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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

風の荒崎

2017-12-17 | エッセイ



 台風一過の三浦半島の荒崎に、車を走らせてきた。



 <荒崎>

 10月の遅い台風の影響や、その前からの秋雨前線のお陰で、一週間以上も家に閉じ込められていたから、まあ、どこでもいいからで掛けてみようと思いついたのが、三浦半島の荒崎。

 三浦半島の西海岸で知られた所といえば、城ケ島、三崎とか、油壷マリーナ、佐島マリーナ、葉山、逗子などの名前が挙がってくるのだろう。真っ先に荒崎と名前を上る人は、少ないだろうと思う。どちらかというと、地味な存在だ。

 しかし僕にとっては、1963年に絵を描きに行ってから、50年以上の付き合いのあるやはり懐かしい場所なのだ。特に、荒崎の丘の上がいい。



 <1963年のスケッチ>

 荒崎は、風の強い丘、波しぶきに舞い上がる海の臭いを浴びる場所、岩と波の戦いを見る場所、そして茫然と立っていることのできる場所だ。どちらかというと、夕暮れがいい。



 <岩とススキ>

 丘の頂上に登り、相模湾の広がりを目にし、相模湾を吹き渡って来る西風に髪をザンバラにされながら、たたずんでみる。耳元をボウボウと風が吹き抜けていく。一人だけで、自分自身と語るときを持てる場所。風が聞いてくれるモノローグだ。



 <荒崎からの富士>

 1963年と明確に分かるのは、荒崎の下手なスケッチを残しているからだ。そこに1963年5月21日と書いている。この絵を描いた時、僕は一人だったのか、誰かが一緒だったのかは覚えていない。その時も、潮騒の音がして、風の強い日だっただろうと思う。

 別の時には、子供たちと、磯遊びをした懐かしい場所でもある。波が削ったリアス式海岸の岩場の底に、潮が引くとたくさんの潮だまりができる。そこを、二人の子供の手を引いて、海の生き物を探して歩く。彼らにとっては大冒険。いろんな生物を発見する。小さなカニ、ハゼ、エビ、ヒトデ等を探して歩く。やはり一番面白いのは、ウミウシたちだ。棒で、突っつくと、真っ青な水を吐き出してチジコマって隠れる。あれは、明るい日の下の風景だ。こんな記憶が彼らに、なお残っているか聞いてみたいが、あれは楽しい穏やかな時間だった。僕んちは、湘南・江の島の西浜や東浜より、三浦の方が好みだったようだ

 その後、荒崎の岩場でバーベキューなどを始める人があらわれて、入江の岩場は汚くなっていった。匂いが染みついている岩場になった。荒崎が汚された気がしたものだ。



 <どんどん引き>

 また別の日には、小さなグループで「どんどん引き」を過ぎて岩場に降り、岩場の道を注意しながら、歩いた記憶がある。小さな海岸洞窟から始まって、岩場の上にかけられた人口の橋を渡って岩場と浜を歩いていく。途中に浜小屋や、小さな売店があって、一休み。こんな時間を一時間くらい持てば、いつか、長井の浜に着く。ちょっとした、海岸の散歩だ。懐かしいが、この道が今もあるのかどうかはわからない。しかし、今や僕の心臓君の方が心配だ。

 ある夏には、友達と犬を連れて、長井の浜で水遊びをした記憶もある。犬が、はしゃいで友達を追いかけまわし、シャワールームまで飛び込んで、キャーキャーと悲鳴が上がったのを覚えている。まさに真夏の記憶だ。この長井の浜は、三浦半島の西海岸では、珍しく静かでゆったりとした浜だ。幸い、国道134号線から外れていて距離があるから、逗子や葉山・森戸みたいな混雑はない。まあ地味な浜だ。会社の友人たちが、共同でヨットを揚げていた浜でもある。



 <長井の浜>

 モノローグから我に返って、昼飯を喰っていないのを思い出した。三崎のマグロずしも考えたが、もうせんの、高くてまずい記憶が残っていたので、最近うわさにきいた佐島マリーナの近くの寿司屋に寄って、地魚の握りを食ってみた。やはり、相模湾の鯵はうまかった。

 佐島と言えば、会社の研修や、僕のセミナーをやったことがあって、懐かしい島。森繁久彌さんが作ったマリーナも、ホテルも、以前のような素敵な佇まいとは言えない古びた感じだった。マリーナとしては、活気があるようだ。昔、歩いた天神島の見える浜の公園は、休日で閉まっていた。残念。

