CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明石の偉人 橋本文水、橋本海関、橋本関雪3代の墓 in 長寿院 on 2021-3-16

2021年03月24日 04時08分42秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年3月16日、明石市の長寿院に眠る明石の偉人 橋本文水、橋本海関、

橋本関雪3代の墓の写真を撮ってきましたので紹介します。

まず長寿院について基本情報を添付しておきます。

長寿院の基本情報
住所:明石市人丸町2番26 号  TEL:078-911-5937

宗派:浄土宗西山禅林寺派(京都永観堂が大本山)山号:松巖山 御本尊:阿弥陀如来

明石観光協会の紹介ページ:長寿院 | 一般社団法人 明石観光協会 (yokoso-akashi.jp)

橋本海関の墓

上の写真は橋本海関の墓の遠景です。「橋本海関先生之墓 丙子十一月建」と刻まれて

います。橋本海関先生は嘉永5年(1852)生まれで昭和10年(1935)に84歳で

亡くなっています。丙子は昭和11年ですので昭和11年11月に橋本海関の長男で

日本画の巨匠、橋本関雪先生が建てたもので字も橋本関雪先生によるものです。

以下は以前に書いたブログ(下記サイト)から転記(一部加筆)しました。

 明石の偉人 橋本海関先生の墓と海関先生揮毫の石碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

橋本海関は嘉永5年(1852)明石藩の家臣で儒者の橋本文水・マサ夫妻の子として生まれた。

母親のマサは藩儒「山内庄右衛門」の長女
本名は橋本子六。橋本徳有則という号も使用しています。
生家は明石市天文町の平忠度(ただのり)の塚のある場所の北側(明石村158番地)である。
平忠度塚については小生のBlogを参照してください。
橋本海関の父親の橋本文水は学問方の先生を勤め博学で山水画が上手かった。
橋本海関の祖父は剣術、柔術の武芸の指南役をつとめていました。
橋本海関先生の足跡を年代順に辿ってみたいと思います。
文久9年(1861)橋本海関9歳 母マサに実家山内家の明石藩士真陽に孟子を勉学
         真陽が亡くなった後は梁田蛻巌 (やなだぜいがん)の景徳館に入り
         梁田葦洲(やなだいしゅう)に師事しました。

慶応2年(1866)橋本海関14歳 明石藩講武所詰となり武士道を学ぶ
慶応4年/明治元年(1868)橋本海関16歳 父橋本文水より詩を学ぶ
明治5年(1872)橋本海関20歳 敬義館の国語教師に就任
明治10年(1877)橋本海関26歳 兵庫県師範学校の教師となる
明治11年(1878)橋本海関27歳 神戸中学校の教師(併任)
明治xx年    橋本海関が池田フジ(不二子)と結婚 神戸市中央区楠町に居
        フジは武家の娘であり書、絵、歌、琴等に秀でた才媛で美人であった
明治16年(1883)橋本海関32歳 長男の橋本関雪が生まれる
明治21年(1888)橋本海関37歳 妻フジが5歳の関雪と妹チエを残し家出
         家出の理由は奇行の多い海関に愛想をつかしたという説と
         フジに愛人ができたという説がある。
      5歳の関雪を育てたのは祖母のマサになります。マサの実家の山内家も
      儒家で漢文や絵を描くことに優れていた。子守唄の代わりに孔子の教え
      の論語を聞きながら海関、関雪が育てられたとのこと。
明治xx年     清国大使館書記官の鄭孝胥(ていこうしょ)との出逢い
         横浜で清国の政治家康有為(こうゆうい)の支援(翻訳など)
明治32年(1899)橋本海関48歳 加古川市尾上町の尼寺に寄寓 
          明治39年までの7年間
明治40年(1907)橋本海関56歳 明石の天文町に居を移す「赤石三勝」を著作
大正2年(1913) 橋本海関62歳 長男の橋本関雪と孫の節哉を同行して中国旅行
          帰国後「一葦航吟」を著作

大正9年(1920) 橋本海関69歳 郷土の名勝を散策、昭和8年まで15年かけて
          「明石名勝古事談」を著作
          全11巻ある著作で明石の郷土史の基礎となっている
昭和10年(1935)橋本海関84歳 明石の地で没

上の写真は橋本海関先生です。

出典:最後に添付の参考資料 1)のPage12

下記のブログでも橋本海関について纏めています。

 橋本関雪先生の父親、橋本海関先生について : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

橋本文水の墓

上の写真は橋本海関の父親の橋本文水の墓(橋本関雪の祖父)

 

橋本関雪の墓

 

上の写真は橋本関雪とヨネ夫人の墓。本墓は関雪開基の月心寺(滋賀県大津市)

