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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

線路の音

2020-12-13 | エッセイ

 

 ほとんど毎日、朝6時55分のNHKの鉄道の情報を見ている。真面目にみているわけではなく、天気予報を待っている間の時間のまだ。すると背景に目が行ってしまう。

 写真を撮っている場所は、どうも品川の西、八ツ山橋の奥の御殿山マンションの屋上から品川駅方面を見ているようだ。おそらくJRにしてみれば、 他社のJR 東海(JR東日本とは別会社)と京浜急行の車両が映るのが気に入らないのだろう。 しょっちゅうカメラの位置を調整しているのは、そのためだろうと思う。本当に写したいのは、山手線、京浜東北線、東海道線と横須賀線のJR東日本の電車だけなのだろう。

<品川駅方向 by Google Earth>

 

 もし、JR東日本が自分の電車だけを映したいなら、もっといい場所がある。僕だったら、別のところの映像を使うだろうと思う。それはどこかと言うと、東京の谷中から日暮里の下の町へ向かう「芋坂」の跨線橋の上だ。

<芋坂・跨線橋からの眺め Google Map>

 僕の知る限り、こんなにたくさんのJRの路線を見ることができるのは、ここしか知らない。常磐線、東北本線、高崎線、山手線と京浜東北線、そして東北新幹線、関越・北陸新幹線が一望できる。京成電車画は少し離れて走っているから問題ないし、舎人ライン は日暮里駅の駅舎が邪魔で映らない。

<上空から、芋坂の跨線橋を見る by Google Earth>

 僕は谷中の生まれだが、3月10日の東京大空襲で家は焼け落ちて疎開したから、僕が3歳のころだろう。おそらく、お袋かおばあちゃんに連れられて、この鉄橋の上から下を走る電車を見て、喜んでいたのだろうと思う。なぜなら、僕自身が電車の音が好きだということを自覚しているからだ。芋坂は、僕の家から5分ほどで行ける位置にある。

 カランコロン、カタンカタン、カランコロンと遠くの電車の音を聞くと、なにか懐かしい気持ちになる。僕が仙台にいた時も、マンションのベランダで、仙山線の電車が登り勾配を登ってくる音を遠くで聞いて懐かしく思っている自分を自覚した。 おそらくチビの頃、誰かに連れられて電車を見て、その音に惹かれたのだろうと推測している。

 残念ながら最近は線路の長さが伸びて、従来のように25 mで一区切りということではなくなって、200 mレールとか、何 kmも継ぎ目のないレールが使われているようだ。特に新幹線ではそのようだ。東北新幹線では60 km の ロング、ロングレールが使われて、カタンコトンとも言わないで、シャーッと列車は時速300kmで走っている。

<線路の継ぎ目: 「保線ウィキペディア」からお借りしました>

 そういえば、横浜の南万騎が原にちょっと住んでいた時、目の前の切通しを新幹線が走っていたが、シャーという音と空気の響きと物理的な振動を残して走り去っていた。あまりいい音ではなかった。

 これを書いている今も、京浜東北、東海道、横須賀線の音が這い上がってくるのが聞こえる。さらに遠くには京浜急行の焦った様に走る音を聞くこともできる。電車の音がうるさいと決めつける気持ちは全くない。変なものだ。チビのころの思い出がイン・プリントされているのかもしれない。

 

 そういえば、僕が小学校6年か、中学1年の頃、列車を止めた記憶がある。それは、犬と夢中になって、友達と線路を走っていた時だ。そのころは蒸気機関車で、C11が列車を引っ張って単線の線路を走っていたと思う。遊びに夢中になって、線路の上を自分が走っていることをすっかり忘れていた。突然、あるカーブの先に真っ黒い蒸気機関車が見えて、すごいスピードで僕たちの方に近づいてくる。3人は右手の山の斜面に飛び移って難を逃れたが、怖かった。

