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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

僕のシュナウザー物語 Ⅱ

2021-05-02 | エッセイ

2.β( ベー)の物語

 アンナの19年10ヶ月が終わった。 彼女の死は、僕にとっても、家族みんなにとっても大きなショックだった。 動物は死ぬものだと分かっていても 、やはり先に行ってしまうのを見送るのは辛いものだ。 結構、あとを引いた。 もう二度と犬は飼わないと言う約束が、家族の中で出来ていた。

<β:べー>

  アンナが死んで半年くらい経った頃だろうか、下のチビ(長女)が、どこかの犬屋へシュナウザーを「見るだけ、見るだけ」といいながら、カミさんと見に行ったらしい。アンナ失くして、あたかも姉妹をなくしたように辛かったのだと思う。

 最初は戸塚の近くの犬屋を見ていたようだけれど、なぜだか保土ヶ谷にある犬屋にシュナウザーを見つけたようだ。僕も声をかけられて「見るだけ、見るだけ」といいながら連れて行かれた。 そこにはダンボールに入った小さなシュナウザーがいた。 ちょっと触ってみようと撫でてみた。懐かしい温かい感触が手に伝わってきた。 しかし、見るだけということで来たのだからと、その日は家に帰った。

 チビはそのシュナウザーを忘れることができないらしく、「私が責任を持つから、飼おうよ」とカミさんを口説いたようだ。 お父さんも行ってみようよと再度誘われた。 犬を飼うことに反対なのは、僕だけになっていた。オンちゃん(兄、長男)は、第一希望の大学受験に失敗して、もう後がなく受験勉強にどっぷりだった。

 仕方がない、本当に君が責任を持つのだよとチビと約束して、再度その子犬を見に行った。その時はダンボールから出て、ガラスの個室に入っていた。 どのぐらいの日にちが経ったか忘れたが、その子は僕たちを覚えていたようで、僕たちをじっと潤んだ目で見ていた。 僕も心のどこかでシュナウザーが欲しいなと思っていたから、その潤んだ目には絆されてしまった。

 結果として我が家に2頭目のシュナウザーが現れた。 下の子が責任を持って飼うということになって、では名前をつけろと話したら、当時、流行り始めていた”アニエス・ベー”から、β(べー)という名前をつけた。この子も女の子だった。 断耳しようと言ったけれど、可愛いからと耳は切らずにそのままになった。

<βタン>

  僕は仕事で忙しかったから、週末に時々遊んであげるくらいのスタンスで、βと付き合い始めた。戸塚は、まだ宅地開発は始まったばかりで、僕の住宅地は山を階段状に削った平面だったが、その後の宅地開発は、大きな沢や谷を、近くの山を削った土で埋めるという、乱暴な造成を始めた。一番、近い大きな住宅地はXXヶ谷という名前だったものを、XXが丘と名付けて売り出したにしていた。 反対側に小高い丘があり、その斜面は丘を切り開いた大きな斜面の草原になっていた。

  元々は山だったから海抜65mぐらいあった。その下端は海抜20mぐらいだったから、段差40m位の斜面は広くて、幅80mくらいの草ボーボーの原っぱだった。そんな広い斜面は、たちまち近所の犬たちの遊び場となった。 今で言う”ドッグラン”の はしりだったろう。 僕もβを連れて、その斜面の上に登って、下を眺めるのが好きだった。夕方は特に犬の数が増えて、いろんなところで犬社会ができていた。

<オールド・イングリッシュ・シープドッグ>

 ベーの友達は、目が見えないくらい毛深い、お決まりの白黒の大きなオールド・イングリッシュ・シープドッグだった。  ベーはチビだったけれど、シュナウの血ははっきり流れていて、体の大きさに無関係にシープドッグを追っかけまわしていた。 草原の上から見ると大きな黒い塊をチビが追っかけているのがよく見えた。見ている僕も楽しかった。

 その後、何年かして子供たちが社会人として独立したのを確認して、カミさんと合意していたように、僕たちは別れた。僕が一人で姉のマンションに移った。 家も土地も子供達も、そしてベーも戸塚に残した。

 僕はもともと犬好きで、団地でお母さんが犬を指さして、子供に「危険だから近寄らだめだよ」と言っているのを見て、早く自分の家を建てて、子供たちのために、そして僕のために犬を飼おうと思っていた。それがアンナだった。

 犬に会えなくなったのは寂しくて、 時々カミさんの家(元の僕の家)にベーを借りに車を走らせた。よく連れ出したのは、緑園都市と大池公園の間にある ”こども自然公園” の 原っぱだった。 べーは、もちろん喜んで僕に付き合ってくれた。

 その後、下のチビは 社会人になり、好きな人ができて結婚することになった。僕も、チビの旦那になる人と会い、人柄を確認していいんじゃないかと言った。その後、チビは、べーと一緒に結婚して、新しい家に引っ越した。ベーを飼うときの約束、「責任を持って育てる」を果たしたわけだ。結果として、僕はざっと5年ぐらいベーと、つき合ったことになる。良い子だった。

