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寛弘4年(1007)8月11日藤原道長の金峰山への参拝と金峰山経塚出土品

2024年01月25日 13時36分57秒 | Weblog
NHK大河ドラマ「光る君へ」が1月7日よりスタートしました。
紫式部と共に時の権力者「藤原道長(966-1027)」が描かれていくと思います。
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そこで、本日は「御堂関白記」に記載されている金峰山大峰山寺(役行者霊蹟札所巡礼 9番札所)
への「藤原道長」の参詣記録と国宝の金銅製藤原道長経筒を中心に話を進めていきます。
金銅製藤原道長経筒(国宝)

上の写真は国宝の金銅製藤原道長経筒
出典:重要文化財29 考古Ⅱ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page 67 
高さは30.1cm。銅に金メッキされています。筒の底には作者と考えられる「伴延助」の銘。
金峰山経塚からの埋納品の中でも最古級のものである。


上の写真は国宝の金銅製藤原道長経筒の表面に書かれた文字
金峯山寺の経塚から発見された経筒には24行511字が刻まれています。

宇多天皇は899年に出家し宇多法皇となったその翌年(900年)頃に金峰山寺に参詣し御岳詣の
先駆となった。その後、藤原道長や師通ら皇室や有力貴族が登拝してからは
「御嶽詣」が盛んに行われるようになっています。
金峯山寺の中興の「聖宝」が参拝路を整備したことも貴族の参詣を呼び込む事となりました。
平安時代は末法思想の広がりにより、当時の貴族や多くの人々は56億7千年後の
弥勒如来の出現と仏法の再生を願い経塚の造営を盛んに行っています。
日本で最も早く確実な経塚造営は寛弘4年(1007)の藤原道長による造営です。
埋納した円筒形の金銅製経筒の表面には奉納した法華経は釈迦の恩に報い弥勒に遭い
蔵王権現に親しむためであり、弥勒経は弥勒仏がこの世に現れ、衆生救済の際の龍華会に
赴きたいといった旨の言葉が刻まれています。
出土したのは元禄4年(1691)で金峰神社に伝えられています。

藤原道長の御岳詣
御堂関白記の記述から御岳詣の前後の記録を辿っていきます。
寛弘四年(1007年) 八月二日 都を出発

  二日、乙巳。金峰山に参る。丑時を以て出立す。御物忌に立つ。門を出づる間、塩湯を以て衆人に灑ぐ。中御門より西行し、大宮より南に出づ。二条より朱雀門大路に到る。礼橋の下にて解除す。羅城門より出で、鴨河尻にて舟に乗る。時に辰。八幡宮に参る。午時、奉幣す。諷誦。信布三十端。宮より出づ。身主渡より東に渡る。内記堂と云ふ処に宿す。

 寛弘四年(1007年)八月三日 奈良に到着
 三日、丙申。大安寺に宿す。扶公、事を儲く。華美に依りて、其の処にあらざるに依り、南中門の東腋に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月四日
 四日、丁酉。井外堂に宿す。雨、日を尽くして降る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月五日
 五日、戊戌。終日、雨降る。軽寺に宿す。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月六日
 六日、己亥。天晴る。壺坂寺に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月七日
 七日、庚子。観覚寺に到る。沐浴す。御明・諷誦。信布三十端。現光寺に到る。御明・諷誦。信布三十端。野極に宿す。此の間、雨下る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月八日
 八日、辛丑。終日、雨下る。宿す。

寛弘四年(1007年)八月九日
 九日、壬寅。時々、雨下る。寺祇園に宿す。宝塔にて昼、飯を為す。両寺に皆、諷誦を修し、御燈を奉る。

寛弘四年(1007年)八月十日
 十日、癸卯。時々、雨下る。御在所の僧房金照の房に着す。午時、沐浴し、解除す。

寛弘四年(1007年)八月十一日 大峯山寺への参拝
 十一日、甲辰。早旦、湯屋に着し、水十??を浴む。解除して、御物の前に立つ。小守三所に参上す。金銀・五色の絹幣・紙の御幣等・紙・米等を献ず。護法、又、同じ。三十八所に詣づ。同じく又、幣等を供す。五師朝仁、之を申す。被物を賜ふ。次いで御在所に参り、綱二十条・細盖十流を献ず。御明燈を供し、経を供養す。法華経百部・仁王経□□は三十八所の御為、并びに主上・冷泉院・中宮・東宮等の御為。理趣分八巻、八大竜王の為の心経百十巻を、七僧・百僧を請じ、供養し了んぬ。講師・呪願に綾の褂一重、五僧に白き褂一重。
 十一日。百僧に絹一疋・袈裟一条。未前に七僧に法服・甲袈裟を送る。余には宿衣。御燈申上の僧に単重。七僧の布施、□□□□□□□□□□百僧の布施、米二石・信濃三端。諷誦百端。満寺の僧供料、米百石。又、前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。今日より初む。今日、諷誦を修す。五師・三綱に禄を給ふ。別当金照・朝仁等に白き褂一重。自余に単重。権大夫、経を供養す。七僧・三十僧。七僧に疋絹。金照に単重・米三十石を加ふ。□□□源中納言、之に同じ。我が経に次いで、女方、経十部を供養す。我が御明の百万燈、皆、所々の御為に有り。事了りて所々を見るに、霧下りて、意のごとく見えず。房に還る。金照に褂を賜ひ、即ち下向す。夜に入りて、寺に宿す。祇園

寛弘四年(1007年)八月十二日
 十二日、乙巳。天晴る。宝塔に着く。膳を進る。又、金照の申すに依りて、石蔵に着く。金照の房を定む。其の寺、甚だ美なり。膳を進る。即ち野極に立つ。馬に乗る。下道より水辺に着く。頼光・維叙・業遠等、来たる。余の人々、誡に依りて、来たらず。夜に入りて、宿す。

