buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

品川宿を歩く~土蔵相模

2011年06月30日 | 歴史の中の1ページ



京浜急行北品川駅は京浜急行本線の中で最も人の乗り降りの少ない駅ですが、、、
今は昔、このあたりは東海道で日本橋につぐ第一番目の宿場として繁栄をきわめた品川宿でした。
旅籠百軒としても有名です。

私たちはこの旧東海道沿い(歩行新宿)に25年以上住んでいますが、ここに
江戸時代、品川宿のなかでも高級妓楼として知られた『相模屋土蔵』があります。
漆喰の土蔵造り、外壁がナマコ壁だったことから「土蔵相模」と通称されていたそうです。



実は、土蔵相模、我が家から2、3分の距離です。

幕末には土蔵相模には「志士」たちが出入りしました。
特に文久2年(1862)12月12日夜、高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら長州藩の志士が品川御殿山に建設中の
英国公使館焼き討ち事件を起こしたときは、その集結地となったそうです。
また、桜田門外の変決行前夜、浪士たちが別杯を交わしたのも相模土蔵だったそうです。

そんな由緒ある『土蔵相模』は私たちが旧東海道に引っ越してくる前の年に取り壊されてしまいました。
現在は『ファミリーマート』とマンションになっています、、、。

さて、北品川の駅まえで、『土蔵相模』にちなんだお芝居の案内を見つけました。



巣林舎第9回公演in品川宿  楽間
近松門左衛門作『義経土蔵相模』
夜7時開演 
(6月22日から7月3日まで)




さて、写真は相模土蔵のお隣にできた『ゲストハウス』



3月11日以前には外国人でにぎわっていましたが、最近は日本人のビジネスマンの宿泊が多いそうです。
平成の時代、宿屋はこのゲストハウスとウィークリーマンションだけになってしまいました。




写真は街角の路地にある井戸。迷路のような小道が北品川界隈にはめぐらされていて、お女郎さんが逃げた時に
逃げ切れないようになっていた、、、と言われています。


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遠いところへ

2011年06月27日 | 歴史の中の1ページ


あ~、どこかとおい所にいってみたいな~、と思った。
『遠いところ』とパソコンに入れて検索したら

遠いところをわざわざおいで下さり、ありがとうございました。
Thank you for coming all this way to meet with us.

というフレーズが出てきた、、、!



遠いところは、もしかしたら過去、明治時代あたりかもしれない。
新しい国を作るためにみな活き活きと動いていた。
誰もが新しい国を語れた。

これは『仁~Jin』に影響され過ぎかな、、、。




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バザールでござーる

2011年06月26日 | 食いしん坊


シルクロード沿いの国々のバザール(市場)に行くと、
お店の人たちに『バザールでござーる』と言われる。
もちろん日本語で。
それも
中国の新疆ウィグル自治区からトルコ、エジプトまで、、、。

どうやらシルクが伝わったのとは逆に
日本語の「バザールでござーる」が西へ西へと伝わっていったようだ。

昨日は新宿のトルコレストランで知人たちと食事をしたが、
途中、ベリーダンスショーがあって、大いに盛り上がった。
このダンスもシルクロード沿いの国ではどこでもやっていそう、、、。

写真のダンサーは日本人だが、スタイルがほんとうによい。
しかし、
トルコやエジプトでベリーダンスを見た時には
腰のくびれは想像以上、お尻や胸も立派な女性ダンサーたちで
まさに千夜一夜物語の世界、、と感嘆したものだった。
一方で、日本人のダンサーはスタイル抜群だけれども、立体感、圧倒感には少々欠ける。


とはいうものの、すごく楽しめた食事会だった。
だけど、コース料理はちょっと少なめだったかな~、、、。
ショーやおしゃべりをしていて、その時はあまり気がつかなかったけれど。




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星は語る~銀河鉄道の夜

2011年06月25日 | 本・映画・音楽・美術のページ



小学生のとき以来、何十年かぶりにプラネタリウムを訪れました。
渋谷区の文化センターの中にできた『コスモプラネタリウム』渋谷です。

山の中から夜空を見上げて見える美しい星の再現を光学式プラネタリウムで再現、
同時に宇宙飛行のような視点で宇宙空間を再現できるデジタル式のプラネタリウムで
幻想的な星空の世界を体験できます。



