阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(24) こゝろふと

2019-01-11 10:40:39 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、

 

        心太 

  暑き日に人の肝まてひやさすはいかなたくみのこゝろふとそや

 

思いっきり季節外れではあるけれど、今図書館から借りている江戸狂歌の「狂歌四季人物」に心太売と題した歌が三十首あり、今回はところてんについて書いてみることにしよう。

貞国の歌で目を引くのは、「ところてん」ではなく、「こころぶと」になっていることだ。狂歌四季人物では仮名で書いたものはすべて「ところてん」上方狂歌でも、まず「ところてん」であって、「こころぶと」は見かけない。時代を遡って中世末の七十一番職人歌合、ラストの七十一番に「心(こゝろ)ぶとうり」が登場、挿絵に、

「心ぶとめせ 

 ちうしやくも

 入りて候」

とある。ちゅうじゃく(鍮石)は真鍮のことで、ところてんを突き出す器具の先についていたのかと思っていたが、新日本古典文学大系の脚注によると、真鍮と同色であることから、からしを指すとあった。この挿絵の前項七十一番右の歌二首は、


  うらほんのなかはのあきの夜もすから月にすますやわかこゝろてい


  我なからをよはぬこひとしりなからおもひよりけるこゝろぶとさよ


「こころてい」という呼び名もあり、こころぶと→こころてい→ところてん、と変化したと考えられる。しかしウィキペディアの「ところてん」の項には、

古くは正倉院の書物中に心天と記されていることから奈良時代にはすでにこころてんまたはところてんと呼ばれていたようである。」 

という指摘もある。江戸時代の狂歌を見る限り、貞国の時代にはほぼ「ところてん」だったと思うのだけれど、「こころぶと」としたのは何故か。上の句「人の肝まで」としたところから縁語の「こころ」で受けたかったのかもしれない。あるいは、地方では江戸中期でもまだ「こころぶと」と普通に言っていた可能性もある。ここは地方の文献を探してみないといけないのだろう。

「人の肝までひやさす」に似た表現の歌が「狂歌四季人物」にある。


  突出してちうて手取りの心太買ふ人そ先胸をひやせる  板ハナ 爽霞亭一詠


  突きあけて今落さふに胸もとをひやひやさする心太うり  サノ 糸降園静雨 


江戸の心太売りはところてんを宙に突き上げて皿で受ける曲芸を披露していたようで、それで「先胸をひやせる」「胸もとをひやひやさする」となる。同じ「狂歌四季人物」からもう一首、


  曲突に世をすき箸を手に持て皿にそうくるところてん哉  雪の下 千羽楼鶴成


注目を集めてたくさん歌に詠まれている理由もこの芸によるところが大きいのかもしれない。ここまで見て貞国の歌に戻ると、「人の肝までひやさす」というからには、ところてんの涼味だけを詠んだとすれば少し大げさかもしれない。貞国もこの皿で受ける芸を見て詠んだと考える方が自然だろう。広島にもそのような心太売りがいたのか、都会で見たのか、わからないけれど。

広島でところてんといえば、私などは子供時代、夏祭りの「とうかさん」の露店で友達と「酸いい酸いい」と言い合いながらところてんを食った思い出がある。そして、大学生になって京都で黒蜜のかかった甘いところてんを食べた時は本当に驚いた。ところが狂歌のところてんからは酢いも甘いも味が感じられない。からしは上記の職人歌合せと、「狂歌四季人物」に一首あった。

 

  牛引も休む木陰のところてん鼻の穴まで通す粉からし  馬遊亭喜楽

 

からしが使われていたのはわかったが、どんな味付けだったのか。守貞謾稿巻六、心太売の項には、

「心太トコロテント訓ス三都トモニ夏月売之蓋京坂心太ヲ晒シタルヲ水飩ト号ク心太一箇一文水飩二文買テ後ニ砂糖ヲカケ食之 江戸心太値二文又晒之ヲ寒天ト云値四文或ハ白糖ヲカケ或ハ醤油ヲカケ食之京坂ハ醤油ヲ用ヒズ」

とあり、江戸では砂糖又は醤油、京坂では砂糖とあり、どちらも酢の記述はない。江戸はそのうち酢が加わって、上方は一貫して甘味だろうか。しかし、京都で酢を入れたと思われるお話がある。明治40年「水産叢話には、

「昔京都東洞院に弥吉と云ふ者が居って、此者が洛東糺森(たゞすのもり)に納涼茶屋を出して居りました處、或日のこと、或堂上方が、弥吉の店頭を御通行になりまして、其處にあつたトコロテンを御覧になって、

  ところてんつき出したる今宵かな

と一句詠じられました處が、一人の公家が取敢へず

   たゝすをかけてかも川の水

と、跡の句をつけたので、大層興を添へたのであります」

とある。これは「糺」と「ただ酢」かと思ったら、「蓼酢」をかけているという解釈もあるようだ。京都で鮎を買うと蓼酢がついてきた経験はあるけれど、ところてんに蓼酢という組み合わせがあったのかどうか、このお話の時代、出典と合わせて今のところわからない。

江戸ではいつ頃から酢が入ったのか。明治43年「玄耳小品」には、

「子供の時旨かったもので今も尚ほ変らぬ味は心太だ、胡麻醤油を注けたのが好い、唐辛子の利いたのは更に妙。」

とあり、酢は入っていないようだ。明治44年「残されたる江戸によると、

「立よつて一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かと取出して、小皿に白瀧を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添へて出す。」

こちらは酢が入っている。明治の終わりぐらいだと、酢を入れる入れない両方あったのかもしれない。

最近は夏祭りに出かけることも少なく、今でもところてんの露店があるのかどうか。今年あたり、ところてんを探しに出かけてみたい気もする。いや、ところてんの酸いいのはあまり得意ではないけれど。

 

【追記】 江戸狂歌にも、「心ふと」と詠んだ歌があった。「飲食狂歌合」(1815)に、

 

        左勝  心太      甲、塩部 千代友鶴

  かけられてからしと思ふかけがねを心ふとくもはつしてぞまつ

 

厳密には心太の漢字から、あるいは上記職人歌合にならって「心ふとくも」と詠んだだけで「こゝろぶと」という名前でこの時代に呼んでいたという証拠にはならないかもしれない。グーグル書籍のテキストには二か所濁点が見えるが「はつして」には無く、「心ぶとくも」と読んでもいいのかもしれない。



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