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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

岡本と僕のその後

2021-07-18 | エッセイ

  あれは僕が大阪市立大学の1年の頃だったと記憶している。

  僕の半血の姉、長崎京子が、僕を岡本の自宅に呼んでくれたのだ。阪急を岡本駅で降りて、六甲山へ向いた坂を歩いていった。 左に甲南大学の校舎を見ながら、結構急な坂を登った覚えがある。

<阪急・岡本駅>

  この日の 京子との出会いは、僕のその後の人生において大きな出来事だったと、後になって分かってきた。

 彼女のご主人が、日本郵船のハンブルグ支店長の任期を終えて、二人で日本に帰って来て、この地、岡本に住み始めた。その家へ、僕を呼んでくれたのだ。ご主人の映吉さんとは、見ず知らずだが、京子姉とは帰国したら会おうという約束はできていた。

<ハンブルグ港>

 とても素敵な家だった。庭からは足元に芦屋の街、神戸の街、そして遠くには淡路島の影も見える南向き斜面の大きな家で、おそらく東灘区の桜坂近辺だったのだろうと思う。緑の芝生がまるで外国のように美しくて、僕は驚いていた。 生垣を挟んで隣にも人が住んでいるらしく、黒い大型の犬が生垣の間から 鼻を覗かせてクンクンといっていた。僕が近づくと、しっぽをユサユサ振っているように思えた。 しかしすぐに外国語(おそらくドイツ語)で何か命令されて、飼い主の方に戻って行ってしまって、その後は見ることはできなかった。ああ、ここでは犬も外国語が分かるのだと羨ましく思った。

 半血と言ったのは 、僕の母、嘉與が僕の親父と結婚する前に一度結婚していて、子供を二人持っていたということから始まっている。最初に結婚したご主人は、若くして二人の子供を残して病気で亡くなってしまった。二人の子供はご主人の実家、土佐・安芸の大店に引き取られ育てられた。母、嘉與はその後、僕の親父と結婚して二人の姉と僕を産んだ。 だから一番上の兄姉は、異父兄姉だった。 つまり僕は5人兄妹姉妹の末っ子ということになる。 この関係を半血と呼んでいる。

<半血兄弟姉妹>

 岡本での姉との話は、どんな内容だったかは、もう忘れているが、憧れのヨーロッパでの生活と、北海に面したドイツ最大の港、ハンブルグの様子、食べ物や文化の話などを聞いて、強い興味を引かれたことをはっきりと覚えている。 ハンブルグはヨーロッパの国際河川、エルベ川(ラベ川とも呼ばれている)の河口の港町だ。 この川を遡っていくと、どこまで行くのかと思うくらい、Google の地図は続いていていた。最後は、チェコとポーランドの国境に近い山が、その源流だった。

<エルベ河>

 ハンブルグといえば、アメリカでハンバーグと呼ばれる、例のハンバーガーが思い出される。これは昔、ドイツのつましい人たちが馬の硬い肉をミンチして、やっと食べられるように作ったとの説明がある。

 この岡本訪問が、僕にヨーロッパに行ってみたいという強い気持ちを抱かせた機会だった。 彼女にそういう意図があったかどうかはわからないが、僕が行きたいなという気持ちを持ったことは事実だ。

  僕が大学を卒業して就職試験を受けるとき、候補の一つとしてアメリカのコンピューター会社があった。 日本の出版社とアメリカの会社の試験日がぶつかった時、頭のどこかにあった外国に行きたいという気持ちが大きく作用したのだろう、アメリカの会社を選び、入社することができた。

  岡本を訪ねた頃から 数えると、6年ぐらい経っていたと思う。僕は大阪市立大を中退し、東京で改めて法政大学を卒業したから、大学生活は合計6年間になった。

<コンピューター Sモデル>

 アメリカの会社に入ったので、英語は必須だった。大学受験の頃、FENを聞いてジャズにはまり、 友達のお姉さんの子供、アメリカ人とのミックス、ジャネットのかわいい姿と仲良くなるために、英語を一生懸命しゃべった。結果として、アメリカの会社に入る”クオリフィケーション”を身につけさせてくれたのだろうと思う。

 27歳の時、海外での仕事のオッファーを受け、イタリアに2年ほど駐在することになった。 1969年の年末に羽田から、アンカレッジ経由の北周りの飛行機を降りたのが、あのハンブルグだった。岡本とのつながりを感じた時間でもあった。着陸するとき、日本のけばけばしい蛍光灯の光とはと違って、うす暗くて、ポツポツと街灯がついている放射状の町並みを見ながら飛行機は降りていった。僕が初めて外国の地を踏んだ場所が、奇しくもハンブルグだったのだ。興奮していたのは間違いない。