 

P.S. ミニチュア・シュナウザーの特性

アメリカンケンネルクラブ(AKC)によると

米国では197犬種中 人気19位  (2020年)

ミニチュア・シュナウザー:ドイツ語で口髭を表す「シュナウツ」

ミニチュア・シュナウザーは、スタンダード・シュナウザーから生まれました

・フレンドリーで、頭が良く、従順

・ふさふさしたひげと眉毛は、ミニに魅力的な人間のような表情を与える

・硬い毛並みには、ソルト&ペッパー、黒&銀、黒の3つのカラーパターン

・元は農場の万能犬、ネズミ対策に作られた彼らはタフ。筋肉質で怖いもの知らず

・犬社会の社会性を、チビの間に身につける

・人と一緒にいるのが大好きで社交的。家族の活動に参加する。テレビを見る

・明るくフレンドリーで訓練可能

・アパート生活に適応するのに十分小さい体

・他の動物や子供たちとうまくやっていける

・ミニは頑丈な小さな男であり、活発なプレーを楽しんでいる

・家庭や家族向けの偉大な番犬

・健康的

・必要運動量:20〜40分/日の散歩

・エネルギーレベル:平均

・長寿の範囲:12-14歳。

・断耳/断尾:「反対」がヨーロッパを中心にあるが AKCでは標準

・定期的に手入れをする必要あり。頻繁なブラッシング、髪と爪のトリミング等

AKCの遊び好きランクでは3番目

1.アイリッシュ・セッター 2.イングリッシュ・スプリンガー・スパニエル 

3.ミニチュア・シュナウザー

AKCはミニチュア・シュナウザーの特性を短く言うと

「健康/長命/脱毛が少なく、外向的性格で、手ごろなサイズ。スポーティで美しい姿。理想的な家庭犬」とある。

ジャパンケンネルクラブ(JKC)登録数:

2010年:8,000 → 2020年:11,000

感想 

合計3頭、40年ほど飼った経験から、自信をもって同意します。ただし、ちょっと頭が良すぎて、悪だくみだってできるようです。操られないように要注意!

目を合わせると、エンドルフィン(ホルモン)が出て、人間サイドにも幸福感を味わうという「手、技」も知っている。勝てませんね!

海外に旅に出て、シュナを見ると必ず、声をかけています。この子は、ミラノ・ナヴィリオのクロエちゃん。


僕のシュナウザー物語 Ⅰ

2021-04-18 | エッセイ

 

 僕は、三頭のミニチュア・シュナウザーを飼ったことになる。 合計すると30年以上のシュナウザーとの楽しい生活だった。 個々に色々な思い出があるので順番に話していくしかないと思う。

 

 ABC を考えながら名前をつけていたのか、最初はアンナ(A)、2番目は娘がつけてくれたベーβ(B)、次は チェルト(C)だった。D(ドクター)は カミさんの実家で付けてくれたが、病気して早くに亡くなった。

今は嫁いだ娘の家で、エマ(E)が元気にしている。娘が合計、二頭の名付け親になった。

 

1. アンナの物語

 最初の子は アンナと名付けた。AKCの登録は ジョアンナだけれど、呼びにくいからアンナになった。

 会社の先輩の家で初めて目にした犬種だった。ミニチュア・シュナウザーと言った。アンナの父も母も、アメリカの元チャンピオン犬だった。

<AKCの定義するミニチュア・シュナウザー>

  その頃は、シュナウザーがまだ日本全体で3000頭以下だった。

  彼の家ではよく吠えていたが、とてもユニークな顔立ちなので、僕が欲しくなった。 家では、その年の7月に(2番目の子、長女)が産まれ、大変な時期だった。 一番カミさん大変だったと思う。アンナ(♀)は、大阪から新幹線に乗って相模原の獣医さんへ着き、そこから僕んちに来た。僕は嬉しくてたまらない。初めて自分で飼う犬だったからだ。長男はとても喜んでくれたが、相談もなく飼ったので、カミさんは愚痴っていた。 でも、結果としては、ちゃんと受け入れてもらって、優しく育てられた。

 夫婦喧嘩などをしていると、間に割り込んできて「やめなさいよ」と言っているようだった。 誰か家族の体調が悪いとを感じると、その人にくっついて「大丈夫?」と聞いているような仕草をする子だった。とても頭のいい子だったと思う。

<アンナ>

  僕の旅にも、よく付き合ってくれた。 バリケンが折りたためたので、それを持ってアンナを車に乗せて 三浦の別荘によくいったものだ。海にも一緒に出かけた記憶がある。 三浦半島の 長浜だ。 友達とも仲良くなって、ついてまわっていた。シャワーに行こうとしたら アンナもくっついて女性用のシャワー室に入り込んだ。 キャーという声が聞こえたけれど、僕は中に入ることができない。最終的には、友達がアンナを連れて出てきた。 みんなに優しくされていたよと聞かされた。

