「花子とアン」の連続テレビ小説では「手紙」が活躍する。蓮子さんが恋人に送る手紙、その返事を胸を焦がして待つシーンが印象深かった(右図は今に残る白蓮の絶縁状)。速さを求める時は「電報」だった。※電話は在っても、ほとんど普及していなかったし、手差しする電話交換手が一部始終を聞いており、プライバシーはないも同然だった。
こんな時代は、つい十年前まで続いていて、私の時代はそれ以外の方法があるとは、まさに想像のしようが無かった。だから今の時代と手紙と比べると、隔世の感がある。
しかしここ十年余りで、手紙は電子メール、携帯、スカイプ、TV電話にとって代われた。仕事でもワープロで上司に書類を提出すれば、「心が入っとらん!」と一喝され、手書きに直さなければならなかったのも、二十年少し前までは結構あった。
今はコミュニケーションの手段がSNSと呼ばれるFacebook、LINEなどに大きく移行していった。仕事でもCloudに上げられた情報を、皆で瞬時に共有する時代である。あの、およそ3日程度はかかったコミュニケーション、手紙はどこへ行ってしまったのだろうか?
むかしペンフレンドというものがあったし、手紙でまず思い浮かぶのは恋文であった。そこでは思いを伝えるための書くという所作があり、それがもどかしく、苦しくもあり、封筒の厚さにその思いが現れているようで、伝えるという実感があった。今のネット時代のツールにはなくなったものであるが。
手紙で思い出すのは、高校時代、私は友人たちの恋文書きの代筆屋であった。そのコツは古典シラノ・ド・ベルジュラック(右はその映画ポスター)のように、自分をいかに重ね合わせるか、なのだが・・・・・・、生まれてからついぞ女性にもてたことのない私には、シラノ役はまさにうってつけだった。
今は過去のものとなってしまった手紙の時代が懐かしい。もし今、分厚く美しい、それらしき手紙が来たら、相手かまわず、心臓が「えっ、何が書いてあるんだろう」とパルピテーションを起こしながら、封を開けることだろう。 ケパ