 翌朝、飛行機を乗り換えてシュツットガルト経由で、イタリア・ミラノのリナーテ空港についた。長い旅だった。 そして、ミラノでとてもいい時間を過ごし、日本と違う文化と異世界を体験する時間を持つことができた。それは目に見えない大変な宝物だった。

<ミラノ リナーテ空港>

 ミラノ駐在員の生活のことは、別の本「父さんは足の短いミラネーゼ」に書いているから、ここでは触れないことにする。(電子ブック http://forkn.jp/book/1912/)

 日本に帰ってからの僕のキャリアに繋がることを、ひとつ話しておくと、ミラノで、「コンピューターシステムを使った業務設計」を勉強することができたことだ。それがその後、IBMで20年間、業務アプリケーション開発の仕事につながる大きいステップだったと思う。

 僕が横浜に戻ってきてからも、 京子姉とは付き合いが続いていた。彼女も岡本から引っ越して、世田谷 の用賀 に住んでいたから、比較的近い距離にいたわけだ。

 京子姉のお陰だと思う集まりができて、今も活動している。それは母方の土佐・奈半利の竹崎家の東京近郊の係累の人たちを集めた「いとこ会」だ。最初の二回は、用賀の姉の家で開かれた。 京子姉はもう他界しているが、今も「いとこ会」は続いている。

<いとこ会>

 瀬田の斎場で行われた映吉さんの立派な告別式には、僕も親戚一同の一人として参列したことを覚えている。映吉さんとの間には子供がいなかったから、映吉さんが亡くなったあと、京子姉は一人ぼっちの生活だった。姉は、その後東京を離れ、神戸の裏座敷と呼ばれる有馬にある立派な老人ホームに入った。

 そのころ毎年クリスマスになると、ドイツのクリスマスケーキ、シトーレンを神戸のフロインドリーブから僕が姉に送り、シトーレンの品評会を二人でやっていたことを思い出す。日本で一番美味しいシトーレンだと、ドイツに住んでいた京子姉が同意してくれたので、僕は今もフロインドリーブのシトーレンが、一番美味しいと信じている。

<フロインドリーブのシトーレン>

 阪急・岡本の京子姉の家の訪問と、ドイツ語を理解する黒い犬に出会わなかったら、アメリカの会社に入っていなかったかもしれないし、ミラノ駐在も実現していなかったと思う。 京子姉は13年前の2008年7月に、84歳で他界した。天国にいる京子姉にありがとうといって、この話を終りにしよう。


イタリア映画「こどもたち」を見る

2021-07-04 | エッセイ

 率直な感想を言うと、この映画はコメディーだと作品紹介にあったから選んだが、コメディーではなく、僕に取ってはリアルな深刻な物語だった。

 PC画面で、72時間(3日間)以内に1時間40分の映画を見るというのは、やはり苦行。3度見直して、やっと自分の文章が書けるようになった。大きなスクリーンで大きな音響と、仲間の観客との一体感が恋しい。

  

映画祭の作品説明

こどもたち

 

<こどもたち> 

[2020/97分]原題:Figli

監督:ジュゼッペ・ボニート Giuseppe Bonito

出演:パオラ・コルテッレージ、ヴァレリオ・マスタンドレア、ステファノ・フレージ

子育てに奮闘しながらも翻弄される夫婦を演じるコメディー。一人娘のアンナと幸せな生活を送っていた共働き夫婦のサラとニコラは、2人目の子供ピエトロを授かることになる。第2子を持つ生活の大変さを友人らから聞いていたもののなんとか乗り切れると思っていた夫婦だが、いざ4人の生活が始まると、自分たちが思うようには物事が進まない。周囲の助けもなかなか得られず、家族のバランスは崩れていく。

作品説明終わり

 

物語 

 僕が理解した物語を書いてみるとこうなる。テロップで日本語も流れるが、キィワードだけに近い。つたない僕のイタリア語のレベルでは、ちゃんと理解するのは難しい。現在のイタリア社会と家庭を知らないのも、すっと入ってこない原因だと思う。

<アパート>

 イタリアのローマに住んでいる結婚15年の夫婦の物語だ。ニコラとサラ、そして娘のアンナの3人で平和な時間が流れていた。最初の子、アンナはあまり手がかからなかった。

  昔は大家族的であったけれど、最近のイタリアは個の家族での生活が当たり前のようで、日本に劣らず人口が急激に減りつつある。 イタリア経済が、昔ほど多くの人間を養うような力を持っていないという訳もあるだろう。      

  こういう環境でサラとニコラに、二人目の子供ができる。 セックスをしているのだから子供が産まれてもおかしくないが、まあ、なんとかなるさという気持ちが二人にはあった。

<3人で楽しくやっていたのに>

 友達は二人目の子供を持つなんて、とんでもないと否定的だった。 しかし妊娠したら子供が生まれてくる。 二人は無邪気にも、それを喜んでいた。しかし、それは大きな嵐の前兆だった。