<新橋駅前のC11:パブリックドメイン>

 列車はギギギ~と急ブレーキをかけて、かなりの距離を走ってやっと止まった。僕たちは、それよりも早く“ヤバイ逃げろ!”と、列車が来た方向へ、つまり列車とは逆方向に走った。最後尾の車両から車掌さんが降りて、僕たちを追っかけてきたが、僕たちは捕まらずに済んだ。学校にも通報はされなかった。列車に轢かれそうになるということは、なかなか経験できるものではない。でも、それも今から思えば懐かしい思い出だ。今では蒸気機関車は引退して、つまんないディーゼルカーの一両か、二両の編成になって、あの線路を走っているのだろう。

 

 そんなこともあってか、電車が走るのを見るのは何かうれしい気がするのだ。すこし変かなぁ? 僕のような“音鉄ちゃん”というジャンルは、あるのだろうか?


僕の東横線 その3(最終回)  

2020-11-29 | エッセイ

 途中自由が丘と田園調布で時間を取ってしまったから、その2で東横線を終点までは語れないと分かった。しょうがない。この3で終わることにしよう。

 多摩川を渡ると川崎市になる 。最初の駅「新丸子」には一回も降りたことがない。次の「武蔵小杉」も、僕の東横線から見るイメージでは工場地帯で、JR南武線との乗り換えの駅舎があったことを記憶しているのみ。高層マンションが林立している今の姿は、決して想像できない汚い工場街だった。 

 武蔵小杉を出ると、次は「元住吉」。ここには降りたことはないから語ることは何もない。

 次の「日吉」は、僕が戦後一人で東京に戻ってきた時に、一度頼った親父のお弟子さんがいた。大した世話にはならず、結果として今では名前の記憶もないし、連絡は途絶えている。 慶応大学で有名なのだが、三田のキャンパスに入ったことがあるが、日吉キャンパスに行ったことがない。

 「綱島」は、河川敷に自動車学校があったということを覚えているだけで、会社の同期の人が綱島に住んでいると自分で言っていた記憶にある。彼は三味線が趣味だと聴いたので、記憶にあるのだと思う。

 「大倉山」には降りたこともない。素敵な街と聞いている。

<菊名駅: メタボさんの写真をお借りしました。ライセンスは、Creative.Commons. BY-SA 4.0>

 「菊名」には、仙台から横浜に戻ってきた時にお世話になった不動産屋があって、起業したばかりの彼のオフィスは、 お袋さんの持ち家の一室だった。彼とはその後、横浜西口で飲んだこともあり、その時、彼が菊名にも美味しい焼鳥屋さんがありますから、一度行きましょうと言ってくれたが、実現されていない。忙しくて、僕との約束は忘れられたのだと思う。とにかく彼が頑張っていることは、最初のお客となった僕にとって、大切なことだ。毎年、年賀の挨拶があるから、頑張ってやっているなと応援している。

 「妙蓮寺」には、従妹が二組住んでいる。大きな屋敷の上の方に、家はあるらしい。是非、一度遊びにおいでと誘われているが、まだ実現していない。僕が行く気がないからだろう。

 「白楽」も「東白楽」も、そして「反町」も、僕にとって全く繋がりはない通過駅だ。

 そして「横浜」今は、東横線は地下5階まで潜っているが、そのころはJR横浜駅から2階に登るとプラットホームが2本ある小さな高架の駅だった。JR横浜駅ビルの2階からも、渋谷方面のプラットホームへの近道があった。

「横浜」には嫌になるほど思い出やエピソードがある。どこかで、もう話していると思うので、深入りはやめておこうと思う。

 おそらく話していないと思われるのは、横浜駅東口を出て中央郵便局の角を右に曲がると、汚い飲み屋が続いていて、その先に、友達がモダンな名前のマンションを購入して住んでいたので頻繁に通った。このマンションの一階には、今はもう無くなっているが、珍しいシガー・バーがあって、入ってみたら濃厚なパイプの煙が染み込んだソファーがあって、ゆったりと座り込んだ記憶がある。また行ってみようと思っていたが、残念ながら潰れてしまった。

