙機をイギリスから
   輸入し、工場の操業にあたってはイギリス人技術者のジョン・ローゼルを雇い入れました。
   社長には浅野家の中野静衛 資本金10.7万円。抄紙機代金は4.2万円。
   トーマス・ウォートルスの助手として多少機械知識のある岡田基三郎があたった。
   工場には旧広島藩の者が多く雇用され、授産事業としての側面も有していた。
   操業開始当初は規定の品質は得られず損紙が多くまた機械トラブルによる休業も多かった。
   操業開始後やっと調子も出はじめ筆記用紙や上質印刷用紙、色紙、吸取紙などが製品の
   域に達したものの今度は需要がなく製品を倉庫に貯蔵させながらの操業が続きました。
   明治9年(1876)大蔵省紙幣寮から証券印紙類の委託がありやっと先が明るくなりました。
   さらに明治10年(1877)に西南戦争が起こり新聞の発行部数が急増、工場の在庫は
   一掃されたという。その後も操業を継続していたが、後発の製紙会社の勢力が伸長
   してきたために明治23年(1890)頃になると業績は低迷した。そこで明治25年(1892)、
   全面的に経営を久保順太郎に委任、彼の下で経営改革が行われた結果建て直しに成功した。
   明治39年(1906)、市区改正に伴って工場移転が必要となったため、浅野家は有恒社の
   廃業を決定した。これに対して久保ら工場関係者は、彼らを中心に株式会社を組織して
   浅野家から事業を継承することに決し、明治39年(1906)12月13日、株式会社有恒社
   を設立した。
   工場の移転先は南葛飾郡亀戸町大字亀戸字高貝洲(現・東京都江東区亀戸9丁目)中川と
   竪川の合流地点が選ばれた。浅野家から譲り受けた機械と一部新調した機械を据え付け、
   新工場は明治41年(1908)9月より操業を開始した。
   大正7年(1918)、会社の中心人物であった久保順太郎が死去しため、経営陣は王子製紙
   に出資を求めることに決し株を売却することになった。
   大正13年(1924)王子製紙(亀戸工場)に併合。昭和18年(1943)に閉鎖。


 (2)抄紙会社(王子製紙)
   明治6年(1873)2月、「抄紙会社」が設立された。この会社が初代王子製紙の
   前身である。輸入に頼っていた洋紙の国産化を企図して、この頃官僚から実業家に
   転身した渋沢栄一が中心となって設立した。洋法楮製商社(1871年設立、製造に至らず)、
   旧広島藩主の浅野家が設立した有恒社(1872年設立)に次ぐ、国内で3番目の製紙会社
   である。設立当初は、両替商の三井組(三井財閥の祖、45%)・小野組 (25%)・
   島田組 (10%) と渋沢栄一 (10%) らが出資していた。

   操業開始は明治8年(1875)7月、抄紙機は英国製78インチ(2m幅)長網多筒式
   英国人のチースメン氏(建築)とボットムリー氏(機械)が技術指導。
   操業開始翌年から、政府から地券状用紙の大量発注があり、この官需が創業期の
   立ち上がりを支えた。官需が減退した後は民需に重心を置くようになり、新聞紙や
   雑誌に用いられる印刷用紙を中心に生産することになる。

   明治9年(1876)5月に抄紙会社から「製紙会社」へと改称

 (3)蓬莱社製紙部
   後藤象二郎氏を創立者とした商事会社蓬莱社の製紙部として大阪・中之島に設立。
   操業開始は明治8年(1875)2月。
   機械は英国製60インチ(1.5m幅)技師はイギリス人のウィリアム・マクファーレン氏と
   エーリング・ボーゲル氏。新聞用紙、帳簿用紙、色紙、包紙
   真島製紙所、大阪製紙所(住友系)、下郷製紙所、中之島製紙所など名称変更の後、
   大正15年(1926)樺太工業と合併 昭和3年(1928)工場は廃止。機械は樺太工業の
   真岡工場へ、その後王子製紙の傘下に。

 (4)三田製紙所
   薩摩出身の林徳左衛門を創立者として東京・三田に設立。明治8年(1875)10月開業。
   機械は米国製57インチ(1.45m)の丸網抄紙機。技師はアメリカ人のエム・ゼ・シェー氏
   林徳左衛門は技術習得の為に甥の村田一郎氏をつけました。
   村田氏はその後富士製紙の2代目社長になっています。
   政府は地券用紙の抄造を三田製紙所に命令。三田製紙所は需要量が膨大であるため
   有恒社、抄紙会社、真島製紙所(蓬莱社製紙部)、パピール・ファブリックに協力依頼
   明治12年(1879)マッチ製造会社の新燧社からマッチ用紙の注文がありこの紙は
   日本で最初の産業用紙となりました。明治13年(1880)真島第二製紙所となりましたが
   明治15年(1882)経営困難のため売り戻され、同年12月、工場火災を契機に廃業。

