buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

プリンセス・トヨトミと辰野金吾の遺産

2011年05月31日 | 歴史の中の1ページ


御雇い外国人のジョサイア・コンドルは明治時代にイギリスから来日、日本の近代建築の基礎を築き、
日本人の優秀な設計者を育てた人です。

コンドル先生は東京大学工学部の前身、工部大学校の教師でした。
その第1期生で、工部大学校を首席で卒業したのが辰野金吾です。
辰野はその後、コンドル先生の故郷、ロンドンに官費(国費)留学、西洋建築の学びに励みます。
帰国後は精力的に仕事に集中し、日本銀行本店、日本銀行大阪支店、京都支店
中央停車場(東京駅)大阪市中央公会堂などを設計しました。

赤煉瓦に白い花崗岩の横縞が見事な調和を見せるデザインは、辰野金吾が得意とした
ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、現在は「辰野式」とも呼ばれています。




上の写真は東京駅、下の写真は日本銀行本店



写真を見ると、赤れんがの建物はいかにも頑丈そうですよね。
そんなところから辰野は辰野『堅固』と名前をもじってあだ名で呼ばれていたそうです。


さて、現在上映中の映画『プリンセス・トヨトミ』の原作本
万城目(まんきめ)学の同名の小説の195ページから、辰野金吾の設計した建物について触れられています。
実は大阪城や国会議事堂、赤れんがと白い花崗岩の洋風建築はこの物語の大切なポイントです。
(ネタバレになるので、ここまでにしておきます)
原作はけっこう引き込まれる面白さですが、映画は、、、
ミスキャストかな~、、という感じ。
原作のよさを描き切れなかったような感じがしますし、原作の変更の仕方に少々違和感を覚えます。
映画は原作を越えず、、、なのかな~
しかし、本を読まずに映画だけ見れば、なかなかの作品のようですよ。
(↑夫の話)

話を辰野金吾に戻しますが、
彼は九州唐津藩の貧しい武士の子どもでした。
彼の英語の師匠は有名な『高橋是清』で、彼のつてで上京し、工部大学校で
コンドル先生の第1期の教え子として学ぶことになります。
辰野金吾は貧しい下級武士の息子であり、彼を除けば同期生はみな上席の武士の息子か縁者でした。
ですから、辰野は明治という新しい時代を利用し、以前の身分を越えて
活躍しようというチャレンジ精神に燃えていたのではないでしょうか。

辰野金吾はあるとき、コンドル先生に言います。
『私は東京に3つの建築を残したいと思います。』
「それはなんですか。」
『まず第1に、日本の中央銀行です。次に東京中央駅、そして最後にいつか開かれるであろう国会議事堂です。』

これらの建物は近代国家を代表する建造物です。
3つの建物を造るということは、まさに国家的事業に必ずや参加したいという辰野の野心を表しているように思えます。
また、実際にその3つの建物のうち2つを設計し完成させるのです。

コンドル先生をはじめとする御雇い外国人に教育を受けた辰野らは、日々学び、技術を身につけ、経験を積んでいきました。
彼らが成長するにつれて、当然の流れかもしれませんが、日本の国家的事業は次第に外国人の手から離れていきました。


さて、最後に下の写真ですが、日本銀行本店のドアです。
頑丈そうですね。
もちろん辰野『堅固』の作品です。



それから、上のドア、『プリンセストヨトミ』の映画に出てきた地下通路に続くドアに

どことなく似ているような気がします。


<参考文献>
辰野金吾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
梅渓昇『御雇い外国人~明治日本の脇役たち』講談社学術文庫
万城目学『プリンセス・トヨトミ』文春文庫





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葛飾北斎の小布施から

2011年05月29日 | 旅のお話


小布施を3年ぶりに歩きました。
長野県で一番小さな市と、ガイドさんから聞きましたが、
江戸の雰囲気が街中で感じられる落ち着いた場所です。

今回は28年前に訪れた葛飾北斎の『八方睨みの鳳凰図』のある岩松院に行きました。
この図は何と畳20畳に描かれ、天井に吊るされています。
28年前には本堂に寝転がって、じっくりと観賞しましたが、今回は椅子に座って見ることになっていて
少々首が疲れてしまいました。

『八方睨みの鳳凰図』は北斎晩年の作で、88歳から89歳にかけての作品です。
よくその年齢で畳20畳の大作を描けたものです!

