「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

意固地

2008-04-28 | つれづれ
自分が意固地になっているのは自覚している。でも、譲れないところは、やはり譲れないとしたものだ。第一、いったい何を勘違いしているのやら。筋違いの要求。他人のふんどしで相撲を取るの典型例だろう。そこまでいうなら自分の力でやってみろ、自分でふんどしを準備しろ、といいたい。まったく誰のおかげでここまできているのか、考えたこともないのだろう。まったくお気楽な…きょうは気分、真っ黒モード。愚痴、お許しを。

ようやく

2008-04-26 | 自転車
今月に入ってようやく初めて(!)ロードバイクに乗れました。仕事やら天候やらでほんとに乗れていなかった。先月は約520キロ走ったのが今月はなんとまだ自転車による走行距離が86キロ…久しぶりなので少し飛ばしたのがたたってか、脚がはったというか、以前痛めた膝の外側がまたぞろチクチクという感じ。まいったなあ。ほんとに気持ちいい季節だというのに。明日の様子ではまたしばらくお預けかも…

きょうの猫村さん3

2008-04-24 | 
まったーりした漫画、「きょうの猫村さん」の第3巻が1年以上ぶりに出ました。猫村さん、働いているお屋敷の人間関係にますます深くコミットしてますねえ。

=以下、アマゾンから=
1日1コマで連載しているほしよりこの大人気エンピツ漫画第3弾。
猫なのに家政婦、猫だけど働き者。そして意外に芸能通な猫村ねこ。ご奉公先の犬神家は相変わらず夫婦親子嫁姑と全方向に問題続き。ヤンキーの尾仁子おじょう様は集会を企みつつあり、奥様の顔のメンテナンスはとどまるところをしらず、旦那様はなんだか奥様に冷たいよう……。女優・若杉利子の私生活やアイドル・森コリスちゃんの将来までも、猫村さんの小さな胸は気がかりなことでいっぱい。夫婦って家族って一緒にいることって……?それでも、きょうも精いっぱい猫村さんはおつとめします。♪つるっつる~のすってんてーん


家族や夫婦のあり方を猫村さんが鋭く問う!いや、猫村さんが自然にごく「常識的」な発言をすると、なぜか現実の矛盾やおかしさを問う形になる。現実の夫婦や家族のほうがゆがんでいるということなのか。なんていうことは考えずに、あいかわらずの猫ちゃん節を楽しみ、家政婦派遣所の面々との会話を楽しみ、「坊ちゃん」との出会いを期待してゆっくーーりと読み続ければよいかと。ほんとにこんな猫さんが近くにいたらなあ

反省

2008-04-21 | つれづれ
伝言ゲームの結果、よそ様にご迷惑をかけてしまった。反省。他人を信用しないと仕事にはならないが、肝心な部分は自身で確認をしないと。こんなことを社会人20数年目になっていうのもそもそもおかしいのだけれどね。気をとりん直して明日からがんばろう!

ゴールデンウイーク

2008-04-20 | つれづれ
いまはこの言い方はしないで「大型連休」というのが正しいらしいですが、私の世代には、やはりゴールデンウイーク。近づいてきましたね。皆さんはどう過ごされるのでしょうか? 私はあいにく仕事やら何やらでまだ予定が立たない。でも、なんとか一日ぐらいは輪行でどこかに出かけたいなあ、と思ってます。とはいえ、どこに行こうとしても電車がなあ…けっきょく近場を走って終わりかも、と書きながらふと思ったのだけれど、そっか、いっそのこと自転車で行けるところまで行き、一泊してさらに進んで、そこから電車で戻るのもありかも。昨日のブログでアップした「走ル」に刺激されたかな? ちょっと考えてみーようっと!

