今、友人のクリスチャンが大きな試練に立ち向かわされている。こうした相談にあずかるのも、実は私にも過去、大きな試練があったからなのだ。
神に寄り頼み、困難に立ち向かっている彼に、私は心からエールと祈りを送りながら、どうしても今は過ぎ去った自分の過去を思い出さずにはいられない。そしてあの時の私は、今の彼ほど真摯で信仰的ではなかった、と反省することしきりだ。ただしその時の私は、いわゆる福音派で、試練困難を通して聖霊派やカリスマ派へと導かれた、その途上であった。だから信仰の状態からして、今の彼とはハナから水をあけられていたのだが。

過ぎ去った過去の私・・・・・試練の始まった数年間は、落ち込んでも誰彼となく人に聞いてもらい、「その内よくなる」、そう頑張っていたと思う。しかし妻の病状が悪化し、病院から見放されてくると、だんだん希望が乏しくなり、徐々に<現実逃避>型になって行った。そうなると家庭が「針のムシロ」化して、主人なのに全く居候敵身分で、身の置き所がない辛さや怒りが生じてきた。部屋を別にされ、食事も常に一人である。会話もなくなる。三千世界休まるところがない疲労が蓄積すると、やたら徒労感、虚しさが募ってくる。 さらに年数が経っていくと、遂には希望がほとんどなくなりかけ、心が冷えて<被害者意識>型に変化していった。こうなると、人生を肯定的に捉えられず、否定的、悲観的な思考パターンに知らず知らずに陥って行った。かなり人格が変わってしまっていたと思う。
そのことは、本人にはなかなか気づかないことなのだ。仕事にモロに出ていた。教職だったので、本来子どもを前向きに向かせ、自己啓発させる職務なのに、その指導者の生き様が後ろ向きなのが、教えを受ける生徒たちに影響が出ないはずがない。 だから学級経営がうまく行かなくなったのだが、それがどうしてなのか、自分では分からなかった。本人はこれまでと同じようにやってるつもりなのである。 近年私は、心のあらゆる問題の鍵は、正しい「自己像:セルフイメージ」を有するかどうかにあると思うようになったが、あの時、まさに私はセルフイメージが大きく狂っていたのだ。狂ってもそのことがわからないから、修正できない。修正できないからますます狂っていき、ドツボにはまるという、最悪のパターンに沈んでしまった。
今の私はようやく解放され、神から「家族で二度とこれほどのことは起きません」との示しもいただいている。おそらく当時の私を知る人が今私と会えば、きっと『別人』だと感じるはずだ。 それだけではない。ドツボの過去の体験が、牧師としての大切な土台となっている。もしこんな過去がなかったら、私はもっと薄っぺらな人間になっていたのではないかと思うし、友人もそんな私であれば、相談などしようとは思わなかっただろう。 これは私の通されるべき道だったし、人生の宝だと分かる。だからどんな悪い、辛い経験もすべてのことが益になる【ローマ人への手紙8:28】のみ言葉は確かにその通りだと確信する。自分の力で自分を修正することは難しい。しかし神はご自分を信じる者を護り、すべてを逆転させ、限りない感謝と幸福へと導いてくださる。神にはその力がお有りなのだ。
” 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”
ケパ