鳳凰図はその名の通り、どこから眺めても鳳凰が自分を睨んでいるように見えるのです。
確かに迫力あり!
使われた絵の具や金粉、金箔などは150年以上の歳月を経て、かなり剥落してきているそうです。

鳳凰の目は燦々と黄金に輝いています。目の部分の絵の具はヒ素がふんだんに使われている、ということでした。
だから、、、ね。と納得してしまうほどの『睨み』方で、ずっと見ていると、ちょっと怖くなってしまいます。

その後、北斎館という北斎の作品を集めた美術館にも行きました。
北斎は1814年頃から、『北斎漫画』という主に町民の生活や人々の表情、動植物などを描き始めました。
北斎館に収蔵されている北斎漫画は1ページに10から20ぐらいの小さな絵がかいてありますが、
その中に描かれている町民の表情が生き生きとしていて、思わず笑ってしまうほどです。
ここでの『漫画』の意味は『思いつくままに描いた絵』ということだそうです。

北斎の『北斎漫画』はヨーロッパ、特にパリで注目を集め、
『ジャポニズム』(日本ブーム)が巻き起こったそうです。
では、北斎漫画はどのように欧米に伝わったのでしょうか。
実はヨーロッパに輸出した日本の陶磁器を包装した紙が「北斎漫画」だったということです。
面白いエピソードですよね。

北斎はとってもユニークで洒落た江戸っ子だったようです。
またお金に無頓着で、一生お金が流れてしまう、、つまり貧乏生活が続いたそうです。
引っ越し魔として有名で、一生に93回も引っ越しをしたそうです。
名前(画号)が変わることも30回。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残していますが、
それらに挑戦する時に、自分の実力を試すため、名前を変え新人の振りをしたそうです。
すごくチャレンジングな人だった、ということですね。

<参考>http://ja.wikipedia.org/wiki/葛飾北斎 ウィキペディア『葛飾北斎』





さて、小布施は『栗』で有名です。
おみやげは旅の楽しみのひとつ。
今回は最も歴史の古い『甘精堂』で栗羊羹を買い、栗アイスクリームを食べました。
また、おばあちゃん(主人の母)おすすめの『竹風堂』のくりどら焼き10個を購入。
竹風堂のお向かいの造り酒屋『桝一市村酒造場』で北斎ゆかりのアトリエの名を取った
「碧い軒」(いの字はパソコン上になしです)という大吟醸生酒を買いました。
ちょっと辛口。試飲させてくれます。





さて、最後に小布施の穴場スポット。
昭和9年建造の新生病院礼拝堂。
蔦の絡まるチャペルとして有名でしたが、昨年改修工事が終わったそうです。
ガイドブックには古い礼拝堂が載っていたのですが、行ってみると新しいの礼拝堂になっていました。
(ちょっと残念!)

新生病院はカナダの聖公会から派遣された若き医師スタート博士が結核治療のために来日。
この地に病院と礼拝堂を建て、結核撲滅を願い、地域医療活動を進めたそうです。
ここのところ、神戸や築地、立教女学院などで、聖公会のチャペルを見る機会に恵まれていますが、
昭和、あるいは昭和以前に建てられたチャペルはデザインに共通点があるような気がします。

小布施では教会と病院がしっかりと地域に根付いているような気がしました。





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ご当地弁当

2011年05月28日 | 食いしん坊


旅の楽しみのひとつは『食』

写真は30年ぶりぐらいに食べた高崎の『だるま弁当』
お弁当箱は食べたあと貯金箱に利用できます。
だるま弁当のお隣は横川の「釜飯」の売り場でした。
学生には『だるま』の方が若干人気があったような、、、
まあ、いい勝負でした。

下は安曇野『大王農園』のわさび定食。
わさびご飯、わさび豆腐、わさびそば、わさびコロッケ、もろみわさびとキュウリなど
わさび尽くし。
どれもほどよりわさびの強さで、ツーンと来る強烈なものはありませんでした。