「走ル」

2008-04-19 | 
最近、実生活では仕事の関係やら天候やらで自転車でぜんぜん走れていない。その憂さ晴らしというわけではありませんが、羽田圭介さん著「走ル」を読んで足がウズウズしてます

この本、内容は単純明快。高校2年生の男子がある日、偶然に乗ったロードレーサーの「ビアンキ」の魔力に惹かれるがごとく、ふらふらと何の準備もないままに自宅から学校、さらには東京から埼玉、栃木、山形、新潟、秋田、青森、岩手へとひたすら自転車をこぎ続けるというだけのお話。5日間、野宿をしたり、サウナで過ごしたり、台風にあったり…たぶん、著者も自転車好きなのでしょう。そう。ロードレーサーにまたがると風景が違って見える様子、風と一体になったような、筋肉と機械が一体化したような、なんともいえぬ高揚感と快感がリアルに描かれます。

学校もサボっての突然の「旅」。なんだかうらやましい限り。まさに青春という感じがします。オジさんも時々そんなふうに、ふらりと現実の生活を投げ捨てたくなることがありますよ描写へのアクセントとなっているのは、携帯メールでの友人やガールフレンドらとのやりとり。いかにもいまどきの高校生的なお話ですよね。

自転車好きにはなんともいえない幻想の旅の追体験。青春小説として読んでも、いつの時代にも変わらない青春だけがもつ輝きを読み取ることができます。まあ、特にお勧めというわけではありませんが、自転車に興味があればどうぞ。

ガレとジャポニスム

2008-04-17 | つれづれ
東京ミッドタウン内のサントリー美術館で開催中の展覧会「ガレとジャポニスム」に行ってきました。19世紀後半、日本の美術、芸術がヨーロッパに大きな影響を与えた事は有名ですが、アールヌーヴォーを代表する芸術家エミール・ガレも例外ではありませんでした。今回の展覧会は、30年間にわたるガレの作品の変遷を一覧することで、初期のころ、日本の芸術品からモチーフやヒントを得て作品に取り入れた段階から、徐々に日本の「もののあわれ」を表現するようになっていく様がよくわかります。なるほど、ガレが日本でなぜこんなに根強い人気があるのか、あらためて理由がわかる作品展でした。トンボをモチーフにした作品も集められているのですが、西洋的な小悪魔的なトンボから日本人の愛するトンボまで、ガレがまさに日本と西洋の両方の美の世界に属していたのだなという印象を受けました。

N700系

2008-04-16 | つれづれ
きょうは名古屋へ日帰り出張してました。これ自体は別にいつものことですが、初めて往復とも「N700系」に乗っちゃいました、偶然。え、だからなに?っていわれると…いや、ほんとそれだけですので。

「うさぎドロップ」

2008-04-15 | 
日本の漫画って、ほんとに幅が無限に広く懐が深い。そんな感慨を抱いた漫画がこれ。「うさぎドロップ」(宇仁田ゆみさん著)です。30歳の独身男性「大吉」が、自分の祖父(76歳)が死んだ祭、その祖父の隠し子、6歳の「りん」を引き取ることになり、2人の新生活が始まる。その日々を描いた作品です。

設定は「は?」ですが、個々のエピソードはとてもリアリティにあふれている。保育園の保育時間の問題、仕事と子育ての両立、小学校入学のさいの「名札シール」書きの大変さ…だから大吉の悩みにも、りんちゃんの心の痛み、悲しさにも共感できる。大吉は保育園へのお迎えのために、早く帰宅できる部署へと異動を願い出る。社内のハレーションは「あるある」だし、逆に最近の父親にはこうした選択をする人も多くなったので、新しい部署での父親同士の子育て論議も「あるある」。

大吉は肩に力が入っていない。親戚一同が祖父の葬儀で露骨に厄介者扱いするりんを引き取るときもそうだが、常に「一番辛いのはりんだから」が行動の基本にある。「りんにとって一番いい方法は」と常に行動の基準があって、りんに説明が必要なときでも大人目線、上から目線ではないモノいいとは?と考えている。「親ばか」にならずどこか覚めた目線で、理性と愛情でりんに接している。とても優しく、暖かい関係のように思える。読んでいる側が幸せに感じる。子育て、わが身を振り返って反省させられることしきりです。子どもが幼かったころは私も極力早く帰宅するようにしていましたが、当時はいまほど周囲の理解がなかったなあ、と同時に思い出したりもしています。

