山と外国人に関わる3つの「K」のつくリゾート地
軽井沢(KARIZAWA)を別荘地として発展させたカナダ人宣教師アレギザンダー・ショー
アメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士の清里(KIYOSATO)
そして上高地(KAMIKOCHI)を登山基地として紹介したウォルター・ウェストン。
先日訪れた栂池自然園の資料室で、明治時代に日本に来たイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストンの展示を見つけました。
ウォールター・ウェストンはイギリス山岳会の会員であり、 日本アルプスを世界に紹介し、
日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。
1861年、イギリスのダービーで生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業後、リドレーホール神学校で学び
1988年(明治21年)27歳のときに英国聖公会・ 教会伝導協会派遣の宣教師として
日本にやって来ました。
ウェストンはもともと山が大好きで、 聖職に就いた25歳頃よりスイス・アルプスで
本格的な登山をはじめヴェッターホルン、マッターホルン、ブライトホルンなどの登頂のほか、
アイガー、ユングフラウ等にも挑んでいたそうです。
ウェストンは宣教師として3度来日、熊本、神戸、横浜に居を構え、宣教活動の合間に日本各地の山々に登り、
日本の山村の風俗・ 習慣などを本に書き、海外に紹介しました。
上高地の宿、清水屋にはウェストンが残した外国人登山者のための署名簿「クライマーズブック」が残っています。
そこには以下のような記述があります。
「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて-
1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)より
ヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。
上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。
そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います、、、、、
この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から1914年までの登山日誌のような形で書かれているそうです。
ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。
さて、明治のころは日本人に『山歩きをして楽しむ』というような習慣はありませんでした。
日本人は山は聖なるものとし、ウェストンが登山をしようとした時、『外国人に山を汚されてしまう』と
入山を拒んだ村もあったそうです。
その後、彼は日本山岳会創設にも尽力し、日本古来の信仰登山からスポーツやレジャーとしての登山、
ハイキングへと人々の意識を変えました。
日本の近代登山発展のための貢献ははかり知れないものがあり、日本の近代登山の大恩人なのですが、
一方で教会の反感を買うほど登山に夢中になり、最後には教会の職を辞してしまいます。
ウェストンが登った山は以下です。
1891年 浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曽駒ヶ岳
1892年 富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳
1893年 恵那山、富士山、大町から針ノ木峠超え、立山、前穂高岳
1894年 白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1902年 北岳
1903年 甲斐駒ヶ岳、浅間山
1904年 地蔵岳、北岳、千丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳、富士山
1912年 有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年 槍ヶ岳、奥穂高岳、焼岳、霞沢岳、白馬岳
1914年 立山温泉から針ノ木峠超え、燕岳、大天井岳、富士山
彼は山に登り、何を考えていたのでしょうか。
詩篇121篇1・2節を思い出します。
「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。」
山に登ると、ちょっとだけ他の人より天に近くなったような
そんな気が、私はします。