ですが彼のルーツである明石の長寿院にも分骨され墓が建てられました。

戒名:月心院空厳関雪居士

 

下の写真は橋本家の系図と親戚の松村家の系図です

 出典:参考資料 2)Page219

松村松年は明石市の名誉市民で昆虫学の大家です。

関連ブログ

橋本関雪(1883-1945)についても過去にブログで書いています。

橋本関雪先生の顕彰碑 in 神戸大倉山公園 on 2012-6-27

白沙村荘 橋本関雪記念館 on 2012-9-5

 

参考資料

 1)中野直行 著、播磨学研究所 編「はりま人物誌」 播磨学研究所 2004.10
      p.12~22 橋本海関と関雪

 2)兵庫県学校厚生会 編・刊「明石ゆかりの人びと」 1999.11
      p.183~188 橋本海関

 

 

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イアソンとドラゴン像(降魔大王像) in 加古川市 on 2020-11-15

2021年03月23日 04時45分44秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年11月15日、加古川市の但陽信用金庫本店前でイアソンとドラゴン像(降魔大王像)

の彫刻作品(作者は仏彫刻家のランソン)を見つけましたので写真紹介します。

 

上の写真は加古川市加古川町溝之口の但陽信用金庫前に設置されている

彫刻作品「イアソンとドラゴン像(降魔大王像)」

作者は仏彫刻家のランソン(1851-1898)

上の写真は現地説明板 。そのまま転記しておきます。

イアソンとドラゴン像(降魔大王像)

   ランソン(1851~1898) 仏彫刻家

イアソンの由来

イアソンはギリシャのイオルコスの都の王子であった。その父国王が年をとっているため

王位を継ぐはずであったが叔父のベリアスが王位を奪おうと幼いイアソンを山に捨てた。

しかしケンタウロス族(上半身が人間で下半身が馬である)のケイロンに拾われて育てられた。

やがて立派に成長したイアソンは父のもとイオルコスに帰ったが既に王位は叔父ペリアスの

ものになっていた。ペリアスはイアソンに最も危険な試練であるコルキスの金羊毛を取って

くることを条件に王位を譲ることを約束した。イアソンは勝れた兵士50人と途中幾度かの

苦難を乗り越えコルキスにたどり着いたがコルキスの国王は国の宝である金羊毛をとられては

大変とイアソンに数々の難題を言いつけた。しかしコルキスの王の娘であるメディアが

イアソンの妻にしてくれることを条件にその難題を魔法によって解決し金羊毛を手に入れる

ことが出来た。この像はその金羊毛を手にしているイアソンの像である。

    但陽信用金庫所蔵

 

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NHKBS3の番組「渋沢栄一 in パリ万博」を視聴して on 2021-2-20

2021年03月22日 04時12分19秒 | Weblog

2021年2月20日(土)、[BSプレミアム]午後9:00〜10:30に放送された番組

渋沢栄一 in パリ万博」を視聴しました。

偉大な人「渋沢栄一」が27歳から29歳にヨーロッパで経験した事が、後の考え方や

事業を進める上で大きく影響したことは確実であると思います。

 

番組内容をレビューすると共にパリ万博で渋沢栄一が得た教訓を整理してみました。

 

参考資料

 1)宮永孝 著『プリンス昭武の欧州紀行 : 慶応3年パリ万博使節』山川出版社 (2000.3)

 2)戸定歴史館(松戸市) 編『将軍のフォトグラフィー : 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟』
   松戸市戸定歴史館(1992)

 3)霞会館資料展示委員会編「開港から攘夷の海」兵庫県立歴史博物館特別展図録No.20(1989) 
   

 4)関水信和著 「渋沢栄一における欧州滞在の影響 : パリ万博(1867年)と洋行から学び実践したこと」

   千葉商大論叢 第56巻 第1号(2018年7月)千葉商科大学学術リポジトリ (nii.ac.jp)

 

パリまでの行程

慶応3(1867)年1月11日(新暦換算1867年2月5日)、後に「日本資本主義の父」と

称される渋沢栄一は、将軍徳川慶喜(1837-1913)の名代としてパリ万国博覧会

出席する徳川昭武(1853-1910)に随行し、フランス帝国郵船アルフェー号で横浜を発った。


以下新暦換算の西洋暦で記載
1867年2月19日 上海着 租界が形成されており初めて近代的な街並み(ガス、電信という新しいシステム)

1867年2月24日 香港着 造幣局、刑務所を視察(囚人の教育に感銘を受ける)

