先ほどの記事(歴史模擬授業 平安時代② ②-1)の続きです。
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「・・・それで、武士が中央に乗り込むきっかけがおこったの?」
「うん、ついにおこったの。
それが、1156年、保元の乱(ほうげんのらん)よ。」
「おーついに!」
「天皇と上皇があとつぎをめぐって対立し始めて、それに藤原氏も入ってきて、天皇側と上皇側と言う風に2つ分けられた。」
「ずっと、天皇・上皇・藤原氏で色々対立していたから、ついにそれが始まったのね。」
「でも皇族や貴族たちって実際に戦えるの?前回習った国風文化を見る限り、のほほーんとした草食系っぽい暮らしをしているように見えるんだけど・・。」
「お、良いところに気がついたね。もちろん、天皇・上皇・貴族たちで戦わない。戦いのプロたちが、それぞれの従っている人たちの代わりに戦うの。その戦いのプロたちっていうのが・・。」
「あ!武士団?!武芸に長けた武士たち!」
「そういうこと。実質的に武士団の戦いになるの。
最終的に天皇側が勝利したんだ。その天皇側について活躍した武士団の有名な人が、平清盛と源義朝(みなもとのよしとも)。義朝は源義経・頼朝の父ね。」
「あ、1文字づづ息子がもらったのね。」
「うん。よく息子の方と間違える子が多いから気をつけてね。
保元の乱以降、もう武士団の力なしでは朝廷はなりたたなくなってきたのよね。
そうしているうちに、
保元の乱ではともに一緒にがんばり活躍した平清盛と源義朝だったんだけど、
次第に対立していって、
ついに、源義朝が平清盛を討とうと反乱をおこすの。
それが、1159年の平治の乱(へいじのらん)。」
「どっちが勝ったんだろう。どきどき・・。」
「勝利者は・・・・・・平清盛。」
「義朝さん負けちゃったんだ・・。」
「それで、義朝は死んでしまい、彼らの息子は、流されたりしたの。頼朝は伊豆に、頼朝の弟の義経は鞍馬寺に預けられて・・。」
「そうなんだ。お父さんが負けたせいで、息子たちも・・。」
「でも、このときは小さかったから対抗のしようがないし、義経は自分の出生が知らないまま育ったみたいよ。」
「でも、彼らが大きくなったときに(自分の出自を知れば)、親のかたきうちをしたくなるのでは・・と思うんだけど。」
「うん。良いカンしているね。でも、その前に・・、勝った平清盛の方を見ていこう。」
「はーい。そうだね、歴史とは勝者の歴史だもんね。」
「平治の乱で勝利した平清盛はついに、中央の政治の実権まで握るようになるの。」
「まさか・・天皇に?」
「ううん。天皇は皇族の血がなければいけないので、すぐには無理。」
「じゃあ、藤原氏みたいに、天皇と平氏の娘を結婚させて、その子を天皇にしていく、という形をとればいいんだ。」
「そうなの、そういうことをしたの。ただ、清盛はまだ天皇家と濃い血筋にはならないから、違う地位について、政治の実権についた。かなり、前(飛鳥時代)に習ったけど、律令政治の中央で天皇の次に高い役職なのは?」
「あ、太政大臣!」
「そういうこと。それで、平清盛は太政大臣の位について、政治の実権を行ったの。彼が行った政治で1つ有名なのは、貿易よ。」
「貿易って歴史で初めて聞いた!今までは、遣唐使などの使いを送る系ばっかだった」
「貿易って、対等な国同士でないと出来ないって聞いたことあるよ。」
「それだけ、日本が中国に一人前と認められるようになったんだね。(予想)」
「まだ中国至上主義(中華思想)ではあったし、日本もそうは思っていたけど、奈良時代に比べると大きな進歩だよね。」
「300年の歳月をかけて、しっかりしてきたのね日本。なんだかんだ、言って、天皇制度はなくなっていないもんね。」
「清盛が行った中国との貿易を日宋貿易と言います。日宋貿易を行った日本の港は、大輪田泊(おおわだのとまり)。今の神戸港よ。」
「神戸港って歴史があるところなんだね。今でも貿易がさかんだよね、神戸港。(注意:清盛は大輪田泊を改築して使用しています。)」
「うん。ちなみに当時の輸入品は、宋銭・絹織物・陶器、輸出品は刀剣・砂金よ。」
「日宋貿易ってことは、日は、日本ってことだから・・・中国も宋っていう王朝に代わっていたんだね。」
「そうそう。漢字を見て、そう考えるのは良い傾向よ。
さて、平氏はどんどん力をつけて、朝廷内で勢力をふるうようになったの。それで、「平氏でないものは人でない。」なんていう言葉もあったそうよ。」
「うわー、いい気になりすぎだよ~。」
「それまで力を持っていない人たちがいったん、権力を握ってしまうと、有頂天になってしまうったのね。」
「それまで、武士なんてお下品、われわれ貴族の捨てゴマ、っていう感じで貴族・皇族に馬鹿にされ続けた武士たちが、貴族・皇族を意のままにできるようになって、かなりテンパっちゃのよね。
それで、清盛の死後にさらに、平家の横柄な態度が助長してね。」
「もうそれくらいのころには、源義朝の子供が大きくなってるんじゃない?」
「そうなの!
平家は結局、それまで貴族がやっていることと同じことをやっているだけ
だったのよ。」
「藤原氏が平氏にかわっただけなのね。」
「そう。だから、平氏は、ほかの武士団(源氏などの別の一族)のことなんて無視。くやしいんなら、おまえたちも俺らみたいになれば~って感じで。
だから武士の暮らしは貧しいばかりでね。
また、一族中心の平氏の政治を、それまで政治を動かしてきた貴族たちや、寺社たちも不満をもっていたの。」
「そうなんだ・・。平氏ほぼ味方なしじゃん・・。」
「それで、ついに、義朝の息子である、源頼朝が挙兵するの。」
「おーついに・・。」
「ただ、頼朝はあまり戦争の能力がなくてね、負けちゃうの。」
「あらら。」
「そんなときに、戦闘能力にたけた弟が現れ、次々に勝っていくんだ。」
「それが、源義経?」
「うん、そう。」
「それで、平氏はだんだん追い詰められるんだよ。
関東地方・中部地方で次々勝利をしていった源氏が、
ついに朝廷のあった京都にいた平氏たちのもとに迫り、
平氏たちも逃げていくの。
それでついに、山口県の壇ノ浦で、源義経に平氏は負けて、滅亡してしまうの。
その最後の戦いを、
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)(1185年)と言います。」
「め・・・滅亡?!そこまでさせなくても・・。」
「そうだよね。だから、これが後の頼朝・義経の兄弟対立をうむ1つのきっかけとなっていくの。それでは、詳しい源平合戦は次の鎌倉時代で行うわね。」
「はーい。」
「では、終わります。起立・礼。」
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※わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。
また平氏のことを悪く言っているわけではありません。もしそう感じられた方には
大変申し訳ありません。