 三浦半島の最高峰の大楠山(242m)にも、僕は2回くらい登ったことがある。頂上からは相模湾が一望だった。そして、帰りのバス停は、佐島の近くの「大楠・芦名口」だったのを思い出した。こちらも懐かしい。安針塚からのハイキングには楽しいルートだ。

 荒崎から帰りに、カメラで富士山を狙ってみた。ほとんど真西の直線距離で85㎞くらい先の富士山は、相模湾の遠くにシルエットを見せているだけだった。



 <富士のシルエット>

 三浦半島・西海岸へのアクセスは格段に良くなっていた。三浦縦貫道から横浜横須賀道路に直結していて、強い横風に少しあおられながら、車を横浜に向けてブッとばしながら考えた。

 やはり、今の遺言書の通り、僕の散骨は相模湾の沖にしてもらおうと思った。何故って、やはり懐かしい海だからだ。


久しぶりにトリフォーを見た

2017-11-19 | エッセイ


 皆さんは、「午前十時の映画祭」をご存じだろうか。TOHOシネマが提供している映画祭だ。

  上記HPから引用:

  一度、スクリーンで見たかった。もう一度、スクリーンで見たかった素晴らしい傑作娯楽映画を選び、1年間にわたり連続上映する
  「午前十時の映画祭」。何度見てもすごい傑作映画を、《映画館》という最高の環境で、こころゆくまでお楽しみください。

  引用終わり




 <午前十時の映画祭8のブローシャー>

 僕も名作というもののなかで、もう一度見たいというものに出会うと、出かけている。イタリア映画「鉄道員」とか、「ニューシネマパラダイス」もこの映画祭で何十年ぶりかで見た。これらの印象については、僕のHPの「イタリア映画の残照」にエッセイを残している。

 今回、上大岡まで出かけたのは、「トリフォーの思春期」を見るためだ。



 <思春期のブローシャー>

 1976年に公開されたトリフォーの監督作品。

 題名は、日本語訳では、「思春期」と作品説明になってしまっているけど、原題は「お小遣い」 こちらの方が、内容を表していると言える。主人公、小学生高学年のパトリックが、友達のママンに恋をして、バラの花束をお小遣いで買ってプレゼントするのだが、相手はその子の親父からのものと勘違いして、「よろしくと伝えて」と言われて恋ははかなく、お小遣いと一緒に消えた。

 彼の小学校は、フランスの地理的など真ん中、ティエールという田舎の学校。夏休み(フランスは9月から学年が始まるから、宿題もない全くの休暇に入る)の前の、この町を舞台に、子供たちの学校生活や家庭の日常生活を描いている。いろいろな出来事が出てくる。トリュフォー自身はパリに生まれ、両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も少年院に放り込まれるなど、問題の多い少年だったという背景が、この物語のモチーフになっているようだ。



 <一人>

 ここで描かれている小学校は、まだ学級編成は男女別々だった。

 もともと、フランスでは、小学校の男女共学への道は平坦なものではなかったようで、小学校で男女混合のクラス編成の実現を阻んだのは、“思春期・青年期の男女の健全 育成への配慮”にあったと言われている。男女共学が認められたのは、1975年の事だと言われている。

 つまり、フランスでは、思春期、青年期の青少年の発達段階では、かなり保守的で、厳格なものだったことがわかる。

 この小学校でも、思春期という未発達段階の生徒たちが、恋愛に興味を持ったり、性に興味をひかれたり、親の暴力を受けたり、ずるがしこく映画をタダで見たり、好奇心で、先生の生活に興味を持ったりと、その年代らしい行動を見せている。

 一人の転校生が、おふくろと祖母から虐待を受け、それが学校にばれて、一人で養護施設に引き取られて行くということになった。

 この騒ぎの最中に、生徒の混乱を抑えるために、先生が思春期の子供たちに話しだす。

 それが思春期の子供の心に、伝わってくる。

  ・子どもは常に制限されている
  ・あたらしい生活をする自由は未だない
  ・親を捨てることはできない、選べない
  ・大人に許されることが、子供には許されない
  ・大人になれば、自由が得られる
  ・大人になれば、自由な選択をすることができる
  ・大人への過渡期に、今君達はいる
  ・これから大人になって、親となり、家庭を持つことが出来る
  ・人生の大切なことは、愛し、愛されることだ

