ふつうに言えば子ども映画である。それを60代の私たちが観た。一昔前の手描き風のアニメと異なって、デジタル画像の美しさに、隔世の感がある。私の子ども時代は鉄人28号とか、明智少年探偵団の時代だったので、これはかつて我が子と一緒に観ていた懐かしさである。今年、藤子・F・不二雄は80才だそうである。
映画ではドラえもんと別れなければならないことを自覚したのび太は、ある行動に出る。これまでドラえもんに頼っていた、いじめっ子ジャイアンとの壮絶なバトルである。殴られても投げられても、食らいついていくのび太。それはドラえもんに頼れなくなったという、追い詰められ、窮鼠猫を噛む的な行動なのか、あるいはドラえもんを安心させて送り出そうとするのび太の思いやりの心のどちらだったのだろうか?
わたしものび太の頃、隣近所の3人組につねにいじめられていた。帰り道待ち伏せされ、集団でやられる。近所の大人は見て見ぬ振りであった。ある時私は、我慢も限界に達し、もうこれ以上は耐えられないと思った。これ以上やられるのでは、もう死んだ方がマシだと思い、どうせ首をくくるのなら、相手に痛い思いをさせてからでないと気が済まないと思った。抵抗すれば余計やられるのは覚悟だった。しかしどんなに殴られても蹴られても、たとえ一発でもよい、相手にも痛い思いをさせてやろう。
実行の時、反撃をまんべんなくするのではなく、3人の内の一人に徹底的に集中してすることにした。当然やられるが、それはいつものことである。私は徹底的に一人に襲いかかって行った。ついにその子が逃げ出した。私は追いかけ、逃げ込んだその子の家にも土足で上がって、泣くまで徹底的に殴りつけた。当時の子どものけんかは、泣いたら負けで、もうそれ以上はやってはいけなかった。映画ののび太とよく似ている。この時も大人たちは、まったく見て見ぬ振りで、その子の親は何も言ってこなかったし、土足にもクレームが来なかった。
翌日からまったく形勢は一転した。彼らが私を避けるようになったのだ。実にあざやかな逆転である。たとえようもなく痛快だった。重い雲がさっと開けて、まぶしい太陽が射してきた感じだった。のび太ではないが、びくびくとおびえていては人間、小さくなるばかりである。しかし堂々と歩ければ、自分の前に世界が広がっていることがわかった。
すばらしい転機だった。大人たちの不干渉は、今となってはありがたく思うようになった。もし自分で、殴られようとどうしようと、恐怖に打ち勝って戦うことをつかんでいなければ、生きる力が未だに弱い、情けない男になっていただろうと思う。
その点だけから言えば、今はあまりにも過保護であり、どんな世界にもある理不尽な人間の感情、いじめを克服し打ち勝つ力を奪っているとすら思う。その機会は子ども時代でなければならない。もし子どもの時に、克服する道をつかむことなく、大人になって似た状況に陥った際、もしクリスチャンでなかったなら、自殺しか考えようとしないのではないか。 ケパ