暑い夏が来た。ふと見ると、入道雲(右写真)である。そこで熱い話を一つ。
私の知る多くの方に聞くと、一神教(つまりキリスト教など)は、自分の神だけを唯一の神とするので、狭量なのだそうだ。独善的とも言われる。ナルホド、と思う反面、そのようにしか見れないのが狭量だし、残念だと思う。木を見て森を見ないのだ。
狭量とは<人を受け入れる心が狭いこと。度量が狭いこと>の意味である。論より証拠、まず人を見て欲しい。マザー・テレサは野垂れ死に寸前の、死に行く人に寄り添う働きをしたが、カルカッタという、ほとんどがヒンズーの街で実践した。「田中正造」や「賀川豊彦」、また今日が原爆の日なので個人的に知っていた原爆乙女の「谷本清」も皆、クリスチャンという一神教徒であった。NHKで取り上げられている「八重の桜」も「花子とアン」もみな同じである。彼らは、みな狭量なのであろうか?
彼らの元となっている聖書は、第一に「心を尽くしてあなたの神を愛しなさい」としているが、ほとんど同じ比重で第二に「あなたの隣人を愛しなさい」と信じ従う者に命じている。
このようにして見ると、キリスト教を狭量と批判される方の根拠は、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊という三位一体の神だけが神であるとし、他の神々を神としないキリスト教の教えにあるらしい。確かにキリスト教徒の家は一般の家庭のように、仏壇や神棚を一緒に祀ったりはしない。どうしてだろうか?
答えは簡単である。ほんとうに神を信じているからである。夫と妻という関係において、1:1以外の1:2とかいう関係が果たして真実なものだろうか?互いに唯一独占し合って、二人は一体と言える。1:1以外の関係は姦淫である。キリスト教徒は真実、神を信じている。自分の罪のために神ともあろう聖いお方が、残酷な十字架で苦しみ、死んでつぐなってくださったことを。そのように告白するのがキリスト教である。どうしてこの方以外を愛せるだろうか?それは神の愛に対する裏切りに等しいから。
真に信じる者を通して、神の力はあらわれる。心とからだの救い、いやしが、真実に信じるキリスト教には、確かにある。 ケパ