 と真剣に語り掛ける。



 <群像>

 このシーンが、トリフォーがこの映画で子供たちに語り掛けた言葉だと思う。見ている観客、僕たちの心にも響いてくる。“そういえば、僕の人生にもこんな時期が確かにあったな"と、つい確認することになる。ここにこそ、この映画の凝縮されたメッセージがある。

 この子供たちは、来年度からは、男女共学のクラス編成になる。その転換期に男女が一緒の林間学校へ、子供たちは自由を求めてはしゃいで出発する。

 僕は、見終わってすぐには席を立てなかった。すばらしい105分だった。



 <TOHOシネマ 上大岡>

 昔、大学生の頃、ヌーヴェルバーグ系のアートシアターギルドの映画館に通ったのを思いだす。「新宿文化」という新宿3丁目の映画館だった。そこでトリフォーを見た。「勝手にしやがれ」「ピアニストを撃て」「柔らかい肌」などだ。その頃感じた自分の心を、追体験したからなのかもしれない。そして、彼の基本的なテーマは、“大人はわかってくれない”だったことを思い出した。



 <ミニパト>

 外の明るい世界に出たら、鎌倉街道にかわいらしいミニ・パトカーを見つけた。現実の世界に戻った自分だった。


知的活動の活発度とハイプサイクル

2017-11-05 | エッセイ




 分かりにくいタイトルですが、お付き合いのほどを…。

 ハイプサイクルと同じ形をしたカーブを1990年頃、描いたことがある。それは、僕のTAカウンセリングや、その延長線上にあるグループデベロップメントのセミナー用に作ったものだった。



 <I社ヨークタウンハイツ研究所>

 データのもとは、I社の本社人事担当取締役、T氏から、管理職セミナーで聞いたものだ。彼は、絵は使わずに言葉でしゃべっていた。非常に興味深かったから、社内外の教育に使ってもいいかと訊いて了承を得た。その後、部下のSE研修や、社外秘というものでもないから、退職後の外部セミナーでも使ってきた。

 使い方は、セミナーの最初に、参加者に課題を出す。

 課題:人間の知的活動の活発度をグラフに書いてください。各自で考えること。
    フォーマットは、縦軸、高い方が上。横軸、年齢

 彼らが考え、答えを書く時間として10~15分を用意する。彼らは悩む、考える。そして、各自のカーブが出来上がる。それを皆の前で発表してもらう。ちなみに、セミナー参加者は1回、15名以下としている。

 皆の発表が終わって、皆が落ち着いたころを見計らって、僕がブランクのフォイルをプロジェクターの上に広げて、エイヤと描く。それが、僕の命名した、「知的活動の活発度」のグラフだ。

 ネタ元は、I社のニューヨーク、ヨークタウンハイツ(I社の中央研究所)の3、000人ほどの研究者が、30年間にわたって達成した特許(パテント)と、外部論文として発表し、外部の学会に評価されたものの絶対値を、そのまま年齢スケールにプロットしたものだ。



 <知的活動の活発度>

 これでわかることは、

  10代:貪欲に知識を吸収し、自分を作る・仕事を達成する。急上昇の線になる。
  20代:自分の課題、強みを絞り込み、その領域の中で、それ深める。
  30代:自分のアイデンティティとも言えるレベルで実践し、達成感と自信を得る。ピークは39歳
  40代:峠を越えて、レベルがガクンと下がる。その後の目的、自己目標をすぐには見出せない。
     試行錯誤の時期か。厄年42歳が谷底。
  50代~:従来の隣接領域、自分の過去を見直し、新しい領域を見つけて、勉強を再開。緩やかに上昇を始める。
     しかしピークの39歳は越えられない。

 正確に言うと、このプロットは、アウトプット(出力)ベースだから、活動期は
その3~5年前だということもできよう。

 こう説明すると、多くの参加者が、このチャートの意味を納得…という反応を示してくれる。


さて、ハイプサイクルについて説明しよう。



 <ハイプサイクルカーブ2017>*

 まずは、ウエキペディアの記載の「ハイプサイクル」の定義を引用する。

 引用

  ハイプサイクルの目的は、現実から誇張(ハイプ)を切り離す
  ガートナー社によると、ハイプサイクルは次の5つの段階から構成される。
  (ガートナー社が1995年に定義した)

