テニス仲間と次のゲームまで待機している合間での会話。走る(ジョギングとかランニング)ことがあらゆる運動の土台だという話題になった。会話をした者同士はやっていたので、その実感を述べ合っていたのである。ところがこれをそばで聞いていた別な人が、「そうか!」とばかり俄然めざめて、翌日から毎日5Km走り出した。
しばらくして、走り出した彼の上達がまた話題になった。その時、会話した一方の人が「口惜しい。あの時言わなければよかった」と洩らした。もう一人がこう言った。「お互い、より高いレベルでテニスができるようになるんだから、うれしいじゃない」と。
これはかっこつけて言ったわけではない。神さまにはへりくだる「謙譲語」、しかし同じ人間に対しては「ていねい語」「尊敬語」で行きたいものである。確かに仕事でも、プレイでも、自分と接する人々はライバルでもあり、目標でもあるだろう。が、ねたむ感情に身を任せることは、愚かな道である。仮に相手が自分を凌駕し、またそれゆえに自分が不遇を囲ったとしても、ねたまなければ、心まで負けて失ったわけではない。人にはそれぞれかけがえの無さがあり、これはホンの一分野だけのことである。神がそのように人間を造られたのだから。またもし、すべての分野に自分が劣ったとしても、それは人に対してである。神の愛さえ私が失わなければ、何の怖れることがあろうか。
神の愛を知ったならば、人間は自分の「しっと・ねたみ」「劣等感」「否定的な人生観」から解放される。神の愛には、人生のすべてを、一切を捨て、ただ神に身を委ねて従いたいと・・・・・決心させる力がある。一度でも神の愛を知ったなら、今さらどうして、そのような感情に支配されようか? <平安>は新生したクリスチャンの特権である。
※今日のお昼は「焼き肉」。自宅のベランダで・・・・お腹の中も「平安」になりました。言っていることと違って(>_<)、肉的なものが好きな私です。 ケパ