<家族4人>

 1+1は11、つまり1+1=2ではないと気がつくのは、後になってからだった。

 二人目の子供、 長男ピエトロが生まれたことによって、嵐の世界に変わっていく。 ピエトロの自我が芽生えてくる。赤ちゃんは3ヶ月が過ぎると自我を発揮し始める。子供は夜、泣き叫ぶ。サラは仕事を休むことになった。ニコラが唯一の収入を得る立場になり、妻のサラは子育てに翻弄される。夜泣きが始まると寝られない。

 高いカウンセリング料を払って、小児科医に相談する。母親は出来る限り赤ちゃんと一緒にいることが必要だと告げられる。 カウンセリング代400ユーロ、薬代が400ユーロ近くもかかった。食料品店の店員、二コラの収入だけのつましい生活には、10万円は大きな支出だった。

<二人目は大変>

  サラにしてみれば「妻」だった自分がいつのまにか「ママ」になっていた。義父母に相談するが、年齢を理由に子供の面倒は見てくれない。サラは怒って、「あなた達の世代が自分たちの事しか考えないで生活してきたから、こんな生活を私たちがしているのよ」とキレる。すると義母に「私たちは若者100人に対して165人もいるよ。団結すれば強いのよ」と脅かされる 。この辺りはコメディーかも…。

<老人は強いのよ>

 娘、アンナも自分中心の生活ではなくなって、一人で外出するようになる。そして弟を無視しようとする。家族の画を描くと、3人のだけの絵になる。ピエトロなんかいない方がいいと言う 。

<アンナには3人の家族が>

 画面には、悲壮な雰囲気を現わしてベートーヴェンの悲愴のピアノ曲が鳴り響く。

 時には気分を変えるために、夫婦は子供なしでデートしてみるが、子供達への気持ちが現れ、疲れて映画館で寝てしまう二人。

 外の自由な空気を吸いたいママ。二人の仲が険悪になっていく。ピエトロが嵐の中心になる。子供を消してあげようかというオヤジが夢に現れ、びっくりして目を覚ます。悪魔のささやきだ。これは潜在意識の現れかもしれない。

 毎週の家庭の仕事を。ホワイトボードに名前をつけて貼り付けてみる。2人での共同分担作業が明示される。それを試してみるが、二人の感情はパサパサになってくる。外で、食事をしていても会話のない二人。別々の友達の所で時間を過ごす。疲れた二人に危機が訪れる。 そして、子供達にあたる。

 しかし、やはり二人はどこかで、コミュニケーションをとりたくなる。なんとか四人の生活が成り立ち始める。サラも仕事に戻る。

 騒がしいカーニバル、沢山家族が参加するパーティー、そこはカオスそのものだった。四人は逃げ出して二人は仲直り。 やっと二人の子供の存在を含めての生活が始まって行く。

<赤ちゃんは両親の関係を表現>

<二人がいら立っていると赤ちゃんはピリピリ>

 小児科小児科医の忠告、子供たちはあなたたちの鏡なのよ!仲良くしてちょうだい!を受けて、子供たちとの生活が良くなっていく。サラも落ち着いて、仕事が出来るようになってくる。

<アンナの画にピエトロも>

 やっと余裕のある生活が成り立つようになる。勿論、 激しい口論ももどってくる。 

感想

 果たして、これは特異な状況なのだろうかという疑問が湧く。日本であろうが、イタリアであろうが、どこの国であろうが、当然出くわす二人目の子供の問題だと思う。

  これをあえて取り上げたという映画は、それ自体がコメディーかもしれない。 結果的には、日常は気にもしない平和を再確認するチャンスになったのではないだろうか。これこそが、監督の狙い目だった…のかもしれない。しかし、これをコメディーというのは、あまりにもひどいとしか言いようがない。

 こうした問題を映画にした日本人監督はいるかと探すが、どこかほんわかとした家庭を描くことが当たり前で、家庭の中にある悲劇を描き出すという人はいなかったかもしれない。

 そういう意味で、この作品は日本人にとっても再発見のきっかけかもしれない。いつだって、これは当たり前、普通だと思って生きている日本人にとっては、これが 特別な世界であるということを、思い知らされたのではないだろうか。

 このフイルムを見て、一つ疑問が残るのは、時々、サラやニコラが窓から飛び降りるシーンが差し込まれている。これは何を意味するのだろうか?自分が消えたいという思いなのだろうか? 謎か、ご覧になって、何か解釈があれば教えてください。お願いします。

P.S.