りんのために健康でいなければ、と健康管理する大吉。「子育て」を通じて間違いなく自分自身が大きく変化し、「育って」いる。今後の展開がとても楽しみです。ただ、難点を言えばりんの母親のキャラ設定でしょうか。どうもよくわからない。なんで?という感じ。要するに幼いというキャラにしたかったのか?どうも浮いた感じがしています。これまた今後の展開の中で生きたキャラになればよいな、と思います。

ルビーポート

2008-04-14 | ワイン
ワインって最初はだいたい甘口から入るじゃないですか。でも、逆にワインにはまってから甘口ワインというのを飲まなくなっていたのだが、最近、「甘口もわるくないじゃん」と思うようになっている。ルビーポートを飲んで、これがブルーチーズとやけに合うこと、なにより50円、100円程度のバニラアイスにたらして食べると、これが実にいける!ということに気づいたのがきっかけ。ソーテルヌの貴腐ワインも飲んでみたけど、思っていた以上に複雑な香り、甘みがするのに驚きました。

で、ルビーポート。ポートワインというと僕らの世代は「赤玉ハニーワイン」を思い浮かべるのだけれど、本物のポートとは似ても似つかぬ。本物の作り方を知ると、こんなに手間暇かけてこの値段(1000円台でもOKなんですよ)という驚きが先にきます。なんだか申し訳ない感じ。食後のデザート代わりにちょびっと飲むと満足感が高まります。普通のワインと違って開封後、楽に一ケ月はもつから気が楽でチビチビと楽しめちゃう。ほんと、お得感があります。なんだかポルトガルのワイン協会の回し者みたいですが、ま、感想文です。

ひとりでは生きられないのも芸のうち

2008-04-13 | 
内田樹さんの著作です。「ひとりでは生きられないのも芸のうち」。一人で生きられるようにと技能・能力を磨いてきて、他人は他人、自分は自分、自己決定と自己責任という生き方を誉めそやしてきたこの社会。ふと気づくと、孤立化が進んで社会はギスギス、地域、職場、至る場所で連帯感が失われ、個人は荒波に翻弄される格差社会となってしまった。「ひとりで生きられるのもいいけど、ひとりでしか生きられないのは病気だよ」と、内田さんは肩の力が抜けるように語り掛けます。そして説くのは「だれとでも共生できる人間」をいかに育てていくか、ということです。

人間はもともと一人の力で生きてきた存在ではなく、社会的存在である点が人間をほかの動物とは違うものにしている。「あなたなしでは生きていけない」というメッセージをお互いに出せあうことは無能なのではなく、「だからあなたには元気で幸せであってほしい」という祈りを相手に捧げることができるということ。共生の基本。それができる人間のほうが、自身も相互祝福を受けて結果としては健康で幸せな生活を送ることができる可能性が強い。こうしたメッセージを出し合える人の数を増やすことが人生の成熟である、と内田さんは言います。キャッチボールを例にした書きっぷりはあいかわらずわかりやすく、胸に響きます。

それにしても、わが身を省みて反省しています。私の子育ては「ひとりで生きること」を重視しすぎて、ギスギスした人間にしてしまったのではないかと…自己責任の重みに押しつぶされそうになっている若い人にぜひ読んでほしい一冊だと思いました。

俺たちは天使じゃない

2008-04-12 | 映画
ロバートデニーロ主演の映画「俺たちは天使じゃない」。いいですよね、デニーロ。かっこいいという意味ではなく、あのヘタレぶりの演技が。ストーリーは最後の段落に譲るとして、必死さとどこか抜けた感じがうまくマッチした作品です。