        香港ではアンペラトリス号に乗り換え

1867年3月1日 サイゴンに入港 フランスの植民地として道路の改修工事が行われていた
       製鉄所、学校、病院、造船所

1867年3月5日 シンガポールに入港

  徳川武昭(民部大輔)は同行の山内文次郎よりフランス語を習う

1867年3月12日 セイロン島に到着 釈迦涅槃像、カレーは美味

1867年3月16日 渋沢栄一28歳の誕生日

1867年3月21日 アデン

1867年3月26日 スエズに着
  スエズ運河の工事が民間会社(株式会社)により進行していることに感銘
  事業はレセップスというフランス人が指揮(フランスの国の精度、技術を学びたいと思う)

  徳川昭武一行の会計役を担った渋沢栄一は、滞在を世話した銀行家ポール・フリュリ・

  エラール(1836-1913)からパリで、資本主義の仕組みを学ぶこととなります。

上の写真は2021年2月24日NHKBS3で放送の英雄たちの選択「論語と算盤を読み解く」

で紹介されたフリュリ・エラール。

「フリュリ・エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分制の打破と実業の地位向上の

必要を痛感したと」渋沢栄一は後年述べている。

上の2枚の写真は2021年2月24日NHK総合テレビで放送の 歴史秘話ヒストリア

「渋沢栄一時代を開く 新一万円札の男の実像」より 

渋沢栄一は株式会社(合名会社、合本組織)に強く関心を持った


 スエズからカイロ(3月27日)を経由してアレキサンドリアに行く時に初めて汽車に乗る

 往路で船舶や汽車に乗り渋沢は強く心を動かされ帰国後の海運事業や日本鉄道

  (現JR東日本)、北海道炭鉱鉄道、九州鉄道の設立

1867年3月28日 アレキサンドリアを出発

フランスに到着

1867年4月3日  マルセイユ着  旧暦では慶応3年(1867)2月29日
         近くの軍港ツーロンで武器類を見学

         栄一は武器よりも潜水服に興味をもつ。

上の2枚の写真はパリ万国博 使節団(随員)の集合写真 マルセイユにて(23名)

前列向かって左からアレキサンダー・シーボルト保科俊太郎(歩兵頭並)、

山高石見守(昭武守役)、井坂泉太郎(小姓頭取・水戸藩士)、徳川昭武

菊池平八郎(小姓頭取・水戸藩士)、向山隼人正(全権公使)、田辺太一(外国奉行支配組頭)、

レオン・デューリー後列、左より渋沢栄一、山内文次郎、高松凌雲(奥医師)

木村宗三、服部潤次郎(水戸藩士)、皆川源吾(水戸藩士)、加治権三郎(水戸藩士)

大井六郎左衛門(水戸藩士)、三輪端蔵(水戸藩士)、杉浦譲山内六三郎(通弁御用)

生島孫太郎(外国奉行並出役)、日比野清作(外国奉行調役)、箕作麟祥(御儒者次席・翻訳方頭取)

   出典:参考資料2)Page164
   

1867年4月10日 リヨンで1泊

1867年4月11日 パリ着  旧暦では慶応3年(1867)3月6日

   開業(1862年5月5日)して間もないグランドホテルに投宿

   現在も当時の建物の状態で残っている名前はInterContinental Paris Le Grand

  InterContinental Paris Le Grand Hotel - Wikipedia

尚、パリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867, Expo 1867)は、1867年

4月1日から10月31日までパリで開催され、42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。

パリでの万国博覧会は2度目

 

1867年4月28日 徳川使節団 フランス皇帝ナポレオン3世に謁見

 慶応3年3月24日、徳川昭武、外国奉行向山一履(隼人正)等ヲ随ヘテ仏国皇帝

 ナポレオン第三世ニ謁ス。栄一陪セザリシモ、仏国皇帝ヘノ献上品ヲ宮中ヘ

 送致スル事ニ当ル。尋イデ同月二十八日軽気球ヲ観ル。

1867年5月3日  皇帝主催の観劇

1867年5月15日  渋沢栄一、書記官の木村宗三と杉浦譲(露人)の3名は、シャルグラン通り30番地のアパートへ

1867年6月1日  仏皇帝が露皇帝のために開催した競馬を観戦

1867年6月8日  病院を視察

      渋沢栄一が日本赤十字や聖路加病院の原点になっている。

1867年6月13日  徳川昭武らがグランドホテルからベルゴーレ街53番地に移る(経費節減)

1867年6月20日 万博会場の見学 徳川昭武(民部大輔)はアレキサンドル狙撃事件が

       あってから2週間後フランセス・ミラ氏の先導で博覧会へ行かれた

上の写真はパリ万博の会場 現在、エッフェル塔の周辺地区で面積は14万6千㎡

上の写真は水力エレベーターの展示

上の写真は大砲の展示(プロシア館)