寛弘四年(1007年)八月十三日 舟で大和川を下る
 十三日、丙午。天晴る。広大野より□□に着す。国司、膳を儲く。仮屋数屋を立つ。国司に馬を給ふ。泉河の岸上の仮屋に着す。大和守の為す所なり。即ち舟に乗る。

寛弘四年(1007年)八月十四日 都に帰着
 十四日、丁未。暁、淀に来たりて、車に乗る。鴨河の精進所に着す。精縄を以て解除す。土御門に着す。即ち大内、并びに東宮に参り、退出す。

金峯山経塚出土紺紙金字経
下記は金峯山経塚出土紺紙金字経 文化庁データベース(美術工芸品)の解説文  
紺紙金字経の作者藤原道長・藤原師通 
奈良県・山上ケ岳山頂の大峯山寺山上本堂周辺に、主に平安時代に営まれた複数の経塚を総称して金峯山経塚という。
 藤原道長(九六六~一〇二七)は、寛弘四年(一〇〇七)八月十一日、金峯山に参詣し山上の本堂の前に立てた「金銅灯楼」の下に自ら紺紙に金字で書写した経典一五巻を経筒に納めて埋めた。道長の曾孫藤原師通((一〇六二~九九)も寛治二年(一〇八八)七月に金峯山に詣でて自ら書写した紺紙金字経を埋めた。 
 これら道長・師通書写の紺紙金字経は江戸時代に出土したと伝えられ、各所に分蔵されてきた。近年、一九一紙と経軸、軸端、経帙が新たに金峯山寺内で発見された。
なお、大和国金峯山経塚出土品(金峯山寺所蔵、考古資料)として国宝指定されている経箱三合には、附指定として紺紙金字経九紙と経軸二本があった。このたび、附指定分を国宝から分割して新たに発見された紺紙金字経等を追加し、重要文化財に指定した。
 本紺紙金字経は藤原道長と師通が自ら書写して金峯山に埋納した極めて著名な紺紙金字経の大部な一括であり、我が国の仏教史、文化史研究上、極めて価値が高いのである。このため、経箱の附指定ではなく、書跡・典籍として評価すべきものである。

大峯山寺
下記は文化庁の国指定文化財データベース「大峯山寺(史跡名勝天然記念物)」の解説文です。
大峰山寺は、奈良県南部の大峰山脈北部の主峰である標高1,719mの山上ケ岳 の山頂に
所在する山岳寺院である。山上ケ岳は、古来金峯山、金の御嶽とも呼ばれ
信 仰を集めてきた山であり、平安時代前期から、清和・宇多上皇や藤原道長・師通など 
皇族・貴族が参詣したことで知られる。平安時代初期には、山頂に堂宇が
営まれていたと考えられており、鎌倉時代の本堂には、金剛蔵王権現が
祀られていたと伝えられ、 山下蔵王堂(現在の金峯山寺蔵王堂)に対して
山上蔵王堂と通称された。山上蔵王堂では修験道の重要な儀礼が数多く行われ、
大峯修験の根本道場となった。山上蔵王堂 は、専門修験者の他、民間の講員が
多数山上ケ岳に参拝するようになると、山上本堂または大峰山寺といわれるようになる。
現在の大峰山寺本堂は、天文3年(1534)に焼失したものを、元禄年間(1688
〜1704)に
再建したものであり、桁行正面8間・背面7間・梁間8間・寄棟造の大きな建物であり、
重要文化財に指定されている。
昭和58〜61年の大峰山寺本堂の解体修理に伴って発掘調査が実施され、
平安時代初期には既に本堂の建物があり、その後幾度かの火災に遭っていることが確認された。
また、調査の結果2体の黄金仏をはじめ山岳信仰に係る多くの遺物が出土た。
なお、江戸期から明治・大正期にかけて多数の遺物が発見された金峯山経塚は、
山頂にある蔵王権現が湧現したと伝えられる湧出岩と呼ばれる巨岩塊に続く北斜面一帯と考えられている。
  こうして出土した経箱・経筒・紙本経・銅板経・神仏像などの遺物は、いずれも国宝や
重要文化財に指定されており、特に寛弘4年(1007)在銘の藤原道長が納めた経筒は著名である。
 山上ケ岳山頂は、高さ100mに及ぶ急な崖になっており、山頂の巨岩などを巧みに
取り入れ、大峯修験を代表する表と裏の行場が設けられ、境内には大峰山寺護持院の
宿坊も建てられている。このように大峰山寺は、大峯修験の根本道場として成立、発展し、
発掘調査結果からもその内容が確認されるものであり、我が国の修験道の歴史を考える上で
重要な遺跡であることから、史跡として保護しようとするものである。

上の写真は大峯山寺(山上の蔵王堂)の建物
出典:日本の古寺・仏像No.33「金峯山寺/如意輪寺」DVDビデオ(2012)

藤原道長の姿絵
上の写真は藤原道長を描いた絵画 出典:紫式部日記絵詞

「光る君へ」での藤原道長の衣装

上の2枚の写真はNHK総合テレビ番組「光る君へ」で藤原道長役の柄本佑さん
上の写真は平安時代の男性装束
出典:鈴木淳子、八條忠基 著「平安王朝ぬりえ」(2016)Page5

金峯山寺と役行者

上の2枚の写真は金峯山寺の本堂と吉野の桜(撮影:2014-4-3)


上の写真は奈良県吉野町 金峯山寺の役行者(えんのぎょうじゃ)と前鬼及び後(うしろ)鬼
出典:2022-1-1朝 NHK総合テレビの番組


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