<閉鎖された平沼大踏切>

 すぐ近くに平沼商店街があって、八百屋さんではおばあちゃんに紅玉を取り寄せてもらったし、酒屋さんではワインをけっこう取り寄せてもらったりして、身近な付き合いがあった。ホルモン焼きの串刺ししたのを酒場に卸す専門店があって、そこで買い込んだ焼き肉を一緒に焼いて食った覚えもある。今は無い京急の「平沼駅」もあったと聞くが、駅は廃止されてプラットホームの跡しか残っていない。この商店街は歴史があったようだけど、岡野町からの東海道・横須賀線の開かずの踏切が閉鎖になって、西口からの人足が途絶えてしまって潰れていった。ここには、かなり通ったカラオケ・スナックがあって、ママと親しくなった。店の子と3人で、伊勢佐木町のお座敷・深夜バーに行ったこともある。結果としてママのガードが固くて、その女の子と二人で飲みに行くことはできなかった。

<京急平沼駅の面影が残っている>

 平沼橋商店街の多くの店は無くなったのだが、今も近くに蕎麦屋として角平がある。かなり知られた蕎麦屋で、いろんな有名人が通ってきたという色紙がいっぱい残っている。しかし、本当に上手いのは、海老天のせいろだけかもしれない。今でも、気が向けばフラッと蕎麦を食いに行く店でもある。頑張って欲しいものだ。

 今、東横線は「横浜」までだが、その頃はその先に「高島町」があり、さらに「桜木町」があった。

<みなとみらいができる以前のおなじ場所>

 みなとみらい21の開発が始まった頃で、まだ埋め立てが完了していない三菱の造船所が海に突き出ていた。その側は、貨物線の広いヤードになっていて、網状の線路が広がった貨物操車場になっていた。そのころは高島桟橋と呼ばれる港があって、何度か散歩に出かけたことがある。ここからは伊豆大島とかへ東海汽船の船が出ていた。今は本当に変わってしまった。

<高島桟橋>

 みなとみらい21の計画は、僕の知る限りでは唯一、長期的な展望を持って立てられた当初計画をしっかり守りながら開発された、素晴らしいプロジェクトだと思っている。横浜市の若い役人は、長期展望を持って、揺らぐことなく街づくりを進めてくれたのだと僕は思っている。これに比べれば、新橋の汐留の貨物操車場に作られたシオサイトの設計などは、乱雑極まりない。複数の会社が自分の土地だからとばかりに、好き勝手な建物を建てたから、結果として街としてのイメージは統一できなかった。

<みなとみらい計画 : 横浜市資料>

  僕はくたばったら、みなとみらいから出航する船で、太平洋に散骨してもらうと遺言を残している。死後のことまで語ることになったが、そんな感じで東横線は、僕にとっては非常に懐かしく、愛おしい路線であることは間違いない。

 


僕の東横線 その2

2020-11-15 | エッセイ

 渋谷から「都立大学前」まで話してきたから、「自由が丘」からあとを「桜木町」までとします。

<自由が丘・碧空:毎日新聞よりお借りしました>

 「自由が丘」は、いっぱい、いっぱい、友達との思い出がある街だ。僕が6年間、住んだ街で、ここのアパートから、大学やアルバイト先に通い、IBMに就職が決まってからは、大田区の第一京浜に面したサイトにも、田園調布で乗り換えて通っていた。もちろん、住んでいたと言っても、立派なお屋敷だとか戸建て住宅に住んでいたわけではなく、それこそオンボロと言っていい木造アパートに、姉と一緒に住んでいた。思い出はいっぱいある。