ここで借用した絵は、すべて、このフイルムからのスクリーンからのショットです。


Wikipedia に乗っけようと思った徳山巍

2021-06-13 | エッセイ

急告:

この親父の関係していた第93回新構造展が、6月23日~6月30日の予定で、上野の東京都美術館で開催中です。アマチュアの方も含めて、絵に興味のあり方は、行ってみてはいかがでしょう。(このカラムも、7月3日までの掲載にします)

 

本文

いろいろググってみても親父、徳山巍(たかし)の 記事はない。 Wikipedia にもない。 唯一の記載は、ある弟子さんのブログに、ちょいと載っているぐらい だ。

 

 僕も、もう先がないから置き土産としてWikipedia で親父を紹介してみようと思って、ウィキペディアの作成要領等を読んでみた。 そこには百科事典として必要条件である客観性を求めるという項目があった。公的なものの参照が求められていた。探してみたけれど客観的に親父を評価して、その画業を記述したものはなかなか得られなかった。

 仕方ない。それに代わるものとして、僕自身が主観をこめて込めて、親父の紹介をWikipedia風に行ってみようと考えた。そしてこの文章が生まれた。

 今年2021年は、親父が1991年に87歳で没して、ちょうど30年。良い機会だと思う。

<晩年の徳山巍>

 戸籍謄本を調べると1903年(明治36年)に、岡山県の山の中、旭川の源流、川上村上徳山に生まれている。上徳山は僕のルーツでもある。 600年に及ぶ歴史があるので、家系図も今25代目まで、ご本家にちゃんと残っている。徳山家を起こした徳山将監を祀る1300年頃からの古い徳山神社は、今も村の鎮守として残っている。毎年の秋祭も行われている。

<徳山神社>

 

 親父には三つの顔があったと思う。一つ目は画家、二つ目は教育者、僕の親父という顔だ。最後の親父については、別に電子ブック(http://forkn.jp/book/2064/)に上げているから、今回は前の二つについて書いてみたい。

  親父は1921年に18歳で上京して、東京の川端画学校でデッサンを学び始めたようだ。 さらには日本美術学校に学び、1929年に公募展「1930年協会展」に入選(26歳)し、画家の道を歩み始めた。 その頃、里見勝蔵、佐伯祐三などと知り合い、刺激を受けたようだ。 先生に「日本人は日本人の絵を描け」と言われたようだ。 これが彼の生涯のバイブルになったようにみえる。

<白日会入選の絵:サーカス>

 1930年には「白日会」に入選するも、会員を辞退し、新しく「新構造社」の発足に参加し、生涯、新構造社展と離れることはなく、最後には審査委員長を務めるような形で終わった。

 彼の画家としての青春時代、1930年代は彼にとって最高に楽しい時期だったと思う。当時、キリスト教会を描かせれば徳山だと、「教会の徳山」と呼ばれたくらい知名度は上がっていたようだ。

 この時期の作品を、僕は訪ね回ってみたが、戦争の炎から焼け残っているものは、写真で「霊南坂教会」、そして実物で「聖テモテの教会」(1935年:32歳)だけしか発見できなかった。 まあ本当に才気溢れる力強い時期だったのだろうと思う。ただ、パリの建物を描いたユトリロを見て、愕然としたとの逸話もあるようだ。

< 霊南坂教会>

<聖テモテ教会>

<聖テモテの絵の前で、K先生と>

 谷中にアトリエを建て、経済的にも恵まれ、幸せな画家生活を送っていたようだ。 しかし、そうした生活は日本がアメリカとの太平洋戦争に突入し、1945年3月10日には、東京大空襲を受ける。彼はアトリエのみならず、それまでの全ての絵を失ってしまったようだ。文献も焼けてしまったのか、ほとんど残っていない。彼が42歳の時の出来事だ。

<長谷川利行との写真:右端が親父>

  調べてみると長谷川利行(1929頃)と交友があったりして、僕の祖母の肖像を長谷川利行が描いていたという記録も残っているが、肖像画そのものは空襲で焼けてしまった。残念だ。

 親父は子供3人、妻、祖母とともに、ルーツである岡山県の山の中に疎開した。 当然のことながら、洋画家が田舎で生活していくことは容易ではない。 戦後の厳しい時期に、洋画家の描く 絵を買ってくれる奇特な人間はそうはいない。 数少ない例外の絵が残っている。

  この時期の彼の絵、1945年から6年(42歳)にかけての作品が、一番の傑作だと僕は思っている。親父の好きだったジョルジョ・ルオーにも劣らない、美しいマチエール(絵肌)を描いている。幸いにも僕は、この時期の2点を2014年に買いもどすことができ、僕の部屋の壁に掛かっている。 この絵をその昔に買ってくれたのは、谷崎潤一郎などの疎開した文化人たちを支援してくれた勝山の造り酒屋、辻本店の当主、辻弥兵衛さんだった。