  1.黎明期 ブレークスルー(飛躍的前進)新製品発表やその他のイベントが
    報道され、関心が高まる。
  2.流行期(過剰期待の頂) 次の段階では、世間の注目が大きくなり、
    過度の興奮と非現実的な期待が生じることが多い。多くは失敗に終わる。
  3.幻滅期(幻滅のくぼ地) 技術は過度な期待に応えられず、
    急速に関心が失しなわれる。
  4.回復期(啓蒙の坂) メディアでその技術が取り上げられなくなる。
    坂を登りながら継続し、利点と適用方法が理解される。
  5.安定期(生産性の台地) 広く宣伝され受け入れられる。徐々に安定し、
    第二世代、第三世代へと進化する。

 引用終わり

 それにしても、知的活動の発達度とハイプサイクルとの類似性は驚きだった。

 僕はハイプサイルを最近まで知らなかったし、ガートナーグループが、I社のパテントや論文数を知っていたとは思えない。ただただ、驚いた。

 でも考えてみれば、人間のアウトプットが技術のトレンドであり、知的活動の証でもあるのだから、近似性は納得できる。

 私事で恐縮だが、僕は38歳の時に生涯で一番の仕事を完了した。これが僕のピーク。しかし、すぐに自損事故を起こして課長を首になり、3年間のマイナーペナルティ(アイスホッケーのペナルティは3分に似たもの)を食らって、意気消沈して40歳を迎えた。これが、僕の厄年だったかもしれない。

 僕の息子も含めて、若いエンジニアに言っていることを書いておこう。

 「40歳までに、何でもいいから、自信を持てる成功体験(客観的にも認められたもの)を持つために全力でぶつかること。マズローの言う、自己実現に近いレベルを、やりつくしておくこと」

 その後は、セカンドライフとして、自己が集中できることに時間を使えばいいと思っている。隣接領域など、勉強し続ければ、ピークには達しないものの、かなりの上昇は期待できるからだ。

 ここまでお読みいただいた読者の皆さんには、自分の今の知的活動の活発度は、このカーブのどのあたりにいるだろうかと、考えて見てください。


 最後に興味で、ノーベル賞受賞者の出現年齢とカーブを見てみた。これも、実によく似ていると思う。



 <Nobel prize & Great Inventor>



 P.S.
 クレジット情報*
 “Hype Cycle 2017”By Gartner’
 ライセンス:Creative Commons BY-SA 3.0

ランブラス通りと聞くと

2017-09-24 | エッセイ


 先日のISIS系のテロリストが大型バンを乗入れて、ジグザグ運転で意図的に歩いている人たちを跳ね飛ばして有名になったバルセロナのランブラス。事件を聞いて、もしやあの美しい通りではと思った。この道には真ん中に幅広い歩道があって、両側に高い街路樹の立ち並ぶ歩道に花屋や、土産物を売るキオスクなどが並び、車は遠慮がちに歩道の右と左の外側を、一方通行で流れていた。主人公は、もちろん散歩する人たち。恋人たちが、そっと手をつないで語りながら歩く。父さんと母さんと子供たちが、にぎやかに話しながら歩くプロムナード。



 <ランブラス通り>

 昔、若い仲間4人と、ランブラス通りに面したホテルに、3~4泊した記憶がある。仲間とは、日本から南仏のモンペリエに3か月間、フランス人の作ったMRPシステムを検証し導入するための準備作業だった。復活祭の休みに、真面目なリーダーだけをモンペリエに残し、車でバルセロナまで国境を越えてスペインへ旅した。



 <南仏モンペリエのシンボル広場 ラ コメディ>

 バルセロナは、ガウディやピカソで知られ、陽気なスペイン人に触れ、バルで長めのアペリティーフを取り、ゆったりとした時間を過ごした記憶がある。

 この旅には一人の女の子が、仲間のMにくっついて参加していた。彼女はモンペリエ大学に留学中で、Mと親しくなっていた。他の仲間は、ほとんど知らない女の子、Y子ちゃんだ。

 バルセロナでも、当然MがY子ちゃんを面倒みると僕は信じていた。少しぽっちゃり系の、色の白い女の子だった。しかし、着いた夜、僕とY子ちゃんが、ホテルのロビーに取り残されたのだ。Mや、そのほかの友達に電話しても応答がない。ロビーで会う約束をしていたのに現れない。しかたなく、僕がその夜、Y子ちゃんの面倒を見る羽目になってしまった。Mは他の友達、Sとスペインの女性と「親密な時間」を持つ為に、Y子ちゃんを置き去りにしたのだ。結果として、ベソをかいているY子ちゃんを放り出すこともできず、僕が行く予定だったフラメンコを見に一緒に出掛けることになった。