背景にあるのはキリスト教信仰。日本人には理解しにくい反応がいたるところに見られます。しかし、「そんなものなんだ」と納得してみると全然気にならない。むしろ、人間ってどこでも普遍的にやはり自分がかわいいし、でも、一方で他者のために時には不可思議な自己犠牲も厭わない。涙も笑いも人類共通の反応なのだと思える。それを体現したような、かっこいいけどかわいいし、ヘタレなダメ男ぶりも遺憾なく発揮しているデニーロってやはり名優、という印象がとにかく一番残る印象なのでありました。

=以下、goo映画から=
35年、アメリカ。カナダ国境近くの州刑務所に服役していたネッド(ロバート・デ・ニーロ)とジム(ショーン・ペン)のふたりは、ある日殺人犯ボビー(ジェームズ・ルッソー)の死刑執行に立ち会った際に、彼の脱獄計画に巻き込まれ、心ならずも刑務所を脱走し、ニューイングランドの小さな町に逃げ込んだ。しかし国境を越えるために身分を神父と偽ったふたりは、折からふたりの神父が来るはずだった教会に送り込まれてしまい、そのまま修道院での生活を始めるのだった。その間にもふたりは、隙をみては国境越えの機会をうかがうが、結局はうまくゆかず、そのうちにネッドは、町に住む聾唖の娘を抱えたモリー(デミ・ムーア)という美しい女性に夢中になってゆくのだった。やがてネッド達を追う刑務所長の一行が、この町にもやって来た。そんな時ネッドは、祭りの日にカナダの姉妹関係にある教会まで行列する話を聞き参加を希望するが、障害者を同伴しなくてはならないという。ネッドはモリーの娘を頭に思い浮かべるが、モリーはなかなか承知しない。そのさ中、町で脱獄犯が射たれたというのでかけつけたネッドは、そこにボビーの姿をみた。重傷のボビーは、自分も連れて行かねばネッドたちの正体をバラす、と脅迫する。混乱の中で、偶然祭りの説教者に選ばれたジムのとっさの説教に感動したモリーが、ネッドに娘の同行を許可し、こうして行列は始まった。ところが国境への橋の上で山車に身を隠したボビーの姿が発見され、警官隊の銃の発砲で倒れたボビーの勢いに巻き込まれ、モリーの娘がダムの待つ川の中へ転落してしまう。それを見たネッドは娘を追うように川へ飛び込み、彼女の一命を救うのだった。その時、娘は口がきけるようになっていた。そして祭りは終わった。教会での生活に馴れたジムはここに残る決意をし、モリーたちとともにカナダヘ渡るネッドを見送るのだった。

「完全恋愛」

2008-04-11 | 
「他者にその存在さえ知られない罪を完全犯罪と呼ぶ では他者にその存在さえ知られない恋は完全恋愛と呼ばれるべきか?」。そんな巻頭言に惹かれて読み出したのが牧薩次(辻真先)さん著「完全恋愛」です。でも、はっきりいってなんで最後まで読んだのだろう、と後悔しました。

=以下、アマゾンから=
推理作家協会賞受賞の「トリックの名手」T・Mがあえて別名義で書き下した
究極の恋愛小説+本格ミステリ1000枚。
舞台は第二次大戦の末期、昭和20年。福島の温泉地で幕が開く。主人公は東京から疎開してきた中学二年の少年・本庄究(のちに日本を代表する画家となる)。この村で第一の殺人が起こる(被害者は駐留軍のアメリカ兵)。凶器が消えるという不可能犯罪。
そして第二章は、昭和43年。福島の山村にあるはずのナイフが時空を超えて沖縄・西表島にいる女性の胸に突き刺さる、という大トリックが現実となる。
そして第三章。ここでは東京にいるはずの犯人が同時に福島にも出現する、という究極のアリバイ工作。
平成19年、最後に名探偵が登場する。
全ての謎を結ぶのは究が生涯愛し続けた「小仏朋音」という女性だった。