<飾り馬買い戻した一点>

<茶わん>

<室戸岬>

 僕は親父より早く1961年に東京に帰ってきた。親父は1962年(59歳)に東京に戻ってきた。終戦から既に15年以上が経っていた。この間、親父は毎年、新構造社展に出品し上京してはいたが、この間に先に東京に戻ってきた作家たちが、東京で活躍し、確たる画壇を築いていた。親父はその波に乗り遅れたことになった。脂ののった40歳代と50歳代を田舎で過ごし、親父は焦っていたに違いない。

<壮年期の徳山巍>

 1960年代に、親父は日本独特な抽象画をはじめた。 そうした作品がかなり残っている。

<1962(59歳):赤と黒>

<1963   断の機序>

 

  1964年には抽象的なものでありながら、日本的な絵だった。

<1964 法隆寺>

<1964 唐招提寺>

 

 翌年には、また純粋な抽象画に戻っていた。

<1965 竪琴>

<1965 モニュメント>

 さらに日本画の技法を油絵具の世界に取り込んで、金粉で扇面とかを描き、彼が生涯を通して求めたテーマ、日本の抽象の世界を確立していったようだ。

<1972 扇面>

<1974 日本の美>

<1983 朱柱>

<1987 日本の美再発見>

 

 残念ながら、当時の画壇では高い評価を受けることなく、耽美を追求する市井の洋画家として制作を続けていたようだ。 経済的には、厳しい生活が続いたと思う。

 

もう一つの親父の顔、それは紛れもなく絵を教える教育者だった。

  岡山と淡路島で、県立高校の美術教師をやり、絵に興味を持つ子供たちを育て、東京の美大に何人かを送り込み何名かの洋画家を育てた。

 上京してからは、新構造社展の審査委員を担当し、展覧会に出品する若者たちを自分のアトリエに集め、日常的に絵を指導する活動を始めた。これらの教え子たちは、今も活躍している。20名ぐらいのお弟子さんが、自分たちで「油彩創作家協会」を作り、東京を中心に活動している。この文章で使わせてもらっている親父の絵の大部分は、お弟子さん達が1988年に開催してくれた美術展記念画集から借用しているものだ。

<1988 徳山巍画集>

 彼らは、鶯谷のアパート二軒を打ち抜いた親父のアトリエのすぐ前に、自分達で自分たちのアパートを二部屋借りてグループのアトリエとして使っていた。 こうしたグループは、東京のみならず長野、広島、静岡などにも出来て、今も活動している。

<2013年油彩展>

 もう一つの教育者としての側面は、社会貢献だと言ってもいいだろう。 台東区の成人学校の美術教室を担当し、何百人もの市民の絵描きを作り出したのは大きな功績だろう。 台東区の文化功労者としても表彰されている。 余談だが、僕の大学の英語の先生のご母堂が、親父の成人学校の生徒だったということで、世間は狭いなと思ったことが記憶に残っている。

 親父はタバコを吸いすぎて、晩年は肺がんで常に酸素吸入をしながら絵を描いていた。 自分の家では生活できなくなって入院することになったが、その入院先の病院でも絵を描き続けた。本当は油絵を描きたかったのだろうが、ターペンタインの匂いが強いので、病院ではそれは許されず、水彩絵の具で小さな絵をたくさん描いて病院の廊下で展覧会を開いていた。

 本当に絵に生きた男だと思う。先日 、大塚から都電に乗り豊島区の鬼子母神まで行ってみた 。 親父の最後(87歳)となった鬼子母神病院は、今は大学の一部になり、親父が眺めただろう窓には、若い学生の姿があった。

<鬼子母神の境内>

 親父の告別式は白山のお寺で、僕が喪主で行ったが、会社の連中、油絵・画家の友達、お弟子さん等に加えて、台東区の成人学校で勉強してくれた人たちが、たくさん見送ってくれた。結果として、町屋にある斎場までの小型のバスが足りず、葬儀社さんが慌てて追加のバスを仕立ててくれたのを覚えている。それだけみんなに愛された幸せものだったのだと思う。

 そんな親父の一生を振り返ってみると、戦前の素晴らしい洋画家としての成功、戦後の混乱期の空白の時間15年程があり、その後お弟子さんや、台東区の成人学校の人達に囲まれて、慎ましいが幸せな一生を送ったのだと思っている。 関係の皆さんに、本当によく面倒を見ていただいたと感謝している。

 画家、徳山巍について個人的な見解を述べると、画風とテーマを、あまりにも変えすぎたと思う。 「日本人は日本人の洋画をかけ」という呪縛からか、様々な試行錯誤を繰り返した。種々の先駆的で多岐なテーマだったが、一生を通しての徳山巍の個の画としては確立できず、結果として残らなかった。つまり日本の洋画史に、名前を残すことはできなかったのだと思う。

