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兵庫勤番所

2016年07月23日 06時04分16秒 | 神戸情報
岡久殻三郎 福原潜次郎が昭和4年(1929)に著した「神戸古今の姿」の
Page44-47に兵庫津の勤番所に関する記述があります。
(この本は昭和52年(1977)に復刊書が出版されています)

勤番所に焦点を絞り、上記著書を中心に解説します。

兵庫勤番所は天正8(1580)年 池田恒興が築城した兵庫城が起源である。
兵庫城は荒木村重の花熊城を解体し、その用材を用いたとの記録がある
(『花熊落城記』1732年)。
江戸時代の元和3(1617)年、尼崎藩の支配となり兵庫城には奉行がおかれ
「兵庫陣屋」と呼ばれていました。

明和6(1769)年 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
よって勤番所は明治維新(1868)までの約100年続く歴史があることになる。


上の写真は勤番所の平面図です。上述の著書のPage46に記載。
神田兵右衛門蔵
上が北になるように図を回転しています。また明治7年(1874)に開削
された新川運河の位置を点線で示しています。

また2004年10月30日(土)~12月26日(日)に開催された神戸市立博物館の
「特別展  よみがえる兵庫津」に兵庫陣屋時代の絵図及び勤番所の平面図が
記載されていますので添付しておきます。(下の3枚の写真)





上述の「神戸古今の姿」Page45に下記記述があります。
「勤番所は南北約23間、東西30間この中に門番所、与力同心屋敷、
勤番与力詰所、船見番小屋、土蔵、仮牢の建物がある
少し離れた場所に「時の鐘」がある。陣屋内にあった稲荷神社は転々とし
今は天王温泉の守護神として祀られ「豊国神社」として現存。
兵庫陣屋の時代に和田崎船見番所が設けられ物頭格役人、書役、足軽12名
が配属されていた。
勤番所時代の与力、同心は訴訟を受理して町奉行所として神事祭礼を巡視し
火付け盗賊を逮捕、市中巡視、地付同心の援助する仕事を担った。
直接兵庫津の町政に当ったのは北浜、南浜、岡方の三方より名主、年寄の
各1名を選出し合計6名が勤番所に出勤して仕事をした。」



出典は下の写真「特別展  よみがえる兵庫津」のPage31


また勤番所(片桐陣屋)の絵図も添付しておきます。(下の写真)





上の写真は元禄9(1696)年の『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』に描かれた
兵庫城付近図。御屋敷と表現されています。




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