「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

久しぶりの京都にて(上)

2011-02-27 | つれづれ
わけあって、冬の京都に2泊3日することに。しかも目的の仕事はほとんど時間がかかりません。けっこう自由時間があります。いつもは出張の合間をぬってあわただしく観光するのですが、久しぶりにゆっくりと京の街を歩くことが出来ました。

初日はお仕事のみ。時間がまとまってあるのだからと、2日目は市街地を離れて朝から大原に向かいます。冬の平日のこと、静かなものです。大原は思い返せば30年ぶりぐらいでしょうか。バスではあいかわらず「京都大原三千院、恋に疲れた女が一人~」が流れています。うーん、ほかにあたりの歌がないのかなあ

三千院にはところどころ雪が残ります。今回一番の感動は、「虹の間」とよばれる、下村観山が描いた淡い青色が印象的な虹の襖絵がある宸殿の一室から、向かいの往生極楽院を静かに眺める時間のあったこと。なにせお客さんが少ないので。座る位置によって微妙に木立の間に見え隠れする往生極楽院の静かな佇まい。時折雲間から日が差すと、木立の合間から光の「道」が幾条も苔の庭園に刺さってきます。光の当たった苔と周囲との対比、深い緑が瞬時に生命の息吹を与えられたかのように新緑のような鮮やかな緑に輝きます。前日、雨が降っていたので、水気を帯びた苔が輝きます。光の中に舞う塵さえも、ここでは天女の舞もかくや、と思える美しさです。その苔の庭園を歩くと、苔むされた石の小さなお地蔵さんが何体かたたずんでいます。かわいらしい稚児の表情。思わず自分も表情が緩みます。

三千院を後にして寂光院に向かいます。まさに鄙。以前訪れたときはなんとも感じなかったのですが、私も人の親になって、寂光院の侘しい、言葉を選ぶなら「質素な」山門、そして御堂の佇まいに胸に迫るものがありました。29歳でこの寺に入った建礼門院の心持を思うと、目頭が熱くなるのです。安徳天皇の実母となって我が世の春を謳歌したのもつかの間、源氏との戦いの中で、親兄弟、そしてわが子までも目の前で喪い、自らは命を断ち切れなかった。その心持は想像を超えます。寺に入って翌年、後白河法皇が突然訪れて二人で語らい、世の無常を感じて涙した話など、ぐっと来てしまいます。建礼門院のお墓は「皇族」の扱いとなるため、宮内庁管理の廟になっていました。ここで彼女が何を思いながら生涯を送ったのか。冬の風にふかれると侘しさが一層増しただけに、印象深い訪問になりました。京都は何回訪れても、そのつど、発見や感動があります。

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