今日は土曜日で朝10時半の回に行きましたが、満席。
ドームの中には120席がありますが、
すべてがリクライニング式で、心地よく寝てしまえそうな座席です。

実は入り口の反対側の奥に座ると360度の映像を楽しむことができますが、
入り口に近い方だと(回転椅子が設置されている)視界が半分になってしまうことも
あるそうです。




上映作品は夏の星空の投影10分と
360度の立体スクリーンの感覚が楽しめる宮沢賢治原作の『銀河鉄道の夜』
本当に『銀河鉄道』に乗って宇宙を旅しているような不思議な感覚に陥ります。

作家であり、詩人であり、教育者でもあった宮沢賢治。
明治、大正、昭和の激動の時代を生きた彼は多くの作品を残し、38歳の若さでこの世を去りました。

その宮沢賢治は星座の中で蠍座を最も好んだと言います。
『銀河鉄道の夜』の中の『さそりの火』のおはなしも、また心を打ちます。

>>自分の体をみんなの幸せのために使って欲しいと願い、焼け死んださそりの火。
その火は、ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく燃えている。

>>「わたしはいままで いくつのものの命をとったかわからない、そして その私がこんど いたち に とられようとしたときは
あんなに一生けん命にげた(中略)神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず どうかこの次には 
まことのみんなの幸のために 私のからだをおつかい下さい。」と、
弱肉強食の世界からの救済を説くためのたとえ話が語られています。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでから、ぜひぜひプラネタリウムの『銀河鉄道の夜』を見てください。
絶対に新しい視野で賢治の世界を楽しめると思います。



 予告版








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宿場町北品川から大崎(村)まで

2011年06月23日 | お散歩


通り雨にぬれる紫陽花の淡い紫が
ちょっぴり切なさを感じさせます。



今日は創立記念日で一日お休みです。
それで午後からお散歩に出かけました。
北品川から御殿山を通って、昔の大崎村まで。
由緒ある小道のお散歩です。

池波正太郎の小説にもたびたび登場する北品川のあたりは
昔の宿場街。
まだまだ風情のある街並が残っていますよ。


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地図 北品川商店街ホームページより
http://www.kitahon.jp/map.html


個性強烈な偉人 野口英世博士

2011年06月23日 | 歴史の中の1ページ



偉人の中の偉人と言えば、『野口英世』博士でしょう!
福島県出身で、福島の代表的な人物です。
もちろん私も小学生の時に野口博士の物語(伝記)を読みました。
黄熱病、梅毒の研究で知られている世界的な細菌学者です。
でも、そのすばらしい細菌学の業績の向こうには、かなり破天荒な野口先生の
実像が見えてきます。

まずは博打が大好きでした。
お金も貯めるということはせず、賭博や遊興、遊郭で使うことが大好きだったようです。
また、裕福な家庭の女性と婚約をして、その持参金を海外渡航の費用に充て、
結局は婚約破棄をしてしまう、など、今だったら結婚詐欺まがいの事件を起こしています。
婚約破棄のために奔走したのは、野口先生の友人(この方もお金を相当野口先生につぎ込んでいた)
です。

まさに医学的業績でも、その生き方でも型破りだったと言えるのでしょうか。

こんな野口先生を支える人たちが、またすばらしいのです。
借金ばかりしていても、野口先生のためにサポートを続けます。
それらの援助がなければ野口先生の偉業の達成はなかった、にちがいありません。。

どこか人間的にも深い魅力があったのでしょう。
それじゃなければ、博打好き、女好き、借金まみれの人物を助けるなんて
ふつう、あり得ませんよね。

子どもの時に野口英世伝を読んだ方は
ぜひ、今、もう一度、野口英世物語を読んでみてください。
波瀾万丈、桁違いの生き方に絶対に驚くと思います。



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http://ja.wikipedia.org/wiki/野口英世


写真は安達太良山(福島) この麓の岳温泉。
今はどうなってしまったのでしょうか?
とってもいいお湯が出ているのです。



祝!退職祝い

2011年06月20日 | 友だちの友だち


卒業生と会うのは楽しいです。
今日はふたりの卒業生と一緒に食事をしました。
ひとりは『祝!就職祝い』
やっと就職が決まった卒業生です。
ひとりは『祝!退職祝い』
誰でもが知っている有名な企業に勤めたけれど、311以降はワークシェアリングになってしまったそうです。
週3日勤務。
そしてハードな仕事。
とうとう辞めることを決断したのだそうです。
でも
どちらもハッピーな気持ちなのですから、たとえ『退職』であってもお祝いです。

