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SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

JOEL ZELNIK TRIO 「MOVE」

2010年02月17日 | Piano/keyboard

「これを聴かずに何を聴く?? 激レアにして、極上内容!! 驚愕の幻の大傑作ピアノトリオついに復刻!!」
「あまりのレア度、あまりの情報量の少なさから、幻とされてきたPIANO TRIO作品」
「このピアノ! このドラム! そしてこのベース!!!!」

これらはこのアルバムのキャッチコピーである。
とにかく大評判なので買ってみた。
確かに大音量で聴くとその迫力にのけぞってしまいそうだ。特にベースの音にはぶっ飛んでしまう。
その原因はこの録音だ。
左右くっきり分かれた音の間に立つと、まるでアバターのような3D映画を観ているような立体感を感じる。
それくらいメリハリの利いた音空間が楽しめる。
但し音の採り方は少々硬め。
ジョエル・ゼルニックが弾くピアノの音は、ハンプトン・ホーズの名作「Hamp's Piano」を連想する響き方をしているし、ハロルド・スラピンの弾くベースは、エレクトリックベースのようにも聞こえてくる。
考えてみれば、このアルバムが録音されたのが1968年。「Hamp's Piano」は67年の録音だから、この当時はこんな音が象徴的だったのかもしれない。
迫力という点では文句のつけようがないのだが、ではこれが万人に受け入れられるかというと「どうかな」と個人的には思う。
要するにちょっと不自然な、というか人工的な、或いは機械的な印象を受けるのである。
まぁこのくらい個性的なものがあった方が、リスナーとしては聴く楽しみも増えるから「すべてよし」ではあるのだが...。

アルバム全体のホットな雰囲気は、以前ご紹介したアイク・アイザックスの「AT PIED PIPER」に似ている。
スタジオ録音ながらライヴ録音のような熱気を感じるのも特徴だ。
「AT PIED PIPER」やその類の音が好きな人、ECMのような冷たいピアノトリオに飽き飽きしている人はぜひ手に入れることをお薦めする。
忘れかけていた熱い思いが蘇ってくるに違いない。
とにかく今の音ではないところに、ある種のノスタルジーを感じるアルバムだ。
リイシューの良さは、間違いなくそんなところにあるのだと思う。


MARCO DI MARCO 「MY LONDON FRIENDS」

2010年02月06日 | Piano/keyboard

ネイサン・ヘインズという名前だけは知っていた。
但し、私は彼のアルバムを一枚も所有していない。
だいたいクラブ系のジャズは滅多に聴かないから当然である。
しかしこのアルバムを聴いて、彼の他の作品も聴いてみようかなという気になっている。
彼がストレートジャズの人だったなら、すでにファンになっていたかもしれない。
「Brazilian Waltz」でのフルート、「Walking In St. James' Park」でのテナーサックス、「Solaria」でのソプラノサックス、どれをとっても一級品だ。
一人でいくつもの楽器を使い分けるジャズメンは、概して大物になれないような気がしているが、ネイサン・ヘインズは特別だと思いたい。
もう10年もすればそれもはっきりするだろう。

マルコ・ジ・マルコのことはもちろん知っている。
アルバムもこれ以外に3枚ほど持っている。
この人のアルバムはどれもこれも評判がよく、以前から、やれ哀愁が漂っているだのとんでもない名人芸を見せる人だのと騒がれていた。
あんまり評判がいいものだから、「よし、これは聴かねばならない」という気になって最初の1枚を買ってみたが、どうもグッとくるものを感じなかった。
それでも「たまたま買った作品が、私と相性が合わなかっただけなのだ」と自分に言い聞かせ、「みんながいいといっているからいいはずなのだ」と信じて2枚目を購入した。
またしても外れた。
あまり過剰に期待しすぎる自分が悪いのはわかっているが、さすがにこれにはがっかりした。
で、3枚目である。
これはもう、半分惰性で買った。
「こんどこそ」という気持ちもあった。
聴いてみると、まだ不満は残るものの、前の2作よりはよかった。ほっとした。
そしてこのアルバムである。3枚目を手に入れてから4年くらいは経っていた。
ネイサン・ヘインズというゲストを迎えて新境地を開いたのではないかという期待もあったし、久しぶりに彼の作品にチャレンジするという妙なわくわく感もあった。
結果はいい曲が目白押しで、初めて満足のいく作品に出会った気がした。
全編に渡って、重くバウンドするようなベースもいい味を出している。スタイリッシュな一枚だ。

