CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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有馬道の碑 on 2016-7-3

2016年07月04日 04時39分22秒 | 神戸情報
2016年7月3日、住吉神社の東側に建つ有馬道の碑の写真を撮りました
ので紹介します。


上の写真はが「有馬道の碑」です。
有馬道 是より北江 九十丁 と書かれています。


上の写真は「有馬道の碑」の遠景です。

東灘歴史散歩 田辺眞人著 (1980)より有馬道に関する説明を引用します。

「江戸時代の六甲越えの有馬道(下の地図 Page83)は、東灘区森から
風吹岩・東お多福山・雨ケ峠・本庄橋・六甲山最高峰・射場山腹を経て、
灘地方と有馬とを直結していた。しかし、明治七年(1874)に大阪・神戸間に
鉄道が通じて駅が住吉に開設されると、これまでの山道に代わって、駅から
住吉川ぞいに山中に入り、本庄橋のところで旧六甲越えの道に合流する道が
利用されるようになった。これが住吉越えの有馬道である。有馬温泉誌には
「路は停車場より北西の方山間に向ひ渓流に沿うて進めば次第に上る。此間
渓水の両岸絶壁にして奇石恠厳並び峙ち眺め面白し。七輛場・森安・三条谷
とて各茶屋あり・・・・・」という。多くの旅人の中には、明治23年に
ここを通って紀行文を残した幸田露伴もいた。明治20年代の住吉駅は有馬
への表玄関だったのである。しかしこの道も交通の発達の中で次第に衰えて
いった。つまり明治32年の阪鶴鉄道(今のJR福知山線)の開通と三田・生瀬
の駅の開業によって、住吉越えで有馬を訪ねる人々は姿を消していった。
昭和3年(1928)には神有鉄道が通じ、昭和13年(1938)の水害で谷すじ
の道は壊滅し、交通の歴史を秘めて、谷川のせせらぎに包まれて深い眠りに
ついた。昭和48年(1973)、この道はふたたび眠りから覚めた。
「太陽と緑の道」の一環として住吉道として整備されたのである。」



上の写真で阪神電鉄の深江駅から北に伸びる道は徳川時代の初期まで
さかのぼることができ、魚屋道(ととやみち)と言われ、深江や青木の
浜で獲れた魚などの海産物を有馬まで運ぶ生活路でした。

魚屋道の碑(下の写真)2011-12-9撮影

大日霊女神社(おおひるめじんじゃ)の一角に石碑はあります。
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