ある人はわさびビールに挑戦していたけれど、「色は緑、でも味はビールでした!」とのこと。
わさびアイスもバニラベースだったそうです。







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北信濃から

2011年05月27日 | 旅のお話


学校の研修旅行で長野に行っていました。
ここのところちょっと疲れていたので、仕事でしたけれどもけっこうな息抜きにもなりました。

写真は長野県飯山市の北竜湖です。
遅咲きの菜の花が満開でした。
一面黄色。

水が澄んでいて、樹々が湖面に写っています。





北竜湖から見た北信五岳。
まだまだ雪が残る妙高山も見えました。



朝、湖の周りを1周しました。
1周はゆっくり歩いて40分。
朝の風景と夕方の風景はまた趣が異なります。

何だか、自然を見ているとほっとしますね。




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学生時代のウォークマン

2011年05月21日 | 青春時代

聴く

初代のウォークマンが押し入れの向こうの方から出てきました。
学生時代に買ったものですから、かれこれ30年以上前のもの。

あまりの音の鮮明さ、響きのよさに驚いた記憶があります。
30年経てば、iPodに取って代わるのですが、
ウォークマンが出てきた頃の驚きとは比べ物になりません。


見る

『英国王のスピーチ』を見ました。
決して派手ではないのですが、心に残るいい映画です。
レディースデーの3日前に予約して真ん中の列の真ん中の席をゲットしました。
中心地域ですから、人がいっぱい。
隣に座ったのは20代後半ぐらいの女性。仕事帰りでしょうか。
途中で、いびきの音が、、、、。
『SP』か何かだったらよかったのかもしれませんが、静かな映画ゆえに、
けっこう聞こえてくるものですね。
5、6分経って、彼女の目が覚めてくれたのがラッキーでした!


読む

『御雇い外国人』梅渓昇 講談社学術文庫
1965年の著作です。
御雇い外国人にハマっている私としては外せない1冊。 



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森の家と西の魔女

2011年05月20日 | 本・映画・音楽・美術のページ


梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」を
学生たちと一緒に読んで、内容を検討してきましたが、
今日は映画を見ました。




映画は、これまで見た映画のどれよりも、原作に忠実です。
映像は原作の一ページ一ページをめくるように作られている感じで、
本を読んだ者を納得させ、うならせます。
主人公たちの森にとけ込んだ生活、そして家族の心の動きが
見事に描かれています。









『西の魔女が死んだ』は200ページほどの作品です。
しかし、いつもは映画にも小説にも少々うるさい(つまり大好きな)学生たちを
今回の作品は黙らせました。






またキャストもよかった。
主人公のおばあちゃんを演じたのはサチコ・パーマー
アメリカロスアンジェルス生まれのアメリカ人女優です。
母親は、『愛と追憶の日々』(84/ジェームズ・L・ブルックス監督)で
アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した女優シャーリー・マクレーン。
父親は、『青い目の蝶々さん』(62/ジャック・カーディフ監督)の製作者スティーブ・パーカー。
両親共に親日家だったため、サチコと命名され、12歳まで日本で過ごしたそうです。







日本語が堪能で、その日本語のかみしめた感じの話し方が
おばあちゃんの孫に対する愛情でいっぱいです。

この映画は『西の魔女』と呼ばれるイギリス人のおばあちゃんを誰が演じるか、というのが肝心
だと思います。
適役でした!




写真はすべて八ヶ岳のロケ現場で撮ったものです


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自分で自分を見る

2011年05月17日 | おもちゃ箱



今日は夫が私の父(84歳)を連れて、2泊3日の名古屋旅行に出かけた。
父がどうしても名古屋城を見たいと言ったからだ。
夫に感謝。

久しぶりに自分一人の時間ができた。

それで夕飯をちょこちょこっと食べたあと、
YouTubeで古楽器のジュリアーノカルミニョーラwithヴェニスバロックオーケストラの演奏を見た。
カルミニョーラの演奏は情熱的で、とっても気に入っている。
また、けっこう渋くて、かっこいい。

曲が終わると、客席の人たちの後ろ姿が画面に映る。
前の方で熱狂的に、それも頭の上まで手をあげて拍手している人間がいた。
よ~く見ると、それは私だった。
まさか、あんなかっこ悪い拍手の仕方、、、と思い
3回見たが、やっぱり私に違いない。

この時は確か1列目の中央の席がとれたのだ。

改めて自分の年甲斐もなくはしゃいでいる姿を見て、
かなり恥ずかしくなった。

それでもまだバロック音楽のコンサートなので安心。
SMAPのコンサートの映像でなくてよかった!