マルコ・ジ・マルコのピアノはネイサン・ヘインズの影で、いぶし銀のように光っている。
また、ピアノトリオで演じられる「Soft Rain, Gentle Breeze」を聴いて、これまでのイメージが払拭された。
彼がこんな端正なピアノを弾く人だったとは...。
私は今、以前買った3枚も、もう一度じっくり聴き直してみようと思っている。
ひょっとしたら、今聴けば大感激するかもしれないと期待しているのだ。

FRANCESCO MACCIANTI 「Crystals」

2010年01月18日 | Piano/keyboard

家のすぐ近くに比較的大きな川が流れている。
私はその土手から見上げる里山の風景が好きだし、小さな橋を渡って、ずっと広がる田圃のあぜ道をひたすらまっすぐに歩くのが好きだ。
但し今はこのジャケットのように一面真っ白な世界が広がっており、長靴を履かないととても行けそうもない。
早く春になってもらいたいのだが、このところの寒波で、冬ごもりはもうしばらく続きそうだ。

今、私の部屋ではこのアルバムの5曲目「Nazca」がかかっている。
エジィエット・エジィエットという面白い名前のベーシストが奏でる長く沈んだソロパートの後に、フランチェスコ・マッチアンティの湿り気あるピアノと、ジョー・チェンバースの叩くシンバルが寂しそうに響いてくる。
まるで楽器同士が静かに語り合っているような趣がある。
このあたりのコンビネーションが実にいい。
こういう耽美な曲にはブラシが一番かと思っていたが、どうしてどうして、スティックによるシンバルの響きもなかなか心地いいものである。

曲は6曲目のミディアムバラード「Distant Call」を経て、7曲目のスタンダード、「I Fall In Love Too Easily」に代わった。
この哀愁感を絵に描いたようなメロディに、思わず胸が締めつけられそうになる。
ここはさすがにブラシの登場である。
シュクシュクと雪道を踏み固めながら歩くようにブラシが跳ねる。
マッチアンティは、その上で噛みしめるようにピアノの鍵盤を丁寧に叩いていく。
この繊細なタッチが彼の特徴であり魅力だと思う。とてもいいピアニストだ。

そしてラストのタイトルチューン、「Crystals」が流れてきた。
全編をゆっくり振り返るような心休まるソロ・ピアノが続く。
本当に透き通るような調べである。
なんと消えていく最後の一音まで美しい。
こんなピアノを間近で聴いてみたい、とつくづく感じてしまった。

これは琴線に触れる素敵なピアノトリオをお捜しの方に大推薦できるアルバムである。
こういう優れた作品が出るから、新しいジャズも目が離せないのである。


TINGVALL TRIO 「VATTENSAGA」

2009年12月29日 | Piano/keyboard

まるで水がしたたり落ちるような調べで始まる。
透明感溢れるティングヴァル・トリオ、待望の第3弾である。
私は大体にしてジャケットから影響を受ける単純な人間で、こんな写真を眺めながら聴いていると、本当に水の中に吸い寄せられるような感覚に陥ってしまう。
だからというわけでもないが、ピアノの響き方は全体的にピリッと硬質だ。
そのひんやりした感覚が、前作以上に際立っている。

全体の流れとしては、一曲一曲の演奏時間が短いせいもあるかとは思うが、かなりドラマチックな印象だ。
それぞれの曲の完成度は高いが、通して聴いてみると各曲は大きなストーリーのパーツのように感じてしまう。
正直言って、ここが好みの分かれるところだ。
コテコテなジャズファンなら、もっとトーンの違いや粘っこさを求めるだろう。
しかし、この作品はクラシックのように折り目正しい。
最初から終わりまで計算し尽くしているような生真面目さを覚えるのである。
まぁ、それが北欧ジャズなんだよといわれてしまえば返す言葉もないが、ジャズ特有のグルーヴ感がもう少し欲しいといったら贅沢だろうか。

そんな中で、私は僅か3分にも満たない「Tveklost」や「Makuschla」といった静謐な曲にやすらぎを感じている。
まるで風に揺れる小さな花を見ているような気持ちになるのだ。
もちろんこういった曲はアルバムの主題ではない。
しかしこういった曲が、ほどよい間隔で挿入されているために、全体のバランスが整って聞こえるのである。