渋沢栄一(青淵)、杉浦譲の共著「航西日記」のPage80-97に6月20日に見学した

様子について丁寧に記述されています。

6月20日の他に渋沢は7月3日昭武に随行・見学している。9月1日、10月12日にも

博覧会を見学しているが渋沢栄一が随行したかどうかは不明。

渋沢栄一が興味を持った展示

  ・機械類  ・絵画  ・貨幣  ・織物  ・植物  

  ・医療器具 ・測量器 ・通信機器 ・絹織物  ・農業機械  ・紡績機械

  ・ダイヤ細工所 ・各国の演芸 ・日本の茶店

 

上の写真は徳川幕府の出展品(複製)の一例

パリの床屋で髷を落とし、洋装の正装姿の渋沢栄一

 

ライバル薩摩からの出展

薩摩の本当の狙いはベルギー貴族のシャルル・ド・モンブラン(1833-1894)と

契約した「日本-ベルギー会社」の設立にあった(薩摩海軍史 中巻による)

五代友厚、新納刑部が交渉に当たった。

薩摩藩がパリ万博に派遣したメンバーは下記の12名です。(資料 1)のPage80)

使節兼博覧会御用 家老岩下佐次右衛門

側役方      市来政清

博覧会担当    野村宗七、渋谷彦助、岩下清之丞、蓑田新平

その他      岩下長十郎(家老岩下の息子、留学のため)

         白川(斎藤)健次郎(モンブランの秘書で別名ジラール・ド・ケン) 

         ハリソン(イギリス人)

         ホーム(イギリス人)

         鳥丸啓助(大工)  

番組では紹介されなかったが佐賀藩からも5名派遣され有田焼などを出品した。

(資料 1)のpage70-79に詳述されています)

上の写真は薩摩藩が準備した薩摩琉球国勲章

上の写真は幻の徳川葵勲章

上の2枚の写真は薩摩が出展した薩摩焼と薩摩切子

 

1867年7月1日 (慶応3年5月29日)表彰式に徳川昭武が出席しメダルを授与

上の写真は番組で紹介された慶応3年(1867)の大まかな出来事

上の写真は受賞したメダルの複製品

上の写真は徳川昭武が出席した表彰式の様子 シャンゼリゼの産業館で実施された

1867年7月18日 パリの新聞(Le Temps紙)に日本館の様子を伝える記事

   フランスで初めて新聞の存在を知り帰国後の新聞社設立に繋がった

1867年8月17日 向山隼人正、滞在費に窮し、江戸の小栗上野介に電報を打つ

各国御巡歴、漸本月上旬御出発と相成り候
      ― 渋沢栄一、欧州を見聞する 慶応3年8月6日~11月22日 ―

                 (1867年9月3日~1867年12月17日)

  欧州各地の視察に先立って当初、徳川昭武に7名が随行するとの計画があったが

  3人に人数を絞り、随員は交代で務める型式となった。その経緯について下記の

  サイトに詳述されています。(渋沢栄一が調整役を務め丸く収めた)

 第19話:パリ万博での日本文化の高評価と、激震する国内情勢 | 経営全般 | 経営プロ (proweb.jp)

1867年9月3日 (慶応3年8月6日)欧州視察の為、パリを出発

1867年9月4日  スイスのベルン絹織物

1867年9月5日  スイス大統領に謁見

1867年9月6日 スイスのツーンで軍事施設を見学(スイスの民兵組織を学ぶ)

1867年9月8日 (慶応3年8月10日)スイスの時計工場見学

上の写真はスイスで徳川昭武に贈られた時計 出典:参考資料 3) Page35

TOKUGAWA MIMBOUTAIHOと刻印

上の写真は訪問国の一覧

1867年9月13日 オランダへ移動

1867年9月16日 国民議会を見学

       国王レオポール2世に招待を受け表敬訪問 9月25日にも謁見

 オランダ滞在中に 鉄砲製造所、軍艦製造所、ダイヤモンド研磨所、風車、博覧会

1867年9月24日 ベルギー ブリュッセルに到着 アンヴェルス(アントワープ)にも訪問

1867年9月26日以降 陸軍学校、軍関連施設、砲台、砲製造所、機械製造所、製鉄所

          汽車工場、鏡・ガラス工場

1867年10月3日 国王より狩猟に招待される

1867年10月5日 軍事演習を見学 徳川昭武は馬上に烏帽子、陣羽織姿で外国の軍隊を閲兵

上の3枚の写真は徳川慶喜から贈られた陣羽織  出典:参考資料 3)Page33

 