<1974 老桜:僕の元会社のホールにおさめられた800号(5.2mx1.9m)の大作>

 僕が持っている絵の中に、親父が描きすぎてしまわないうちに、かっぱらってくるという方法で残した絵がいくつかある。またその瞬間をとらえたコレクターもいたようだ。

<1988 薊 所有している>

<1966 波良(バラ) お弟子さんが所有>

 親父の告別式などでご足労願った方々に、僕が配った印刷した色紙が、彼の絶筆といえよう。美しい。

<絶筆となったトルコ桔梗 色紙>

 

 親父が天国でこの文章を読んで、喜んでくれるかどうかは、僕には分からない。


イタリア映画祭・無料の短編

2021-05-30 | エッセイ

 今年もコロナで残念ながら数寄屋橋マリオンでの上映はなくなった。昨年に続いてコロナは、僕の長年の楽しみである映画祭の邪魔している。

<2021イタリア映画祭>

 無料での短編を2編見ることができた。 代金を払っての2時間版は別途時間を見つけて、作品を見定めて5月のどこかで見てみようと思っている。 白状すると2時間の映画を、72時間、つまり三日間で見切るというのは結構大変。昨年の経験から言えば、集中しなければ「見たな」という感じにはならない。大きなスクリーン、大きな音響、さらには他の観客の反応、仕草、笑いなどを含めた臨場感はオンラインにはない。 オンラインでは伝わってくるものを、こちらから積極的に取りに行かなければ、得られるものではない。

#1 タイトル:あなたの不幸はわたしの幸せ

<上映カタログ>

2017年 12分 原題:Io sì, tu no

監督:シドニー・シビリア Sydney Sibilia

出演:グレタ・スカラーノ、リーノ・グァンチャーレ

 作品説明:抜粋

抱腹絶倒の短編コメディー。1981年若い世代の就職活動をめぐる厳しい状況から作品は生まれた。主人公は学歴や資格にもかかわらず、仕事を見つけるのに苦労している若者のフランチェスカとマルコ。数少ない職を得るために、2人はお互いに巧妙な手段でライバルを出し抜こうとする。

感想

  この映画は面白かった。2人とも失業者で、仕事を求めて四苦八苦している若者である。しかし、その事を二人はお互いには知らない。 ドラマの導入部は、後で分かることなのだが、 フランチェスカがバイトをしているバールに閉店時間直前にマルコが現れて、何か飲めるかと聞いたことから始まる。 2分間でビールを飲み終えたマルコは、フランチェスカに今日はこれからどうするだと聞く。

<2分でよければ…>

 この夜二人は、フランチェスカのアパートでセックスして寝り込んでしまうという。 しかし、この就寝時間中に、二人は一人ずつ相手に対するトラップを仕掛ける。フランチェスカは次の日が就職の面接だった。マルコは、その7時の目覚ましを2時間遅らせてしまう。方やフランチェスカ夜中に起き出して、マルコが作っている履歴書を見てしまう。フランチェスカはマルコの履歴書にいたずらをして、変人だと思われるような写真を張り付けてしまう。マルコはそのことは知らない。

<ベッドインの二人>

 翌朝、フランチェスカが目覚めた時には、マルコはいなくなっていた。面接時間に2時間遅れて到着したフランチェスカを待っていたのは、面接は受けられないということだった。

<必死で仕事を探している…>

 そして、そのオフィスにマルコが順番を待っている事を目撃する。 マルコとフランチェスカは同じ会社を受験することになっていたのだ。 マルコはフランチェスカが最有力候補であるということを知っていたので、彼女の目覚ましのタイムを後ろにずらして、失格させるというトラップに嵌めたのだ。 彼女が最有力だということは、その会社に勤めている友達に情報を盗んでもらい、それを買い取っていた。フランチェスカが就職に失敗するように仕組んだ作戦だったわけだ。

 しかし、マルコは自分の履歴書を面接員に渡した時に、昨夜フランチェスカが夜中に起きだして、履歴書に加工していたことを知らなかった。結果としては変な奴ということでマルコも受験に失敗する。

 フランチェスカとマルコは仕事探しの 競争相手、つまり敵と敵の関係だったわけだ。 しかも、マルコは最初から彼女の情報を持って近づいたのだ。

  就職試験に落ちたフランチェスカは、マルコの結果を知ろうとロビーで待っていた。 本当だったら相手を罵倒しあう関係であるはずだが、昨夜のセックスを含めて、お互いがお互いを好きになってしまっていた。そこには愛が芽生えていた。

<目覚めたのは愛>

 会ったその日にセックスまで行くという展開は、ちょっと無理筋だけれど、匍匐絶倒の短編の作品に仕上がっている。10分の中にこれだけのシナリオを押し込んで、しかも見るものを笑わせることができるのは、イタリア人の才能だからかもしれないと思った。 とても楽しい映画としての印象が残った。

 

#2タイトル:フィオーリ、フィオーリ、フィオーリ!

