今日は昨夜からの風の強い1日だった。風のビュウーという音やゴーゴーというひびきが夜中から一日中絶えなかった。明日は収まるだろうし、たぶん気候も明日からまた、変わることだろう。
わたしは最近TVドラマの官兵衛でよく耳にする「毛利の本城、郡山(こおおりやま)城」を目前にして育った。そこは吉田(現安芸高田市)という中国山地のただ中で、山霧で有名なところだから、台風の余波とはいえ、このような強い風は、ほとんど経験したことがない。
関東は気候が温暖で自然災害も少なく、土地のの高低もあまりない恵まれたところだが、今日のような強い風だけはなかなか馴染めない。だから巨大な津波のような、春一番というのを18才の学生ではじめて見た時、仰天したものだ。目には見えずとも強い風は、季節を変える強大なものなのだ。
聖書では、風はよく聖霊のはたらきとして例えられる。確かに風は見えないが、体感で風があることが分かる。神も聖霊も、目には見えないが確かに存在し、強大な働きを起こすのだ。
聖書の使徒行伝2章では「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡っ た。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことば で話しだした(使徒2:2-4)。」と、聖霊が風のようだと伝えている。
「見えないけれど」も、風が確かにあり、その力があるように、神が居られ、私たちのこの世界で働かれていることを確かに信じなければならない。同時にクリスチャンでも、強い風のごとき聖霊の働きが内になければ、世に対しては無風状態、無力感に陥ることになる。 ケパ