リラックス。
学生と教師だった時には話せなかったことも、もうだいじょうぶです。
さまざまなアクシデントも今ではよき思い出。

今日はビザの変更に品川の入管に来た学生を
つばめグリルに連れて行きました。
品川駅前店です。
ここのハンバーグははずれなしのお味です。
さんざんおしゃべりをして
また、3ヶ月後ぐらいに会おうね!と言って、手を振りながら
別れました。




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写真はつばめグリルのドイツ鍋


運河のそばに住む

2011年06月19日 | お散歩


次男のガールフレンドが来て、ふたりでランチを作って食べる、というので外出。
~ふたりで仲よくやってね!

まずは近くのカフェで軽くランチ。
小さなテーブルは他の席と区切られていて、落ち着けるので、
このテーブルが空いているとこのカフェに入ります。

それからしばらく読書。
反対側のオフィスビルで毎週開かれているフリーマーケットのお店をのぞいたあと
天王洲アイルまで歩きました。

歩いてみると、この地区は本当に運河に囲まれていることがわかります。
写真の後ろの高層ビルは天王洲アイルのオフィスビルです。
黄色っぽい建物はちょっとおしゃれなカフェ。
朝のモーニングサービスはクロワッサンとコーヒーで400円ぐらい。
運河を見ながら朝食、というのは開放感があふれていて、いい感じですよね。




下の写真は木で作られた散歩道。港区側です。
反対側は東京海洋大学、水門の向こうは羽田行きのモノレールの線路です。



ふれあい橋を渡り、品川区側へ。
天王洲アイルでちょっぴり甘いケーキを食べて、家に戻りました。




家に戻ると、次男とガールフレンドはふたりでギターの練習をしていました!




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7500円か250円か

2011年06月18日 | おもちゃ箱




7500円か250円か。

中国の銀行にある研究会の参加費を払い込みました。
中国は(現状はどうあれ)共産主義国家です。
外貨は国が管理しています。
そんな事情かどうかは知りませんが、日本からの振込料は安くて5500円
高ければ7500円。
一緒に参加する友人から
『高過ぎる~!、参加費が1万円で振込料が7500円!』と嘆きの電話が来ました。
中国の物価を考えると、7500円あれば、相当豪華な食事が個室で食べられそうです。

そこで、上海にいる長男にふたり分の参加費を払い込んでもらうことにしました。
もちろん長男は「めんどくせ~」と文句は言いましたが、
銀行に言って払い込んでくれました。
その振込料が約250円。



かなり得した気分です。
おいしいものでも食べようか~!という気持ちになりますよね。

なんだか、変!
私の中国語の先生も息子も同意見でした。




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写真は羽田空港。
今回は地の利(家から近い)を利用して、羽田午前8時半発の北京行き飛行機を予約しました。







宝塚歌劇を見る

2011年06月15日 | ボランティア


宝塚の大ファンの主人の姉に誘われて、有楽町の東京宝塚劇場に行ってきました。
3年ぶりぐらいでしょうか。

華麗なる世界です。
美しくかっこいい男役のスターたち。
そして男役の1オクターブ高い声で歌い、話す娘役の人たち。
ピラミッド式の年功序列制(じゃなくて実力主義)
トップスター、2番目、3番目とはっきり区別ができる世界です。
(大相撲にも似ているかも)

満席で立ち見もいっぱいの公演でした。

しかし、姉の宝塚好きは半端ではありません。
実は今日の午後の公演も見て、夜は私と2回目です。
今週末も宝塚だそうです。
そして、宝塚のトップを引退した女優さんたちの舞台も見に行ったりしています。
もちろん、関西の宝塚劇場まで公演を見に行ったりもします。

ハマっている、とはこういうことか、、、と姉を見ているとわかります。
姉は女子校出身。
一緒に宝塚を見に行っている友人も女子校卒。
彼女に言わせると『女子校では宝塚はやっぱりすごいのよね.』
確かに、今日の劇場に詰めかけている人たちの90%が年代はさまざまな女子でした。
ちょっぴり女子校のよう、、、かな。
休憩時間に聞こえてくるおしゃべりが、『通』な話題ばかりで、みんな楽しそうに
スターたちの話をしていました。