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家宝の宝塚歌劇団パンフレット

2011年05月16日 | 本・映画・音楽・美術のページ


1999年、私は当時北京に出張していて、宝塚歌劇団月組の北京公演『激情宝塚』を
見るという機会に恵まれました。
実はその時の通訳は、私の元学生の中国人のAさん。

公演後、久しぶりに会った私のために元学生のAさんは
パンフレットに載っていた宝塚月組のメンバーひとりひとりから
サインをもらい、世界にひとつしかないパンフレットをプレゼントしてくれました。

「先生、このパンフレットは絶対に北京で開けないでくださいね。
北京、上海には宝塚のファンの人があふれていますから。」

そのころ、私は宝塚について、あまりよく知りませんでしたから、
「はい、了解。本当にどうもありがとう。」みたいなことを言って、
そのパンフレットを持って、日本に戻りました。

数年間、そのパンフレットは私の本箱の上に無造作におかれていましたが、
あるとき、宝塚好きのお客さんにパンフレットのことを話すと
「◎◎さん(←私のこと)それはすごいパンフレットですよ。
売りに出したら、かなりの値打ちかも。」と、驚き、うらやましがりながら
教えてくれました。

改めて、『激情宝塚北京上海公演』のパンフレットを見てみれば
当時のトップスターは真琴つばさ
(→あまり関係はないけれど、彼女の実家は我が家から200mぐらい西、もちろん面識なしですが)
2番手はのちにトップスターとなった紫吹淳、
娘役のトップは現在女優として大活躍の壇れいです。
また、若手にはその後宝塚のトップスターになった大和悠河、
現在の宙組トップの大空祐飛、
月組トップの霧矢大夢の写真があり、すべてにサインが入っているのです。

早速、この話を家に帰ってすると、夫と長男がささっと立ち上がり、
台所からサランラップを持ってきて、宝塚のパンフレットを丁寧に、そして何重にもして包み始めました。

なんとなく、ふたりの魂胆が伝わってきましたd。
長男が『これは家宝だな。』と言ったのをよ~く覚えています。

確かに!


久しぶりにこのパンフレットのサランラップをとり、
先週訪れたA女学院の高校生たちに見せました。
この学校からは時々宝塚音楽学校の入試に合格する生徒が出るようで、
宝塚歌劇団はとても人気があるそうです。


6月には宝塚にめちゃくちゃはまっている主人の姉といっしょに東京宝塚劇場に
公演を見に行くことになっています。
私はそこまで宝塚にのめり込んでいるわけではありませんが、
1年に1回ぐらい宝塚を見に行くのは悪くないと思っています。




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写真は宝塚の舞台のような神戸の旧ハッサム邸の居間。





























外国人教師の弟子たち

2011年05月16日 | 旅のお話



外国人に日本語を教える仕事を長くし、最近では留学生のキャリア形成にとても興味を持っています。
留学生の就職、進路についていろいろ検討しているうちに、明治以降日本に来た外国人たちは
どのような働き方をしていたのかに、興味を持ちました。
というわけで、幕末から明治初期に日本に来た『お雇い外国人』にハマっている最近です。

さて、
先日は神戸旅行に出かけましたが、そこで明治34年河合浩蔵設計の『旧小寺家厩舎』を見学しました。

河合浩蔵は
安政3年、東京の下町(本所)生まれ(一部の資料では武州東葛飾郡=埼玉県の生まれ、とあります)です。
工部大学校造家学科で日本の近代建築の父と呼ばれているジョサイア・コンドルに建築を学びました。
コンドル先生の弟子のひとりということになります。

ところで、明治時代、工部大学校とか、工部省とか、よく出てくる名前ですが、どんなところなのでしょうか?
調べてみました。

明治になって西洋の科学技術を導入するための官庁として置かれたのが工部省です。
工部大学校は虎ノ門にあり、世界でも珍しい実学重視の高等教育機関として設立され、
日本の近代化の礎を築く数多くの技術者を育てました。
伊藤博文の命を受けて、カリキュラムを組んだのはイギリス人の技術者のヘンリー・ダイアーで、
校長就任当時はわずかに24歳だったそうです。
お雇い外国人が数多く出入りし、全国から俊才が集まってくる工部大学校は、
新たな時代を象徴する新名所でしたが、明治21年に本郷に移され、東京帝国大学工科大学になりました。