先日知り合いの家に行き、ジャズを聴きながらみんなで酒を交わした。
私は数枚のCDを持参したのだが、その中にこのティングヴァル・トリオの「VATTENSAGA」もあった。
このCDがかかる前までは、バルネ・ウィラン、ケニー・バロン、スコット・ハミルトンなどがかかっていたが、このティングヴァル・トリオがかかったとたん、友人の一人がポツリと「このCD、いいね」と呟いた。
そんな風に一瞬にして心を捉えるなんて、なかなかありそうでないことだ。
良質なピアノトリオの底力である。



AUSTIN PERALTA 「Maiden Voyage」

2009年12月15日 | Piano/keyboard

このアルバムは手に入れて3年くらい経つ。
おそらくリリースされてまもなくだったと思う。
なぜ買う気になったかというと、このオースティン・ペラルタが14歳という驚異的な天才少年ピアニストだったからではない。
もちろん50歳以上離れたベースの大御所、ロン・カーターが脇を固めていたからでもない。
とにかくビリー・キルソンというドラマーがスゴイ!と絶賛されていたからなのである。
私はドラムを聴きたいがためにピアノトリオアルバムを買うなんてことは滅多にないので、聴く前からちょっと興奮気味だった。
「よし、帰ったら大音量で聴いてやろう」と思って店を出た。

確かにビリー・キルソンのドラムはすごかった。
この作品は、そんなドラムに焦点を当てたかような録音になっているのでなおさらだ。
まるでそこで叩いているかのような臨場感が味わえる。
鋭いシンバルワークとスネアやタムの連打は、ドラマーならずとも必聴だ。
彼のドラミングはレニー・ホワイトかトニー・ウィリアムスを彷彿とさせるといえば、ある程度イメージを掴んでいただけるかもしれない。
特にオースティン・ペラルタとのハイスピードな掛け合いは、ジャズの醍醐味を十分味わわせてくれる。
ロン・カーターもその二人に煽られたか、いつも以上の存在感を示している。

それと選曲にも購買意欲をそそられた。
1曲目の「パッション・ダンス」に始まって、「いそしぎ」「処女航海」「グリーン・ドルフィン・ストリート」ときて、あのチック・コリアの名作「スペイン」がくる。さらに2曲のオリジナルの間に「いつか王子様が」とコルトレーンの「ナイーマ」を持ってくるという内容だ。
まぁ何とも贅沢な選曲ではあるが、このへんにもただ者ではない14歳の怖いもの知らずなセンスを感じる。
アルバムタイトルにハンコックの「処女航海」を持ってくるあたりも心憎い。
これからどんな風に成長していくのか、おじさんとしては興味津々なのである。

STEFANO BOLLANI 「Falando De Amor」

2009年11月23日 | Piano/keyboard

このピアノトリオ、結構気に入っている。
内容はアントニオ・カルロス・ジョビンの作品集である。
そう聞くと、「なんだ、よくあるボサノヴァ・アルバムか」と思うかもしれない。
しかしライナーノーツにも書いてあるとおり、ピアノトリオにおけるボサノヴァ作品集は極端に数少ない。
一般的にはギタリストかサクソフォニスト、或いはボーカリストのものばかりなのだ。
実際このアルバムを聴いていると、ボサノヴァを聴いているという感覚はあまりない。
実はここがこのアルバムのポイントだ。
つまりボサノヴァのリズムを楽しむのではなく、あくまでジョビンの書いた曲の美しさを堪能するべき作品なのだ。
そんな風に考えながら聴くと、この作品からボサノヴァ特有の夏のイメージを感じることはむずかしく、むしろ枯葉がはらはらと舞い落ちるような今の時期(晩秋)を連想するのである。
とにかく全編に渡ってセンチメンタルで、切なくなるようなピアノタッチの連続だ。
これこそみんなが求めているピアノトリオなのかもしれない。

ステファーノ・ボラーニという人は、リスナーのツボを知り尽くした人だ。
特にメロディラインの聴かせ方が上手い。
しかもここぞという場面を上手くつくり出し、ピンポイントで泣かせるフレーズを繰り出してくる。
タッチも実にソフトで、いらつくような場面はほとんどない。
私はこんなイタリア人の感性が大好きだ。