  家族でよく行くドイツ料理屋さんでは、必ずアイスバインの骨をドギーバッグにいれてお土産として持って帰ったものだ。 アンナは、時には骨を食べないで庭に穴を掘って埋め込んでいた。後で食べようと考えたようだけれど、忘れてしまって、その後、大雨で何本もの骨が庭から見つかったことが思い出される。

<アイスバイン:真ん中の骨>

  知った人にはとても良いのだが、知らない人には結構吠えて、時には玄関フェンスを無断で開けた行商の人に噛み付いたり、郵便屋さんに吠え掛かかったりすることもあって、近所では吠えイヌとして有名になってしまった。

  このシュナウザーは、病気がほとんどなくて元気だった。 でも2回ほど入院することがあった。2度目の時は、腸捻転で入院して手術ということになった。 こちらからすれば、元気で頑張れよ!というつもりで 見ていたのだが、彼女はどんどん病院の中に入っていって、振り返ることもなかった。

  アンナにはたくさんの、友達ができたけれど、一番仲良くなったのはイングリッシュセッターのXXX(名前を忘れた)ちゃんだった。 アンナはチビだけれども、大きな犬に対しても恐怖心は全くなく、背の高いセッターと負けずに元気で走り回っていた。一番印象的なのは、ゆうに60 センチくらい の草が生えた草原を走り回っていた時のことだ。 アンナの体高は40 Cm はあるかないかの体だったが、ジャンプして空中に浮いて、頭から次の草むらに飛び込んで遊びまわっていた。 この セッターとは本当に仲が良かった。 その子が癌になって、もう明日は駄目だろうという日に、飼い主さんに抱かれて僕んちに挨拶に来てくれた。 アンナはわかっているらしく、別れのキスをしていた。

<アイリッシュ・セッター>

 お年寄りにはよくこの犬は「のらくろ」の犬ですかと尋ねられた。そういえば口の周りのヒゲが特徴のシュナウザーは、戦前の漫画「のらくろ」に似ていると言えば似ていると思う。 とにかく、サイズの大きな犬でもちっちゃな犬でも必ず挨拶しようとするのが常だった。 普通だったらビビりそうに大きな犬でも、平気でアンナは近づいて挨拶をしようとする。向こうの飼い主は心配していたけれど、僕からこの子は大丈夫ですからと言ったことは何度もあった。 人見知りをしないというのが正しいだろう。

 一番、アンナにとって怖かったのは最初の外泊だったと思う。家族みんなで八ケ岳の清里の犬と一緒に泊まれるペンションに2泊した。 アンナは食堂で他の沢山の犬に会うと吠えまくっていた。 ペンションの女主人が大丈夫だよと声をかけて撫でてくれたけれども、彼女の興奮はなかなか治らなかった。 あんなに騒いだアンナは、あの時以外に見たことはない。そういえば清泉寮で初めてウサギを見たね。友達になろうとしたのだが、無視されていた。

<清里 清泉寮  By 663highland Creative Commons 3.0>

  アンナは僕が家に帰ってくると、必ず玄関で座って待っていた。 おそらく僕の車の音を聞きつけて、角を曲がって家の方に近づく時には、もう気がついていたに違いない。 可愛いやつだった。 下のチビと同年齢なので本当に仲良かった。殆んど20年間、一緒に育った。スーパーへ車で一緒に行っても、大人しく車の中で待っていた。うちのキッチンに大きな白菜を置いておいたら、いつのまにか白菜が痩せこけてくるのに気づいた。注意深く見ていると、アンナが時々つまみ食いしていたので、白菜は痩せていったのだった。 今となっては、懐かしい出来事だ。

  アンナは必ずケージで寝るように育てた。 夜中に動き出すということは許されていなかった。 昼間でも気が付いたら、自分でケージで寝ていたりする。バリケンの中が安心だったのだ。アンナは食いしん坊で、 怖いもの知らずでもあった。 おそらく自分を犬だとは思っていないのではないかと思っている。あたいは、他の家族みんなと一緒だもんと思っていたかもしれない。

  アンナは元気で過ごして19歳10ヶ月ほど生きた。 横浜市の20歳の表彰が目の前だった。 最後の頃には認知症が進んでいて、もちろん白内障で目は見えなく、鼻はどうなのかはわからないが家の中は自由に動き回っていた。 お日さまが大好きで、温かいのが好きで、常に日向を求めてうろうろしていた。ある時アンナがいないと騒ぎになって、皆で探してみると、南側のガラス窓とソファの間に落っこって、挟まってじっとしていた。笑って救い出してやった。

<アンナ>

  アンナを亡くしたのは、僕が月曜日に出社する朝、一声ワンと鳴いて息を引き取った。僕はアンナのバリケンのある隣の部屋で寝ていたから、その一声を聞いた覚えがある。 亡くなったと分かった時は、まだ体はあったかかったから、頑張ってさようならを一声言ったのだろうと思う。