さて、話を元に戻して、
河合浩蔵は1882年(明治15年)工部大学校を卒業(4期生)、工部省に入りました。
この頃の日本は、首都に国会議事堂や諸中央官庁を集中して整備し、その偉容を内外に示し、
不平等条約の改正につなげようとする壮大な官庁集中計画を立てていたそうです。
河合はその計画に参画することになります。
その実施計画を担当したのは、ベルリンのエンデ&ベックマン建築事務所です。
ベックマンはこの大事業の実現には、日本の建築技術者を養成が不可欠であると考え、
建築家、そして建築を担うレンガ、セメント、装飾などの職人のドイツ留学を建議しました。
河合をはじめ妻木頼黄、渡辺譲ら14名はベックマンの口添えで、
のちにドイツに留学することになります。

2年間のドイツ留学は河合にどのような変化を与えたのでしょうか?
帰国した河合は、エンデ&ベックマン建築事務所で作成された原設計を元に
司法省(現法務省赤レンガ棟)の実施設計と工事監理を行います。
河合はその際に外国人技術者の手を借りず、細部の納まりまでも自らの力でこれを完成させます。
「気骨の建築家」であり、
ベックマンの『日本の建築技術者の育成』が不可欠、と考えたその意思をしっかりと受け継いだ
のではないでしょうか。

河合の設計したビルは東京よりも大阪、神戸に多く残っています。
河合はドイツ・ルネッサンス風の大阪控訴院(明治33年)、神戸地方裁判所(明治37年)を完成させたあと、
そのまま神戸に定住、栄町通に建築事務所を開業しました。

旧居留地の海岸ビルヂング(旧日濠館、明治44年)、海岸ビル(旧三井物産神戸支店、大正7年)、
旧小寺家厩舎(明治40年代、国重要文化財)、水の科学博物館(奥平野浄水場、大正6年)、
毎日新聞神戸ビル(旧横浜火災海上保険神戸支店、大正14年)等、
神戸らしさを演出している代表的な建築が、河合の手によるものです。

今回の神戸街歩きでは、旧居留地、相楽園を訪ね、河合浩蔵の代表的な建築をみることができました。
そして、河合浩蔵も『御雇い外国人の弟子のひとり』だったということが確認でき、
かなり満足のいく旅行となりました。

写真は重要文化財 旧小寺家厩舎





参考文献など
ウィキベディア http://ja.wikipedia.org/wiki/河合浩蔵
偉人館 http://www2s.biglobe.ne.jp/~stakers/arch/arch.html
関西今昔建築散歩 http://kenchiqoo.net/archives/000380.html



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がんばっている人を見る

2011年05月14日 | ボランティア



時々自分が嫌になる、、のは、まあ普通なのかもしれませんが、、、
今週は少々疲れました。
おいしいものを食べて、がんばっている人を見て、自分を勇気づけるのもよいかも。

ということで、妹と一緒に食事。
彼女は私より4つ下ですが、苦労人です。
息子の難病のために、埼玉から東京に引っ越してきました。
引っ越し先は我が家から数分のところ。

生活はけっこう大変な妹ですが、私よりずっと明るく元気です。
逆境に時々めげていますが、それでもそれを乗り越えるパワーがあります。
彼女はある意味、私の誇りでもあります。

引っ越しして仕事先が遠くなり、転職することになりました。
でも、なかなかがんばっています。
2社採用試験を受けて、2社とも正社員で合格です。
以前の仕事は介護関係の責任者、
今回は相談員なのだそうです。


就職祝いもかねて、近くの中華料理「梅蘭」へ。
ここの特製焼きそばは私の大好物です。


http://r.gnavi.co.jp/a449119/




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神戸の洋館

2011年05月14日 | 旅のお話

国の重要文化財である神戸の『旧ハッサム住宅』と「旧小寺家厩舎」を見学しました。
場所は相楽園という神戸市所有の庭園の中にあります。
ここは2年前に時間がなくてよれなかった場所。今回の旅行でどうしても寄りたかったところです。




旧ハッサム住宅は明治35年、イギリス人建築家ハンセルが設計したということで、
1階のアーチ、そして2階のベランダが明治時代に建てられた神戸の洋風建築の特徴を表しているそうです。



また、1階は接客もできる応接室や居間があり、2階は家族の生活の場で、寝室や浴室があり、
使用人や厨房は別棟ということで、生活する家族のプライバシーが守られていたようです。







住宅は北野の異人館街から昭和38年に移築され、神戸市の管轄に入り、近代洋風建築保存の先駆けとなりました。
ボランティアガイドのAさんが、常に洋風建築保存には莫大なお金がかかるんですよ、と
言っていましたが、明治の建物を現在も当時の姿を失わせずに守っていくことは、お金の面、保守技術の面で
相当な苦労があると思います。
阪神淡路大震災の時にレンガ積みの煙突が室内に落下して、屋根や天井、床が破損したそうですが、今はきれいに
補修されています。



