ゴールデンウィークが過ぎた。私たちは5日(月)~6日(火)に信州に行ったのだが、そこで楽しく交わりを持つことができた。唯一残念だったことは、親族のひとりとのせっかくの信仰話が、不完全燃焼に終わったことだった。
話した相手について言えば、成功から病による挫折を人生で経験していることだ。そのような人は味わい深い、中味のある考えを持っている。人生の舵取りが高慢から謙遜へと大きく変えられたその歩みは、心から尊敬できる存在だ。ただ一点、神を信じ、受け入れるまでには至っていない。残りの姉妹がみな神を信じるようになったのに、だ。だからことあるごとに、「人生は自分が主体かそれとも神なのか?」で話が一歩も進まなくなってしまう。
確かにクリスチャンとは、自分の人生を神に捧げている・・・・そんな人間はまともではない、考えられない、と思われるのは当然だろう。しかしたとえそうであっても、クリスチャンを実際に見ていただければ「何があっても感謝し、平安をいつもたたえ、従来から中味を知っているはずの相手なのにどこか善性が漂う」ことに気づいてもらえるはずなのだ(これが無いこと・・・・逆に我々が一番悔い改めなければならない点でもあるのだ)。もちろん少しでもそれがあるとすればそれは、神の力がその人を通して現れているだけなのだが・・・。
信じるか信じないか、それは自分を捨てるか、捨てられないかの差でもある。それについても神の御手がないと不可能であることを知っている。自分が救われたことだって、自分の力ではないと断言できる。ただ神のあわれみが自分に及んだだけなのだと。それゆえ、福音を語れば語るほど、神に祈る。「主よ、あなたが私をあわれんでくださったように、どうかあわれんでください」と。 ケパ