ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

山羊と馬に乗る

2018年06月06日 | 自然
私は田舎の街外れで育った。商店街や造り酒屋がずらっと対岸に並んでいたが、川のこちら側は家が連なっていても、そのすぐ後ろは田畑である。(飼っていた山羊はこんな感じだった)

だから鶏や山羊などを飼っている田舎暮らしと、隣家の天ぷら屋さんでいつもごちそうになり、二軒ずつある映画館やお風呂屋さんを、毎日はしごして歩いていた。
買い物が思いのほか大変だった。肉屋さん、八百屋さん、乾物屋さんとまだスーパーがない頃だったので、買い物は商店街の端から端まで重いかごを持っては歩き回って、何とか買いそろえていた。

そんな、田舎暮らしを今私は、時々懐かしく思い出す。特に強烈に思い出すのは動物の背中である。犬の背中に乗ると、犬はすぐつぶれた。それではと、飼っている我が家の山羊の背中に乗ると、山羊はつぶれないが、乗った方の股間が「超痛い❗」のだった。

私のような馬鹿な真似をした方は少ないと思うので、少し説明すると、山羊の背中には背骨が浮き上がって立っており、そこにお尻をそのまま置くと、「ぎゃあー」なのである。それでは、と横座りしてもやっぱり痛い❗のだった。鞍でも付けない限り無理である。

イエス様が最後にエルサレムに入場された時、子ロバに乗って入場されたのだが、ロバは山羊ほど背骨はないものの、ロバの背中に少しぐらい敷物を置いても、前向きにまたがっては乗るのは楽ではないと思う。それで街の門の少し前ぐらいから横座りで乗って、門をくぐられたに違いない。そんなにはロバに乗られなかったと想像する。

では馬はどうだろう。馬は背骨が出ていない。脚力もすごい。つまり乗用に向いている。神様が初めから人の移動用に創造されていることが分かる。(ここでの体験である)

私は一度だけ乗馬体験がある。その時、娘には子馬、私には大人の馬をあてがわれた。娘の子馬にはちゃんと厩務員が付くのだが、私には付かない。それだけでかなり不安だったのだが、まぁ大人の馬だから聞き分けは良いのだろうと、乗った所まではよかった。場内を一周しかけた時、たまたま柵に近づいていた犬が馬に向かって鋭く吠えた。その瞬間、私の乗った馬はいなないて、暴走をはじめたのだ。
「ヒョオエエー!」危険!馬は背が高く、振り落とされたら、と命の危険を感じた。顔面蒼白で必死にしがみついた私に、厩務員があわてて駆け寄って何とか止めてくれた。こんな、恐い思いははじめてで、私は「二度と馬には乗らない」と思った。
今となってはかなり笑い話だが、本当にあれほど怖かったことはない。それにしてもあれは、犬の飼い主が悪かったのか(駐車場には、犬を車から出さないように、の掲示があった)、乗馬体験センターの落ち度だったのか、誰からも謝られていないので、未だに納得の行かない話だ。

たとえ実害が出ていなかったとしても、恐怖を瞬時にでも与えたのであれば、ちゃんと説明し謝ることでかなり癒やされたのに、と残念に思う。
数年前、イスタンブールの空港(アタチュルク空港)でクーデター騒ぎに巻き込まれた。窓の直下で戦車が動き回り、民衆が立ち上がるような一晩中恐怖の中に放り込まれたが、その後、最後まで当局者が説明しに来たり、お詫びを言うということはなかった。それで、その後は私たちの群れでは、その空港を二度と使っていない。

危機や極限状態であればあるほど、自分を守ってしまい、被害者の側に置いてしまうものだが、それで失うものもかなり大きいものがある。



ケパ





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