1867年10月6日 王宮での饗宴

上の写真はベルギー国王 レオポルド2世からベルギー製の鉄を購入するよう

トップセールスに接し渋沢栄一は大変、驚いた。

上の写真は2021年2月24日NHK総合テレビで放送の 歴史秘話ヒストリア「渋沢栄一

時代を開く 新一万円札の男の実像」より 国王のトップセールスに驚く栄一

1867年10月9日 ベルギーを立ち、パリに戻る 

  徳川昭武は乗馬や射撃の稽古や博覧会の見学で過ごす

1867年10月17日 イタリアへ出発

  当時、イタリアでは移動が大変、馬車で移動

1867年10月29日 イタリア フィレンツェ着、ミラノ、ピサ、トリノ、ローマを歴訪

1867年11月6日 マルタ島(ヴァレッタ)へ行き、海路マルセイユに渡りリヨンを経由

1867年11月8日 艦兵式に招かれ、徳川昭武は陣羽織を着て参加

  1867年11月9日 大政奉還

1867年11月18日 パリに戻る

1867年11月20日 フランス留学生の第1陣8名、パリに到着、昭武に拝謁する

1867年12月1日 英国に向けパリを出発カレーに向かう

1867年12月2日 英国 ロンドン着

1867年12月3日 イギリス留学生の取締川路太郎、昭武に謁見。ハモンド外務次官

        スタンリー外相らの来訪。国会議事堂を見学

1867年12月4日 英国国王、ヴィクトリア女王に謁見

1867年12月5日 タイムス社、鉄砲店を訪問

1867年12月6日 軍事施設を見学

1867年12月7日 図書館、外務省、海軍省などを訪問

1867年12月10日 イングランド銀行を見学

1867年12月17日 前日にドーバーを立ち、パリに戻る

 

フランスでの昭武の勉学補助
 一同稽古はげしく、日々勉強いたし候
      ― 栄一、徳川昭武留学のお側で 慶応3年11月23日~慶応4年8月29日 ―

  1867年12月18日~1868年10月14日

 

   1868年1月3日 王政復古

1868年1月26日 大政奉還の報に接する

1868年5月20日 徳川昭武の日課、パリ市街の見物、曲馬をみたり公園の散策

1868年5月30日 在欧の幕府留学生に帰国命令が届く

1868年7月5日  徳川昭武、帰国を決意

1868年7月30日 ロンシャンの競馬場で、初めて気球に乗る

1868年8月2日  最後のフランス旅行に出る。ノルマンディーのカンに向かう

1868年8月3日 海軍工廠、突堤などを見学

 

 

帰路
 我等一同、終始誠に息災に之れあり候
      ― 栄一、帰国の途につく 慶応4年8月30日~明治元年11月3日 ―

  1868年10月15日~1868年12月16日

1868年10月15日 ナポレオン3世一家に帰国の挨拶のためパリを立ちビアリッツへ

1868年10月19日 フランス郵船のベリューズ号にてフランスを離れた

1868年10月26日 スエズ着 フランス郵船「アンペラトリス」号に乗る

1868年12月16日 横浜着

 

 

その他参考資料

国立国会図書館協同データベース(レファレンス)

 慶応3(1867)年、徳川慶喜の弟昭武のパリ万博派遣に随行した人にどのような人が

 いたのか知りたい。彼らについて書かれた資料も知りたい。(大阪府立中央図書館)

 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000228328

 慶応3(1867)年の徳川幕府による将軍慶喜の弟・昭武のパリ万博派遣について

 書かれた資料を知りたい。(大阪府立中央図書館)

 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000228337

 

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累計訪問者数 165万を突破 on 2021-3-19

2021年03月21日 04時04分20秒 | Weblog

2021年3月19日(金)に累計の訪問者数が165万uuを突破しました。

憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので約17年間続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

 

直近の週間アクセス数
    (2021.2.28 〜 2021.3.6)7,608UU、24,422PV 260位
 
    (2021.3.7 〜 2021.3.13)7,058UU、18,961PV 303位

    (2021.3.14 〜 2021.3.20)7,627UU、35,765PV 262位

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。

尚、2021年3月20日(土)現在の総閲覧数は6,371,572PVです

 

過去の同じテーマのブログ

 累計訪問者数 160万を突破 on 2021-1-30 &明石市東二見、御厨神社のロウバイと紅梅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 155万を突破 on 2020-12-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 150万UUを突破 on 2020-10-23 

 累計訪問者数 145万UUを突破 on 2020-9-12

 累計訪問者数 140万UUを突破 on 2020-8-5

 累計訪問者数 135万UUを突破 on 2020-6-26

 累計訪問者数 130万UUを突破 on 2020-5-20

上記ブログ(130万UU)では過去の経過も含めて纏めています。

 

