CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

エドワード・モース Edward Sylvester Morseについて

2022年06月18日 05時35分07秒 | Weblog

昨日(6月17日)のNHKラジオ「きょうは何の日(6月17日」で明治10年(1877)に

エドワード・モースが144年前に来日した日と紹介されていました。

そこで、本日のブログではEdward Sylvester Morseを取り上げます。

大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・モース(1838-1925)は明治10年(1877)

明治11年(1878)、明治15年(1882)と3度の来日で多くのスケッチ、写真を残しており

興味がつきない。

 

参照図書&資料

 1)私たちのモース 日本を愛した大森貝塚の父 東京都大田区立郷土博物館編(1990)

 2)NHKBS3 プレミアムカフェ選 海の向こうに遺された江戸(2012)

 

まずは、モースの写真と略年譜を紹介します。

モースの写真

上の写真はEdward Sylvester Morseの写真 出典:1)

1978年(明治11)東京大学理学部 動物学教室所蔵 品川歴史館 写真提供


エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘し、日本の人類学・考古学の基礎をつくった。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。名字の「モース」は「モールス」とも書かれる。

フェノロサを招聘したことも評価されています。

金銭面でモースをサポートした終生の友人でアマチュア博物学者のジョン・グールドの存在も忘れてはならない。

大森貝塚の発掘調査に関与したことから「考古学の父」とも呼ばれています。

6月17日のNHKラジオ「きょうは何の日」では明治10年(1877)の6月17日にモースが

来日したことの他に上述の太字の紹介がありました。

 

モースの年譜

 出典:1)

1938(天保9)6月18日 アメリカ合州国メーン州ポートランドに生まれる。

ピーボディ・アカデ ミー主事を経て、メーン州立大学、ボードウィン大学、ハーバード大学(比較解剖学、動物学)教授。

1859年(安政6)21歳 ハーバード大学博物館の動物学者L・アガシーに師事(学生助手)

1861年(文久1)23歳 アガシーのもとを去る

1862年(文久2)24歳 腕足類に関する最初の論文を発表

1863年(文久3)25歳 エレン・E・オーエンと結婚

1866年(慶応2)28歳 セーラムのエセックス研究所の所員となる

1867年(慶応3)29歳 3月 モースら4名が科学雑誌「アメリカン・ナチュラリスト」を創刊        5月  ピーボディ科学アカデ ミー創設学芸員となる

1870年(明治3)32歳 ピーボディ科学アカデ ミーを退職

1871年(明治4)33歳 ボードウィン大学教授となる

1874年(明治7)36歳 第2回ペニキーズ島臨海実習会で進化論を講義
           サンフランシスコで日本には腕足類が多いことを聞く

1875年(明治8)37歳 最初の著書「First Book of Zoology」出版

1877年(明治10)39歳 5月18日 日本に向けてセーラムを出発(妻子を残し単身で)
          5月29日 東京丸でサンフランシスコを出航
          6月17日 深夜に横浜着
          6月19日 新橋に向かう列車の窓から大森貝塚を発見
        (Nature, 1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚                    発見の記事を投稿。)
          7月12日 東京大学理学部の動物学・生理学教授となる
               79年9月まで東京大学で教鞭をとる。(約2年間)  日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力。物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。
  さらに、計2,500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。

          7月17日 江の島に漁師小屋を借り、臨海実験所とする。
          7月21日 江の島で研究・採集を始める
               腕足類の研究。
          8月28日 江の島の実験所を閉鎖
          9月12日 東京大学で初めての講義を行う
          9月16日 大森貝塚に初めて行き調査を行う(数日後2回目の調査)
          10月6日 日本で初めて進化論に関する公開講演を行う
          10月9日 大森貝塚を本格的に発掘調査
          11月5日 モース、横浜を発ち一時帰国する

          11月19日 佐々木忠二郎、松浦佐用彦、桜井甚右衛門の所有地(大森貝塚)を発掘調査

          12月20日 明治天皇が大森貝塚の出土品を観覧

1878年(明治11)40歳 3月11日 東京大学が東京府に大森貝塚の発掘調査終了を報告
           4月23日 モース、妻子を連れて来日
           7月5日   松浦佐用彦死亡
          7月15日~8月27日 モースら北海道・東北へ調査旅行
1879年(明治12)41歳 5月7日~6月19日 九州へ調査旅行

上の写真はモースの3度の調査旅行の詳細  出典:1)


           8月末 大森貝塚発掘報告書「Shell Mounds  of Omori」を出版
           9月3日 東大教授の任期満了、横浜から東京丸で帰国
1880年(明治13)42歳 7月3日 モース、ビーボディー科学アカデミーの館長になる。
1882年(明治15)44歳 4月25日 モース、ビゲロー日本に向け、セーラムを出発
           6月4日 モース、3度目の来日(民俗資料及び陶器コレクション充実のため)ビゲロー同行
1883年(明治16)45歳 2月14日 横浜から東京丸で帰国。上海、東南アジアを経て欧州へ
           6月5日 ニューヨークに到着
1886年(明治19)48歳 「Japanese Homes and their surroundings」を出版
1890年(明治23)52歳 陶器コレクションをボストン美術館に譲渡
1898年(明治31)60歳 明治天皇より勲三等旭日章を受ける
1901年(明治34)63歳 「Catalogue of Japanese Pottery」を出版
1907年(明治40)69歳 ウェルド・ホール開設 モースコレクションが展示される
1915年(大正4)77歳 ピーボディー科学アカデミーをセーラム・ピーボディ博物館と改称
1916年(大正5)78歳 ピーボディ博物館名誉館長となる