 今、九品仏緑道と呼ばれている散歩道は、その頃は汚い小川だった。大井町線の自由が丘改札口の反対側の岸に、そのアパートはあった。直線距離では目の前なのだが、その頃は暗渠にはなっていなかったので、右にグルっとまわって大井町線の踏切を越えて行くしかなかった。時間的な距離は結構あった。

<九品仏緑道>

 自由が丘駅と駅前広場の基本的な構造は、今もそのころと変わりはない。西口広場に降りて目の前には本屋があり、左側には三省堂の入った駅ビルがあった。右側に行くと、今でもある細い、長い4階建ての古い自由が丘デパートがあって、さらに南口には映画館が何軒かあった。

 いつだったか フラッと降りて、昔の散髪屋さんを覗いてみたら、散髪屋さんは、今もやっていた。店の正面の様子は変わっていたが、店の雰囲気は全く当時と変わりなく、古いものも残っている街でもある。

 自由が丘について書こうとすれば、この一枚の紙では、とても足りない話がいっぱい出てくる。

 一番に記憶に浮かんでくるのは、終電を過ぎて大岡山までの深夜の雪道を、徒歩で往復したことだ。東工大のある所で、どこかで書いたかもしれないが、大雪の積もった道を歩いて往復した。僕が、アパートの鍵を何所かで失くしたのに気が付かず、大岡山から自由が丘のアパートまで歩いて、やっと帰ってきたのだが、しかし鍵がない。アパートには入れない。色々、考えたがしょうがないので、大岡山まで女史を訪ねて、夜の雪道を戻っていった。彼女にしてみれば、深夜にまた叩き起こされ、とんでもなく迷惑だったはずだ。

<大岡山の雪:By Dan Zen Creative Commons 2.0>

 この年上の女史のアドバイスで、身を固めるということに舵を切ったと言っても過言ではない。彼女はその後、流暢なフランス語を生かしてパリで就職して、日本を離れた。それから会ったことはない。

 自由が丘には、僕の従妹が住んでいるから、時々「いとこ会」で、彼女の家を訪ねることもある。思い出に色々ある店の中でも、モンブランは一番古い店の一つだろう。あまり自由が丘をよく知らない人と待ち合わせる時は、安心出来るモンブランにした記憶がある。ここは古い店で、ケーキのモンブランでよく知られている。ケーキ売り場の後ろに、ちょっと下って、大きなカフェの空間がある。そこでは数時間すわっていても、問題にはならない雰囲気の、ゆったりとした時間が今も流れているはずだ。

 自由が丘が喧しくなったのは、ピーコックからさらに西側に細い路地があって、その小道に沿って色々な小さな店が出てきて、人の流れ、特に若い人の流れができたのが、今のおしゃれな自由が丘への発展の基礎だった。更には、北に向かって町が発展し、ヴェネチアのコピー、ラ・ヴィータが出来たりしている。

 家族を連れて横浜から車で出かけると、第三京浜経由で自由が丘まで40分で着く。途中に、目黒通りでは「紀の国屋」等々力店があるし、古くからのガーデンがあったりして車を停めるに便利だった。

<自由が丘ガーデン>

 

 田園調布では、代官山で会ったヤッぺのことに触れざるを得ない。彼女がシングルマザーとして可愛い女の子を連れて、大家さんの小さな離れを借りて住んでいたのが田園調布の東側だった。チビは、日本人離れした名前を付けられていた。親父が誰であるかは、今でも分からない。ヤッぺが意識的に誰かと約束をして、赤ん坊を産んだに違いないと僕は思っている。なぜなら、ヤッぺの家は全員女性のみの構成になってしまって、苗字の跡継ぎの人はいなかったのだ。しかし、ヤッぺの目論は、女の子が生まれてきたことで頓挫した。