戦中から始まり、現代に至るまでの大河ドラマみたいな時代の流れの中で、主人公と思われる男性と、その男性をめぐる人々の物語を描いた恋愛小説と推理小説をあわせたような内容なのですが、中途半端。一つ一つの話題もバラバラ感が強くて連携感が薄い。人物造形が薄っぺらい。推理小説としてはあまりに乱暴なオチへのもって行きかた。それはないだろ、という展開でほんとにがっかりしました。これがありなら、「実は主人公である私はM78星雲から来たウルトラマンなのだ」とか「僕にはドラえもんからもらったどこでもドアがあるのさ」でもOKな展開とさえいえます。つまり、ご都合主義。

作中人物として牧さん自身を登場させた段階でもうアウト、という感じでしたね。ああ、400ページを超える本を読んでこの結末か…時間の無駄でした。

一息

2008-04-08 | つれづれ
ここ2年ほどいろいろな形で推移してきた仕事が、ひとつの山場を越えた。無事に終えられてまずはほっと一息。いろいろな経験をいやおうなくさせられた仕事だっただけに感慨もひとしお、といいたいけれど、まだ続きがあるので気を引き締めないと。100里を行くに99里をもって半ばとせよ、といったところでしょうか。とにもかくにもひとつの成果だ!

「花嫁のパパ」

2008-04-06 | 映画
娘を嫁に出す父親の姿をコメディ風に描いた「花嫁の父」(1950年)をリメイクした92年の作品「花嫁のパパ」。観るともなく観始めて、ほんのりとした温かみが胸に残りました。下に引用した「あらすじ」を読んでもらえば、内容はそこに尽くされていますが、全編を通じて人の心の温かさが感じられる。

てのには娘がいないので想像でしかないのですが、たぶん私も娘に「結婚するの」なんていわれたらこの映画のパパのような、ちょっとふてくされた反応をするような気がします。男って基本的に子どもだと自己認識してます。だから、「そんなの嘘だろ」と、子どもっぽい反応をしてしまいそう。

それはそうと、実は大きな疑問が残ったのです。この映画の中では花嫁側が結婚式・披露宴の費用全額を負担することになっている。これって米国では一般的なのでしょうか? 花嫁側が新郎側に比べて大金持ちというのなら疑問にも思わないのですが、なにせ新郎側は富豪で新郎自身も相当稼いでいる。それに対し、花嫁側も貧しくはないし、中流の上以上のクラスではありますが、相当にこの結婚式の費用負担が重たそう。新郎側からも「一部負担しましょうか」と申し出まで受けながら、「それはこちらの義務」という感じで、見栄もあるのでしょうが、全部引き受ける。わかる方がいれば教えてくださいね。


=以下、goo映画より=
今、娘アニー(キンバリー・ウィリアムス)の結婚式が終った。部屋の中にいるのはパパのジョージ・バンクス(スティーヴ・マーティン)。パパは半年前に始まる大騒動を回想していく。半年前、ローマで建築学を勉強していたアニーが久しぶりに帰ってきた。喜ぶパパとママ(ダイアン・キートン)に、アニーはいきなり結婚宣言をしてしまう。彼女の相手はブライアン(ジョージ・ニューバーン)。コミュニケーション・コンサルタントを営む若きエリートで、そのさわやかさにママは大感激。しかしパパは赤の他人に娘を奪われるようで面白くない。そんなパパをよそに、結婚式の段どりは着実に決められていく。披露宴は自宅でのパーティ。おフランス帰り風のコーディネーター、フランク(マーティン・ショート)の提示した予算はベラボーなもの。招待客は500人以上。パパの怒りは爆発するが、ママの説得でついに今後はグチを言わないことを約束する。そして結婚式の前夜、眠れないパパとアニーが語らう庭に、36年ぶりの大雪が積もり始める。翌日、式はとどこおりなく終わった。披露宴は華やかに開始された。しかし、花嫁とダンスを踊ろうとあせるパパは、結局アニーに送る言葉さえ言えなかった。落ちこみのパパ。そのとき、空港からアニーの電話があった。パパはやっと娘に、優しく送る言葉をかけることができた。パパの横にはママがいた。やがて2人はどちらからともなく優雅に踊り始めるのであった。