  その月曜日、アンナが 亡くなったショックで、僕は会社に行くことができなくて休むことにした。 家のものみんなで泣いていた。とても仕事ができるような感情ではなかった。 会社に電話した。僕の秘書は、休む理由として「家族に不幸があって…」と僕が言ったので 、会社では大騒ぎになったと次の日出社した時に聞かされた。 家族というのは犬だということが分かって、みんな、なあんだという顔になったのを覚えている。

 アンナは近くの斎場の動物専用窯で焼かれた。 さんがご覧なさいと言って教えてくれたのは、上下とも完全に残った歯だった。真っ白だった。 こんなに残っていたんですよと、さんが言ったのを忘れない。良い丈夫な歯を持っていたから、長生きできたのだ。

小さな骨壷に入ったアンナは犬の墓があるお寺に預けることにした。 この寺は、東海道新幹線から見えるところにあるので、出張で京都に行く車中から、その寺を見てアンナを思い出している。

  頻繁に、寺から連れ出して家の居間に置くこともあった。 5年後ぐらいに、合葬することに決めて、アンナはこの世から物理的にも消えた。しかし僕の心の中には最初のシュナウザーとして、忘れることのできないアンナである。


親父の随筆「長谷川利行と私」 

2021-04-04 | エッセイ

  今回は僕のエッセイではなく、最近発見した親父の随筆「長谷川利行と私」を紹介しておこう。

 親父と同時代の画家、熊谷登久平の関係者からこの存在を教えてもらった。くたばった親父が、こうしたエッセイを書いていたとは、まったく知らなかった。1976年とあるから、親父が65歳くらいに書いたものだろう。

こうしたエッセイを書いていたとは、まったく知らなかった。1976年とあるから、親父が65歳くらいに書いたものだろう。  

 長谷川利行は、今ではよく知られた画家だから、彼の日常を親しい友人だった親父の目を通して世の中に知ってもらうのもいいかも…と思ったわけだ。喧伝されているような、でたらめな利行ではなかったようである。 

<長谷川利行 by 徳山巍 1929?>

 僕が一番びっくりしたのは、利行が僕の祖母の肖像画を描いていたことだった。戦争で焼けてしまったが、「靉光像」と同じような絵だったとある。残念。

 さて、ここから親父の随筆を続けよう。

 ちょっと長いから(原稿用紙で、8~9枚)、読むかどうかは読者に任せることにしよう。

 

  親父の随筆の始まり 「長谷川利行と私」     徳山巍(たかし) (画家・新構造社展委員) 

 

<浅草 六区 パブリックドメイン> 

 今でも浅草の六区を歩くと、懐しい昔の六区が心に蘇える。今は埋められてしまってどこに何があったか定かには判らなくなったが、いつも思い出されるのは、俗称瓢箪池と呼ばれる池があって石の橋が掛っていた。藤棚もあった。池の向うには大きな欅が二、三本あってその緑を池に落して美しい漣を描いていた。豊かな池泉の趣であった。この石橋のたもとに、「さざえ焼」と称して串焼きの夜店があった。映画がかぶると弁士連中や長谷川等ともよく食べにいった。おいしそうなあの焼ける匂いは今でも鼻に残る。 

 林皐の向うの小高い丘にキャンバスを立ててよく描いた。池の中島に余り大きくはなかったが形のよい松の木が一本あった様に思う。描き疲れると映画館通りにあった「白十字」と云う喫茶店によくコーヒーを飲みに行った。 長谷川ともこの喫茶店にはよく行った。

 長谷川利行とは、熊谷登久平の家で紹介されて知った様に思う。昭和三年(1928)頃のことであった。彼と歩くと必ずと云っていい程、雷門にある「カミヤ」の電気ブランを飲みに連れて行かれた。その頃の彼は、誰かに貰ったと云う黒いソフト帽に、袖口の少々くたびれた黒の洋服を着て、黒いネクタイをキチンとつけていた。胸に余り白くはないが ハンカチを覗かせて黒い八字鬚をよく撫でていた。

 やや真中のあたりが少しクビレた長目のコップで、電気ブランを飲んだ。彼は強いので三杯、私は一杯しか飲めなかった。 

<浅草 木馬館 現在のHPより> 

 酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォーリー (浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない「エノケン」がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行った。踊り子のパンティが、踊っている舞台で破れたとか、落っこちたとかの噂を流して、トタンに大入満員となったのもこの頃である。長谷川はこの「踊子」を何枚か描いているし、「安木節」の女の人も何枚かを描いた。出来上がると新聞紙に包んでよく見せに来た。

 その頃の仲間に、山中美一と言う文士の卵もいた。彼は巧い文を書いた。長身で芥川龍之介やノーベル文学賞になった川端康成などとも交友があって、谷中の川端氏の二階建てのうちにも彼に連れられて訪問したことも思い出す。代筆などもしていた様であった。彼も酒は強く、長谷川と山中と私と三人でよく泡盛を飲みに行った。 長谷川は三杯の泡盛でも、電気ブランでも飲んで酔うと皆と別れて一人街をトボトボと歩くのが好きだった。夜更けの街をいかにも楽しそうに街灯の灯に、長身の影を落してユラユラと歩いて行った。彼の詩はこの様な時に生まれるのだなと思ったものだ。