 モンペリエに戻って、その後、MとY子ちゃんがどうなったかは詳しくは知らない。ただ、日本に帰って数年たって、Mはスポーツウーマンの、しっかりした感じの女性と結婚した。Y子ちゃんとは別れたんだと知った。

 Mとは、その後も同じSEとして同じ部門に所属し、友達としての時間が流れた。さらに僕がI社を止めてからも、友達付き合いが続いた。

 彼が、日本にある「モンペリエ会」のメンバーになったのは知らなかったが、突然連絡が来た。Mは、僕の本にモンペリエのことが書いてあるのを知っていた。その本をもって招待された「モンペリエ会」に出席したいと言ってきた。本の注文を入れたのだが、会合に間にあいそうにもないので、僕の手元に本が有ればそれを融通してくれないかとの依頼だった。手元の本を5冊だったか、サインをしてMに送り届けた。その本を、モンペリエを知る人たちの会で、どう使ったのかは知らない。

 それからまた時間がたって、モンペリエの教会にいた日本人シスター、RYが神戸に帰国しているのを知っているかとMから連絡をもらった。僕は、モンペリエでシスターとは付き合いがなかったから、そのままにしていた。

 ところが、元気印のMは突然の病気で、2015年にあの世に旅立った。テニスの上手い本当のスポーツマンだったのに、突然消えた。



 <元気印のM>

 「モンペリエ会」に、I社から関係していたのはMだけだったようなので、僕は神戸のシスター、RYにMが急逝したことを告げた。
 
 シスターは、Mのモンペリエ時代の彼女、Y子さんも、「モンペリエ会」のメンバーなので、Y子さんに連絡を取ってみると言った。メールアドレスを彼女に知らせてもいいかと訊いてきたから、どうぞと言った。しかし、Y子さんから僕への連絡はなかった。結婚して苗字も変わっていた。

 その年末、モンペリエ会が神戸で行われるので出席しないかと招待されたが、僕は心臓君の問題もあり、横浜から神戸まで出かけるのは…と思って欠席のハガキを出した。

 後日、神戸での会の出席者名簿をシスターから受けとったが、そこにはY子さんの名前はなかった。欠席していた。

 Y子さんのメールアドレスは、シスターからもらっているので、連絡は取れるのだが、僕の方から連絡を取ることもないと、そのまましている。Mがいなくなって、特に話すこともないからだ。

 そんな中で、今回のバルセロナのテロ。久しぶりに聞いたランブラス通りの名前は、僕の古い思い出へと繋がっていった。まあ、あれがMの青春の日々だったのだなぁと、あらためて、Mの死を思った。



 <ランブラスのホテル>

 今回の事件が起きたのは、自分が置き去りにされたホテルに面したランブラス通りだったから、Y子さんも、あの思い出を間違いなくたぐり寄せたにちがいない。どんな思いをしたのだろうか、と思う。



 <空から見たランブラス通り>


僕の知っているヨーロッパのIBMは今…

2017-09-09 | エッセイ



 前回の「ハドソン川に沿って」を書いてみて、フッとアメリカ以外の僕の知っているIBMサイトはどうなっているんだろうと、記憶をリストアップしてみた。

 ・英国 x2:ハバント、グリーノック
 ・ドイツ x2:ジンデルフインゲン、マインツ
 ・フランス x2:モンペリエ、ラゴード 
 ・ヨーロッパ ヘッドコーター:ラ デファンス(パリ)
 ・ベルギー:ラ フルプ
 ・イタリア:ヴィメルカーテ(ミラノ)

 ヨーロッパ合計、9か所

 いずれも1990年以前のことだから、当然、この間大きな変化が起きてるだろうとは推測していた。ネットを使って調べてみると、結果はやはり悲しいものだった。

 僕の関連していたのは製品開発・製造部門のサイトだったから、無残なことになっていた。IBMがハードウエアから、例外を除いて撤退し、ソフト、サービスにビジネスを転換したのだから、それは当然の帰結だった。そして、累々たる廃墟がほとんどだった。


 ざっと書いてみると、



 <ハバント>


 <熊ホテル>

 英国のハバント:昼休みにビールを飲んで語っていたサイトは、閉鎖されていた。唯一の「熊ホテル」は健在だった。




 

 <グリーノック>

 英語が通じないで困ったスコットランドのグリーノックは、転売されてもうIBMではなくなっていた。TVを見ていると、最近スコティッシュ訛りが薄まっているようだ。日本の地方と同じかな。