それはそうと、今日は灰色の雲に覆われた休日だった。
紅葉の季節も終わり、後は白いものが落ちてくるのを待つだけの毎日である。
考えてみれば、一年で最もさみしい季節だ。
今、私の部屋では「Retrato Em Branco E Preto(白と黒のポートレイト)」というソロ・ピアノが響いている。
ピアノの弦を直接手で弾く効果音が、さみしさをより一層際立たせていく。
こういう感覚が、美を構成する一番の源かもしれない。
楽しさよりも寂しさの表現が、ピアノトリオの善し悪しを決めるということだ。


SERGE DELAITE TRIO 「SWINGIN’ THREE」

2009年10月26日 | Piano/keyboard

「ステキなジャズを聴きながら、楽しいディナーをどうぞ」
これは先日旅先で見かけたちょっとおしゃれなレストランのチャッチフレーズ。
入口の脇のチョークボードに貼り付けてあった。
このお店には残念ながら時間がなかったので入らなかったのだが、何となく後ろ髪を引かれる思いだった。
で、後で思い返して、あのレストランではどんなジャズを聴かせてくれるのだろうと考えた。
一番イメージに合うのは、澤野工房の作品だと思った。
中でもセルジュ・デラートはぴったりだ。
個人的には、前作「French Cookin’」の方が内容的にはいいような気がするが、おあつらえ向きのジャケットといい、最初の2曲(「If I Love Again」と「My Little Suede Shoes」)の可愛らしい華やいだ雰囲気といい、この「SWINGIN’ THREE」の方がベストマッチのような気がしている。

最近、楽しく食事をとることに幸せを感じている。
今さら何だ、といわれるかもしれないが、以前はそれほどの執着心がなかった。
もちろん美味しいものをいただくことに越したことはないが、若い頃はただお腹がふくれればそれでいいみたいなところがあって、時間とお金をかけて食事をとるなんてことはあまりなかったような気がするのだ。
事実、ヨーロッパなんかに行ってレストランに入ると、何時間もそこに居続けなくてはいけないような状況になることがよくあって、本格的なレストランにはおいそれと入れなくなっていた。
それがどうだ。
このところは、美味しい店があると聞けばそそくさと出かけていくような生活になった。
お酒が好きになったというのもその原因かもしれない。
特に日本酒がうまいと感じるようになった。
単純に歳をとっただけかもしれないが、歳をとるのも悪くないと思えてくるからますます幸せだ。
大袈裟に言えば、料理とお酒とジャズ、暮らしの中にこの取り合わせがあれば、明日もまたがんばれそうな気がしている。
今日は昨日手に入れた魚沼のおいしい酒を飲みながら一日を振り返ろう。
ついでにセルジュ・デラート、お薦めです。



ARMANDO TROVAJOLI 「TROVAJOLI JAZZ PIANO」

2009年10月13日 | Piano/keyboard

一瞬、ジャケットに心奪われる。
レコードやCDがずらりと並んだショップの棚の中を、一枚一枚見ているときによくあることだ。
こういうジャケットに出会うと、「おっ!」と思うのである。
この時点ではまだデザイン的にいいとか悪いとかを判断しているのではなく、ただ単に手が止まるだけだ。
買うか買わないかはこの後決まる。
まず誰のいつ頃の作品かを確認し、一通り曲目を眺め、演奏メンバーを確かめて、じわじわと購買意識が高まるのを待つ。
誰でも経験していることだとは思うが、この楽しさがお店通いを止められない一番の理由だ。
但しポピュラー系のアルバムを探すときにはこんな感情はあまり起きない。
ほとんどの場合ミュージシャン名で探しており、見知らぬ人の作品をジャケ買いをするなんてことはあまりないからだ。
つまりジャズの場合は、誰が何を演奏しているかということも大事なのだが、それ以上にジャズとして「良さそうな(フィーリングが合いそうな)雰囲気」を探し求めているからに他ならない。
ジャズが他のジャンルの音楽と決定的に違うのはこうした点にあるのだと思う。

ということで、このアルバムはお店でジャケ買いした典型的な一枚である。
写真の大胆な構図とそのコントラストが、ジャズとしての「そそる雰囲気」を十二分に醸し出している。
正直言うと、私はアルマンド・トロヴァヨーリという人のことはほとんど知らなかった。
このアルバムを買ってきてライナーノーツを読んで、初めて彼はイタリア映画音楽界の巨匠であることを知った次第なのだ。
但し最近は、アントニオ・ファラオがこのトロヴァヨーリの優れた楽曲集を出したりしているので、やたらとあちこちで目につくようになってきた。
一度その存在を知ると、何だか急に親しみを覚えるから不思議なものである。