 映画街の名物男「赤ちゃん」によく映画館を顔で入れて貰って二人で見たのもこの頃だった。 一九三〇年協会展に私が初入選した作品を描いたのもこの六区街だ。今もある日本館を十五号に二枚描いた。その頃私は上根岸に離れを借りて住んでいた。六区は今と違って人で埋まっていたので、朝暗い中に起きて浅草まで歩いて二週間位かよって描いた。 

 おそるおそる美術館の一九三〇年協会展に搬入した。発表の日が待ち遠しかった。発表の日、長谷川も来たので、一緒に発表を見に行った。 

<旧東京都美術館 by 台東区> 

 二人共良い具合に入選していて、長谷川の名の上には賞と書いてあった。

 二人は何を駄弁りながら歩いたか忘れたが、浅草までのして、電気ブランで祝杯を上げたことを忘れない。その時の長谷川の作品は「靉光像」だったか「岸田国士氏像」だったか覚えていない。 

<神谷バー by 黒沢永紀氏> 

 この頃、わたくしは浅草のズベ公や不良の親分だった潮さんや長谷川や山中や今は静岡県の掛川で大きく商事会社をやって社長に納まっている藤沢やNHKの台本をつい先頃まで書いていた木村学司君、矢野文夫等と、「シュールシュール会」と云うのを作っていた。特別な目的があるわけではなく、只寄って駄弁り、飲み楽しむ会だったが、長谷川が大いなる迷文の趣意書を書いて雑誌に発表したりもしたが、いつの間にかこの「超々会(シュールシュール)」も消滅してしまった。 レビューガールの楽屋で、裸の娘さん達のムンムンする体臭にむせかえりながら支那そばを皆で食べた思い出もある。長谷川はこんな時にもよく手あたり次第の紙切れにデッサンをしたものだ。

 車坂で質屋をやっていて、美しい奥様を持っていた小池政治君の家に、「靉光像」の絵を持ち込んで、無理やり二円で質入れして浅草を飲み歩いたことも思い出す。

 あの絵は、長谷川の代表的な傑作の一つであった。今はどこに収まっていることやら。

 三筋町の私の画室には、毎日のように現われた。ご飯時になると、母は長谷川さんも、と言って、よく一緒に食べた。彼はキチンと正座して、黙々と食べた。決して膝を崩したことは無い。

<親父と利行 浅草・三筋町>

 彼は、「良いお母さんです」とよく云った。ある日彼は「お母様の肖像を描かせて欲しい」と云う。そして三日か四日通って「母の肖像」を描いた。サムホールのキャンパスだった。一九三〇年協会展で受賞した「靉光像」と同じような手法で随分念入りに描いた。小品ながら立派な出来栄えだった。

 十日位経って乾いた頃来て、手を入れるから貸してくれと持ち帰った。また、十日位経ったある日、例の黒帽子に黒の洋服でハンカチを胸に現われて、新聞紙に包んだ「母の肖像」を差し出した。開いてみると描きっ放しの時と異なって、グラシもし、拭き、調子も整えて、立派な作品に仕上がっていた。

 一見素人目には蕪雑に見える彼の作品も、写生の時の感動を殺さないで固定し、乾いてから更に画面の調子を整えて、強調するところは強調して仕上げるのが彼の手法であった。三越展での彼の作品群にしても、常にこの反省と仕上げの手法とには手を抜いていない。立派である。「母の肖像」は私の手に納まった。これは僅かだがと云って、金五円を紙に包んで渡すと、何かはにかんだような表情をチラリと見せて取ってくれた。

 この作品は、知り合いの額縁屋に最上級の額を作って貰って、画室に飾っておいたが、戦災でアトリエと共に焼失した。長谷川晩年の傑作の一つであった。矢野文夫君も、この作品はよく知っている作品である。

 彼と知り合って間もなく、長谷川から一冊の歌集を貰った。「木葦集」である。京都にいる頃自費出成したものだと云っていた。

 表紙裏に、「グラン・メートル(偉大なる名人)TOKUYAMA氏へ贈る、長谷川利行」と大きな字で書いてあった。頁を繰ると啄木にもない凄くデリカな詩情の横溢した麗しい歌で埋まっていた。

・河原逢ふ石のみちの花茨こごしく咲けば君を忘れず

・子を抱きものいう我の唇に幼な手をやりむずかりて止まず

・人知れず口も果つべき身一つの今がいとほし涙拭はず

など、実に内容の立派な歌集なので、改めて彼の顔を見なおしたことを覚えている。

 彼のことを殆んどの人たちは、貧困で、家もなく木賃ホテルやドヤ街に住んで不遇のうちに死んで行った、という。

 確かに世間並には貧しく見えたであろう。が、最も張りを持って描いていた時期を共に生きて来た私には、彼は貧困であったなどとは夢にも持ってみたことが無い。

 彼はアトリエを構えて、ふんぞり返ってその囲いの中で生きる奴ではなかった。本当の「放浪詩人」だったと思っている。

<長谷川利行の自画像:パブリックドメイン>  

 薄汚れた洋服であっても、人に貰った帽子であったにせよ、いつも整然と襟を正し、胸ポケットに白いハンカチを入れていた。人と対峙するときは、正座して八字髭を無でながらの古武士然とした貴族のようであった。また、一面、律儀な紳士でもあった。 心が貧しく、人を食いものにするような下賤な心の彼では無かった。