 (5)パピール・ファブリック
   パピールファブリックは明治9年(1876)京都の西郊梅津に開業した京都府営の
   製紙工場です。ドイツ製1.52m幅長網の抄紙機。技師はルドルフ・レーマン氏と
   オットマン・エキスネル氏。
   翌年には明治天皇が行幸された。明治13年(1880)に磯野製紙所
   さらに明治39年(1906)梅津製紙所となり、その後富士製紙、王子製紙、
   日本加工製紙京都工場と変わり、昭和46(1971)年に閉鎖された。

製紙連合会の下記サイトに簡明に説明されていますのでリンクさせていただきました。
  https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_08.html

明治初期の洋紙生産量と輸入量


上の写真は明治初期の洋紙生産量
出典:紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)Page249


上の写真は明治初期の洋紙輸入量
出典:紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)Page245

明治初期の製紙原料
当時はまだ木材パルプが普及される前で原料はボロ着(木綿ボロ)でしたこのため抄紙工場
は集荷に有利な人口密集地の周辺に立地しています。
木材パルプの発明は木材を機械ですりつぶしてパルプを作る方法(GP)をドイツ人の
ケラーが1840年に発明しています。GPはGround Pulpの略。

ボロ着(木綿ボロ)のパルプ化は苛性ソーダ(NaOH)により蒸煮し漂白して製紙原料とした。

日本におけるプルプ化の歴史を観ると、わらパルプは明治15年(1882)、サルファイト
パルプ(SP)は明治22年(1889)富士製紙 気田で、GPは明治24年(1891)富士製紙 第1で
クラフトパルプ(KP)は大正14年(1925)樺太工業(王子)、溶解パルプ用のサルファイト
パルプ(DSP)は昭和5年(1930)樺太工業(王子)で工業化しています。

明治初期の洋紙製造と関係が深いわらパルプについてもう少し詳しく書くと、欧米では
わらパルプの原料に麦わらを使用。日本では麦より稲が多く採れる条件を生かし、稲わら
パルプを独自に開発。明治15年(1882)には木綿ボロ4に対してわらパルプ6の割合で
抄造しています。このわらパルプの開発は洋紙製造にとって革命的な出来事でした。
原料確保問題の解決、品質向上、量産化など沢山のメリットをもたらしました。

洋紙発祥之地記念碑


上の写真はJR王子駅前の十条製紙の旧工場跡地に昭和28年(1853)に建てられた
洋紙発祥之地記念碑(右手)と洋紙発祥の碑の説明板(By 日本製紙)
出典:Googleストリートビュー

碑文と説明板の文章を添付しておきます。
洋紙発祥之地
此地ハ明治五年十一月渋沢栄一ノ発議ニ因リ創立シタル王子製紙株式会社ガ英国ヨリ
機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ発祥ノ地ナリ当時此会社ハ資本金拾五万円ヲ以テ発足シ
同九年畏クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ
縦覧スル所トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ
分割スルニ至ルマデ名実共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク
洋紙業発展ノ一里塚トセン
昭和二十八年十月
藤原銀次郎 撰文
高島菊次郎 篆額
近藤高美 書



洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は、 明治6年 (1873年) ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した
渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し、 ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。
田圃の中、 煙を吐くレンガづくりの工場は、 当時の錦絵にも描かれ、 東京の新名所
になりました。その後 日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、 昭和20年 (1945年)
戦災により その歴史を閉じました。
この碑は、 工場創立80周年を記念し、 昭和28年、 その跡地に建てられたものです。
日本製紙株式会社


碑のある場所の写真(2枚)も添付しておきます。
出典:Googleストリートビュー




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2 コメント

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Unknown (ジョン・ウォルシュの玄孫)
2020-07-06 18:19:06
私事で恐縮ですが、私の高祖父がジョン・ウォルシュでしたので、興味深く拝読致しました。
ジョンと山口りんの娘のアイコ (愛子) が婿養子を取り、子を7人もうけ、その三男が私の祖父でした。
従って私も山口姓です。 祖父の顔はジョンに似ていました。
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コメント御礼 (CHIKU-CHAN)
2020-07-07 04:31:32
ジョン・ウォルシュの玄孫 様
ご丁重なコメントをいただきありがとうございました。この記事を書くのにかなり時間を割いて調査しました。このようなコメントを戴くと大変、励みになります。今後とも宜しくお願いします。
返信する

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