小寺家の厩舎は明治43年頃建築されたそうで、河合浩蔵氏の設計です。
全体的にはどっしりとした感じですが、円形の塔や急勾配の屋根、と屋根の小窓など変化に富み
ヨーロッパの雰囲気が感じられます。






さて、その後、元町の方に坂を下っていきました。
途中、フランスルネサンス様式の建物で明治45年にできた兵庫県公館を見学。
(自由に入れます)



自分自身はとっても満足のいく、神戸のお散歩となりました。




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最初の写真は旧ハッサム邸2階から見た小寺家厩舎の円形の塔












若い研究者からのインタビュー

2011年05月11日 | おもちゃ箱



今日は『日本語教師の成長』を考える若い研究者からインタビューを受けました。
Aさんの研究は、日本語教師がどのような支援を周囲から受けているかを調査するものです。
インタビューをきっかけにふりかえってみると、私も長い間いろいろな人たちから協力や支援を受けてきました。
本当に頭の下がることばかりです。
多くの支援が私を前に進める原動力になっていたと思います。

ところで
「たくさんの日本語教師に協力してもらいたい。」とAさんは話しているのですが、
なかなか協力してくれる人が現れないそうです。
もし、どなたか「いいよ。」と引き受けてくださる方がいらっしゃれば、buriあてご連絡ください。
10分ほどで書き終わるアンケート用紙を送ります。

がんばっている人を、ちょっと応援したいな~と思うのです。

そういえば、5年前に私のいる学校で教育実習をしたBさんからも連絡が来ました。
大手企業で事務系の仕事をしていますが、『大学で日本語教育を専攻した』ことから会社では
外国人社員のお世話係もしているのです。
この会社では震災後、外国人の帰国者は皆無だったそうです。
大手企業ですから、もちろん待遇も抜群ですし、日本人と全く同じように働いている人たちですから
早々辞められなかったのかもしれませんね。
彼らの環境は非常に安定しているし、恵まれているのです。
仕事のやりがいも感じているのでしょう。

Bさんですが、以前会社の仕事に疲れると、
『有給とって外国人学生のサポーターをしに来ました』と、2、3回学校に来てくれました。
いつか、日本語教師になりたいのだそうです。

夢を持ったり、何か打ち込める仕事(研究)を持てることはすばらしいと思います。
Aさん、Bさんがうらやましいな~、と心底感じました。




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それぞれの生き方~知日派

2011年05月09日 | 友だちの友だち



元、私が教えた学生のAさんが震災5日目に家族を連れて母国へ帰国しました。
日本語学校、大学、日本での就職と順調にキャリアを積んで来たのですが、
母国の家族の強い要望に応えて、帰国することに決めたのです。

最後にわざわざ電話をかけて、挨拶をしてくれました。
「元気でね。どんなところでも今まで築いたキャリアを活かせるはずだから.。」
と話し、メールアドレスを交換しました。

どうやら、彼は母国の日系企業に就職ができたようです。
よかった!
母国に帰ってもAさんが知日派であることに変わりはありません。
彼のその気持ちが彼の子どもにも引き継がれることは確かだと、信じています。
草の根の絆はけっこう強いはず。

私も2人の息子のうち、ひとりが中国と係わってくれたらいいな~、と思っていましたが
何だかんだの末、交換留学で長男が中国に長期留学中。
彼が中国留学を決めたとき、心底、嬉しかったです。

1980年代、北京で大変お世話になった恩師、王先生は
「◎◎さん(←私のこと)、これからの交流は民間でのレベルが大切です。
あなたは草の根になってください。」
と、私の手を握り、真剣に願っていました。
当時、すでに80歳近く。
王先生は第二次世界大戦後、中国で日本人が収容されている捕虜収容所の
所長でした。
もともと教育者でしたらから、日本人の捕虜に対しても人道的な扱いをして、
戦後、捕虜たちから『先生』と慕われ続けた人です。
でも、王先生の子どもは日中戦争中、栄養失調で亡くなったと聞きました。
5人の子どものうち、ひとりしか育たなかったそうです。

王先生は文革中、捕虜収容所での日本人の処遇で批判され、
それは大変な苦労をされたということでした。

私は日本語学校でたくさんの中国人を教えました。
ちょっとだけ、王先生との約束を果たせたような気がします。
たくさんの『知日派』を作ることが、私のひとつの使命のようなものだと思っています。