 彼の絵が、今日見ても美しいと思わせられるのは、実にこの心の美しさの表現に他ならない。天衣無縫の詩心の表現に他ならないからである。 死後三十三年目に、彼の遺骨も長谷川家の菩提寺に納まったと、京都近代美術館の小倉忠夫先生から電話をいただいた。天城画廊の主人高崎正夫君の手から戦災にあい、転々として一時は行方不明との噂も聞いた長谷川は、遺骨になってからまで放浪の旅を続けたわけだ。

 放浪の詩人であり画家であった長谷川利行も、漸く納まるところに納まったかと苦笑する近頃の私である。1976年   

    <「長谷川利行 未発表作品集」旺国社 昭和53年発行>  

親父の随筆終わり  

 

 読み直してみると、心が通った、立派な文章だと思う。友情が滲み出ている。

  親父は残念ながら、利行ほど知られる画家ではなかったが、彼自身は彼の信じる日本の油絵を描いたことは事実だと、僕は思っている。

<親父:徳山巍>

<飾り馬 1946 by 徳山巍>  

P.S. 写真は僕が適宜、選んで挿入しました。随筆にはありません。


3.11と6年間の仙台

2021-03-21 | エッセイ

 

 2011.3.11東日本大震災の当日、僕は12:26’の「はやて」で、仙台を離れた。

<仙台 葛岡動物供養塔>

 あの日、14:26’発の「はやて」を予約していたが、マンションの引き渡しが11時過ぎに終わったので、降り出した小雪に背中を押されて僕は仙台駅へ。葛岡墓苑のミニチュア・シュナウザーの「チェルト君」の墓参りはやめて「ごめんね」と謝った。12:26’の「はやて」の指定席が取れた。地震が起きたのは14:46’。横浜駅から京急に乗って一駅の戸部を過ぎた時だった。 

 その後、京急の線路を歩いて戸部駅へ。 さらに横浜駅に向かった。中央通路は人で完全に埋まっていた。 全ての電車が止まって、皆、帰宅困難者になっていた。かなり時間が経って駅に放送が流れた。 岡野中学校に横浜市西区が避難所開設するという。僕も 帰宅困難者で避難所を経験したが、その日、津波の映像を見た時、僕は本当に幸運だったと知った。

<3.11 津波>

 マンションの買主は津波にやられて住むところをなくされた。が、同時にマンションを手に入れたことになる。買主にとっても売主にとっても、本当にいい偶然だったと思う。

 後日マンションの管理人さんに電話した。僕のいたマンション、ラピュータ国見は山を階段状に削ったところに建っていたので、地震に対しては強かった。水道を除いて、他に問題はなく、電気もエレベーターもガスも使えたようだ。 買主さんに連絡が取れて確認したがご家族は安全だったようだ。 本当に良かった。

<ラピュータ国見>

 

 仙台の復興の支援になればと、いろいろ考えたがいい案が思いつかなかった。そこで僕は仙台時代から使っていた酒屋さんを、オンラインショッピングで使うことを考えた。 それが、やXやさんだ。仙台時代に付き合っていたのは、マンションまで配達してくれた愛子店だった 。昔のお酒屋さんのように電話で注文して自宅まで届けてくれるというやり方で、 配達に当たってくれた年配の方が話好きで僕の部屋の倉庫の前で何分もお互いに話した思い出がある。 復興支援とはおこがましいが、彼を思い出してオンラインでやXやを客として応援しようと考えたわけだ。

<やXや愛子店>

 仙台時代、愛子支店にお世話になり始めたのは2005年ぐらいからで、僕が横浜に帰ってきた2011年の1月まで、その配達は行われていた。 僕はほとんどの場合、ワインを買っていた。 この店は、自分で世界中に手を伸ばし、日本に知られていない銘柄のワインを開拓し、客に提供するという特技があった。そういう意味では、僕にとって大切な店だった。 イオンの子会社になってしまったが、イオンもおそらくこのワインの商品開発能力を認めて、資本を投入したのだと思う。

 この店のウェブのマイページには、僕の購入記録が正確に残っている。 推測すると2011年から2021年の10年間で、総額 XY万円ほどは使っているようだ。これが彼らにどれほど立つかは分からないが、僕にとっては、好みのワインの宅配は大助かりだ。そしてワインの購入が復興の支援になればと思って続けている。横浜の洋光台にも支店があるので、気が向けば寄ってみている。

<売却したマンションからの仙台市街地 2015.10>

 くたばるまでにやっておきたいリスト(バケットリスト)に、最後の仙台への旅をして、被災地、石巻あたりを回ってみようという項目があった。2015年10月に、3泊4日でチェルト君の墓参り、仙台で一番高い(標高220m) 所にあるマンションに買主さん訪ねるということが含まれていた。