写真が無いと味気ないので、最近撮った写真を添付しておきます。

上の写真はJR鷹取駅(神戸市)近くの通称「モクレン通り」 撮影:2021-3-9

上の写真はくら寿司の寿司 撮影:2021-3-11

上の2枚の写真は2021年東大寺二月堂お水取り(修二会)

2021年3月13日(土)BSプレミアムの番組より

上の写真は山陽電車「人丸前駅」のホームで東経135度の子午線が通っています。

撮影:2021-3-16

関連ブログ:

近畿の駅百選に選ばれた山陽電車「人丸前駅」 on 2021-3-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の3枚の写真は我が家の庭に咲く花 撮影:2021-3-17

 

上の写真は第93回選抜高校野球で選手宣誓をした仙台育英の島貫主将

2021年3月19日(金)NHKテレビEテレの番組より

関連ブログ:https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/dc86a306b9ffa11f983b2c69d0202ee9

上の写真は3月19日のコロナ感染状況 3月20日(土)の朝のNHKニュースより

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祝 神戸国際大学付属高校 初戦、延長サヨナラ勝ち &開会式 on 2021-3-19

2021年03月20日 09時53分10秒 | 神戸情報

2021年3月19日、2年ぶりに第93回選抜高校野球が甲子園球場で開催されました。

開幕初戦に登場した神戸国際大学付は好投手の木村君を要する北海道の北海に

延長10回、サヨナラ勝ち(3-2)しました。

開会式の様子なども含めて写真紹介します。

 

上の写真は開会式で整列した神戸国際大学付の選手一同

4年ぶり5回目の出場

上の写真は北海の選手一同 10年ぶり13回目の出場

 

上の写真は第93回選抜高校野球 開会式で整列した第1日に出場する6校の選手

6校は神戸国際大付(兵庫)、北海(北海道)、明徳義塾(高知)、仙台育英(宮城)、

健大高崎(群馬)、下関国際(山口)

大会第2日目以降に出場する26チームはスクリーンで紹介されました(上の2枚の写真)

上の写真は国歌を斉唱した 県立西宮高校3年の柏原雅さん

声量といい歌唱の質といい感動を覚える国家斉唱でした。

上の3枚の写真は挨拶をされた方々。大会会長で毎日新聞社社長の丸山昌宏さんの挨拶には

感銘しました。

 

開会式の様子をYoutube動画で紹介されていましたのでGooで共有させていただきました。

2021 選抜高校野球 開会式

 

上の写真は神戸国際大学付属高等学校側のアルプス席

最大1,000人に人数制限

球場全体では10,000人に制限されています。

 

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「廃墟の女王」旧摩耶観光ホテルが国の登録有形文化財(建造物)に on 2021-3-19

2021年03月20日 04時28分23秒 | 神戸情報

文化庁、文化審議会は令和3年3月19日に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を

経て新たに132件の建造物を登録するよう文部科学大臣に答申しました。

この結果、官報告示を経て登録有形文化財(建造物)は、13,097件となる予定です。

神戸市からは下記の5件が選ばれました。

 ・旧摩耶観光ホテル(神戸市灘区)

 ・旧駿河屋(神戸市北区)

 ・御所坊 本館

 ・御所坊 新館

 ・御所坊 土蔵

132件のリストは文化庁のサイト(下に添付)に記載されています。

 92882201_03.pdf (bunka.go.jp)

 

報道機関のニュース報道例(リンク)

  “廃虚の女王” 旧摩耶観光ホテルが国の登録有形文化財に|NHK 兵庫県のニュース

 

  “廃虚の女王「マヤカン」” 国の登録有形文化財に登録へ 神戸 | 阪神・淡路大震災 | NHKニュース

 

  「廃虚の女王」旧摩耶観光ホテル、国の有形文化財へ:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

  別名「廃虚の女王」、朽ちたホテルが国の登録文化財へ マニアに人気 神戸|総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)  

旧摩耶観光ホテルと御所坊については写真で紹介します。

上の2枚の写真は「廃墟の女王」とも呼ばれる旧摩耶観光ホテル

出典:2020年2月7日18時20分からの関西テレビ報道ランナー「兵頭大樹の今昔さんぽ」

関連ブログ:

 関西テレビ「兵頭大樹の今昔さんぽ」で紹介された摩耶観光ホテル on 2020-2-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 摩耶観光ホテル NHKBSプレミアム新日本風土記「廃墟」より - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は御所坊の正面玄関 撮影:2019-6-26

当日、有馬グルメ&湯けむりチケットを利用して陶泉 御所坊の内湯(金泉)に入りました

御所坊の主人の金井啓修さんは有馬温泉観光協会の会長を勤められています。

 