たまにはこんな世界にどっぷりと浸かってみるのも、悪くありません。
非日常ですから。




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ピットマン先生の見た明治の東京1

2011年06月12日 | 歴史の中の1ページ


明治時代に日本にやってきた宣教師、そして建築家であった
ジェームズ・マクドナルド・ガードナー(あるいはガーディナー)は素敵な家族に支えられて、
たくさんの教会堂や地震にも耐え得る建物を設計しました。

これは以前のブログの記事からですが

>>1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。
23歳の若きガードナーは教育者として立教学校を経営しましたが、同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、洋風建築の建物を作っています。
1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガードナーが設計した立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガードナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

さてそのガードナーの奥さんについての貴重な文献を立教女学院のA先生よりいただきました。

奥さんの名前はピットマン先生。
アメリカンチャーチから東京に派遣された最初の女性の宣教師でした。
実はご主人のガードナー宣教師より3年早い1877年に来日しました。

ピットマン先生は、当時築地にあった立教女学院で教職に就きます。
まだ23歳の若い女性です。
当時、アメリカからアジアの果ての日本に23歳の女性がひとりでやってくる、とは
どれくらいの決断と勇気のいることだったでしょうか。

1878年1月12日のミス・ピットマンの手紙にはこのような記述があります。

「私の今の環境は、私の予想よりはるかに勝るものでした。というのは私は個人的な楽しみを
たくさんとったり、ありとあらゆる方面で、こんなにも心地よく過ごせるとは全く期待して
いなかったからです。
ブランシェ夫人もクーパー夫人もまるで姉妹のように親切で優しくしてくださります。
私たちのよき主教も大変親切で、私はすでに横浜でも東京でもたくさんの友人をミッショナリーや
外国人の中から作ることができました。
私は日本が予期していた以上に美しいとわかったし、
前々から日本の人たちを好きにならねばと思っていましたが、
そんな義務感以上に日本人を好きになりました。
それやこれやで、異国にあっても私は非常に有益で、また幸せに満ち足りた生活が
送れるのではないかと期待しています。』

ミス・ピットマンの立教女学院での教員生活は友人に恵まれ、励まされて
とても充実していたようですね。

1882年、ガードナー宣教師とピットマン先生は東京芝の聖アンデレ教会で
C・M・ウイリアムズ主教の司式で結婚しました。
ふたりはどのような経緯で結婚したのでしょうか、、、。

これはもう少し、A先生に提供していただいた資料を読んでから、書いてみようかな~、と思っています。




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<出典>
「立教女学院100年史」より

写真はピットマン先生が校長をした立教女学院(現在)の礼拝堂














ちょこっと海

2011年06月12日 | 旅のお話



海を見に行きました。
もともと東京湾に近いところに住んでいるのですが、伊豆の海もそう遠くはありません。
電車で2時間半ほどで熱海や伊東に着きます。

写真はあいにくの雨の熱海。
海を見ていると、何となく地球は丸い、ということがわかります。

そして、下の写真は伊東の松川遊歩道。



明治の詩人、画家、そして医学者であった木下杢太郎の作品が遊歩道沿いに紹介されていました。



おいしい夕飯もいただき、温泉に入り、ちょっとだけリフレッシュして
普通電車に乗って、戻ってきました。









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外見ではわからない実力

2011年06月07日 | 本・映画・音楽・美術のページ


人は外見ではない、、、とわかる、このテクニック
ちょっと、というかかなり見入ってしまいました。

アレキシ・ライホ
フィンランドのギター・プレイヤーです。

速弾き、タッピング、スウィープなど技術的には当代屈指の存在とされるギタリスト。
一見(一聴)の価値あり、のクラシックをカバーした動画。
ぜひご覧ください。


COB (Alexi Laiho) cover Vivaldi's Four Seasons Summer Theme



演奏が終わった時に、髪をさらっとかきあげるところが、なんともおしゃれ!
(、、、と感じているのは私だけかもしれない、、、)
アレキシ・ライホの音楽のジャンルは『ヘビメタ』
ハードなだみ声で、本来はヘビメタをやっています。

動画を見ていたら、
津軽三味線のテクニックが頭に浮かんできました。
ロックギター好きの次男に見せたアレキシ・ライホのギターレッスンの動画。
息子より、父、母の方が感動しました。