<上映カタログより>

2020/12分 原題:Fiori, fiori, fiori!

監督・出演:ルカ・グァダニーノ Luca Guadagnino

作品説明抜粋 

新型コロナウイルスの感染拡大によるロックダウンの最中に、生まれ故郷のイタリア・シチリア島で監督ルカ自身が撮影した短編ドキュメンタリー。監督は子供時代の友人たちを訪ね歩き、全世界が一つになったこの特別な日々を彼らがどのように生き抜いているかを記録するとともに、監督自身のルーツを見いだそうとする。

感想

<花1>

<花2>

 Fioriとはシチリア島の山に咲く、いろいろな花のことを意味している。シチリア島エトナ山をバックとして、ルカ、つまり監督自身が6日間の短編ドキュメンタリーを作ったのがこの作品だ。昔からの友人を尋ね歩いて、このロックダウンの2ヶ月間をどう過ごしてきたのかということを聞くことによって、彼のシナリオが成り立ってゆく。

<シングルマザーと子供たち>

  まずは、3人の子供を育てているシングルマザー、マリアと話をする。 印象深かったのは、このコロナが終わった時に、このコロナ禍をどう振り返るだろうかという問いに対して、彼女は「怠けることが許される」ということを思うだろうと話す。パレルモのマッシモ劇場に勤める友達は、「まさに暴力的な2ヶ月間」だったと嘆く。 この世界で3番目に大きいといわれるパルコ・マッシモにも人が入らない、入れないということで危機が訪れている。

<パルコ・マッシモ>

 一番、僕の心に残ったのはデヴィット カイガニックが語る次のような言葉だった。

 一人で過ごすということは 暗喩として「森」意味するのではないか。 つまり森が健やかになるためには周期的に焼き払う必要がある。 つまり山焼きだ。今、自然(地球)は発作を起こして自律神経に異常を来たしている状況だと暗喩で語る。 つまりコロナは地球を一度再生させるための、破壊のサイクルなのだという意味だ。

<コロナの寓話 by Economist>

 実は僕もこのコロナは地球の創造主、つまり神が人間の横暴さを戒め、地球自体のバランスを再度保つために、人間に課している大きな試練だと思っている。 あまりにも人類はやりすぎた。 地球の存在そのもの危うくするほど、人の活動は大量のCO2を発生させ、他の動物、植物に対して野蛮なる行為をしていると写っているのかもしれない。 つまり人類に生き方を変えさせるために、このコロナを人間の世界に派遣したのではないかとの暗喩として受け取っている。

<脚本家 デヴィッド カイガニックの言葉>

 そして最後にカイガニックは、「自分と他者の境界線を認識し、孤独が人間の魂に良い働きをもたらす。そういう意味では、今こそ他者はあなたに役立つのだ」と言っている。素晴らしい警告だと思う。

<映画祭のスポンサー、フェラガモの美しいCM>

P.S.

絵はすべて、映画のワンショットを借用しています


僕のシュナウザー物語 Ⅲ  

2021-05-16 | エッセイ

3.チェルト君の物語

 

 チェルト君は再婚相手との間で、僕たちの一人っ子の長男だった。 僕が55歳での再婚だった。彼女は40歳 位だったから、無理すれば子供は作れないわけではなかったが、子供の将来のことも考え、子供は作らないと合意して結婚した。 代わりと言っては変だが、彼女も犬が好きだったし、僕も大好きだったから二人の間に、長男として僕にとっての3頭目のシュナウザーを飼うことにした。

<瀬田ケンネルエイト>

 チェルト君に初めて会ったのは1月の寒い頃だった。環八をよく車で走っていたから、環八の瀬田にシュナウザーだけを扱っている店を知っていた。大きなシュナウザーの看板が出ていた。勿論、今も健在だ。

  前年の12月6日生まれで、まだ一か月しか経っていないチビの シュナだった。両手を組んで出してくださいと言われてそうしたら、店主はチビのシュナを拾い上げて僕の手のひらに置いてくれた。ブリーダーはシュナウザー博士 の Cさんだ。

  子犬は3ヶ月以上育たないと渡さないというポリシーを持っていた。それは非常に重要なことで、親や、兄弟、もしくは 血縁のおばさん等と一緒の生活で、犬世界での社会性を身につけて出発することができるからだ。 日本のブリーダーは犬のことを本当には考えていないのか、2ヶ月ぐらいで子犬を飼い主に出している。小さな仔犬のほうが可愛いらしいということで、客にアピールしているのだ。しかし、その後のその犬の一生を考えた時に、犬としての社会性を身につけているということは、本当に大切なことだった。