 仙台で地震、津波の 痕跡を見つけることはほとんどなかったが、東北本線経由で訪れた石巻は想像を超えた被害の跡を残していた。 忘れられないのは、日和山から見下ろした津波で流された家々のの土台だけの町の姿だった。復旧工事ということで、地面のかさ上げ工事が行われていたが、単に土を積んでブルドーザーで固めたと言う土の山があるだけで、本当にこれで家を建てる地盤として大丈夫なのだろうかと思ったことを記憶している。

<日和山からの石巻 2015>

 3月11日の東日本大震災10年の特集テレビを見ていると、仙台は繁栄してるようで新しいビルがニョキニョキ立っている。石巻にも家が建っているようだが、復興にはまだまだ程遠いという風景がみえた。25,000人もの人がこの災害で亡くなったのだと思うと、恐ろしい風景だと思った。

<石巻第一病院跡の水たまりに見つけたテディベア:持ち主は?>

  事故を起こした福島第一原発も、思い出される姿で現れた。この話を聞いていると、いつも不思議に思うことがある。 それは福島第一原発の事故のきっかけが、津波による電源の喪失にあるとの前提で全てのものが作られている。これは本当だろうかといつも思う。M.7.9の地震による被害が想像できるのだが、それが事故につながったとは考えられていないようだ。本当だろうかと今も思っている。

<福島第一原発事故 by 河北日報>


下宿とアパート

2021-03-07 | エッセイ

 自分の人生を、ある切り口で振り返ってみたいという気持ちで書いているエッセイがいくつかある。今回のテーマは「下宿とアパート」だ。

  僕が下宿生活を始めたのは、僕が大学に入学の時。大阪市立大学時代に、近鉄・南大阪線の河堀口(こぼれぐち)という駅の近くの下宿屋だ。もう名前さえ忘れてしまったけれど、ここは長い間、下宿を生業としてやっているプロの下宿屋さんだった。 僕が入った時には二人先輩がいて、一人は商学部、もう一人は法学部の同じ市立大学の学生だった。昔からずっと、市立大生の下宿屋をやっていたようだ。大学ヘは、阪和線の美章園駅から杉本町だった。

<大阪市大 杉本キャンパス by Kishuji Rapid Creative Commons 4.0>

  下宿というのは、朝飯と夕飯がついて、掃除と洗濯をしてくれる間借り生活と考えていただければいいだろう。管理人さんも感じが良くて、少し遅くなっても夕食を残しておいてくれるという親切を感じた。

 ここでの大きな出来事は、タバコが吸えるようになったことだろう。高校時代には手を出さなかったタバコだが、なんとか大人風にタバコを吸いたいと思ったわけだ。 当時はまだ「洋モク」と呼ばれた外国タバコは、闇市でしか買えなかった。 難波の千日前に、おばさんが大きなエプロンをして立っている。 パチンコ屋の隣だ。 そこで銘柄をこっそり話すとラッキーストライクとか、マルボーロとか、ジタンとかを買うことができた。値段は高かったが、ある意味アクセサリーなので洋モクを吸っていた。

<ジタン>

 しかしタバコは簡単には吸えなかった。 強烈な臭いがこもるので、部屋では吸えない。物干し台に登って外を見ながら練習するわけだ。 むせかえりながら、なれていった。 1ヶ月もかかったか、やっとタバコを普通に吸えるようになった。その後、50歳までたばこを吸い続けていたわけだから、今から思えばとんでもない自習だった。

 60年安保闘争の後の問題もあり、ここには1年6ヶ月ほどしかお世話にならなかった。僕が市大を中退して、東京・谷中への望郷の念に駆られてか、一人で東京に舞い戻ってきたからだ。

 東京では早稲田に入るつもりだったから、高校の同級生だけど、早稲田では先輩になる炬口の早稲田の下宿に転がり込んだ。 南こうせつの「神田川」が流行る以前のことだが、神田川の見える四畳半の下宿に転がり込んだ。 ここにどのくらいいたのか、よく覚えていないけれど、6ヶ月位はお世話になっていたと思う。喧嘩しないで男二人が鼻は付き合わせて、よく下宿生活をしたものだとも思う。 彼は4年前に脳梗塞で亡くなった。

 僕はアルバイトをしながら、テンプラで早稲田の授業を受けにいっていた。 テンプラっていう言葉は、今は死語になっているようだが、その学校の学生ではない人間が、学生かのように振る舞って、大学の授業を受けることを言っていた。 この下宿は、食事は出なかったから、早稲田の神田川に沿って何軒もあった定食屋にお世話になった。定食屋さんはつけだったから、おそらく何千円かを踏み倒したと思う。