1917年(大正6)79歳 「Japan Day by Day(日本その日その日)」を出版
1922年(大正11)84歳 大正天皇より勲二等瑞宝章を受ける
1925年(大正14)87歳 12月20日 セーラムの自宅で死去 墓所はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)
1926年(大正15)   モースの遺言で、全蔵書を東京帝国大学へ寄贈

 

次に現在もモースが日本で収集した品々を観覧できるピーボディ・エセックス博物館について紹介します。

ピーボディ・エセックス博物館

https://en.wikipedia.org/wiki/Peabody_Essex_Museum
ピーボディ・エセックス博物館(ピーボディ・エセックスはくぶつかん、Peabody Essex Museum)はマサチューセッツ州のセイラムにある博物館である。ジョージ・ピーボディの寄付によって設立され、かつてエドワード・S・モースが館長を務めた。

上の写真はピーボディ・エセックス博物館の外観 出典:2)

建物には博物館の前身East India marine hallの名前が今も掲示されています。

上の2枚の写真は博物館内の展示の様子 出典:2)

1799年に船長や船荷監督人たちよって東インド海員協会として設立された。その協会の会員は憲章によって喜望峰やホーン岬より先の地域で「天然および人工物の珍品」の収集を行うことが義務付けられた。1992年、ピーボディ博物館はエセックス研究所と合併してピーボディ・エセックス博物館となった。

モースが大森貝塚を発見した縁で、東京都大田区の大田区立郷土博物館と姉妹館提携している。

全米最古の博物館といわれるピーボディー・エセックス博物館には、モース自身が収集したことに由来する「モース・コレクション」が数万点規模で収蔵されています。その内容は、すでにわが国から消えてしまったあらゆる種類の生活用具、人びとを捉えた写真、モース自身によるスケッチ、日記であり、19世紀の日本、特に庶民のくらしを物語る貴重なコレクションとして知られています。


生まれ故郷のメイン州ポートランドでは「学校嫌い」の少年時代を送っていた「問題児」モース。2度にわたる高校中退を繰り返し、製図工として鉄道会社に就職しました。そんなモースでも貝の収集とそのコレクションにおいては、ニューイングランドの学者たちに一目をおかれる存在で、地元の博物学会で活躍しながら、ハーバード大学の比較動物学博物館に学生助手として採用されるまでになりました。

1877(明治10)年6月、シャミセン貝の研究を目的に初来日。横浜に上陸後、新橋へと向かう開通したばかりの蒸気機関車の車窓から「大森貝塚」を発見したことは、あまりにも有名な話です。モース、39歳のことでした。
彼の日本での足跡は実にあざやかなもので、「お雇い外国人」として、東京大学の初代動物学教授に就任するとともに、ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介したほか、近代考古学や動物学の基礎を築いたのでした。

野間晴雄 著 ? E.S. モースが描く維新期の男と女の位相. 一 博物学者のまなざしとスケッチからー関西大学文学論集 54巻2号 2004-10-29
https://core.ac.uk/download/pdf/228686299.pdf


東京都品川区大森貝塚遺跡庭園内にある大森貝塚碑

上の写真は「大森貝塚」碑 昭和5年(1930)建立 出典:1)

モースのスケッチ

モースのスケッチは写実的で明治初期の様子を窺い知ることができます。

(下の2枚の写真 出典:1))

最後にモースの家族の写真を添付して筆を置きます

     

上の写真は妻のエレン 出典:1)

東京大学理学部 動物学教室所蔵 品川歴史館 写真提供

 

上の写真は2人の子供 エディス(右)とジョン 出典:1)

東京大学理学部 動物学教室所蔵 品川歴史館 写真提供

 

長男ジョン・モースは保険検査などの火災統計の調査官になり、長女エディスはストーン・アンド・エイディス社の重役で、富豪として著名だったラッセル・ローブに嫁いだ

以上はWikipediaより引用

 

 

 


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 甲種輸送 西武40000系 in ... | トップ | 横尾山断層、須磨断層、多井... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
morse papers (mike)
2023-11-08 08:10:36
I write about Morse on my blog: https://morse-trautz-japan.blogspot.com/
返信する
Thanks your comments (CHIKU-CHAN)
2023-11-09 05:07:32
Mike 様
モース博士に関する情報提供ありがとうございました
Thanks for your detail infomation regading Edward S Morse/
返信する
morse papers (mike)
2023-11-09 06:52:38
早速のご返信ありがとうございます。CHIKU-CHANさんのブログを読ませていただいて、その情熱に感銘を受けました。様々なことを学ばせていただきます。一方、私の頭の回転は鈍いため、たった一枚のはがきをリサーチするのにもとても時間がかかってしまいますが、その過程を楽しんでいます。

お時間のある際には、私のブログにもお立ち寄りいただければ幸いです。
返信する
コメント御礼 (CHIKU-CHAN)
2023-11-09 07:54:51
mike様

ご丁重なコメント返信をいただきありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事