<田園調布駅:今は地下駅になっています>

 僕も、なんだかほっておけなくて、僕には全く身に覚えはないのだが、その女の子と一緒に遊んだ覚えがある。オモチャで遊んだり、歌を歌ったり、最後には3人で、親子のようにファミリーレストランで食事をしたりした覚えがある。ちびは小学校に入っても、ファミリーレストランには行ったことがないということで、なんとかファミレスに行きたいと言っていた。僕が二人を連れ出したのが環八のジョナサンだった。彼女の住んでいたあたりは、田園調布なのだが、豪邸が建っているという町ではなく、下町の雰囲気があるところだった。

 あと田園調布といえば、話しておきたい所がある。一つは巨人軍の 長嶋監督の色紙が飾ってある鳥やさんだ。ここは、僕がIBMに入社して、すぐ上の先輩となったTさんが、飲みに連れて行ってくれた店だ。今は、かなり綺麗になったけれども、当時は本当に汚い、小さな店で、おそらく消防署の検査があれば、絶対に認められないような作りだった。ただ塩を振って、備長炭で焼き上げたとりの腿肉はとてもうまかった。その後も結構、仲間達、おんな友達とも通った覚えがある。

 カトリック教会がある多摩川台公園には何度か行ったことがあるが、その道すがら、ある蕎麦屋に何度か足を踏み入れたことがある。昔はうまい蕎麦を出してくれたが、昨今はあまり他の蕎麦屋と差はなくなってきた感じで残念だ。

<蕎麦屋の鯉>

 次は 「多摩川」という名前になっているが、そのころは「多摩川園前」という駅だった。

(長くなるので、その3に続けることにします)


僕の東横線 その1

2020-11-01 | エッセイ

 昔々、「中央線は地雷原」という文章を書いた覚えがある。その頃は、中央線の駅名を聞くと、そこに付随する僕の過去の辛い、悲しい、逆にうれしい思い出が、突然蘇ってくる。再現することができてやりなおせるのならば、それでもいいのだが、相手があることだからそうはいかない。

 今回は地雷原とは言えないが、いっぱい、いっぱい思い出の詰まった、僕の東横線のことを書いておきたい。

 現在の東横線は全部で21駅あるが、僕は書こうとしているのは全部で23駅の東横線だ。その理由はみなとみらい線ができて、横浜から先の「高島町」と「桜木町」がなくなったからだ。

 「渋谷」には、いっぱい良い記憶があるから、何を書けばいいかよくわからない。例えば、僕の大学時代のバイト先で長くお世話になったオフイスは宮益坂にあったし、いろいろな友達と何度も会ったし、丸山町などという危険な場所にも行ったこともある。初恋の人の借家は三宿にあって、そのころは玉電が246の上を走っていた。

 まあ、数えればきりがない思い出が、渋谷にはいっぱい詰まっている。残念ながら、最近の渋谷は、僕にとっては興味がないように見える。理由は簡単だ。大きな建物が大きく伸びすぎちゃって、どこがどこなのか、自分がどこにいるのかが、頭の中で簡単にさっと整理できないからだ。

<東横線ターミナル>

 僕の知っている東横線というのは本当のターミナル駅。ターミナル駅とは行き止まり駅、つまりそれから先は行き先がない駅のことを、ヨーロッパではターミナルと言うが、その数少ない東京におけるターミナルだと思う。扇形に開いて何番線から何番線まであったか分らないが、ぱっと見渡すと、どこに急行が止まっていて、どこに各停が待っていて、どこのプラットホームに 次の電車が入ってくるかが、だいたい改札を通る時に分かってしまう程、見通しがいいわけだ。どこかで渋谷について書くこともあると思うけれども、今日は東横線全体の話をしてみたいので、渋谷はここまでにしておく。

 渋谷の隣の「代官山」は、今ではモダンな町の入り口と知られているが、僕が最初に知った頃は、小さな汚い侘しい駅だった。今でこそ、代官山ヒルズなど、ちゃんとした都市計画に基づいた街づくりが行われているが、僕が最初に訪れた時は、 どこかの公団の社宅が大きく場所を占めていて、駅はちっぽけなものだった。