<早稲田の定食屋>

 その後、僕の本当の初恋の人となった女子美生の下宿に、本当に短い間住んだことがある。西武池袋線の江古田の近くだった 。そこは本当に短くて、その後、2人プラス1、合計3人で、中野の三味線橋(今は暗渠になって橋はない)の近くにアパートを借りた。同棲と呼べるかどうかは分からないが、初めてのアパート生活だった 。その人との話は、別のエッセイで書いているから、ここでは書かないが、二人の女性と僕との変則的な同棲生活となった。僕の恋人の N さんは、わけあってセックスのできない体になっていた。 だからいわゆる同棲ということではないから、3人の共同生活と呼んでも構わない。 

 この三味線橋のアパートには、結構お世話になったと思う。僕が学費の安い法政に入って1年半ぐらいはここにいたと思う。 だから鍋屋横丁、女子美、中野などという言葉を聞くとかなり心が動揺する。二人の美術生のアトリエになって、部屋はいつもターペンタインの香りがしていた。

<アトリエ>

 Nさんは 女子美を卒業後もプロの絵描きとなり、油絵の制作を続けている。東大でフランス歴史関係の研究をやっている人と結婚して、東京に住んでいる。”もう古い話ですから…”と会ってもらえない。だから一人で毎年4月、上野の都美術館に彼女の絵を見に行っている。絵を見ていると、作家がどんな感じなのかを読み解くことができるから、出来る限り見ることにしている。

  彼女のアパートを出てから、親父が借りていた谷中のアトリエに住んでいた。親父が東京に帰ってくるということで、荒川を超えた西川口に小さなアパートを姉と一緒に借りた。西川口は全く興味の起きない、ただ寝るだけの場所だった。

<自由が丘駅 by 東急>

 その後、僕の就職のこともあり、自由が丘駅近くにあった木造アパートの一部屋を姉と二人で借りて住んだ。おそらく6年くらいは住んでいたと思う。つまり大学生時代と、就職が決まってからも、職場までここから通いながら住んでいた。 だから自由が丘はよく知っている。もちろん今は変わってしまった自由が丘だけれど、土地勘は残っている。

  この後、その頃のみんなの憧れだった公団住宅に応募して、何回目かで当選した。 それが新築の横浜・左近山団地だった。 当時としては珍しい10階建で、その8階に住んでいた。 一人では応募資格が無かったので、姉と二人で応募したわけだ。

<UR左近山1街区>

 次は駐在員として、イタリア・ミラノのアパートを借りることになった。アパルタメントと言うが、日本でいう賃貸マンションだ。 ミラノのガロファロ通り32だ。ミラノの庶民の街、 コルソ・ブエノスアイレスにも近く、メトロのリマが最寄り駅だった。2年ちょっとミラノにいたことになる。気持ちの上では僕の第二の故郷になった。

<グランサッソ・ミラノ>

 任期を終えて左近山団地に戻ったが、ここは姉に任せて、僕は戸塚に自分の家を建てた。30ちょい過ぎで自分の家を建てるということは、とても早いほうだったと思う。

 しかしその後、この家は、僕にとっては週末、子供達とワンと時間を過ごす場所としての意味しかなくなってしまった。  カミさんとは、全く相容れない価値観を持っているということが、家を建てたことによって明らかになり、諍いが絶えなくなった。

 僕は自宅を一人で出て、小田急相模原の賃貸アパート、M荘に住むことにした。環境的には素晴らしいところで、駅から歩いて5分。目の前が松林の静かな住宅地。買い物は歩いて3分の大型スーパーがあった。 六畳一間で、押入れと小さなキッチン、バスがついていた。 会社と、子供達のいる戸塚の家と、そして寝に返るアパートの三角形を行き来することになった。ここを選んだ理由の一つには、小田急線で学生時代によく通った新宿まで一本で行けることだった。

<小田急相模原 M荘>

  カミさんとは20年前の同意の通り、子供たちが大学を出て仕事を見つけて独立したのを確認して、離婚した。

 この小田急相模原のアパートを引き払った後、姉の住む左近山に戻った。

 会社を早期退職して、仕事とは別に20年ほど勉強していたカウンセラーの仕事を始めた。 一人で生きていくのは辛いと思ってクリスチャンのORさんと残りの時間を過ごそうと再婚した。 この時、借りたのが、南万騎が原のアパートだった。 目の前を東海道新幹線が走っていた。

  その後、仙台で自分のマンションを持って、子はかすがいならぬ、犬はかすがいで3人で生活していた。しかし、二人の子供だったシュナウザーが9歳で、癌であの世に行った。すると残った二人の間には共通項が何もなくて、結果としては離婚することになった。

<UR能見台 by Google>

  横浜に帰ってきた。 手っ取り早いのが UR だと考えて、能見台の賃貸マンションに一時住むことにした。しかし、家賃が高くて、2回も離婚した僕の手持ちの金は潤沢ではなかったから慌てて中古マンションを探した。

 〆て、下宿が2ヶ所、賃貸アパートが8ヶ所の合計10ヶ所を動き回った生活だった。因みに、自分の「家」は、戸塚、伊豆高原、仙台、横浜ということになる。結果としては、荷物が少ない生活になっていた。