 そうしたことを、チェルト君との生活の中で、何度も確認させられたかわからない。ちゃんと犬社会の規制が身についていた。お互いの匂いを嗅いで、友達になるという基本動作ができるようになっていた。 噛みつきあいの遊びにおいても、その噛み付く度合い、強さを自分で、体で感じしている。 だから相手にも強く噛むことはなく、アマガミになる。 悪いことしているとお母さんやお父さんに怒られるという経験もしている。

<ちびちびのチェルト君>

 結果から言うと、チェルト君は上顎にできた癌のために手術ができず、9歳で虹の橋を渡った。

<伊豆高原>

 環八瀬田から貰い受けたチェルト君を、僕たちは伊豆高原の家に連れて引っ越した。自然に恵まれた伊豆高原では好きなだけ散歩ができた。1時間半くらいは 平気で散歩をしていた。当然たくさんの友達ができた。 数え上げればきりがないが、初めての友達は、大きなお年寄りの セッター のミックス、チャーリー君。 2番目にできたのはコーギーのアンナだった。 その他にもミックス犬のセロ、 シーズーのリリーちゃんだった。 猫の ボニーとミーシャ とも友達になった。 チェルトにとって楽しくて、楽しくてしょうがない伊豆高原だったが、お父さんの病気の為に、仙台に移転することになった。 お父さんの病気の先生が、伊豆高原にはいなかったからだ。

<最初の友達 アンナ姉さん>

<猫のボニー>

  せっかくできた友達とも別れてチェルトは寂しそうにしていた。少し規定のサイズより大きかったから 新幹線には乗れなかった。僕が 車で550 km くらいを二日間で走って、仙台に辿り着いた。 途中、那須で一泊した。チェルトは不安そうだった。

<不安そうなチェルト君 @ 那須高原>

 仙台でもたくさん友達ができ、僕のボランティアの活動にも参加して楽しんでいた チェルトが見える。外国人のホームステイや、外国人を含めた国際交流パーティーでも、チェルトは参加して楽しんでいた。しかも皆の真ん中にいた。

  僕にとっては3頭目のシュナウザーだが、悲しい思い出の犬になってしまった。それは僕の病気と関係していた。

 僕は心臓に肥大型心筋症という病気があって、劇薬と言われる薬と血液サラサラの薬を飲みながら様子を見るということになった。 しかし心房細動は止まらず、最終的にはその頃の最先端の技術だったカテーテル・アブレーションを東北大学病院で受けることになった。このカテーテル・アブレーションは新しい手術なので、東北全体で20人ぐらいしかまだ経験していなかった 。

 僕が入院してオペをするその日に、奇しくもチェルトの上顎に癌が出来ているのが見つかった。カミさんは、僕のオペとチェルトの癌を同時に体験し、精神的にまいったようだった。

 いま考えてみると、チェルト君のがんの発症は、ストレスが原因ではなかったかと思っている。伊豆の友達をなくし、相談もなく引っ越しになって、長い旅をして、環境が変化し、見知らぬ仙台についた。そして、僕がオペのために入院した。これだけで、十分なストレスになっていたのだろうと思う。

<がんが発見されたチェルト君>

 最初の診断では、チェルトの寿命は持って半年だろうと言われていたが、実際は1年半、頑張って僕たちを助けてくれた。その間、カミさんと僕は、彼の免疫力を上げるため、チェルト君の食事を全て手作りで作っていた。それを1日に6回に分けて、スプーンで口の中に入れてやっていた。

<チェルトの陣地:ソファ>

  チェルト君がいなくなって見たら、カミさんと僕の間には、何も残っていないと分かって別れることになった。チェルト君は、まさに僕たち夫婦の 鎹(かすがい)だったと思う。その後も、シュナウザーを飼うという誘惑はあったが、僕の方が先に葬式を出してもらうことになるかもしれないと恐れ、飼うことは諦めた。

<僕たちの子供だったチェルト君>

 以上がミニチュア・シュナウザー3頭と、35年間を過ごした僕の記録です。

 シュナウザー物語 Ⅱの追記をしておくと、βの名付け親の長女は14歳でβをなくし、最近同じシュナウザー、エマを飼っています。A、B、C、D、Eとなりました。僕はイタリア製のぬいぐるみ、エザッタをかわいがっています。

<娘の飼っているエマ:Emma>

<よくできたイタリア製のエザッタ: Ezzatta>

 

P.S.

 チェルト君との思い出は絶対に残しておこうと考えて、チェルト君の目線で見た9年間を、2冊にまとめて電子ブックとして発行しています。 無料です。気が向いたら読んでみてください。

電子ブック:

「M.シュナウザー チェルト君のひとりごと  その1」 

http://forkn.jp/book/4291/

「M.シュナウザー チェルト君のひとりごと  その2」 http://forkn.jp/book/4496/