「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

スタンドアップ

2006-01-21 | 映画
映画「スタンドアップ」を観てきました。実話に基づく話です。

<ストーリー:goo映画から>
子供を連れて故郷に帰ってきたジョージー。鉱山の町としての伝統を育んできた町の住人たちは、10代で息子を産んでシングルマザーとなり、父親のちがう娘を連れて、戻ってきたジョージーに“身持ちの悪い女”と冷たい視線を向ける。そんな中、ジョージーは子供たちのために、自立を目指して、鉱山で働きだす。だが職場では、男性社会に進出してきた女性に対する会社ぐるみの厳しい洗礼と、屈辱的な嫌がらせが待っていた。

多数派に対して少数派、マイノリティはどういう立場を取るのか。多数派は自分たちの権益を守るために少数派を差別することが多い。多数派が横暴であっても少数派は大抵の場合、我慢し、時に迎合して気に入られる事で生きる。まれに多数派に挑み、「それはおかしい。不合理だ」と声をあげて立ち向かうものが出てくる。それは多くの場合、茨の道となる。自分たちも巻き添えをくらって「より悪い扱い」を受けることを恐れる「マイノリティの中の多数派」が存在し、マイノリティの中ですら浮いてしまい、その中からも排除されかねないからだ。

映画の主人公がまさにそれ。執拗なまでの女性差別、屈辱的な仕打ちにたった一人で抗議の声をあげる。他の女性たちは酒飲み話で愚痴はこぼしても「がまんすればいい。余計な事はするな」と行動は起こさない。足を引っ張る。漫画「カムイ伝」を彷彿とさせる展開。

苦難の道を覚悟しても立ち上がり、戦い続ける人が常に道を切り開いてきた。その原動力は何なのだろう、と映画を観ながら思った。映画の主人公にとっては子供だった。子供を育てるためにまともな仕事がしたい。その仕事場を差別を受けて奪われることに耐えられない。子供にまで及ぶ差別は我慢できないーー。ボーイフレンドが弁護士であることも支えになった。10代で父親も分からない子を産んだ娘を相手にもしていなかった主人公の父親が娘に示した共感は大きな支えだった。

多分、理屈を超えた屈辱感、怒りが最初の原動力だろう。その後、持続して戦い続けうるには何かの支えが必要なのだと思う。身近に考えればイジメがそうだ。怒りで立ち向かってもだれも共感、支えになってくれなければその戦いは瞬時にして終わる。諦めと絶望というレシートと共に。

映画では題名「スタンドアップ」に象徴されるように、立ち上がった主人公と一緒に戦ってほしい、立ち上がってほしいという立ち上がらざる人々に対するメッセージが強烈。ある意味、「正義」が示される形で映画は終わるが、さてこの映画を観終わって、自分は同じ境遇に置かれたら?と自問すると…もしくは同じマイノリティとして立ち上がった仲間を助けるのか、と胸のなかをのぞいてみると…

さて、どんな行動をとってきたのか、とるのか?

他人ごとでなく自らの問題として考えると辛い映画です。

あと、この映画は親子の和解、という観点でみると感動します。キャラがたっているのが(意外とキャラの描き方が薄いんですよね。全体的に)主人公とその父親。先にも書いたように娘のことを許せない父親が娘に「共感」を示して「支え」になる瞬間は感動的です。鉱山の職場集会で助けを求めて演説する主人公にひわいな言葉や、許せない暴言が降り注ぐ。その場面で父親が立ち上がるのです。

「日曜日に鉱山のバーベキュー大会があって、妻や子どもを連れて行っても、あばずれ呼ばわりされたり、嫌がらせされたことはない。もし、自分たちの娘が同じことをされたらどうだ」「ここには尊敬できる仲間、友達はいない。尊敬できるのはこの娘だけだ」(←大筋の言)

劇場ではこの場面で泣いている人も見かけました。私も胸が熱くなる瞬間でした。

蛇足ですが、珍しく邦題のほうが原題「NORTH COUNTRY」よりもいいな、と思いました。