旧駿河屋の写真が見つからないので文化庁の説明書きをそのまま転記しておきます。

有馬温泉にある元竹細工の工房兼住居。木造三階建てで、外壁を杉皮張りとし、

化粧垂木(けしょうだるき)に杉丸太を用いる等、温泉街に調和した意匠を持つ。

 

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Lb Clover(旧長井珈琲倶楽部) イオンジェームス山店でのランチ on 2021-3-10

2021年03月19日 05時44分17秒 | 神戸情報

2021年3月10日にカフェレストラン Lb Clover(旧長井珈琲倶楽部)

イオンジェームス山店で頂いたランチを写真紹介します。

カフェレストランLb CLoverは神戸市垂水区イオンジェームス山店2階にあります。

2019年XX月から長井珈琲店からサンセイフード株式会社に経営が変わったようです。

カフェレストラン Lb Clover(Lbクローバー)の基本情報

住所:神戸市垂水区青山台7丁目7-1 イオン2F  TEL:078-751-7660
営業時間:10:00~21:00
定休日:なし

公式サイト(サンセイフード株式会社):https://www.kobe-busicolle.net/lb-clover/index.html

 

上の写真は当日いただいたサンドイッチ242円+コーヒー462円 計704円(税込)

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神戸大学の新しい練習船「海神丸」について

2021年03月19日 05時43分28秒 | 神戸情報

昨日(2021-3-18)16時より第14代 神戸大学学長 武田廣氏の退任講演があり

Youtube動画のライブ映像(下に添付)を視聴しました。

 武田廣 神戸大学長 退任記念講演会

その中で神戸大学海事科学部(2021年度から海洋政策科学部)の新しい練習船

「海神丸」が三井E&S造船玉野事業所で建造中で2021年2月19日に起工式が

行われたことを知りました。

そこで、海神丸について調べてみました。

上の写真は「海神丸」の完成後のイメージ図 2022年度に完成予定

2021年2月19日、三井E&S造船玉野事業所で行われた起工式の様子は下記サイトで

写真紹介されています。

 新船建造 | 海神プロジェクト、出航! いざ、海の神戸大学 | 国立大学法人 神戸大学 (Kobe University) (kobe-u.ac.jp)

 

現在の練習船「深江丸」との対比などについて下記Youtube動画で詳細に説明されています

神戸大学「海神プロジェクト」新船建造記者発表会

 

尚、現在の練習船「深江丸」については下記ブログで書いています。

 神戸大学 海事科学学部 深江丸の出航風景と進徳丸メモリアル on 2016-10-13 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

2016年10月13日に撮影した「深江丸」の写真も添付しておきます。

 

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三木合戦 絵解き in  兵庫県立考古博物館 on 2020-11-15 

2021年03月18日 05時25分55秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年11月15日(日)13:30より表題の「三木合戦 絵解き」のイベントが

あり観覧した。当日は写真や動画の撮影が禁止されており、当日の写真などは

ありませんが2014年4月17日、三木市別所町東這田の法界寺で三木合戦

絵解きを観覧した時の動画と当日配布された資料から三木合戦軍図などを

纏めてみました。

三木合戦軍図絵解き 附 軍図3幅2組は平成17年(2005)8月26日三木市の指定文化財

(無形民俗)に指定されています。

 

三木合戦軍図は下に添付の3幅からなっています。

上の写真の軍図は左側に配置

上の写真の軍図は中央に配置

 

上の写真の軍図は右側に配置

「三木合戦絵図」は三幅で構成された絵図で、天保12年(1841)に讃岐在住の別所氏末裔

別所九兵衛長善が画師・中条竹趣に模写させ、三木合戦時の城主・別所長治の菩提寺

である法界寺に奉納されたものです。原図となった三木合戦絵図は別所方として三木城に

籠城した別所氏の家臣の来住安芸守(きしあきのかみ)の子孫によって寄進され、

寛永年間(1624~1644)頃に制作されたものと伝えられており、金箔が貼られた豪華な

ものとのこと。語り手は生田淳仁氏で代々語り手を務められているそうです。

生田淳仁氏は別所家家臣の子孫で現在、三木東中学校の校長を務められています。

絵解きは別所長春の百回忌にあたる1680年頃に始まったとされます。

2014年4月17日の法界寺での三木合戦絵解きでは午後の部の語り手を三木市立自由が丘中学校

教諭(当時)の西森良企氏が務められました。

毎年4月17日、法界寺で催され少なくとも300年以上続いている三木市の伝統行事です。

 

三木合戦は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)
にかけて行われた播州三木城をめぐる織田氏と別所氏の攻防戦である。
足かけ2年弱にのぼり5代目当主の別所長治以下約7,500人の将兵が三木城に
籠城して織田方と戦いました。またその関連の一連の戦いを指す。