<昔の代官山駅>

 なぜ代官山のその頃を思い出すこと言えば、ある日、JR渋谷駅の一番恵比寿よりのところで電車待っていたら、どっかで見た覚えのある女性を見つけた。彼女は実は、僕が高校時代付き合っていた2年下のヤッぺだった。本当はやすこという名前なのだが、ヤッぺが愛称で、僕は常にそう呼んでいた。今もそうだ。

 高校卒業してから、7年くらい経っていた。お互いに住所も知らず、音信不通だったのだが、渋谷駅のホームで見つけたのだ。声をかけると、やはりヤッぺだった。別の日だったと思うけれど、ヤッぺと代官山の駅で待ち合わせて、彼女の小さな家に連れていってもらった。駅に北のすぐそばにある木造の二階建ての二階に住んでいた。高校時代の昔話もしたと思う。今も彼女とは知り合いだ。いつの間にか、娘一人をシングルマザーで育てて、その娘さんも結婚して、子供が出来ているのだ。娘さんも 良くできた人で、年取って体を壊したヤッぺのことを気遣って、同じマンションの別の階に住んで、面倒を見ているようだ。

 次は「中目黒」。ここは大学時代アルバイト先に行くため、東横線から中目黒で乗り換えて、地下鉄で出かけたものだ。朝の東横線は、とんでもなく混んでいて、ちゃんと準備をしていないと降りられないような状況だった。最近では、チェルト君( ミニチュア・シュナウザー)との関連で知り合った、デザインFというワンの床屋さんがある街だ。

 次の「祐天寺」は、電車では降りたことがないが、車で祐天寺という大きな寺の前を何度も走ったことがある。だから少し知っている。記憶しているのは六本木だけではなく、五本木という町が、東京にあるということを知った町だ。どういう由来であったかは、まだ調べてはいない。

<学芸大学駅:東急沿線案内よりお借りしました>

 次は「学芸大学前」だが、東京学芸大学は、もうここにはいない。小金井市の方に引っ越して、関連の中学校と小学校は存在しているらしい。僕が、特に学芸大駅で記憶しているのは、紅茶にかかわることだ。オーストラリア・シドニーに行った時、そこのリージェントというホテルで、ウェルカムティーとして出されたハイビスカスティーがとても美味しく、ネットで調べてみたが、どうしても見つからない。どういうことから知ったか忘れたが、 学芸大学前から歩いて10分ぐらいのところに紅茶専門店があって、そこにハイビスカスティーを何度か買いに行った記憶がある。もう目黒通りに近かったような気がするが、今その店はあるかどうか分からない。

 「都立大学前」におりたのは、近くにあったボーリング場を使うためだった。うちの会社で取締役をしていたNさんがボーリング・クラブの部長をしていたのだ。その頃は、まだそんなには流行っていなかったのだが、マイボールとマイシューズを 持ってボーリング場に車で来ていたのを覚えている。

<写真:”オールドゲーマーのアーケード、ゲームとその周辺の記憶”よりお借りしました>

 

(その2に続く)


日本の国際競争力は下がりっぱなし!  

2020-10-18 | エッセイ

 こんなカラムを書こうと思ったのは、最近、アッと驚くような発明にぶち当たらないな、という素朴な感想が浮かんだことからだった。

<SONY TV8-301, 1968 ソニー商品の歩みよりお借りしました>

 僕がはじめての給料をもらって、最初に買ったのは、ソニーのトランジスター・ラジオ(TFM-110)、少したって、トランジスター・テレビ(TV8-301)だった。僕んちには、テレビはなかったから、ロッドアンテナで美しい形態には本当に驚いたものだ。一番ショックを受けたのは、ウオークマン(WM-2)だったかもしれない。後になってアメリカに行ったら、SONYはアメリカの会社だと思っているアメリカ人がたくさんいた。これにも驚いた。

 しかし、最近はいけない。ソニーだけではなく、なんだっけと思いめぐらしても、イノベーション的なものは全くなく、改良、改善の領域の製品設計に落ち込んでいる。ちょっと調べてみようとイノベーション力、競争力の世界での日本を調べてみた。

 1992年まで、世界競争力ランキングトップだった日本。しかし「IMD 2020年版世界競争力ランキング」では、今や34位!!悲惨!!!

