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得能山古墳と念仏山古墳

2019年06月18日 05時34分46秒 | 神戸情報

本日は得能山古墳と念仏山古墳について調べてみました。

まず、遺跡の場所を地図上に示しました。
出典:長田神社境内遺跡第17次発掘調査報告書 神戸市教育委員会(2008-12-26)
    Page3


妙法寺川の右岸には得能山古墳、権現町遺跡、大手町遺跡。妙法寺川左岸には戎町遺跡、
大田町遺跡、鷹取町遺跡などがあります。

苅藻川の右岸には長田南遺跡、御船遺跡、水笠遺跡。苅藻川の左岸には長田神社境内遺跡、
五番町遺跡、御蔵遺跡、念仏山古墳などが分布しています。

得能山古墳

参照サイト遺跡ウォ-カーのサイト

横尾山から東に延びた標高約50mの台地を得能山と言っています。
この台地の突端で大正12年(1923)10月に宅地造成工事中4世紀前後の
古墳が発見されました。この古墳は得能山古墳と命名されています。
所在地の住所は神戸市須磨区板宿町3です。
板宿八幡神社(神戸市須磨区板宿町3-15-25)の北東に立地しています。
得能山古墳は妙法寺川の右岸に位置しています。

遺跡からは竪穴式石室と割竹形木棺(頭部は北側)が発見された。
被葬者は分析の結果、50代の女性と推察されています。
出土の主な遺物は銅鏡2面(半円方形形帯絵模様敷神獣鏡と四葉座内行花文鏡)、
鉄刀・鉄剣・鉄鏃が出土した。現在は国立東京博物館に保存されている。

明神町1丁目に鎮座されていた池ノ宮神社(現在は板宿八幡神社に合祀)付近でも
古鏡四面が掘り出された記録がありますが、残念ながら現在古鏡の行方は不明です。

得能山の名前の由来は建武3年(1336)新田義貞軍に属し、湊川の戦いで
足利尊氏を迎え討つためこの山に陣を張った四国伊予の豪族、得能通俊がその合戦で
自害しましたが、同氏を山上の葬ったとする説があります。


念仏山古墳

参照サイト遺跡ウォ-カーのサイト

苅藻川(新湊川)下流に、全長190mの念仏山古墳があった。
4世紀後半から5世紀にかけての前方後円墳です。
所在地の住所は神戸市長田区浜添通6丁目です。

現在そこに古墳の痕跡は全く認められない。
唯一その名残として地下鉄苅藻駅の南に念仏山地蔵尊が祀られています。
念仏山地蔵尊の所在地の目安はゴミ収集などの環境整備事業者の株式会社イノウエの
事業所(神戸市長田区東尻池町9丁目1-20)の道を隔てた向かいにあります。



上の2枚の写真は念仏山地蔵 Googleのストリートビューより引用
機会があれば現地に赴き写真をとってきたいと思っています。

念仏山古墳の存在が確認されたのは昭和53年(1978)頃から喜谷美宣により
この付近の地形図が検討され確認されています。
報告書は神戸市立博物館 研究紀要:第6号(1989年) 
         喜谷美宣 市街地に消えた古墳 I -念仏山古墳-

具体的には陸地測量部の明治39年(1906)の2万5000分1地形図に瓢形の等高線が確認でき、
明治40年(1907)頃の地積図にも東西方向の山林が確認できる。
大正5年(1916)頃まで旧苅藻川東岸(左岸)に高さ5mの小山が残存していたという。
長田近辺は明治の後期から産業化が始まり大正5年(1916)に工場用地となり、
今はミヨシ油脂などが進出しています。

垂水の五色塚古墳と同じ型の鰭付き埴輪もでています。

念仏山古墳は五色塚古墳とほぼ同じ規模の古墳(前方後円墳)で瀬戸内海を往来する
船からその威容を確認できたと思われます。


得能山古墳と念仏山の古墳の被葬者について下記サイトで検討されていますので

リンクさせていただきました。

 得能山古墳と念仏山古墳は誰の墓か|upbluesky|note


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