さて肝心の演奏はというと、どの曲もこれがイタリアンとは思えないほど黒っぽくスイングしており、ジャケットの雰囲気そのままである。
店頭でこんな雰囲気の演奏なのかな、と思っていたとおりだったので嬉しかった。
あなたならこのジャケットからどんな音を想像するのだろうか。


TROJA 「Island Sceneries」

2009年09月08日 | Piano/keyboard

実に清々しい秋の一日だ。
青空と白い雲と、窓から入り込んでくる風が絶妙な心地よさを運んでくる。
こんな日は年に何回もない。何だかもったいないくらいだ。

一昨日までは関西~中国地方にいたのだが、向こうはやたらと暑く、行った日が今日のような天気だったらよかったのにと、ちょっとだけ残念に思っている。
中国地方の山間部を車で走っていると、見事な棚田の風景に出会った。
どうやらここも日本の棚田百選に選ばれている土地らしい。看板には「日本一の面積を誇る」と書かれていた。
正に刈り取り寸前だったので、棚田が一番きれいに見える時だった。
ここの棚田はところどころに民家があり、あちこちで落ち葉を燃やす煙が天に昇っていた。
車を降りてしばらく歩いていたら、野良着を着たおじいさんとおばあさんが、家の前でせっせと刈り取りの準備をしていた。
そのおじいさんと目があったので、思わず「精が出ますね」と声をかけた。
おじいさんは「ああ」といって、年季の入った皺をさらに深くした。
傍らにいたおばあさんもにっこりほほえんでくれた。
たったこれだけのことだが、声をかけて良かったと思った。

私は今、Trojaの「Island Sceneries」を聴いている。
今日のような日には、こんな爽やかなピアノトリオがふさわしい。
彼らの演奏にはちょっと寂しさも入り込んでいて、何だか胸がキュンとしてくる。
とにかく切なくなるような美旋律の連続で、私のようなピアノトリオ好きにとってはたまらない出来映えになっている。
まだという方はぜひ聴いていただきたい。最近の隠れた名品だ。

ラストの「home」という曲がかかった。
あの棚田の風景を思い出しながら目を閉じてみる。
優しいメロディが身体の中をスーッと通り過ぎていく。
まるで風になった気分だ。






RICHARD WHITEMAN 「GROOVEYARD」

2009年08月16日 | Piano/keyboard

最近のピアノトリオブームのきっかけをつくった一枚だ。
一頃は市場でずいぶん高値を付けていたアルバムだが、今は一段落ついてきており比較的入手しやすくなってきた。
リチャード・ホワイトマンは、これ以降アルバムを順調にリリースし続け、その実力が高く評価されるようになったピアニストである。
私も久しぶりにCD棚から引っ張り出して聴いてみたが、やはりいいものはいつ聴いてもいい。
とにかくオーソドックスで、妙な味付けやクセがないので安心して聴いていられるところが魅力なのだ。

古今東西、ジャンルを問わず、私たちは「いかに自分の個性を出せるか」が成功のポイントだと思いこんできた。
しかしよくよく考えてみると、個性などというものは意識してつくり出せるものではない。
いくつもの仕事や活動を行っている内に、その人ならではの味が生まれてきて、それがいつしか個性を形成するようになるのだと思う。
もちろん意識的に創り上げて、それがそのままその人に定着する場合もあるだろうが、それって本質的な個性とは呼べないのではないだろうか。
所詮、でっち上げられたものはいつしか消えてなくなる運命にあるのだ。
その点、このリチャード・ホワイトマンという人は類い希な個性の持ち主である。
いつでもどんなときでも、そつなく演奏を行い、聴く者を納得させることができるということがこの人の個性なのだ。
事実、彼のどのアルバムを聴いてみても安定感たっぷりで、全くの初心者からベテランに至るまで、自信を持って推薦できる数少ないジャズメンの一人なのである。
とにかく奇を衒わないで、淡々と弾く。あまり感情を込めすぎたりもしない。
かといって冷たい感じもしない。
弾いている人の顔が見えるというより、曲そのもの、ジャズそのものの本来の形を見せてくれるといった方がいいかもしれない。
だからこの人の場合、作品の中のこの曲がいいとか悪いとかいうような次元では話せないのだ。

ジャズピアノには普遍的な良さがある。
リチャード・ホワイトマンを知って、このことがよくわかった。
ただただ自然体でスイングすること、これが大事なんだ。