戦いの経過については下記のブログで纏めています。

 三木城跡公園の三木合戦図 on 2015-4-29 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念シンポジウム 「三木合戦を知る」参加録 on 2013-12-7 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

2014年4月17日、法界寺での三木合戦 絵解きのYoutube動画を作成していますので

下に添付しました。

 

法界寺 三木合戦 絵解き on 2014-4-17 その1

上の動画は約25分の昔言葉での絵解きです。

天正6年(1578)3月、加古川の糟谷館での秀吉と、三木方の別所長治の叔父の

別所山城守・家老三宅肥前守との会見が決裂し、三木城に立ち帰り、一家中で評定し、

毛利方に味方する事を決定するところから絵解きは始まります。

法界寺 三木合戦 絵解き on 2014-4-17 その2

上の動画は本番の三木合戦絵図の絵解きが始まる10時前の時間空きを利用して

法界寺住職の24世 徹空眞昭上人(俗名:北川眞昭)からの解説です。

法界寺 三木合戦 絵解き on 2014-4-17 その3

毎年4月17日、法界寺で行われている「三木合戦」を語り継ぐ「絵解き」。

昔言葉の物語の前に、全体の流れをご説明いただけます。 この動画はその部分のみです。

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松尾芭蕉の句碑 in 明石市立天文科学館前庭 on 2021-3-16

2021年03月17日 05時36分11秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年3月16日、明石市立天文科学館の前庭にある松尾芭蕉の句碑の写真を

撮りましたので紹介します。

上の写真が松尾芭蕉の句碑です。

芭蕉翁 本とゝ起寸 幾え行可多や 嶋比とつ(ほととぎす きえいくかたや しまひとつ)

 笈の小文(おいのこぶみ)では 「ほとゝぎす 消行方や 嶋一ツ」 と記載

 

貞亨5年3月20日(新暦換算1688年4月20日)、明石で詠まれた句と推察できます。

昔の明石郡で詠まれた句としては次の2つが有名で句碑にもなっています。

 1)「蛸壺やはかなき夢を夏の月」柿本神社・月照寺の南側に句碑

    詳細は下記ブログで記載

     蛸壺塚 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 2)「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」須磨浦公園に句碑

    詳細は下記ブログで記載

     須磨浦公園 松尾芭蕉の句碑 on 2010-8-24 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

松尾芭蕉の俳諧紀行(旅行記)に神戸、明石が出てくるのは笈の小文です。

この旅は1687年10月25日に江戸深川を出発し、翌年8月末に戻るまでの長期のものです。

笈の小文(宝永6年 (1709)に刊行)は芭蕉自身の死後、大津の門人、川合乙州

(かわいおとくに)によって編集されたものです。

 

神戸及び明石に残る松尾芭蕉の句碑については下記ブログで纏めています。

  松尾芭蕉と神戸&明石 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真は現地説明板

昭和44年(1969)、中崎にあった藩主の別邸「浜の茶屋」跡から移転。

移転に当たって故 山口みつゑ先生が尽力された。

同じ敷地内に「一バンボシミツケタ」の詩碑もありました。

 

松尾芭蕉が神戸の地に足を踏み入れたのは貞享5年(同年の9月30日に元禄と改元)
3月19日(新暦換算:1688年4月19日)尼崎を船出し兵庫に夜泊しています。

時に芭蕉45歳、奥の細道の旅に出る前年のことでした。少なくとも3月21日までは
滞在していた。23日に京に帰るとの記述あり(猿雖宛て手紙)

松尾芭蕉が窪田猿雖(えんすい)に宛てた手紙(下に添付)が神戸&明石訪問
の証となっています。窪田猿雖の別名で惣七と呼ばれることもある。(伊賀上野の門人)

この手紙の中に訪問した場所が詳細に記述されています。

十九日尼崎出舩。兵庫に夜泊。相国入道の心を尽されたる経の嶋・わだの御崎・
わだの笠松・だいり屋敷・本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、

行平の松風・村雨の旧跡・さつまの守の六弥太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、
西須磨に入て、幾夜寝覚ぬとかや関屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し・鐘掛松
・義経の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、
あはぢ嶋。丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、
天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて
舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所
あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、
指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがに
みるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。
磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして
戦場に望み、熊谷に組ていかめしき名を残しはべる。その哀、其時のかなしさ、
生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも伝度候。
すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蝉折・こま笛・料足十疋、見る迄もなし。
この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
廿一日布引の瀧にのぼる。以下略

3月20日に芭蕉らは須磨の現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている

但し、笈の小文では明石夜泊と書かれています。

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