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極東で最も美しい居留地・神戸旧居留地

2011年05月09日 | 旅のお話



写真は旧居留地38番地の大丸神戸店です。
洋風建築をそのままうまく現代にとけ込ませた品のある老舗デパートです。






上の写真は大丸の横を通る明石筋からトアロード方向を眺めた歩道。
下は海岸通り10番地あたり。



下の写真は旧居留地9番地のチャータードビル



チャータードビルは大正時代末期に来日したアメリカ人設計士J・H・モーガンが1944年(昭和13年)
イギリスのチャータード銀行にオーダーされ、建てました。
建築家モーガンは1920年に日本フラー建築会社の設計技師長としてアメリカから来日しました。
フラー社は関東大震災後、日本から撤退してしまいましたが、モーガンはそのまま日本に残りました。
モーガンの作品は横浜市中区山手町にベーリックホール、山手111番館などが残っています。

旧居留地は
1868年に神戸にやってきたイギリス人の土木技師JWハートによって計画されました。
彼は南米のペルーを経て、中国上海でドッグの建設に携わったあと、神戸居留地行事局に雇われた『御雇い外国人』です。
初代兵庫県知事の伊藤博文と協議して、72年に居留地の計画図を作成。
公園、運動場、下水道、ガス灯などが完備した町づくりは、『極東のモデル居留地』であり、
ハートは神戸にユートピアを作り出そうとしていた、と言われています。

居留地は30年を経て、返還されますが、そのときのフランス領事のスピーチが以下です。

「30年前、日本当局がわれわれ外国人に神戸の居留地を引き渡した時、その地は正真正銘の砂浜でした。
今日、私たちは、その同じ場所を、美しい建物が立ち並び、倉庫という倉庫には商品があふれた、
立派な町に変えて日本政府に返還いたします。
この町こそ西洋諸国民の才能の真髄を現す実例であり、象徴であります。
(中略)広く美しい並木通り、夜間ガス灯が明るく照らし出す見事な煉瓦造りの歩道、
石畳の十字路、今後更に美化され、利用度が高められようとしている遊園地、
この整然として清潔な神戸居留地のたたずまいがいたるところで話題を呼び、
『極東のモデル居留地』という賞賛をいただいております。」

(神戸外国人居留地研究会、2005)


現代までの神戸の貴重な遺産を歩いて見ることができました。





参考文献・出典
http://www.kobe-kyoryuchi.com/index.htm神戸旧居留地
神戸新聞社(2004)「神戸ゆかりの50人」Part2 歴史と観光の散策ガイド 神戸新聞総合出版センター
http://www.tcs-kobe.com/concept.html ザ・チャータードスクエアの誕生



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パイプオルガンの裏側

2011年05月07日 | おもちゃ箱


今日はA女学院の高校生600名に中国奥地シルクロードの話をしました
A女学院は英語教育に力を入れる伝統校。
創立135年だそうです。





国際的な仕事を目指す生徒もたくさんいるとのこと。
1時間のお話のあと、なんと60名以上の生徒が控え室に質問に来たのには
驚きでした。

女子高生に話すのって、ちょっとむずかしいです。
マナー教育も十分な学校で、お話がつまらなくても騒ぐ学生はいないそうです。
ただし、静かに寝る、、、とのこと。

今日は中国語クイズ、シルクロードクイズ、翻訳クイズ、パンダクイズなど
10問のクイズをお話の中に入れて、みんなが参加できるよう工夫してみました。
パワーポイントも女子高生用にかわいいウサギの動画入りです。
それでも1列目にクイズになると起きて参加、それ以外は寝ている生徒がいました。
1名だけれど、気になるものですね。


お話が終わってから、教頭先生がこの学院の聖マーガレット礼拝堂に案内してくれました。
関東大震災後に建てられた礼拝堂です。
今日は午後結婚式があるということで、パイプオルガンの奏者の方がいらっしゃっていました。
運がよいというのか、パイプオルガンの裏側(の構造)を裏の小部屋に入ってみせてもらうことが
できました。
3000本のパイプがあるそうです。




今日は校舎の普段は入れない屋根裏部屋にも案内していただき、洋風建築のちょっとした
冒険ツアーになりました。

教頭のB先生、土曜集会担当のC先生、ありがとうございました。





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