 過去5年間を見てみると、26→26→25→30→34位となり、1997年以降で最低順位。

<IMD競争力ランキング 日経纏め>

 東アジアだけを見ても、シンガポール、香港、台湾、中国は20位以内。マレーシアが27位で、タイが29位につけている。日本は韓国の23位をも下回った。昔は、これらの国々は、後進国とか中進国といわれる位置を占めていたが、軽く日本を追い越している。「もはや日本は先進国ではない」といわれるのは当たり前なのだ。

 なぜこんな状態にあるのか? 一言でいうと、「ビジネスの効率性」がとても悪いのだ。簡単にいえば、生産性が悪いのだ。そして、チャレンジ心がないのだ。

  IMDで項目別では、ビジネス効率が足を引っ張っている。マネジメント慣行、生産性&効率、政府系金融が極めて低い。競争力にとって需要な「姿勢 & 価値感」でも非常に悪かった。やる気がなくなっているともみられるのだ。

<IMD Competitive Ranking>

参照:IMD Competitive Ranking 2019 日本は34位 

Sustainable Japan 

https://sustainablejapan.jp/2019/06/04/imd-world-competitiveness-ranking-2019/39996

 ビジネス効率では、マネジメント慣行が63カ国中62位と下から2番目、つまりブービー。生産性&効率も55位と下から9番目で深刻な状況。

 更に項目を掘り下げてみると、起業環境や国際経験は分野で最下位。日本の新規開業率は5%程度と、10%を超える欧米に比べると見劣りする。携帯ネットや環境技術関連といったインフラ面には強みがあると評価されたが、IT技術は62位。思い出してみれば、この新型コロナウイルスの対策で感染経路の調査は保健所が手作業で電話での聞き取りをしているだとか、給付金のネット申請でも開発したシステムの質が悪く、障害が頻発し、IT化の遅れを露呈したことは記憶に新しい。

 もっと悪いことは、こんなにも「競争力が落ちている」ということを、国民が知らないことだ。ジャーナリズムも、国も、こうした状況にあることさえ、国民に知らせていない。ゆでガエルが、気が付いてみると…ということが進行中なのだ。特に鎖国状態を享受している若者たちにとっては。

 この件を扱ったのは、日経ビジネスが参照記事で取り上げたぐらいだ。メディアとしても国民に、説明責任をはたしてはいない。

<日経ビジネスの記事>

参照:日本の国際競争力、過去最低34位 コロナ禍を逆転の転機に

2020年7月14日 https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00157/071400004/

 社会的にみると、日本は少子高齢化のインパクトをもろに受けている。若い層が総人口に対する比率がどんどん落ちていくのだ。

 

<日本の人口、年齢構成の移り変わり>

 これは別の側面だが、例年のダボス会議のWorld Economic Forum では、評価点が違うので、落ちてきてはいるが、まだ2017年のデータでは8位と頑張っている。2019年版を探してみたが見当たらない。

<WEF2017データ>

 参考に、企業の競争力ランキングも見てみよう。トップ100社のうち、日本企業は4社のみ。日本のトップはトヨタで世界では12位。過去の栄光を担った、ソニーは45位と悲しい姿。

<企業別世界ランキング>

 

 “禍を転じて福と為す”ではないが、これからの10年が将来を決めると考えても不思議はない。若い衆、現状に気づいて、盛り返そう!