 <ジンデルフィンゲン>

 ドイツのジンデルフィンゲン。僕がミラノ警察から言い渡された「48時間以内の国外退去」で逃げ込んだ南ドイツのこの町には、今やIBMは存在していなかった。正面のメルセデス・ベンツの工場は健在だった。






 <マインツ>

 マインツ、旨い豚の骨付きすね肉料理、「アイスバイン」を知ったIBMマインツは閉鎖されていた。一部は、フランクフルトの新しいサイトに統合されたようだ。






 <モンペリエ サイト>



 <モンペリエ クライアントセンター>


 フランス、モンペリエは、開発製造ではなくなって、ワトソン等コグニティヴシステムを中心としたクライアントセンターに変貌していた。つまり物理的なサイトは存在して、新しい事業で活躍していた。僕たちが、3か月楽しんだプロヴァンスの町には活気があって、救われた気がした。






 <ラゴード>

 フランスのラゴード研究所は閉鎖されていた。ここでは、研究所長たちが昼休みにペタングをやっているのを微笑ましく見いていた思い出がある。とても自分では泊まれないコートダジュール、ニースの4星ホテルに泊まれたのは、幸運だったとしか言いようがない。ラゴードの閉鎖では、研究者の中に自殺者も出たようだ。苦しい思いは突然やってきたのだろう。






 <ラ デファンス>

 フランス・パリのラ・デファンス地区にあった、ヨーロッパIBMヘッドコーターは、タワーパスカルから、新しいビルに移っていた。ヨーロッパ人、イギリス人、アメリカ人と一緒になって、僕は苦闘しながら、英語で議論した思い出の場所は消えていた。






 <ラ フルプ>

 ベルギーのブラッセル近郊にあった、ラ フルプの教育センターは他社に売られ、今はコンピューター学習ができる特殊なホテルに化けていた。本来の目的を失っていなくてよかった。24時間空いている図書館、深い森の散策路、ジムの施設などもそのままのようだ。ここで覚えた、ベルギービール、シーメイは忘れられない。今も時々飲んでいる。






 <ヴィメルカーテ>

 最後にイタリア・ミラノの近郊にあったヴィメルカーテは完全に閉鎖されて、建物もなくなっていた。ここで知り合ったイタリア人との友達とは、47年来の付き合いが続いている。昨年(2016年)、ミラノで会ってきた。まだまだ元気。来年(2018)、また会おうと言われているが、僕の心臓君次第だ。ミラノが、僕の第二の故郷になったのは、ヨーロッパ文化に2年間、どっぷりつかったショックの時間が起こした魔法なのかもしれない。IBM退職後も、3週間の旅を4回している。今も欠かさず毎日、イタリア語のラジオを聞いている。イタリア語を忘れないためだ。



 こうしてみると、ヨーロッパ・ヘッドコーターを除く8サイトの中で、唯一モンペリエだけが、IBMの新しいビジネスの拠点として、生き残っていた。非常に稀な、幸運なサイトだと言えるだろう。唯一の救いだった。


 追記:

 日本のIBM開発製造部門はどうだったのかも、書いておこう。

 製品開発製造部門の本社は、勝鬨橋のすぐそばの興和住生ビルにあった。その元に、大和研究所、藤沢事業所、野洲事業所があったが、1990年代にすべて閉鎖、売却され、今の日本IBMにはこの部門は存在しない。ざっと大和1,000名、藤沢1,400名、野洲3,000名がリストラされたことになる。社員にとって一番、インパクトが大きかったのは野洲でだろう。大和、藤沢と違って、やっていた事業をそのまま売却(大和:ThinkPad 藤沢:HDD等)できるものは無く、地域に再就先、受け皿も、ほとんどなかったからだ。僕は、この嵐の前に早期退職をして、新らたなセカンドライフの仕事を始めていた。



 <開発製造HQ と大和研究所>



 <藤沢と野洲>

 アメリカ、ヨーロッパ以外の国で、僕が訪れたことがあるのは、オーストラリアの3都市。シドニー、メルボルンとキャンベラだ。これは、IBMオーストラリアから依頼があって、3週間の営業支援のための旅だった。その後、オーストラリアの学会が募集したCIM(Computer Integrated Mfg.)の論文に応募して選ばれ、シドニーとメルボルンでの論文発表をしたのは楽しい思い出だ。


 クレジット情報:

 ・グリーンノック:Jim Bartonさん ライセンスは、Creative Commons BY-SA 2.0
 ・藤沢、野洲:ブログ“IBM OBの辛口トーク”よりお借りしました。