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神輿の担ぎ手不足

2011年06月05日 | お散歩


今年のお祭りは、自粛ムードがいっぱいで、屋台も
町内会のお店も半分ぐらいでした。




もともと北の天王社にある御神輿は『天下一嘗め』のお面がついている由緒あるものです。
重さ1トン、という巨大なものですが、
皇太子さまのご成婚のとき以来、その1トンの神輿が出ていません。
ある町内会の長老のお話によると、担ぎ手不足なのだそうです。
昭和の時代には担ぎたくても担げないほど人がいた、ということですが、
今は担ぐ人がいない、、、。つまり、この街全体が少子高齢化の波の直撃を受けているのです。

息子たちが行っていた小学校、創立53年目です。
昭和40年代には1000人を超す児童が在籍していましたが、
現在は200名ちょっと。
地域の子どもが減っているのです。

今回私が見た『天下一嘗め』のお面付御神輿は、
例年見ていたよりさらにひとまわり小さな神輿だったような気がします。
(担いでいる人の人数がすくないような、、、)
町内には住んでいますが、お祭りの部外者なので本当かどうか、確かめようがないのですが、、、。

さて、上記の写真は私が住むマンションの隣の隣にできた外国人用のゲストハウス。
今日はここで手作りワッフルとアイスコーヒーのセットを売っていました。
泊まっている外国人数名もボランティアでお店を手伝っていました。



3月11日以降、このバックパッカー向けのゲストハウスも外国人がめっきりと減り
宿泊客は日本人のビジネスマンが目立つようです。
去年はたくさんの外国人宿泊客がお祭りに参加していたように思います。

来年は今年の倍も元気のあるお祭りであることを
心から期待しています。


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写真は地域の子ども神輿











ヨーロッパからアメリカをへて日本へ 

2011年06月05日 | 歴史の中の1ページ

明治初期、日本の政治上の建設に最大の貢献をしたのは
フルベッキというオランダ生まれのアメリカ人です。
裕福なユダヤ系オランダ商人の家に生まれたフルベッキは、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語の教育を受け
語学が堪能でした。
1852年に渡米、エンジニアとして働きましたが、病気を機に宣教師としての勉強をはじめ、志願し、
オランダ改革派教会から派遣され1859年に日本にやってきたのです。
ここまでの経歴では、フルベッキがひとつの国に留まらず、グローバルな視点を持った人だったのかがわかります。
実はフルベッキは手続き上では『無国籍』であったそうです。
何か、そんなことも関係しているのでしょうか、、、。

フルベッキは御雇い外国人として招聘され、
まずは長崎に住み,長崎奉行所管轄の済美館や薩長土肥の俊秀が集う佐賀藩の致遠館で英語などを教えました。
学識があり、芸術を解し、高潔で誠実な人柄のフルベッキは多くの人に敬愛され、信頼を受けていました。
彼の教え子の大隈重信,副島種臣らは明治維新政府の高官となってから、彼を東京に招き,
教育,外交面での彼の助言を重んじたそうです。
また、当時の最高実力者であった岩倉具視に『岩倉使節』の派遣を進言しています。

さて、そのフルベッキには夫人との間に7人の子どもがいたそうですが、
次女のエマ・ジャポニカ・ヴァーベックは1863年長崎生まれ。
自分の子どもの名前に『ジャポニカ』と入れるところに、フルベッキの日本への思いが込められているように思います。
多分、エマは日本語が流暢に話せたんでしょうね~。

エマはフルベッキの友人であった聖公会の宣教師チャニング・ウイリアムスから洗礼を受けました。
その後、エマはアメリカで教育を受け、20歳の時にアメリカ聖公会の宣教師に志願し、
再び日本に戻ってきます。
彼女は父であるフルベッキが亡くなるまでの10年間、立教女学院で英語と音楽を教えました。
父が亡くなった翌年の1904年エマは帝国大学で英米法を教えていたH.T.テリーと結婚します。 
テリーはその後も10年間日本に留まり大学で教えていました。その後家族もともに帰国、
エール大学の教授となったそうです。

フルベッキとエマは親子2代に渡って、日本の教育、政治に大きな影響を与え、日本の近代化に
貢献したのです。

娘が自分と同じ使命(宣教師)を持って、また日本に戻ってきてくれる、と知った時の
父親はどんな気持ちでしょうか。
きっとことばでは言い表せないくらい嬉しかったと思います。
ちょっと羨ましい感じがしてしまいます。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ
梅渓昇「御雇い外国人~明治日本の脇役たち」


ところで、フルベッキですが、
日本では日本人が発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、
現在に至るまでこのように 呼ばれているそうです。
しかし、娘のエマはヴァーベックという表記を使っています。



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写真はエマが教えた現在の立教女学院